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社会問題を考える


by phtk7161
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佐世保銃乱射事件・・・銃所持許可における「原則」「例外」逆の実態

  なんともやり切れない事件だ。身勝手な動機で何の落ち度もない人を殺傷する。しかも幼稚な戦争ごっこ的スタイルで迷彩服に散弾銃。全くどこに何に怒りをぶつけていいか・・・もちろん犯人にぶつけるべきことは当たり前だがそれでも・・・分からなくなくなる。

 事件の原因に犯人の性格、自らの感情をコントロールできない幼稚性・・・一定のレベルを超える行為(犯罪行為)を抑制できない・・・があることはもちろんだがそれだけではない。「銃」という存在が今回の事件の悲劇性を拡大した大きな根本的原因(物理的な)であるといっていいだろう。

 銃を無防備な人間・・・でもそれが人の当たり前の姿である・・・に向ける愚かな人間の起こした事件はいくつもある。最近でも隣人関係に起因する事件や暴力団抗争に市民が巻き込まれた事件。隣人間の事件の場合そのトラブルの原因も行為者の身勝手とも言える理屈によるものがほとんどなのだが、その解決として銃が使われる(もちろん解決などなっていないが)。

 長崎市長の元右翼団体員の事件もそうだし、朝日新聞阪神支局での散弾銃の記者殺傷事件もそうだ。古くは梅川が起こした三菱銀行での事件もあった。梅川など前科がありながら(しかも強盗殺人・・・ただし未成年時)合法的に銃の所持が許可されていたのである(その後事件を受けて見直しがあり、現在一定の犯罪歴がある者への許可は認められなくなっている)。
  
  暴力団による事件の場合、彼らには銃の許可などなくもともとその所持自体違法で所持の認知ができていればその段階で警察は動ける。ところがそうでなく合法的に常に身近に銃を所持できることが容易にできる環境にあるのが、今の日本の現実である。それもスポーツ趣味という形で、身近に銃がおけるのだ。

  憲法13条は「幸福追求」の権利を認める。野球をするのも自由。競馬を楽しむのも自由。飲酒や喫煙をする(楽しむ)のも自由。読書もするのも自由だ。そしてその楽しみにクレー射撃や狩猟を行うことも入る。

  しかし一方で個々の種類(上記したような)の行為の自由が認められる範囲も、行為の内容によって当然違う。私人間における「他害性」の度合(危険性)いによってはその制約も強くなる。それが「公共の福祉」という規定なのだ。 

  例えば喫煙の制約は近年厳しくなってくる。煙の与える他人への影響も考慮され愛煙家もずいぶん肩身が狭くなっているはずだ。ところが「銃」はそうでない。なるほど「銃」の所持そのものでは「他害」はおきない。しかしその存在をもとにした「他害」が近時あまりにも多すぎる。そうした意味では、銃はその「所持」の事実自体で一定の「他害性」の萌芽は十分ある。そう考えていくと「銃」の存在は、原則禁止の薬物「モルヒネ」「覚せい剤」同様に考えていい。

 これらの薬物も本来持つ自体(所持自体で犯罪は成立となるが)では他人に害を与えない。しかしそれを使用することによる「他害」の蓋然性は間違いなく高い。それゆえに所持でも罰せられる。したがって原則は禁止、例外的に医療用に認められるめられるだけなのである。

 職業上銃所持が認められる司法官憲も自宅に銃を携帯することは(例外もあるが)原則認められていない。しかしこと今回のような趣味スポーツ的「銃」の所持の場合この所持の原則と例外が逆になっている。ここに近年の「銃」の認可における問題がある。

 銃は使用されれば、その「悲劇度」は格段に高くなる。その点では刃物などとはけた違いである。そうであれば、例外的に昔ながらの職業的な「マタギ」や害獣駆除など場合をのぞいては銃(趣味・スポーツとしての)の所持は「原則禁止」としていいはずである。

 容易に人を撃ち殺せる道具を使った「クレー」の趣味(スポーツ)なども相当に厳しい要件・・・例えば警察や一定の管理団体などに銃を厳重に保管させあるいは許可の要件も相当厳しくした上で(例えば継続的にスポーツとして行っている実績があるかなどのチェックや生活上のトラブルの有無など含め)・・・のもとで狭い範囲で例外的に認められる趣味としていくべきだ。

 クレーをやる人にとっては、他の趣味を楽しむ人(読書やゴルフ等)と同じように銃を使用する(スポーツや趣味として)ことは楽しいであろう。狩猟(害獣駆除を除く)をする人にとってもそうだと思う。しかし彼らが扱う道具は、人の生命を容易に奪うことのできる「凶器」なのだ。その意味では、これまで野放しにされすぎてきた感があまりにも強い。そうだとすれば銃を使う「幸福追求権」は、今後は自由権のなかでもかなり厳格な要件のもとでのみ認められる権利として位置づけられるべきだ。

 ところで今回の事件で気になって点がもうひとつある。それは警察官関係者(OBも含め)のコメントが銃規制についてあまりにも消極的ということである。銃の許可には厳しい審査をもうけていると彼らはいう。しかしそれは形式的なもので実体は書類審査的なものすぎない。講習といっても車の免許とさほど違いはないレベルであろう。

 しかしその審査をクリアするのには、もちろんそれなりの審査料(登録料や更新料)を何がしかの団体(特殊法人的なものか、それとも直接的公的団体かはわからないがおそらく警察関係者が絡む団体だと思う)に収めるシステムになっているはずだ。

 そうなると合法的「銃」の制約はうがったみかたをすれば、この種の審査団体にとって経済的な損失にもつながるのではないか。事件を受けてのコメントでの警察関係者OBの消極的コメントを聞くとそう思わざるにはいられなかった。このあたりの問題も今回の事件を機にメディアには追及して欲しいと思っている。
by phtk7161 | 2007-12-17 10:07