ギリシャ危機は、世界経済全体に深刻な影響を及ぼしている。当然ギリシャに対する世界の目は厳しいようだ。目にした雑誌には「最悪の国ギリシャ」という見出しまで踊っていた。
なるほどギリシャがオリンッピクを契機にバブルに踊り、かつそれ以前から財務的に厳しい体質であったにもかかわらず、有効な手立てをとってこなかったのは確かであろう。例を挙げれば、国家収入と公的職員(とくに人件費)のバランスなどどうかなとは思う。
しかしそれでも、昨今の金融経済至上主義側からのこういった見方には相当に疑問がある。
ファンドをはじめとする金融至上主義者は、徹底的に国家の財務体質を問題とする。これに染まった軽薄な評論家ほど「国家を家庭にたとえれば、毎月の収入がこれこれなのに、支出がこれこれで~」などと話すのを見かけた人も多いはずだ。こういう見方をする人物は、「人間」をみない。数字ばかりをおっかける。しかし数字だけで現実にねざす生活の充実度は判断できない。
もとより政治は人間のためにある。最低でも人間が「普通だな」さらには「いいな」と思うような暮らしをできるようにするためにあるのである。ばかげた「贅沢」によってその人間が金融ゲームの結果おちぶれていくのはともかく、さほどの贅沢などしたことのない人間がそのゲーム(金で金を生産する)のあおりをうけて、普通の暮らしができなくなるのはどうみても「マトモ」ではない。
☆ ☆ ☆
今のギリシャの経済危機にしても、一番の原因はギリシャ国債の暴落をマネーゲームに利用したファンドの存在と、それとコラボを組む「格付け」会社の存在が大きい。これらが、今の世界経済に与える影響の割合が大きすぎるために、国家間の支援策がなかなか有効なものにならないのである。
今日本の巷を騒がしている問題に暴力団と民間との関係があるが、これとマネーゲーム屋と国家経済の問題は同じだと私は思う。
暴力団についていえば、いろいろな事情(生い立ちなど)で裏の社会でしか生きていけない人がいる。そうである以上、表社会も裏の社会の存在をまったく否定することはできない。
もっともそれが許容されるのも、裏社会が裏社会の市場だけでうごめく、あるいは表社会と関係するときもそれなりの範囲・・・たとえば堅気側の方から裏社会に働きかけ、あるいは裏からの安易な誘いにのった結果どつぼにはまるような場合などは仕方がないであろう・・・で動くだけならである。「裏」がそれ超え、裏のルール駆使して表の世界にやみくもにでていこうとするのなら、それはつぶしていくしかない。本来「裏」の分野には守るべき節度が存在しているからだ。裏はあくまで裏であり「表」にはなれないし、またなるべきでもない。
☆ ☆ ☆
金融もそうである。お金を融通しその結果経済の活性化をはかる。これが金融の原点だし、証券や為替にしても資金調達のためあるいはリスクヘッジのためそれがその存在の原点である。あくまで実体経済を補助するための存在が「マネー産業」なのである。そこにマネーゲーム屋(ことに投資屋=ファンド)が「経済の主人公」となる余地など本来ありはしないのである。マネーゲーム世界はりっぱに「裏」の世界である。決して「表」ではない。
しかし今の実態はこれが逆転し、マネーゲーム屋が主人公となり「企業」も「国家」も彼らの駒にすぎなくなってしまっている。そしてゲームで使う駒の「パワー」をきめるのは「格付け会社」というわけである。
マネーゲーム屋が市場を支配する現状は、あきらかに投資が本来持つべき節度を欠いている。それは裏社会が社会の中心となって、裏社会の人間の幸福を第一に考えるよう表社会が存在しているようなものである。
