社会問題を考える


by phtk7161
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最近の過度な応報感情(第三者の)について

ここのところ死刑の執行が相次いでいる。はじめに断っておくが、私自身は死刑という制度を否定しない。(理性に基づく)国民感情の多数が、この刑を否定する意向になれば廃止するのもやぶさかではないが、現状ではおそらく死刑廃止は多数意見でないであろう。したがって、今死刑制度が存続していること自体に意義をとなえるつもりもない。光市の事件も、事件の性質的には無期懲役・死刑のいずれも考えられると思っている。

しかしだからといって、どうもここのところ死刑の「安売り」的な動きは支持できない。前法大臣が死刑の執行に署名しなかったことが、現鳩山法相が次々署名することの一因になっているのかもしれないが、死刑の判決や執行にしても、このところの世論の厳罰化をうけてか安易すぎるような気がしてならないのである。

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もともと刑罰の趣旨には大きく分けて二つの考えがある。ひとつは教育刑。これは犯罪者の矯正をめざし社会復帰の教育的観点から、刑を科すという考えだ。そしてもうひとつは、応報刑。これは犯した犯罪に対する報い(罰)としてそれ相応の刑罰を科すべきとする考え方である。どちらの立場も死刑制度はとりうる。応報刑はもちろんだけれども、教育刑にしても、犯罪をおかしたものがもはや教育不能と考えれば、死刑もとりうることになる。

裁判所の立場はともかくとして、世論の多くは明らかに応報の観点から死刑制度を容認していると思う。「こういうけしからん奴は、その報いとして殺してしまえ」的なものがそれだ。しかし応報もあまりいきすぎると、文明社会とはいえない。それは暴力に根ざした「原始的社会」である。

死刑は文字通り国家が人間の生命を奪う刑罰である。その刑の言い渡し・実施はより慎重さが求められる。光市の母子殺害にしても、安易なメディア(特にこの事件の場合週刊誌をもとにした)の一方的情報・それに影響を受けた世論(特にネットでの煽り)により、死刑が決定されてはならない。

遺族が死刑を望むことは当然の感情である(全員ではないであろうが)。遺族感情とはそういうものだからだ。その意味で、今の刑罰制度はなお応報の観点をもっている。しかしその感情のみで刑事制度が動いていくなら、それは危険である。もともとどの遺族にとっても、被害者がひとりであろうが二人であろうが、その感情には差はない。多くの場合どの遺族も、死刑を望むであろう。だからといってその感情に従い、簡単に死刑を課すことが刑事制度のあり方として妥当でないことはいうまでもない。

したがって、遺族でない第三者が意見を述べるなら、やはり一定の客観的立場は必要である。被告人の有利・不利それぞれの事実・情状を客観的にきちんと把握してから意見は述べるべきである。被告人の育った環境・当該犯罪行為の悪質さ・それまでの刑罰の相場(永山基準)などをきちんと踏まえたうえで意見を述べるべきである。そうでない意見はただの軽薄なヒステリックな「煽り行為」であり、あるいは経済的利益を目的(売らんかな)として事件を利用する下衆な行為にすぎない。それは本当の意味の「世論」ではない。少なくとも裁判に関してはそうである。

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最近の「人民裁判」の風潮が続けば、いずれは一人だけの殺人でも死刑が当然ということになるかもしれない。その昔カントは応報刑を主張した。今の世論の感情も算数的な1-1=0的なものになりつつあるのではないか。刑事制度のありかたを算数的にとらえることは、刑事制度の崩壊を意味する。この種の世論が幅をきかすなら社会は明らかに文明的に退化してしまうであろう。人の生命に関する刑事制度「死刑制度」のあり方の是非を論ずるなら、少なくともその点は意識しておかなければならないと思う。
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by phtk7161 | 2008-04-25 01:51