社会問題を考える


by phtk7161
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宮崎勤死刑因の死刑執行について・・・法的理論と一般感情と

宮崎勤死刑因の死刑が執行された。事件から20年あまりたっての執行である。執行の是非については、様々な見方があると思う。ただおそらくではあるが、世論の大方は肯定しているかもしれない。なんといっても、複数の幼女を性的な目的で人形のように見立て生命を奪った事件である。世論の感情がそう(肯定の方向に)なっても無理はない。ただ以下の点についてだけは、述べておきたい。

それは、責任能力のあり方の問題である。作家の佐木隆三氏が宮崎勤について、「彼は責任能力がないことを詐病している」と述べていたが、私の見方は違う。やはり責任能力には問題があったと思う。もっとも裁判所は、彼に責任能力ありとした。ただこの裁判所のだした責任能力についての解釈も、先に「死刑」ありきの結論があってからこそのものだったといえるのではないか。

この裁判では3通りの鑑定のなかで、そのうちの2通りが彼の「責任能力」には問題があるという結論をとっている。もちろんだからといって、それでも彼に死刑が科せられておかしくはない。どの鑑定を採用するかあるいはしないかは、裁判所の自由であるからである。ただ、法的に厳密に考えればやはり彼の責任能力に「問題がない」することは無理がある。それでも、そういう結論にせざるを得なかったのは、事件の被害の経緯・内容があまりにもひどく、そこからくる一般の「応報」感情を裁判所も無視できる状況にはなかったといえるからだ。

そういう一般の「感情」が、健全な「感情」といえるかどうかそれは分からない。ただ、今後もこの種の感情が裁判に何らかの影響を与えることは確かであろう。従来の法的観点から「罰せられない」とされていることを、感情を考慮し「罰す」としてよいのか。鳩山法相は「法治国家」の立場から、刑を執行したと述べていたが、責任能力についての問題もその「法治国家」の観点から考えてしかるべきである。

世論の感情で、それまでの法的理論を簡単に崩していものかどうか。簡単に崩せるとすれば、それもまた法治国家として、大いに問題があろう。感情的に「殺せ」「殺せ」ばかりが連呼される社会、そういう社会が健全さを欠き危険なものであることもまた確かである。

もし、事件の行為内容・被害共に悪質で甚大な事件について、今回のように責任能力を肯定するため事実をすりかえたり、あるいは強引に責任能力の定義にあてはめようとすることは、世論の(死刑迎合の)感情がどうであろうがこれは論外である。

そうではなくもっと正面からそれまでの責任能力の理論的側面・・・例えばそれこそ心神喪失者における「行為の違法性を弁識する能力または弁識にしたがって行動する能力」という定義そのものからあるいはその具体的内容について・・・をどう変えるべきなのか(それともやはりかえないべきなのか)が重要なことといえる。法的な「理論」と一般の「感情」との緊張関係は今後も厳密に検討しなければならない課題といえよう。
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by phtk7161 | 2008-06-18 14:21