今の問題を解決するには、相対的にファンドの資金量を縮小させるだけの巨大な世界国家規模の基金を作るか、あるいは取引ごとにゲーム屋に高いテラ銭(取引税のようなもの)を払わせる制度しかないと思う。そこまでしないと、裏中心の経済(ゲーム屋)の現状はなかなか止められない。
おりしもウォール街への抗議デモをきっかけに、金融(ことに投資)に対する批判的行動がおこりつつある。これを契機に今の金融経済のあり方を見直す風潮が高まることを願いたい。
# by phtk7161 | 2011-10-27 08:49
日本に限らず、今世界の多くの国が混沌とした中にある。金融危機。株安。原発。中東での民主化などなど・・・。あげていけばきりがない。
金融危機や株安については、いまだにマネーゲームの世界が跋扈しているから当然といえば当然で、格付け機関なるおかしな会社がさも高尚な仕事をやっているように演出される世の中では、こうしたばかげた状況はまだまだ続くだろう。
民主化にネットが大きな役割を果たしていることは、疑いようもない。しかしネットが「善か」といえば、相当に疑問もある。
よくネットで賛成反対を問うこともあるが、あれはあくまでネットの世界での話。ネットに一日中張り付く人間とそうでない人間とで、温度差があるのは当然であるから、あれは世論とは程遠い(もちろんメディアの世論調査にも大いに疑問はあるけれど)。
ネットを個人的に使える時間は、健全な人なら限られている。2ch的な人間は、ある意味同好の士同士のバーチャル世界の住人にすぎない。
ネットとどう付き合っていくかは、大げさ意味ではなく本当に人類にとって大きな課題である。ネット以前の世界と比べれば、一人の人間でも大きな影響力をもちうるようになった。しかしそれも実はある意味では、バーチャル的な力にすぎないともいいえるだろう。なぜなら、ネットでは表紙はみえても中身はみえないからである。しかしそれを、時に人は「現実的なもの」と勘違いする。
その行き着く先はどこか。まだネット○○で止まっているうちはよいが、ノルウェー乱射犯人のように、ネットに執着して自らを「過大評価」(実際はカス)するようになった結果があれでは、ネットは害悪以外の何者でもない。上野のパンダの時に園に電話攻勢をかけたあの連中も、程度の差こそあれ本質的にはノルウェーのカスとなんら変わらない要素をもっているのである。
ネットの機能性は確かに高い。しかしそれゆえに危険な要素を大いに含んでいる。とするなら、時にネットから離れる(ある程度の距離を保つ)ことも・・・政治の世界はことに重要で、復興に関係ないことでツィッターなんぞにうつつをぬかす暇は今ないはずだ(これを頻繁にやる政治家がいるのが情けない)・・・重要なことといえるだろう。
# by phtk7161 | 2011-08-05 19:50
私は根がひねくれているせいなのか、メジャーなものにはあまり興味がない。プロ野球だって、同世代では圧倒的に巨人ファンが多いが、私は大洋(現横浜ベイスターズ)のファンだった(いまでもそう)。
横浜が何十年ぶりに優勝した時期(その前後4~5年余り)には、よく球場に足をはこんだ。しかしご存知のとおりいまの横浜は弱い。当面優勝には縁がなさそうだ。
競馬場にもよく足を運んだ時期がある。トロットスターという馬がいたのだが、この馬のデビュー戦をたまたまみて(2着だった)その走りにほれ込み、応援するようになった。たまたま見たという以外には何の縁もゆかりもない馬である。
