社会問題を考える


by phtk7161
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学校選択やバウチャー制度など、今の教育改革の問題点について

教育改革論議がにぎやかです。
こういう論争を聞いてて思うのが、「まあみなさん、適当によくおっしゃいますね」ということ。
教育問題は、かなり複雑で難しい、そう単純に解決できるものではありません。私が、一番聞いててばかばかしいと思うのは、生の教育現場の現状を知らないあるいは、知ろうともしない人物が、経済市場と同じ原理によるアイデアなるものをだしてくることです。

たとえば、今度の学校選択制度。
なるほど、教育の受給者が自分の希望通りの学校を選択できることは、とてもよいようにも思えます。でも考えてみてください。

どこの学校だって、定員というものがあります。
希望したもの全員が、希望通りの学校に行けるのなら、よいアイデアかもしれません
しかし現実には、希望者がみんなが希望通りの学校に行けるわけではありません。
もし、人気校が定員をふやすとするなら、そのためにはお金がかかりますし、その人気が続く保障はありません。
したがって、仮に補助券などのバウチャー制度を導入したとしても、この問題点はクリアできません(もし、生徒が減れば施設が負債となるから)。
そのため、人気校であっても、希望通りの人を全員うけいれるほど、一度に定員数を大幅に増員することはできないでしょう。

もし、評判のよい学校に希望の生徒が集中した場合、特に公立の小中学校などは、どういう選考基準をもうけるんでしょうか。
公立学校(たとえば、中学など)などで、なんらかの選考基準をもうければ、いらぬ争いが起きるだけのように思えます。
まさか、そのために公立中学が、入試などやるわけにもいかないでしょう(やれば、お受験戦争がさらに広い範囲でおこなわれ、公立学校が私立化するだけです)。
結局は選考に際し、支持者のために、おかしな地方の議員さんなどが、活躍されるだけかもしれません。
また、そもそも過疎地域などは、その選択権がほとんど行使できる余地はありません(通える範囲の対象の学校はもともとひとつしかない環境にあるのですから)。

結局、学校選択制度は、特に公立中学などの場合は、試験によらない学校間のラベリング付けということでしかありません。
今でも、奥様方の間では、「あの(公立)学校はよい学校」「あの(公立)学校は悪がきの多い荒れている学校」という、評判がたちます。
これをさらに、うわさの域を超えて、受給者の人気投票で、決定的形にして「お墨つき」する制度、それが学校選択制度です。

能天気な学校選択制度賛成の方々は、選択権追行使→学校間の競争→予算配分決定→教育の質の向上、というまさに、恥ずかしくなるくらいのばら色の構図を主張されます。
もし、予算配分が競争の結果でなされるなら、その行く先は「富めるものは、ますます富み、貧しいものはますます貧しくなる」という、教育の格差社会です。
質の低いほうの公立学校にラベリングされた学校は、学校選択制度を導入すれば、今のたんなる評判状態にとどまっている現状を超えて、予算などの物理的な差別という、決定打を受けることになるでしょう。

もし、「低くラベリング付けされた学校は、競争原理が働き、改革のために努力して立ち上がり、向上することはあっても衰退することはない」と思ってる人がいたら、その人はまさに「教育現場に関わる生の人間(子供、親、教師)というものをまったくご存知ない」度素人ということです。
教室という限られた空間で、「多感」「成長期」の時期にある「多数」の「人間(子供)」を教育していくことがいかにたいへんか、知らない、あるいは知ろうとしない、浅はかな人間といってよいでしょう。

学校選択制度とバウチャー制度で、公立私立で競争させたところで、結局は本質軽視、要領重視の、目先のお手軽マニュアル化教育がすすみ、さらに生徒や親側からの学校選択だけでなく、本来選択される側であるはずの学校側のほうからも、何らかの形で生徒の選択(お前などウチにはいるなということなど)がでてくることも大いにありえるでしょう。

教育問題は、決して学校間の競争で解決できる問題ではありません。
公立、私立の一元競争にもちこんだところで、ただただ格差がひらいていくだけです。

結局、教育問題は、教育に関わるものの(親、教師、行政)考え方の根本をかえさせない限り、なかなか解決困難な問題といえます。
たとえば、学校がそもそも「公共の場」(公立、私立問わず)であり、そのためには最低限のルール(犯罪や、授業妨害などしない)を守る必要性を教えることは、家庭の役割でもあるでしょう。
学校を選択する前に、やるべきことはいくらでもあります。
現場の教師ばかり批判したところで、なんらの解決もできません。

考えても見てください。
自分ひとりの子供ですら、家庭できちんと教育することもけっこうたいへんです。
大人同士の中ですら、自分の部下と意思疎通をはかって仕事を教え進めていくことも、これまたたいへんなことは、お分かりでしょう。
40人近くの、まだ発展途上にある生徒を指導してしくことが、そう簡単でないことくらい、分かっていいはずです。
学校選択制や、バウチャー導入賛成の政治家など、今の学校で先生をやっても、考えていたことと現実の間のギャップで、3日ともたないでしょう。

学校選択制度、バウチャー制度について、多くの人に考えてほしいことは、何らかの選考の結果、評判の低い学校に行かざるををえなくなる生徒のことと、そのもたらす結果です。
入学したときから、生徒自身には帰責性はないのに、強烈に「ラベリング」された学校に行くことになるのです。
こういう生徒の、学校生活の形を考えてみてください。
私が生徒なら、いやですね。
そして、学校選択制度から生み出されるラベリングというハンデを背負った学校で、学校教育しなければならないことの困難さを。
私が先生なら、そういう学校で教えることになった場合かなりたいへんだなと思うでしょう。

