社会問題を考える


by phtk7161
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光市母子殺人事件の問題点(弁護人批判など)について

 ブログを書くのが久しぶりになってしまった。久しぶりになったのは、一度書いた文章が投稿前に消えてしまう失敗をやってしまい、めげてしまったことも一因である。私の場合どうしても文章が長くなることが多い。それでかなりの量書いたのち投稿直前で消してしまうという失敗をやってしまうと、再度書くのがいやになってしまうのだ。そういうわけで、今日また気を取り直して書いています。

 ある程度期間が空くと、書きたくなるテーマも多くなる。そんな中で今回は、少し前の話題になるが光市の母子殺人事件の弁護団への批判について書いてみようと思う(ちなみに、一度書いて消えてしまったテーマは久間発言ついてである。これはまた別の機会にしたいと思う)。

 この事件はご存知の方も多いであろう。なんの落ち度もない親子(母親と赤ん坊)が、鬼畜のごとき未成年(当時19歳)によって、殺害された事件である。犯行の動機も暴行目的と、加害者には同情の余地のない事件である。

 1審の判決は無期懲役という判決であった。2審も検察の控訴を棄却。しかし、最高裁で2審の判決は破棄され差し戻されることとなる。またこの過程で最高裁で口頭弁論が開かれる直前に、弁護士が交代するという出来事もあった。ちなみにこの交代劇は、最高裁で口頭弁論が開かれる場合判決見直しの可能性がたかく、そのため死刑の判決を予想した弁護側の策的行為とする見方が有力である。

 私はこの事件について、次の点が問題であると思っている。

 (1)そもそも無期懲役の判決が覆った原因としては、被告人側の事件後の態度を最高裁が問題視したためである。そしてこの加害者の態度が問題となったきっかけは、被告人の友人にあてて書いた手紙が週刊誌上であかされたことである。これが世間の注目をあびた。最高裁がこれにより、この記事に書かれた被告人の手紙の内容を不利な情状としてきつくみたであろうことは容易に想像できる。

 被告人の事件後の行為、すなわち友人以外の他人にみられることを予想せずに書いた被告人の手紙が、世間に知れる(あるいは最高裁にも)こととなった結果、それを情状のひとつとして(不利な情状として)捉えられ、それがそれまでの判決を破棄し死刑判決を可能とすることとなったことに問題はないのか。

 (2)また、被告人の弁護側の法廷での策略的行為に対し単に非難を浴びせるにとどまらず、それがバッシング的ものになり、あげくのはてには差し戻し審での弁護側の弁論行為は荒唐無稽であるとして、こういった弁論は被害者側の心情を傷つける行為であるから、損害賠償をすべきだというような批判まででてくることは、司法そのものの制度に悪影響をあたえないか。このことも問題だと思っている。

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 (1)の点につき、私はやはりこういう過程で被害者の情状が判断されることには躊躇を覚える。確かに一般社会で暮らす友人に手紙を出す以上、その内容が一般に伝わる可能性は当然にありうる。したがって被告人も手紙を出した時点で、そのことは覚悟すべきであるという意見もあろう。しかし、私は手紙の内容が外部にわかってしまうと分かっているなら、被告人はこういう内容の手紙は書かなかったと思う。ましてや、それが情状にまで反映されると予期していればなおさらである。

 本人の予期しない形での、事件後の行為の裁判での不利な情状での利用のされ方は、やはり被告人の利益を害するものであって、アンフェアーとすべきものだと思う。彼の犯した犯罪行為は、それまでの量刑の基準からして無期懲役、死刑いずれも可能とされる範囲にある。したがって、私は被告人に死刑判決が下ることが妥当でないとは思わないが、しかしこういう過程でのできごとが原因となって無期懲役を破棄し死刑判決を可能としてしまうことは、裁判のありかたとしては明らかに問題である。

 私も手紙の内容が救いようもないほど愚かなものであることは、百も承知している。被害者側にすれば、今すぐにでも殺してやりたいと思っても当然だとも思う。しかし、どういう点まで(どういう過程のものまで)裁判では情状にとりいれるべきかは、それとは別に冷静に判断されるべきことである。

 被告人の育った環境はかなり劣悪なものである。こういう人間は、仲間に対して必要以上に自らを悪く見せることにより、自らの存在意義を見出そうとする傾向が強い。彼が書いた手紙のの中身が、その延長戦上のものであることも十分ありえよう。そうだとすると、手紙の内容=等身大の彼自身と決め付けることもまたどうかとも思われる。さらにいえば、手紙の内容を週刊誌が友人から得た過程はどうだったのか。どちらから求めたのか。友人側から売り込んだのか。それとも週刊誌側から積極的に友人にアプローチした結果なのか。謝礼金は払われたのか。払われたとすればどれくらいか。一方でそういう点が明らかにされることもまた、手紙の内容を情状に取り入れるときには重要なことではないだろうか。