トロットスターは実力の割には人気はなかった。血統が地味だったせいもある。4歳時は掲示板には確実に乗るがなかなか勝ちきれず、応援しているほうもジリジリしたものだ。その馬が初重賞をとってから見事開花した。重賞連勝のあと高松宮でG1を制覇。安田記念は惨敗したが秋のスプリンターでまたG1を勝った。そしてその年の最優秀スプリンターに選ばれた。
この馬の引退後は、めっきり競馬場に行って馬を応援することは少なくなった。トロットにいくらかゆかりのある馬を応援する程度である(年に数回)。
JRAのかわりに、月イチ程度いくようになったのが大井競馬場である。大井競馬場には恒例になっているイベントがある。「相馬野馬追」と「ばんば」である。
競馬はギャンブルであることは確かだが、時には馬にまつわる「伝統」にも気づかせてくれる。
大井でみていなかったら、今度の大震災で大きな被害を受けた「相馬市」とそこの伝統である「相馬野馬追」のことはニュースでみても聞き流す程度だったと思う。今は、甲冑に彩られたあの颯爽した走りの完全なる復活を願うのみである。そしてまた「相馬野馬追」が大井で行われるときは、競馬ファンのみならず、多くの人にその迫力ある姿を見てもらいたいと思う。
「ばんば」のほうは、大井で今年もイベントが行われる(8月14日)。「ばんば」にもようやく3連単が8月5日から導入され、配当的な妙味もようやく味わえるようになる。どこの競馬場も売り上げは厳しいらしいが、「ばんば」の売り上げがこれをきっかけに向上し「ばんば」のファンが増えて「伝統」の継続が確固たるものになってほしい。
実際、知れば知るほど「ばんば」ほど面白いレースはない。坂を越えてからゴールにたどり着くまでのスタミナを考え、ふたつめの坂をどうクリアしていくか。馬場の水分量と馬の脚質との関係。馬のそりを引く姿は「よいしょよいしょ」という形容がぴったりだ。
普通の競馬では、馬が差す瞬間が早すぎて過ぎて見逃すことがある。自分の視界に入ってくるまでその馬の姿に気づかないからだ。しかし「ばんば」は確実にその姿を捉えることができる。かなり距離があっても、まだまだ十分差すシーンがみられる(期待できる)楽しみもある(あのブロードアピール並みに差してくる)。
本格的に「ばんば」に興味をもってまだ一年もたたない素人の私だが、今は「フクイズミ」という牝馬のファンである。
あし毛のこの馬、なぜかレース中もいつも舌を「ぺろぺろ」。坂の前で、「登るにはまだまだね」という感じで、周囲をきょろきょろ。でも坂さえ越えれば時に「すんげえ脚」を使う。他馬のそりを引く音が「ずるずる」ならフクイズミは「すいすい」なのだ。だけど惨敗するときは大惨敗。坂がと~っても苦手なのである。なんと愛すべきキャラクター!
私はこのフクイズミの「すんげえ脚」のレースをみていっぺんにファンになった。
「ばんば」には面白いところが他にもまだまだいっぱいある。競馬ファンのみなさんに限らず、今は一般の多くの人が何とかこの面白さに気づいてくれないかと思っている私なのだ。
競馬と馬。その馬と「伝統」。その「伝統」を継承する「相馬野馬追」と「ばんば」。この両者の伝統が今後も続くことを願ってやまない。
# by phtk7161 | 2011-08-01 10:50
女子サッカーが、世界一になった。なでしこジャパンの活躍は、めでたいことだと素直によろこんでいたら、でました。なでしこジャパンを見習えと政治に例える意見。
もしかしたらそういうこと言い出すやつもいるかもしれないあ、とは思っていたがほんとにいたので、思わず笑うやらあきれるやら。
今の政治が混とんとしている原因が政治家にあることは否定しないが、すぐこういうことをいいたがる、メディアや国民にも相当責任がある。たとえば政治家にパフォーマンスはつきものだが、有権者が映像的イメージを優先して投票行動する傾向がより激しくなっているものだから、政治家がそれを意識するあまりあほな行動に走る。