こういうことを、考えてもみない、浅はかな人間が教育改革をうたう。
いつも思うのは、彼らの中にある人間はいつでも「抽象化」された人間の姿であって、そこでの人間は「競争」の中で「向上」していくという、シンプルなモデルです。

確かに、「競争」が「進歩」を生み出すこともあります。
しかし、それはそれに適した「分野」と「時期」、競争が最適な結果を生みだす前提となる「適切な条件(公平な競争環境など)」というものがあります。
教育の場合、競争原理はそう単純にあてはまるものではありません。

今の学校教育(ことに公立学校の)を、本気で立て直したいいのなら、次の点が重要です。

まずは、生徒以外の教育に関わるもの(親、教師、教育委員会や文部省などの行政、政治家、審議委など)が、まじめに等身大の教育の場の現状を知ることです。
どういう土地柄で、そこにはどういう(ものの考え方をする)生徒や親がいて、どういう教師、教育委員委員がいるか。
また、そこにはどういう人間関係があるか。

そのためには、まず文部省のお役人は、現実に教師として、通常の公立中学校に入省して早い時期に、最低3年(理想は6年・・・違うタイプの学校でそれぞれ一定期間教えることの可能な期間は3年+3年=6年だと思う)は現場にたつことです。
そして、そこで先生の立場から、生身の生徒や親、学校関係者を肌で知ることでしょう。
それを、わかってはじめて効果のあがる教育「政策」を「立案」できます。

さらに、生徒の親にも授業の現場に「先生」立場から何らかの形で参加させて、親に保護者の立場だけでなく、教師の視点ももってもらうことです。
教育にとって「現場百篇」はもっとも大事な原則です。

また、教師について言えば、教師間の「意思疎通」(横の連絡)をスムーズにやることです。
縦だけの(しかも意思疎通のない)連絡だけでは、何も対処できません。
もう少し、教師間で生身の人間の部分での付き合いをしていき、最低でもこれだけはといある種の「価値」(たとえば、犯罪的なものには、何があろうともごまかして対処しないというような)を共有していくことです。
そして、学校全体で問題を抱えている生徒や親に対しては、その共有した価値をもとに、ぶれない形で対応していくことだと思います。


最近の教育の現場みて思うのは、教師がだんだんものを「考えない」あるいは「考えさせてもらえない」環境にいるのではないかということです。
最近の現状を見ると、私は教師ではありませんが、想像はできます。
かなり、精神的にいろんな意味で追い詰められ、しんどい立場ではないかと思います。

メディアは学校が攻撃しやすいからと(なにしろ政治家と違い、反撃はほとんでで受けないですむから)、必要以上に学校を攻撃する場合も良く見かける現象です(もちろん、そうされてもやむをえない場合もありますが)。
教員免許の更新や君が代など、行政との間での問題でも精神的に追い詰められる。
これは、校長や教頭など管理職でも同じでしょう。
両方が、いっぱいいっぱいになって、その結果事なかれ主義に走る。

行政は私にすれば、行政の望む「ものを考えない、行政の言うがままに動く、機械的人間教師」をつくりたいようにしかみえません。
そういう社会の人間とは、「個人の尊厳」というものをもてない、相手にも「個人の尊厳」があるということを理解しない、劇場的感情(人情的ではない)優先型の人間です。

とにかく、今の生の教育現場を知る、あるいは知ろうとしない人間が、ごちゃごちゃ口を出しても、現場は混乱するだけで、結局は、生徒がそういう人間のたてたあさはかな計画の人身御供にされるだけです。

最近の経済雑誌を読んでいてあきれたのは、運動会を学校の父兄へのプレゼンにみたて、自分の子供の学校の運動会があまりちゃんとしていなかったことを、プレゼンに失敗しているようなものだと非難し、バウチャー制度導入などによる競争原理の必要性を説いていたことです。

この見方は、親の立場というものを、学校教育をあたかもサービスを受給する立場のみであるかのごとく、捉えています。
そこには、自らの「家庭教育」を省みる謙虚さもなければ、教育というものの「公的」意味を考える謙虚さもありません。
まるで、七並べのジョーカーのように「競争原理は」どこでも使えるものと言わんばかりの発想です。

しかし、レッセフェールは私に言わせればむしろ古い楽な発想です。
なにしろ「自己責任」ですむのですから、これほど「国」にとって楽な方策はないでしょう。
公的なものに不必要に競争を導入導入するなら、その結果生み出されるものは国が栄えて民滅ぶという結果です(米型社会を理想社会と考えるなら別ですが)。

私は、少なくともこういう弱者に配慮できない社会を「進歩」的な社会とはみとめません。
福祉国家は、現在でもあるべき資本主義社会の必須条件だと思います。
完全なる競争原理は、嗜好に関する製品をつくる企業の市場やマネーゲームなどの世界でやれば、十分です。

ましてや、子供の教育に関してはなによりも「物理的にも質的にも、できる限り平等な教育受けられる」ことが保障されるべきなのは、当然のことです。
そうでなければ、成人社会での競争原理が機能的に働く前提条件は、そもそも整っているとはいえないといっていいでしょう。

こういう点からみても、学校選択制度やバウチャーなるものは、希望の学校を選択できなかった子供に、責任もないのに負のラベリングを「自己責任」として負わせるしょうもない企画といえるでしょう。
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by phtk7161 | 2006-10-27 13:15