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社会問題を考える


by phtk7161
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長崎市長狙撃事件その(2)・・・法治国家としてのデッドライン

 長崎市長が狙撃された。調べが進まないと本当の動機は分からないが、これまでのニュースから判断すると、経済的にいき詰まった暴力団による狙撃ということか。おそらく、市から何がしかのお金をひっぱりだそうとして、うまくいかずに怒りの矛先を市長に向けたのだろう。何らかの事情でしのぎがきつくなり、もしかしたら上部組織への上納金などで、本人も追い詰められていたのかもしれない。だとしても、市長狙撃は論外で、断じて許されるべき行為ではない!

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 私はこの手の事件には、特に強い怒りを覚える。前市長の本島氏のときは、その背景に思想的ものがあったが(天皇の戦争責任発言をめぐる、右翼による犯行)、動機が思想的ものであれ経済的ものであれ、だいたい何の武器も持たないものに、「銃」というもっとも圧倒的優位にたつ卑劣な武器を使って、人の生命を狙うところが一番気に食わない。

 ようするに人間的「弱虫」のやる卑怯な行為ということだ。朝日新聞阪神支局を銃撃した赤報隊の事件もそうで、思想に不満があるからといって、身を守る武器を何も持たない記者を銃撃し(亡くなった被害者の方には、奥さんと幼い子供さんがいた)、しかも、こいつはあげくにコソコソと逃げ回り、ついには時効となってしまった。

 私は、思想的な右左を問わず、暴力で思想市場や経済市場を叩こうとするものには反吐が出る。人間として最低である。銃を使おうが、ゲバ棒使おうが、火炎ビンを使おうが、刀を使おうが、こういう人物はいずれにしても社会に参加する資格は全くない。社会の中で、本当に一番守るべき最低のルールすら守れていないからだ。

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 もちろん、人にはそれぞれ生きるテリトリーがあり、生来的事情から、法とは別のルールで動く世界で生きていくしかない人間もいよう。その領域の範囲で、彼らが彼らのルールでやっていく分には、それがたとえ一般社会では違法であろうが、ある意味かまわないともいえる。

 しかし、一般社会に牙をむいたら話は別だ。自らのテリトリーからはみ出して、法が基準となる一般社会に、自らのルールを持ち込んだ場合には、社会は彼らに対して強い制裁与えなければ(牙を抜かなければ)ならない。
 
 牙を抜く手段。それは、人権上本当は危険な面を持つ手段ではあるが、ここは暴力団に向けて暴対法を乱発してでもやるしかない。また使用者責任を問う形での民事訴訟において、不法行為による損害賠償を組の最高本部の組長に求めていくこともできよう。さきほど見たニュースによると、被害者は亡くなられたようだ。暴力団への怒りがますます増してくる。民事の場合の原告は家族、ないしはもし危険がある場合には市が主体となってもよいのではないか。
       
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 今回の犯人は山口組系の暴力団幹部であるという。山口組の近年のこの手の事件をふりかえると、東京渋谷のビルをめぐる後藤組の起こした殺人事件(被害者は、交渉にあたっていた一般市民だった)や赤坂での住吉会とのトラブルにおける、白昼、公道での銃撃事件(被害者は、住吉会の人物だった)。このほか、ルポライターの溝口氏の身内を狙った傷害事件もある。

 山口組は、いまや日本最大の暴力団である。構成員も多いし、上位から下部組織への伝達の徹底さもどの程度かは分からない。しかし、このところの山口組が起こしていることは、明らかに法治国家を揺るがす行為であることは間違いない。あまりに、手段が露骨すぎる。それはある意味、自らの世界のルールをそのまま、一般社会でも通用させようとしているようにもみえる。

 日本は法治国家である以上、この流れは絶対に阻止しなければならない。今度の事件を機に、暴力団、特に山口組を徹底的に叩いておく必要がある。そうでないと今度の事件は、山口組によって逆に宣伝効果としてしのぎに利用されてしまう。

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 政治家と暴力団あるい右翼との関係は根深いといわれる。しかし今回の事件が、法治国家としてのデッドラインへの近づきを示すものである以上、政治家は暴力団に関する問題から逃げてはならない。これは、政治家全体の責任でもある。

 特に、行政権を担う内閣、それをささえる与党は特にその責任は重い。もちろんチェック機能を果たす野党もその責任を担っている。さらに警察にいたっては、今度の事件の処理、その後の暴力団への取り締まりのありかたで、その存在意義が問われると言っても過言ではないだろう。

 世の中、確かにきれい事だけではすまない。しかし、それでも限度がある。市民の安全をまもるという国家としての最低限である夜警国家の役割を果たすことは、政治の最低限の務めでもあろう。「美しい国」は、真っ当な法治国家(思想、経済市場からの暴力の排除)の実現も当然意味しているはずである。

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 本当は、次に書くときはアメリカのバージニア工科大学の銃乱射とアメリカの銃問題を書こうと思っていた。それが、まさかこんな銃撃事件が日本で起こるとは。和歌山でも、男が女性を銃で撃った事件もあったようだ。腹が立つこと、このうえない。怒りが増すばかりである。

 メディアはもちろんのこと、世論も、この問題から怖がったりして決して逃げてはならない(あたらず触らずでもいけない)。強い「怒り」をもって、政治家、警察、メディア(特にNHKは真価の見せ所だ。民放は広告代理店も絡む以上なかなかしんどいかもしれない)のしりを叩かなければならない。それは、法治国家を守るための国民の義務ともいえると思う。
 
 
 
 
 
by phtk7161 | 2007-04-18 02:36