ツィッターもそうであろうし、散見される過激発言もそうであろう。メディアに退屈な人間に思われてはいけないことを怖がるあまり、政治家はついつい軽率な行動にはしってしまうのである。これがさらに、政治の低下に拍車をかける。
なでしこジャパンの活躍と政治のどこに共通する点があるのか。だいたい勝敗が決まるスポーツと、選挙的結果以外は勝敗のない政治の世界を一緒にするのは遊び的考えに過ぎない。主権者のレベルがそういう遊び気分でたとえ質問をするなら、菅もそれにあわせてそういうしかないだろう。その程度の政治遊びごっこを主権者がやりたがるから、ますます政治は幼稚性をおびてゆく。
「リーダシップ」うんぬんという意見。これなんぞ政治とスポーツに関係すると思っているんだろうが、数が力を占めるねじれ状態のなかで「リーダーシップ」もくそもあるものか。
あの小泉だってねじれの中で首相をやっていたら、そう長くはもたなかったと思う。政治の混沌は資質がすべての問題ではないのだ。むしろ政策を取り巻く政治環境のほうが大きいと思う。それをつくりだしているのは、国民であろうし、メディアであろう。
「ねじれ」という厳しい環境をつくりだしといて、「さあリーダーシップを」何言ってんだかと思う。自らが作り出した環境には主権者といえども一定の責任(覚悟)を負うべきだ。
原発だってそうだ。福島には事故に関して政府に批判する資格のない人物は少なくない。万が一の事故を想定して、それなりの対策を考えてこなかった歴代自治体の長と議員、さらにその姿勢を積極的に後押した住民・・・ようは金のために東電の言いなりになった人達・・・の責任は重いといえるはずだ(少なくとも福島の子供たちに対する責任は大きい)。
「金のためにしかたなかった」ならそれでもいい、じゃその程度のレベルの人間が「政権の批判」など今やるべきではない。腹を決めてその責任を意識すべきだ。
「自ら望んで作り出した環境には、それなりの責任を持つ。」少なくとも自己決定とはそういうものだ。そうでなければ、いつまでも「いつの日かスパーマンがなでてきてとなんとかしてくれる」という奴隷思想からぬけだせないままである。、そんな考えのままでは、気づけばそのスーパーマンが「ヒトラー」だったということも十分ありえよう。
サッカーと政治を結びつけて考える主権者にも、それなりの責任は伴うのである。
# by phtk7161 | 2011-07-28 21:16
「札びらで頬を叩く」という言葉がある。形態的には乱暴で下品な表現だが、それでも世の中、金の力で人を支配できるということが往々にしてあることから生まれた言葉なのだろうと思う。
今回の原発問題は、我が国の原発設立地域がまさに「金の力」に毒されていた状況を如実に示している。原発=雇用=金。原発事故が大きな被害をもたらさないなら、この図式でもいいだろう。現にこれまでその論で通ってきた。
しかし放射能もれの事故が起き、長期的経過をにらんで今人の生命が脅かされている。その被害の一番の対象となりうる世代は、今政治参加の権利を持っていない世代。今この若い世代の生命を守ってやれるのは、政治参加できる世代だけである。そういうなかでは、これまで原発に関して通用していた理屈を、今またそのまま通用させるわけにはいかない。
しかし「札びらで頬を叩かれた」人は、こんな状況でも金の力に毒され、雇用のために(生活のために)原発はやむをえないという。生命へのリスクは彼らには関係ないのか。おかしくはないか?
