社会問題を考える


by phtk7161
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世界陸上と為末、朝原そして末次。競技そのもので十分すごい選手達・・・余計な感動話はいらない。

 ちょうど世界陸上の真っ最中の日本では今日内閣改造が行われる。参議院といえども歴史的大敗を喫した以上トップの政治責任者が辞任して責任をとらないことは、普通に考えて(橋本、宇野元総理のケースと比較しても)おかしなことであって、大臣のメンバーがだれになろうと根本的なことは何もかわらない。まあいくらかましになったことといえば、あの本当にしょうもない補佐官制度が見直されることになったぐらいか。この制度。特定の重要問題の責任担当にもかかわらず、人材的には根本的問題(例えば教育)点の現状をよく知らない度素人補佐官(たとえば教育再生における山谷氏)が起用されていた。まあ所詮アメリカの物まねハリボテの制度だしこの結果は当然のことと思う。

 いずれにしても、本日の内閣改造は時間の無駄をやっているようなものだから、興味も殆どわかずコメントする気にもならない。ただ防衛大臣に関しては、「ヒゲの隊長」佐藤某の問題発言もあるし、シビリアンコントロールの観点(なにせ民主制度の根幹に関わる)からこの大臣が誰になるかだけは注目しておきたい。

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 そういうわけで内閣改造に興味がわかない以上、今日のブログは政治と離れて世界陸上の私個人の感想を少し話したい。よかったら読んでみてください。

 私はオリンピックより世界陸上のほうが好きである。オリンピックになると「頑張れニッポン」的熱狂さと競技者個人の競技とは関係ない「感動話」がメディアによって加わってしまい、純粋になかなか競技を楽しむ雰囲気になれないからである。世界陸上のほうはその点はいくらかましだと思う。司会の織田裕次君もテンションは高いけれども、司会を長年継続してやってきたこともあり彼自身世界の陸上の選手にも関心が高い。個人的感想も多いけれども、日本選手のみでなく世界に目を向けてる分オリンピックのケースよりましな気がする(もちろん私の見方に対する反対意見の人も多いと思う。所詮これは個人的感想であるからご容赦を)。

 本当の感動は余計な「感動話」がついてこなくてもそのスポーツのガチンコの過程と結果のなかに十分見出せる。またそれでこその「感動」である。そこをメディアは勘違いしている。400m障害の為末選手は銅メダル2度の実績の持ち主だがその彼が今回予選落ちした。世界のトップもコンデションやレースのリズムを崩すとそうなってしまう。それくらい陸上の世界レベルは厳しいということであるが、でもそれがまた同時に真の勝負ガチンコのすごさというものを見せてくれる。そういうことが認識できるのもまた世界陸上を見る楽しみのひとつでもある。

 為末選手もベテランの域に入った。世界トップの真剣勝負の競技、今回のような結果もまたあって当然である。「経験と知力(技術)」をいかしてまだまだ頑張って欲しい。私はこれからの彼のベテラン的競技のスタイルがどうなるかのほうにむしろ大いに興味をひかれている。それがオリンピック、あるいは次の世界大会にまでつながれば、それは本当にすごいことだ。

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 昨日朝原選手が100mの準決勝で敗退した。正直言って世界のレベルの高さをあらためて確認させられたレース内容である。予選のタイムであれば決勝進出の可能性もいくらかはあったけれども彼の準決勝のタイムは予選より遅い。しかしそれでこそむしろ4本走って世界のトップに立つことが如何にに大変なことかよく分かる。1次2次予選で7割準決勝で8割~9割程度の力で通過できないとメダルなどとても手にできない。

 朝原選手が2次あたりですでに9割~本気の力で走らざるを得なかったことが準決勝の平凡なタイムに影響していたことは間違いない。でもそうしなければ彼が確実に準決勝に進出できるかどうかは分からなかった。それほど大変な種目が100mという競技なのだ。

 朝原選手は長い間日本のスプリント界を引っ張ってきた。その彼もベテランの域に入り肉体的力はもう下降の時にはいってきているはずだ。しかしその分を「知力」「経験」で補い今回の大会に臨んだ。この大舞台でだした予選の10秒1はすばらしいタイムだし賞賛されるべきものである。100mで世界のファイナリストにはいることは、オリンピック競技などの他の種目金数個分(メダルレベルなら10個分か)の価値がある。

 今回の彼の走りは準決勝どまりだったけれども、そういう意味では実は今回の彼は十分他の種目のメダルの分の価値はあるのだ。そしてそういう彼の走りと、それと同時にみせつけられた世界の壁の高さといいうガチンコのすごさにはやはりある種の「感慨」を覚える。そしていつの日か日本で100mのメダリスト(もちろん男女問わない)が誕生したとき、それこそまさに真の「感動」をよぶことになるだろう。そう、「感動」というものは競技の過程と結果で十分なのである。余計な「感動」話的なものは度がすぎるとその選手のだした競技での過程や結果の純粋な「価値」さえ見誤らせてしまう。これは選手に対する冒涜以外のなにものでもない。   

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 この後末次選手の200mがある。彼が前大会獲得した銅メダルの価値は、オリンピックのほかの種目金5~6個分の価値は間違いなくある。なにせ1次2次予選を7割の力で通過して見せた選手なのだ。だからファイナリストにはいりメダルも取れたのである。それはある意味では「国民栄誉賞」に十分値する。もっとも国家からある評価を彼に与えることはかえって彼の業績の「価値」低下させることなのかもしれない。前大会で決勝の電光掲示板に結果がでるまでのそれを待っている彼の「表情」とそして3位の結果が出た瞬間の両手を前にぐっと突き出した彼の「姿」そして世界3位という結果自体。こういうことこそ彼のだした本当の価値の証(あかし)であるといっていい。それがまさに人を「感動」させるに値するものなのだ。そこに下手な感動話などいらないのである。

 スポーツの本当の感動は難易度の高い種目にこそ存在する。そういう意味では10年に一回あればいいほうなのだ。だから、毎回毎回お手軽につくられるスポーツの感動話(しかも競技に直接関係ない選手のプライベートの話)などただの「感動」したがりつくりたがり話であって、結局それは選手への冒涜に過ぎないと思うのだ。
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by phtk7161 | 2007-08-27 10:01