社会問題を考える


by phtk7161
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裁判員制度についての問題点

 2年後裁判員制度が実施される。裁判員制度は司法の民主化の観点から考えられてきた。日本でも戦前陪審員制が実施されてきた時期もある。また裁判に国民が参加することにより、司法に対する国民の信頼をよりたかめようとする意向もあろう。しかし、私は今度の裁判員制度の導入には反対である。

 理由はいくつもある。たとえば、司法制度改革の会議が結論を先走った(この会の座長は京大の憲法学の教授で、陪審制の導入にかなり熱心だった)ことである。これに対して彼らは「いや、裁判員制度の問題はそのかなり前から、長い間検討されてきた」というであろうが、しかし実際に国民がそのことを知った時期がごく最近であることからしても、やはり会議が導入を先走った事実は否定できない。

 私がこの制度を反対するもっとも本質的な問題は次の点である。すなわち、司法の場が場合によっては、裁判員間の政治力的場に変容してしまう危険があるからである。

 司法の意義は、少数者の人権の砦というところにある。もちろんこれは、いつでも少数者に味方しろという意味ではない。それは、たとえ民主的感情では1対99の結論であっても、1のほうが現に存する法にかなっているならその人権は守られなければならない。すなわち、決して多数決的感情で法の解釈を捻じ曲げてはならないことである。裁判員制度を導入するなら、この点をきちんと裁判員が理解しておかないと、裁判が魔女狩りの場と化してしまう。

 もちろんこの弊害を防ぐために裁判員制度でも裁判官が複数存在しているとする反論もあろう。しかし、それでも裁判員制度が感情による政治力的多数で動く危険は、完全に払拭できない。それを防ぐために、逆にもし裁判官のいうことがより優先されるとするなら、それはそれで、そもそも本当に裁判員制度は必要といえるのかという疑問もでてくる。

 さらに次のような問題点もある。事実認定において裁判員制度が現在の裁判官のみの制度よりもプラスになる面があるにしても、裁判員がそれをこえて事実認定に際して法解釈にまで踏み込まなければならなくなったとき、どうするのかということである。事実認定と法解釈は、ひとつの裁判においてそう容易に切り離して考えることはできない。事件によっては密接に絡まってくることもある。

 この辺の具体的処理の仕方も、今度の導入の中ではあまりはっきりしていない。もし法解釈まで裁判員が踏み込んで、感情優先の法解釈(定立された要件に事実を該当させるのではなく、要件が事実に該当するよう解釈されることになるような)がされるということになれば、それはやはり司法の危機といえるだろう。

 私は何も裁判員制度そのものに反対しているわけではない。ただ導入するなら導入するで、司法に対する国民のコンセンサスが確立していなければ、今のままの裁判員制度では弊害を招くだけである。少なくとも、一定の時間をかけて、司法のそもそもの本質的役割(少数者の人権の砦)や裁判員制度が人(被告人)の人生を左右する重大な役割を担うことをきちんと国民に理解してもらったうえでなければ、決して健全な民意による裁判制度たりえないであろう。

 アメリカはもちろん陪審員制度がとられている。しかし、アメリカは多人種国家であり、そもそも人種間の不信の問題の中でこの制度が存在してきた。現に、裁判に人種間の問題持ち込んで、事件の本質そのものをうやむやにしてしまう(すりかえてしまう)ことも多い(OJシンプソン事件などその際たる例であろう)。また裁判がパフォーマンス化して、裁判が裁判ショーになることすらある。そういう点で、陪審制そのものの問題点も多い。

 少なくともアメリカと人種的な風土の違う日本で、そういう制度が適切なのか、国民間でのその本質的議論もないまま、今の裁判員制度の導入は進められてきた。裁判員制度の導入に積極的であった座長の京大教授は、今の国民の人格の成熟度をどうとらえているのでろうか。はたして今のままの国民で彼の予定する裁判員像に本当にあっていると思っているのであろうか。ただ単に導入という既成事実だけが優先されてきたように思える。

 この点では今度の裁判員制度は、なんでもかんんでもアメリカに似せることがベストであるとする今の悪しき風潮の側面をもつことは否定できない。

 裁判(司法)を、国民にもっと身近に感じてもらうこと=裁判員制度、という図式は当然には成り立たない。裁判(司法)をもっと国民に身近に感じてもらう方法はもっと他にもいろいろあるし、司法の信頼を確保していくための努力は、裁判員制度導入の問題とは別にこれから先も行っていかなければならない。

 司法に対する信頼とは常に国民感情にかなうことを意味しない。どういう世論の流れの中であっても、司法という場が、「感情」より「理」優先の場であることは決してゆらいではならない。それはある意味司法の生命線でもある。そういう点を国民にもっと理解してもらうこともやはり司法の使命でもあろうし、それが結局は司法の信頼にもつながると思う。

 そうはいっても、すでに裁判員制度は決定されてしまっている。そうである以上、今は、裁判員になられる人が少なくとも「感情」より「理」を優先される(「感情」を否定しろという意味ではない、「理」に裏づけらられた「感情」をむねとすべきということである)ことを願うばかりである。
 
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by phtk7161 | 2007-06-04 16:01