今原発問題の論点は、原発に頼らずに代替エネルギーだけで現状の社会生活あるいは産業を機能させる(社会が機能不全に陥らないよう生活・産業を大幅に後退させない)ことは可能かどうかその一点のみ。エネルギー確保ができないなら、それもまた生命へのリスクを高めてしまう。
できるなら廃止、できないなら維持(もちろん生命への現実的リスクとの兼ね合いは必要だが)ということだ。そこに「雇用のため」の理屈が入り込む余地はない。
原発に関わる「職」は不磨の大典ではないし、本来人の生命を大きな危険にさらしてまで守られるべき「職」などありはしないのだ。
# by phtk7161 | 2011-07-09 22:37
前原は相も変わらず前原だ。浜岡原発の停止をポピュリズムだとのたまった。ポピュリズムとは大衆迎合の政治だが、放射能事故が起こる前ならともかく、エネルギーをどうするかの問題があるにせよ、致命的な事故が起きた現実の前では政府として一定のアクションを起こすことは当然のことである。
浜岡の問題はすでに事故以前から取り上げられていたし、事故が起きた時の首都機能への影響を考えてみれば、エネルギー見直しへの端緒として、まず浜岡を停止することも政策の一つの在り方であろう。
☆ ☆ ☆
ポピュリズムの意味をもう少し具体的に考えてみれば、それは一般市民の感情に大いにかなう政治(政策)でも、それで得られる利益はむしろ国民にとっては実質的には反比例(実際は損失)してしまうような政治(政策)のことであろう。
これを原発の問題に即してして考えてみよう。
原発をストップさせることは、資源国でない国(つまり日本だ)のエネルギー確保や、将来的な核兵器利用(国防)をにらむときで国に大きなマイナスになると前原は思っているのだろう。
しかし今回のことでもわかるように、事故が起きると長期的スパンでの国民への健康被害や第一次産業への多大なマイナスの影響を考えれば、原発により得られる利益(私はそもそも核兵器への利用などプラスとは思わないが)より、はるかに大きいマイナスが発生してしまう。そうであれば、エネルギー政策の転換としてひとつの原発を停止することは、国民の生命への安全や生活産業を守るそのマイナスを回避しようとする道筋をつけるうえでも、国民にとって実質的にも大きなプラスであり、それは決してポピュリズムなどではない。
☆ ☆ ☆
だいたい浜岡をレベルポピュリズムといってしまうなら、かつて前原自身がやったこともそうなってしまうのではないか。
たとえば八ッ場ダム(やんばダム)の見直し。前原流「ポピュリズム」の理屈でいえば、あれだってそうなってしまう。無駄な公共事業が国民全体の利益にかなうのは間違いないが、地元の人間にとってはそうとは限らない。国民大うけするダム中止が、自治体にとっては現実の生活に大きな影響を与えるのだから。
もちろん私は八ッ場ダム(やんばダム)見直しをポピュリズムだと思っていない。無駄な公共事業の見直しは、国民にとって大きなプラスだ。しかし今回の浜岡がポピュリズムなら、これもポピュリズムだといえば、いえてしまうのだ。
また尖閣諸島での衝突事故における彼の対応。
船長の身柄を拘束するなら、対外的現実を見据え、きちんと落としどころを認識したうえで拘束すべきだが、国粋的プライドを優先して先走ったものだから、あの状況にまでなった。前原が、前原の中にいる大衆前原に迎合した結果である。つまり彼はすでに本当のポピュリズムをしてみせている。
しょうもない中国には確かに腹は立つが、だからといって確たる戦略もなしに、口ばかりが先に出るようでは政治家失格である。これこそ、浜岡や八ッ場とは違い、本当のポピュリズムというものである。
☆ ☆ ☆
いずれにしても、前原の今回のポピュリズム発言。先のことなぞ考えないその軽薄ぶりはあいかわらずである。よく彼は「口先番長」といわれるが、とにかくいうことすべてが軽すぎる。
その彼が、しかしそれでも総理候補になってしまうのは、徹底したアメリカ優先主義であるその姿勢がアメリカとそれにコラボした日本の支持層に「便利屋的」に重宝されているからだ。集団的自衛権しかり。憲法改正しかり。そして今度の原発しかりである。
