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社会問題を考える


by phtk7161
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「新国立劇場」での芸術監督選考の騒動・・・その根底にある本質的問題

手前で掲載した村岡氏の判決についての記事は、再掲載の形をとった。しかしそれとは別に・・・・せっかく来て頂いてるのだから、やはり何かあらたに記すべきと思い・・・一日で2つめの記事となるが「新国立劇場」の問題について書くことにした。よかったらこちらもお読みください。

新国立劇場でおきた問題とは、演劇部門の芸術監督交代劇をめぐる騒動である。この交代のやりかたが批判をよんでいる。批判の原因は、一期での交代(3年)は唐突であるうえ・・・前任者は6年ほど・・・あらたな人選の選考の過程も不透明であり、理事内には反対意見もあったにもかかわらず一連の決定が理事長一任の形でなされたことである。

私は内部の人間でないから、この紛争そのものの原因(政治的な面)や理がどちらにあるかははっきりは分からない。それでも今回の騒動の背景には、その根底にもっと本質的な問題があるように思う。

新国立劇場は第二の国立劇場・・・その冠名は「オペラシティ」・・・として誕生した。日本における国際的な文化の素養を養うことを目的として誕生したものといっていいいだろう。当然日本だけでなく外国からの招致・・・たとえばオペラの上演・・・も目的としている。でも見方をかえれば、ある意味「鹿鳴館」的なものがみえてくるようにも思う。役人を中心にこの種の企画を練れば、所詮そんなところだろう。

本質的な問題というのは次の点である。すなわちここにも、役人の天下り的な形が見え隠れしている。オペラについては、そのおおもとの役所はずばり「文部科学省」。構図はこうだ。新国立劇場の運営は法律(振興法)にもとづき、文部省から「独立行政法人日本芸術文化振興会」にまかされる。そしてこの独立行政法人から、「財団法人新国立劇場運営財団」に業務が委託されることになる。

独立法人とはいえ、法人発足時の出資金(運営交付金)は税金である。その税金で作られた独立行政法人が具体的事業を別の組織(とはいっても一連的になっているケースも多いであろう)に委託する。そしてそのどちらにも、文部科学省の役人が入り込んでいるというわけである。

新国立劇場運営財団の理事長(責任者のトップ)は、小泉内閣時に文部科学大臣を務めた遠山敦子氏である。彼女ももともと文部省の出身である。また実際の実務に強く関わるこの財団の常務理事(3人)の一人も、やはり文部省出身の霜鳥氏だ。

またこの財団の多くの理事や監事などの役員には、今の格差問題を作り出した「市場原理」万能主義をとる小泉改革に沿った形の(支持している)人物が多い。たとえば、常務理事の角田氏は経団連の人だし、残りの岡部氏ももともとはトヨタの広報の人である。つまりどうみても常務理事の3人ともが小泉改革的人物で構成されているのである。この財団に出資している企業が、トヨタやロームであるからこういうこともさもありなんということか。

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こういう人的つながりの関係は、別の面でもいろんな形で波及している。たとえば新国立劇場運営財団の監事をつとめる前田氏(江東区教育委員)は、やはり遠山氏が理事長をつとめる松下教育研究財団で非常勤の理事となっている。つまりこういう財団では文部省出身の人物がそのトップに座り、理事には別の財団でもつながりのある人物が起用されているということだ。

こういう形が組織にとってマイナスであることはいうまでもない。ある縄張りをもつ役所が多くの財団にかかわりを持つ中で、トップとその仲間達をいろんな場所で起用する。別の組織でも関係する仲間であるから、多くの場合同じ考えをもつことが多いであろう。そのため結局は「イエス・マン」ばかりの組織になってしまい、だんだん独善的になっていく。その根底に「この財団は○○省のものなんだ。他の奴は形だけ居ればいい。口を挟むな(さからうな)」こういう考えがあることはいうまでもない。

反論する人間がでる場合に備えて、理事の多数は自らの仲間で構成される。だからおかしな事柄に対し、率直に意見を言える人物はどうしてもこういう財団では少数になってしまう。財団が少数のこういう人物を起用するのは、財団が民主的に造られ運営されているようなイメージ作りをするためだけにすぎない。本当は、もともと民主的に運営する気などさらさらないのである。

こういう構図は小泉改革のなかで、よりスピードアップして行われるようになった。たとえば諮問会議もそうである。予定された結論と反対の意見をもつ人物はごく少数(極端な場合はゼロである)しか起用されない。このどこが民主的なのか。彼らは実際民間の代表者でない。政府の意向をうけた民間の表紙的な人物にすぎないのだ。

そうやって、余裕で日々の生活に困らない人間が、自己満足にすぎない趣味的な政策を実現するために集まり、会議という名の形式的な儀式を行って医療改革や司法制度改革も進められてきた。それを「改革」だと彼らはいう。しかし実体は決して「改革」ではない。一方的な「破壊」である。その「破壊」の端緒をつくる役割を担うのが、まさに諮問会議なのである。こんな馬鹿げたことは、もうやめるべきだ。同じ仲間を使いまわし、あちこちにいくつもの会議をつくっても意味などないのだ。多角的に意見を集約できない会議など、時間カネとも無駄である。

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今回の新国立劇場の問題の根底にも、どうもそういう点があるような気がしてならない。文部省(あるいはその仲間達)がここは「オレの財団」ということを確立するためあるいは権力をみせつけるために、反対する意見を封じる形で理事長一任にしたとしか思えないのだ。

もちろん遠山氏側にも言い分はあろう。そうであるなら、芸術監督の交代とあらたな人物の選考過程についてなぜその人物のほうがいいと思うのか、どうしてそういう選考方がよいと思ったのか、堂々とその理由を明らかにすればいい。そうしないのであれば、選考過程に透明性がないといわれてもしかたないであろう。

法的にどういう形であれ、この財団の誕生のお金のもと・・・財団の後ろ盾である独立法人成立のための出資金・・・は間違いなく税金である。したがって組織の人事についても、財団は社会に対する「説明責任」と「情報の公開」をきちんとやらなければならない義務がある。これは財団の公益性から、あるいは理事長という職からいっても当然の責務である。それをしないまま独断の形でおしきるなら、それはオペラが文部科学省とその仲間達の所有物であることを証明しているようなものなのだ。
by phtk7161 | 2008-07-16 04:17