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 (2)の点につき。弁護団は死刑回避のために、策的行為を乱用しているとの批判が強い。メディア側は、これを弁護団(主任弁護士は安田弁護士)が死刑廃止の運動の一環としてやっているという姿勢で伝えている。しかし、これはおかしい。弁護団があらゆる手段を駆使しているのは、むしろ2審のまでの過程とその後(最高歳)で、判決の流れが変わってきたからでありある意味でこれは当然のことである。それは死刑廃止運動とは関係なく、被告人の利益のための弁護士として当たり間の行動であろう。


見方によっては、確かにやりすぎの感もあるかもしれない。私もこういう弁護活動が、最善のやり方だとは思わない。しかし、弁護人の使命は、そもそも被告人の利益擁護を第一にするこにある。社会正義の実現ももちろんだが、それは被告人の利益を害してまでやるものではない。もちろん、犯罪行為に該当するような弁護活動はゆるされない。しかしそれにあたらない限り、弁護人はなによりも依頼人の利益を第一として活動しなければならない。それが「弁護」人である。

 したがって、今回のような弁護活動も否定一色(確かに一部不適切な戦術もあった)で捉えるべきではない。そうでないと事件の犯人が明らかな場合には、早い話検察官と一緒になって被告人を糾弾する弁護人ほどよりよい弁護人となってしまうことにもなりかねない。それでいいなら、極論すれば弁護人は刑事裁判制度にお飾り的役目以外には必要ない存在(事実を争わない情状ロボット的存在)ということにもなろう。

 ただのお飾り弁護人なら、それは真の意味での「弁護」する人とはいえない。アメリカでは弁護士としての資格を得た後、宣誓を行わなければならない。その宣誓の内容は、合衆国憲法に従うことと、依頼人の利益を守ることである。 私は決してアメリカの司法制度を高くは評価していないが、この弁護士になるときの宣誓内容については、その使命として正しい内容を示していると思っている。

 その弁護が、たとえ加害者側の心情を傷つけことになっても、それが犯罪行為でない限り許される。被害者、ないしはその家族を弁護のために必要もないのに、罵倒したり愚かしめたりするなら、名誉毀損の対象にもなろうが、弁護側の用意したストーリーがたとえ荒唐無稽であっても、それが上述した範囲のものではなく、かつ被告人の利益のためになるものであれば、それは許容されるべき弁護活動といえるであろう。またそうでないと、被害者側の心情を傷つける弁護活動が許されないとするなら、もはや刑事裁判において、弁護活動というものは成り立たなってしまう。

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 主任弁護人の安田弁護士は、地下鉄サリン事件の麻原の弁護人もつとめている。

 地下鉄サリン事件の裁判は、そもそも当初の弁護人であった横山弁護士では、被告人に十分な弁護が保証されないと考えた裁判所・・・(本音では弁護活動は形式的レベルでよいとするのが裁判所の本音であったと思う。つまり形作りである。横山弁護士ではその形作りでさえできないと裁判所は考えたし、また量的にも横山弁護士一人では到底無理だということもあったであろう。)・・・・が弁護人を探したが、誰も世間の批判や自らのイメージダウンを恐れて弁護を引き受けない。あの帝銀事件で有名な遠藤弁護士でさえ、家族反対にあい弁護を断っている。そういうなかで、最高裁判所のたっての頼みで無理やり弁護を引き受けさせられたのが、彼(ら)が弁護人を勤めることとなったいきさつである。

 もちろん引き受けた以上、安田弁護士はお飾り弁護活動ではなく、麻原の利益を第一にそれまでとってきた彼の弁護活動と同じスタイルを貫いた。もちろんそのやり方には批判も強かった。しかしそのことは、頼んだ側の最高裁にはそれまでの彼の弁護活動から当然予期できたことである。しかし検察はそれを腹に据えかねて、全く別件の不動産がらみの事件で、安田弁護士を逮捕する。

 この逮捕劇、本音のところでは検察にとって麻原の裁判を妨害する(ただし合法的にである)弁護活動を行う安田弁護士を懲らしめようとするところに意図があったといえる。結局その別件の不動産がらみの事件、安田弁護士には無罪判決がでている。この逮捕劇からも分かるように、彼は被告人の利益第一にこだわる分(彼はそれが真実の解明につながる行為であるとする。それもひとつの考えであろう)、彼には腹を据えかねる人も多い。しかし、それだからこそある意味では彼は本物の「弁護」人である(世間一般の評価はともかくとして)ともいえるだろう。

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 光市母子殺人事件は、加害者に全く同情の余地がない事件であることは私も同じである。死刑判決であっても、私はおかしな判決だとは思わない。ただ死刑判決を下すとしても、それは事件までの彼の行為状況のみを前提としてくだすべきである。決して、その後の被告人の書いた手紙の内容が週刊誌にだされることにより、それが加味された結果下されるべきものではない。こういうことがまかり通るようだと、感情優先の渦の中で司法制度はゆがんでしまう。

 また、弁護人の活動はなによりも、被告人の利益が第一であることは、当然のものとして認めれるべきである。そうでないと、被害者の感情優先のなかで弁護活動は萎縮し、それが場合によっては、結果として冤罪を防げなくなることにもなる。そういう点で、最近の光市母子殺人事件の弁護団へのバッシング的な批判は妥当さを書いていると私は思う。
 
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by phtk7161 | 2007-07-06 07:55