それを分かっているから、メディアは前原にたいしては必要以上にきつい叩きかたはしない。どんな時も見事なさじ加減で支える・・・もっともメール事件では、そのメディア側の配慮を超え、前原自身が大見得を切るという大失態を犯したものだから、自分でこけてしまったが。
前原-アメリカ=ゼロ。この等式が成り立つのが前原である。そして彼の中身を知って彼を支持する連中もどそうだ(日本-アメリカ=ゼロ)。彼は今後いつまで、後のことを考えず口が先にでてしまう政治スタイルを続けるつもりだろうか。
# by phtk7161 | 2011-06-29 07:54
堀江貴文元ライブドア社長が東京拘置所に収監された。
ライブドアが企業買収を積極的に行い堀江が時代の寵児ともてはやされ、特にニッポン放送買収劇では本丸であるフジテレビを巡って騒ぎとなったことはまだ記憶に新しい。
彼に対する評価は人により極端に分かれよう。「新しい時代を象徴する人物」だと評価する声もあれば、「金がすべて」「ゲームまがいの金儲けで品性にかける」と酷評する声もある。そういう彼が検察に逮捕された。
堀江が有罪となった証取法違反(有価証券報告書虚偽記載)について、彼自身はあくまでルールの範囲内であり、それまでの事件と相対的に見れば有罪にはならないと考えていたようだ。しかし事件の内容見る限り要件は満たしている。犯罪それ自体の成立はやむをえないと思う。
☆ ☆ ☆
問題があったとすれば、堀江に対する捜査がそもそもある意図をもった「狙い撃ち」的捜査ではなかったかという点である。民主党政権に対する検察問題もそうだが、この事件もまた既存の序列システムを変えようとする者に対し、検察が既存の側の利益を守るため強烈なアシストをしたようにみえてならないのである。
憶測になるが、どうも検察には戦後長く続いてきた制度の維持を一つの秩序とみなしこれを変えようとするものを社会的害悪とみなす体質があるように思う。
検察が例外的に変革者を許すケースがあるとすれば、既存のシステム側がとんでもない社会的害悪を生じさせたときだけである。しかし現実にそのレベルの被害が生じない限りは、検察は既存のシステムに対する批判・変革は「害悪」とみなし、場合によっては批判・変革をおこなった(あるいはおこなおうとしたもの)に対し検察権を発動するのである。これがはたして社会正義といえるのか。
☆ ☆ ☆
ただ私自身も、ライブドアや堀江に対してあまりいい印象をもっていない。
ライブドア成長の鍵となった「株式分割」をくりかえすその手法も、「株式分割」本来の趣旨を大きく逸脱していると思うし、あるいは株式の「時価総額」をより重視する考えも、所詮は数字的マジックにすぎない・・・現実に保有する株を大量に売れば株価は大きく下がる、すなわちその時点の時価総額は本当の意味の現実的時価総額ではない。
その意味では、彼らは一種の「虚業」企業(家)であり、摘発につながった「粉飾」決算にしても、そういった体質が出たとも言えなくもないのである。
しかしそれでもである。どうにも堀江に関する司法的動きには釈然としない。既存のシステムにいる企業の中に、レベル・質的にかわりないルール違反を犯しながら、見逃されたケースがある(日興コーディアルに関する粉飾的問題など特にそうであろう)からである。
堀江(あるいはライブドア)はアウトだが、日興はセーフ。両者の差はどこからくるのか。もしその違いが、既存の序列シムテムにいるものといないものとにあるとすれば「法の下の平等」はどうなるのか。それ以前に、日興のケースを見逃す(起訴しない)ことになれば、本来守られなければならない「公的公正な利益(経済市場のルール)」の保護はどうなるのか。これはそもそも「社会的正義」ではないのか
その意味では、ホリエモンの事件を思うとき、検察のいう「社会正義」とやらも、一皮むけば単なる社会的強者擁護(既存のシステム保護)のための「詭弁」に思えるのである。
# by phtk7161 | 2011-06-24 00:28
今回おきた原発事故は、これまで権威でごまかされたきたものがもはや通用しなくなったことを示すものだ。原発事故前・事故後のいずれにおいても、権威者の無能ぶりは今回十分に証明されたといえる。
