社会問題を考える


by phtk7161
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

メディアで幅をきかす「庶民感情」の問題点。

最近、無責任な庶民感情というものが、メディアのなかで、あまりにまかり通っている気がする。
そこでは、「健全なる庶民感情」のなのもとに、事柄の問題点がきちんと把握されないまま、その場限りの感情論でものごとが進んでいている。
これは、ひじょうに危険な状況である。

もちろん、妥当な結論につながる庶民感情があることも、否定はしない。
たとえば危険運転致死罪(飲酒運転によるケースなども含めて)創設のケースがそうである。
これは、従来過失犯として扱われたものを、刑の重さを限りなく故意犯レベルにしたものである。
創設前の、交通事故に関わる一向に改善されない現実、また、車というものが、本来ひとつ間違えば簡単に人の生命を奪う凶器の側面を持つものであり、このことをあまりに軽視し、著しく軽はずみな行為により、重大事故を引きおこしたものの非難可能性の強さからみても、もっと厳罰が科せられるべきではないかとする庶民感情は、妥当でなものであると思う。
そして、この場合の庶民感情は、刑法本来の原則をくずすものではないし、その役割をゆがめるものでもない。

しかし率直にいって、多くの場合、現在の日本では、無責任なその場限りの庶民感情が、最近幅を利かせすぎである。
この種の庶民感情の形は、まずある解決していくべき課題に対して、その原因をある一箇所に求め、そこをひたすら叩けば解決できるとする形をとる。
対処法も、シンプルな万能薬的形を提示する。
その場限りの思考で、それまでの歴史的経験則から導かれた原理原則など簡単にけっとばす。
そこでは、たとえの表現も、あまりに軽薄である。
あるときは必要上に深刻に、あるときは面白半分に受けを狙って。

政治でいえば、郵政民営化の時が、そうである。
民営化反対のものは、庶民の苦しみをよそに日本の進歩的改革を邪魔する「悪」である、
これを叩けば日本は良くなると。
そこでは、外資に日本の資金が流失する問題、財投の決定権が大蔵省(今の財務省)にあることの責任、将来を完全にみすえたセキュリティー問題などはほとんど正面から論議されることはなかった。

社会事件のコメントでも、えらくおふざけ調が通っている。

たとえばみのもんたが、「痴漢はひれつだよねえ、外国には手を切っちゃう刑罰があるけど、痴漢やったものは手をきっちゃったほうがいいよ」テレビで発言する。
「痴漢なんかするやつは、どういったってかまやしない」という発想が彼の根底にあるからか、でなければ、その実な~んも考えてないのからのコメントか。
もちろん、彼としてはもっと痴漢を厳しく取り締まれということを彼なりの比喩でいたのかもしれないが、しかしたとえにしても、公共の発言としては、おそろしく幼稚である。
でも、これを聞いて「私たち庶民の感覚で、ずばっといってくれて、すっきりする」と思う人も、確かにいるのだろう。
でなければ、彼が画面にあれほど露出してるはずがない。

さらには、過失犯なのに、重大な結果を招いたひどい自動車事故のコメントで「こういう人間は死刑にすべきです」とのたまわったコメンテーターもいた(タレントコメンテーターーではない、いわゆる有識者風コメンテーターである)。
故意と過失の違いを考慮することなく、過失犯を死刑にできるなら、刑法の大原則を捨てることになる。
これはもはや文明国とはいえない。
そのことをふまえた、発言であろうか。
しかし、どうどうと、こういいきってしまう。
このコメンテーターは、これが健全なる庶民感情にかなうものと考えたのか。
ここまでくると、もはや何をかいわんやである。
しかし、まぎれもなくその種の考え・・・シンプルというなのその実何も考えていない、スカスカの考えが・・・場合によっては、ひとつの庶民的な見解として通ってしまう。

またメディアは、司会者、コメンテーターだけでなく、あるときは、インタビューの形で「善人」である庶民のコメントを、またあるときは、「世論調査」という形で、「善人」な「質問にきちんと答えた庶民」を登場させ、善良なる市民感情に沿うものとして、ある政策決定の流れをつくる。
しかし、そこでの調査による「世論」が本当に市民が本気で考えた場合の世論なのか、その正確性を担保する手段はなんら設けられていない。
そこでは、たとえ、アンケートの回答が矛盾した形になっていても、「健全なる庶民の意見」ということになる。
そしてそういうメディアに、多くの有権者が影響をうけ、選挙という形で行動が飽和状態に達したとき、見事な衆愚政治の完成である。

ある事柄に、意見をいうのはかまわない。
しかし、少なくとも価値のある意見を述べるとするなら、最低限ものごとの経緯や背景を知ったうえで、述べるべきではないか。
たんに、「おもしろさ」「すっきりさ」的な感情からだけで述べた意見は、健全な「庶民感情」というべきではない。
専門家でなくても、経緯や背景を知り(細部の事柄ではなく、何が本質的な問題点か理解するために)問題点を把握し、その結果自ら考えた意見であってはじめて、「健全なる庶民感情」なるものの存在価値は、あるといえよう。

もっとも、この種の知るための準備作業に、日々忙しい多くの国民は、現実には時間を割くことは困難である。
したがって、そのためのフォローとして、メディアが存在するのである。
ある事柄に対して、正確な問題分析と争点、その解決の複数の策を提示し、国民にまじめに考えてもらい「健全な庶民感情」を培ってもらうことこそ、メディア本来の役割である。
しかし、今のメディアの中心ともいえるテレビは、ほとんどこの点では機能していないといえる(民放は特に視聴率主義の中で絶望的である)だろう。

一方で、国の根幹に関わる問題は山積である(北朝鮮問題、憲法改正問題、教育基本法の改正、共謀罪、年金、集団的自衛権etc)。
次の参議院選まで、そう時間もあるわけではない。
選挙の結果次第では、国の方向性は翼賛的に一挙に進むだろう。
となると、やはり今は国民自身が、ネットや出版ものなどを通じて、問題の本質を知っていく努力をするしかないのではないか。
まだまだ、それを提供してくれている出版物も数多くあるし、ネット(ブログなど)なども数多くあろう。
今はこれらを通じて、国民が一人でも「健全な庶民感情」を培い、真面目な政策論争が選挙でおこなわれるとを、願わくば期待したいと思う。
[PR]
by phtk7161 | 2006-10-16 11:51