原子力安全委員会しかり、保安委員しかり。これまで学者や官僚の存在は、その経歴を能力と同等なものとみるいわば「看做し社会」のなかで「権威」化され、政策遂行の有力な根拠材料となってきた。数々の諮問員会もその形態のひとつだったといえる。
今でも学力神話は根強いものがあるが、団塊から私たちの世代(60~40代)はさらにそれへの信仰は強いものがあったといっていいであろう。まったく馬鹿げたことだが、難関大学に合格するとその人格まで比例して扱われた時代もあった。ドラマ「翼をください」や「ふぞろいの林檎たち(一番最初のもの)」などもまさにそういう時代背景を描いていたように思う。
当たり前のことだが、私たちの社会には世界ごとに多種多様な問題が存在する。そこでは解決に必要とされる知識や経験も、その世界ごとに様々である。すべての分野の問題を解決できる、あるひとつの絶対的万能な能力というものは存在しない。試験的能力も確かにひとつの能力だが、所詮はひとつの世界の能力にすぎない。
ところが私たちの社会は、このことを真正面からとりあげてこなかった。予定通り進めたい政策がある時、学問的・専門性(官僚組織)的背景に彩られた権威主義を利用することで、重要な問題をごまかしてきた。そこに万能的一つの視点を重宝し、多元的な視点をめんどくさがる社会的風潮があったことは否定できない。その絶対的万能的視点が、学歴的権威主義だったともいえる。
原発の問題に限らず、これまで様々な分野で、問題の本質を見据えた声は存在してきたが、権威主義のなかでその声はかき消され、私たちは本質を見極めることから遠ざけられ、あるいは遠ざけてきた。その結果をはからずも原発事故は示すこととなった。
表紙的飾り(権威)から中身(解決能力)へ。表紙にすがるな。中身を見る努力を。それが今回の事故の教訓ともいえるだろう。
# by phtk7161 | 2011-06-16 21:51
ここまで原発の問題が深刻な状況になったのに、それでも東電をはじめとしてなお原子力発電を推進する意見が強気でまかり通るのはなぜか。
一番の理由は、原発に大金が絡む(原子力エリア的一種の経済構造)からだがここにいたってまでそれを推進派がなお根拠として言い放つことができるのは、原子力の被害は一定の長期の時間が経過しないと、目に見えた形で分からないことが大きい。
もし原発事故が起きて数か月で被害が目に見えた形ででれば、世論もその危険をある意味具体的に認識できるから、当然原発停止の声は大きくなる。そうなると今のように地方の経済(産業の少なさ)的理由を根拠に原発推進を強気で唱えることはできないだろう。しかし被害発生の長期特質が、そういう主張を許容してしまう。本当は今の段階からでも、長期間経過した後の健康被害に備え、被害者救済のための行政対策や立法をやっておく必要がある。
菅政権の後、誰が総理になっても今の政権以上に原発推進の動きは(潜在的に)進むことになるだろう。発送電分離の話もいずれは立ち消え(仮にできてもほとんど東電に影響のない形で)になる。結局東電を頂点とした我が国の、電力構造はなんらかわらないままだ。
こうして東電をめぐる政官民の癒着構造は、健康被害認識の長期的特質にたすけられ続くことになる。そしてこれは大手メディア(特に読売・フジサンケイ系)と保守的政治家の望む形でもある。
まさに原発は、彼らの利益維持のための必要不可欠な、金のなる木であり軍事的原材料なのだ。原発被害の認識に時間がかかる・・・目に見える被害が阿出るまで・・・のをいいことに、彼らは都合の悪いことに目をつむったまま愚かな行為をくりかえすのである。
# by phtk7161 | 2011-06-09 19:05
今回の不信任提出の罪の重さは、今の災害状況を無視し提出されたことにあることはいうまでもないだろう。原子力対策と復興が何よりも急がれるこの状況下で、こういことをやってしまう。これは今の自民・公明の質の劣化をなによりあらわしていると思う。
地震の被害が未曾有の規模だとわかった時点で、私は少なくとも与野党一致してことに対処すると思っていた。ところがそうならない。政府に仕事をさせないすなわち復興を妨げる行為が目立つ。そしてあろうことか、民主党内にも同じ行為をする政治家がいる。前回の代表選から半年もたたずに、あいもかわらずだだをこねまくる。いったい何のための代表選だったのか。
☆ ☆ ☆
不信任を画策した政治家たちが「どうしようもないな」と思えてしまう最大の理由。それはなんといっても、菅を辞任させたとして、そのあとのトップや政治の枠組みも具体的に示さないまま、不信任を提出してしまったその愚かさにある。
解散権が事実上使えないことを見越してそれにつけこみ、しかしその一方では対策が遅すぎるといっていながら、自分たちは迅速に進めるために必要なイロハの基本的形すら、提出に際しても示さない。いったい彼らはどの面下げて政権批判をしているのか。ここまでくると、こういった連中の行為はある意味犯罪に近い。
今回の災害は、阪神以上に被害が大きく、そこに原発の問題がのしかかかった。はっきりいってこういう状況では、誰がやったところでそう簡単ではない。前回にも書いたが、一種の学習をしながらやっていくしかないのだ。
抽象論なら何とでもいえるだろう。しかし結局自らトップでやってみたら、具体的な問題がいろいろでてくる。結局トップの頭を変えたところで、それがよかったかどうかもわからない。なら、ばかげたトップ争いや、そのために生じてしまう利権配分のごたごたを考えれば、政治空白をつくらずすいうしょうもないことが避けられるだけ、まだ現状維持のほうが何ぼかましである。
☆ ☆ ☆
それにしてもだ。このところの「菅おろし」は異常である。被災地の現実を目の前にして、どうみても正気の沙汰ではない。もともと菅おろしをやっている連中はイデオロギー面で違いがある。しかしそれだけでここまでやるとは思えない。もしこの時期ににそれだけが理由でやるなら、ただの馬鹿である。また鳩山や小沢は感情面で「嫌菅」であろうが、だからといってこれまたそれだけでこういううごきをしたなら、やはりただの馬鹿である。
となると、何が一番の理由だろうか。
こういった動きに拍車がかかりだしたのは、どうも原子力の推進に待った(浜岡停止の決定からとみに)がかかった頃からのように私には思える。野党だけでなく鳩山・小沢サイドもどうやらこのころから動き出したように思う。となるとどうも原発推進をこれからも進めていきたいこれが一番の理由のように思える。菅おろしの理由がもしそうだとすれば、これほど罪な行為はない。
原子力にひとたび大きな欠陥が発生すれば、国家として大きなものを失う。今回の出来事はまさにそれを証明した。現に日本の農作物のブランドは、まともにみれば国際的にみて地にちてしまった。
そんなことはないと思うのなら、ちょっと考えてみればいい。
今回の原子力の被害がもし他国で起きたとするなら、その国の農作物(あるいは魚類や肉まで)を私たちは買っただろうか。農薬にも神経を使っている日本である。進んで口にする人はそう多くないだろう。儲けのために知らない他人に食わせる商売人はともかく、家庭ではかなり敬遠されたはずである。そう考えていくと、これからの日本の農作物はどうみても対外的に経済を向上させる武器にはならない。原発事故は一瞬でこういう結末をもたらしてしまうのである。
すでにある原発をどうするかはともかく、新たに原発作ることを見直すことはだからある意味当然の理屈であるし、既存の原発を存続させる場合には、安全性をよりより高度なものにしていくことはいうまでもない。地震国と原発の関係が本来不適合なものであることは、もはや疑いようがないのである。そういうなかで、「菅おろし」の一番の理由が原発にあるとすれば、これはもう国家としての自殺行為に等しい。
点で「原発=金のなる木」思考に染まりまくり、線の「国家を破壊しかねない多大なるマイナス」の視点をもてない政治家による菅おろし。イデオロギー・感情的理由も含め、いずれにしてもこういった連中は、きわめて罪の重い犯罪者的政治家といっても過言ではないように思う。
# by phtk7161 | 2011-06-04 06:10
< 前のページ 次のページ >