社会問題を考える


by phtk7161
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教育改革論議がにぎやかです。
こういう論争を聞いてて思うのが、「まあみなさん、適当によくおっしゃいますね」ということ。
教育問題は、かなり複雑で難しい、そう単純に解決できるものではありません。私が、一番聞いててばかばかしいと思うのは、生の教育現場の現状を知らないあるいは、知ろうともしない人物が、経済市場と同じ原理によるアイデアなるものをだしてくることです。

たとえば、今度の学校選択制度。
なるほど、教育の受給者が自分の希望通りの学校を選択できることは、とてもよいようにも思えます。でも考えてみてください。

どこの学校だって、定員というものがあります。
希望したもの全員が、希望通りの学校に行けるのなら、よいアイデアかもしれません
しかし現実には、希望者がみんなが希望通りの学校に行けるわけではありません。
もし、人気校が定員をふやすとするなら、そのためにはお金がかかりますし、その人気が続く保障はありません。
したがって、仮に補助券などのバウチャー制度を導入したとしても、この問題点はクリアできません(もし、生徒が減れば施設が負債となるから)。
そのため、人気校であっても、希望通りの人を全員うけいれるほど、一度に定員数を大幅に増員することはできないでしょう。

もし、評判のよい学校に希望の生徒が集中した場合、特に公立の小中学校などは、どういう選考基準をもうけるんでしょうか。
公立学校(たとえば、中学など)などで、なんらかの選考基準をもうければ、いらぬ争いが起きるだけのように思えます。
まさか、そのために公立中学が、入試などやるわけにもいかないでしょう(やれば、お受験戦争がさらに広い範囲でおこなわれ、公立学校が私立化するだけです)。
結局は選考に際し、支持者のために、おかしな地方の議員さんなどが、活躍されるだけかもしれません。
また、そもそも過疎地域などは、その選択権がほとんど行使できる余地はありません(通える範囲の対象の学校はもともとひとつしかない環境にあるのですから)。

結局、学校選択制度は、特に公立中学などの場合は、試験によらない学校間のラベリング付けということでしかありません。
今でも、奥様方の間では、「あの(公立)学校はよい学校」「あの(公立)学校は悪がきの多い荒れている学校」という、評判がたちます。
これをさらに、うわさの域を超えて、受給者の人気投票で、決定的形にして「お墨つき」する制度、それが学校選択制度です。

能天気な学校選択制度賛成の方々は、選択権追行使→学校間の競争→予算配分決定→教育の質の向上、というまさに、恥ずかしくなるくらいのばら色の構図を主張されます。
もし、予算配分が競争の結果でなされるなら、その行く先は「富めるものは、ますます富み、貧しいものはますます貧しくなる」という、教育の格差社会です。
質の低いほうの公立学校にラベリングされた学校は、学校選択制度を導入すれば、今のたんなる評判状態にとどまっている現状を超えて、予算などの物理的な差別という、決定打を受けることになるでしょう。

もし、「低くラベリング付けされた学校は、競争原理が働き、改革のために努力して立ち上がり、向上することはあっても衰退することはない」と思ってる人がいたら、その人はまさに「教育現場に関わる生の人間(子供、親、教師)というものをまったくご存知ない」度素人ということです。
教室という限られた空間で、「多感」「成長期」の時期にある「多数」の「人間(子供)」を教育していくことがいかにたいへんか、知らない、あるいは知ろうとしない、浅はかな人間といってよいでしょう。

学校選択制度とバウチャー制度で、公立私立で競争させたところで、結局は本質軽視、要領重視の、目先のお手軽マニュアル化教育がすすみ、さらに生徒や親側からの学校選択だけでなく、本来選択される側であるはずの学校側のほうからも、何らかの形で生徒の選択(お前などウチにはいるなということなど)がでてくることも大いにありえるでしょう。

教育問題は、決して学校間の競争で解決できる問題ではありません。
公立、私立の一元競争にもちこんだところで、ただただ格差がひらいていくだけです。

結局、教育問題は、教育に関わるものの(親、教師、行政)考え方の根本をかえさせない限り、なかなか解決困難な問題といえます。
たとえば、学校がそもそも「公共の場」(公立、私立問わず)であり、そのためには最低限のルール(犯罪や、授業妨害などしない)を守る必要性を教えることは、家庭の役割でもあるでしょう。
学校を選択する前に、やるべきことはいくらでもあります。
現場の教師ばかり批判したところで、なんらの解決もできません。

考えても見てください。
自分ひとりの子供ですら、家庭できちんと教育することもけっこうたいへんです。
大人同士の中ですら、自分の部下と意思疎通をはかって仕事を教え進めていくことも、これまたたいへんなことは、お分かりでしょう。
40人近くの、まだ発展途上にある生徒を指導してしくことが、そう簡単でないことくらい、分かっていいはずです。
学校選択制や、バウチャー導入賛成の政治家など、今の学校で先生をやっても、考えていたことと現実の間のギャップで、3日ともたないでしょう。

学校選択制度、バウチャー制度について、多くの人に考えてほしいことは、何らかの選考の結果、評判の低い学校に行かざるををえなくなる生徒のことと、そのもたらす結果です。
入学したときから、生徒自身には帰責性はないのに、強烈に「ラベリング」された学校に行くことになるのです。
こういう生徒の、学校生活の形を考えてみてください。
私が生徒なら、いやですね。
そして、学校選択制度から生み出されるラベリングというハンデを背負った学校で、学校教育しなければならないことの困難さを。
私が先生なら、そういう学校で教えることになった場合かなりたいへんだなと思うでしょう。

こういうことを、考えてもみない、浅はかな人間が教育改革をうたう。
いつも思うのは、彼らの中にある人間はいつでも「抽象化」された人間の姿であって、そこでの人間は「競争」の中で「向上」していくという、シンプルなモデルです。

確かに、「競争」が「進歩」を生み出すこともあります。
しかし、それはそれに適した「分野」と「時期」、競争が最適な結果を生みだす前提となる「適切な条件(公平な競争環境など)」というものがあります。
教育の場合、競争原理はそう単純にあてはまるものではありません。

今の学校教育(ことに公立学校の)を、本気で立て直したいいのなら、次の点が重要です。

まずは、生徒以外の教育に関わるもの(親、教師、教育委員会や文部省などの行政、政治家、審議委など)が、まじめに等身大の教育の場の現状を知ることです。
どういう土地柄で、そこにはどういう(ものの考え方をする)生徒や親がいて、どういう教師、教育委員委員がいるか。
また、そこにはどういう人間関係があるか。

そのためには、まず文部省のお役人は、現実に教師として、通常の公立中学校に入省して早い時期に、最低3年(理想は6年・・・違うタイプの学校でそれぞれ一定期間教えることの可能な期間は3年+3年=6年だと思う)は現場にたつことです。
そして、そこで先生の立場から、生身の生徒や親、学校関係者を肌で知ることでしょう。
それを、わかってはじめて効果のあがる教育「政策」を「立案」できます。

さらに、生徒の親にも授業の現場に「先生」立場から何らかの形で参加させて、親に保護者の立場だけでなく、教師の視点ももってもらうことです。
教育にとって「現場百篇」はもっとも大事な原則です。

また、教師について言えば、教師間の「意思疎通」(横の連絡)をスムーズにやることです。
縦だけの(しかも意思疎通のない)連絡だけでは、何も対処できません。
もう少し、教師間で生身の人間の部分での付き合いをしていき、最低でもこれだけはといある種の「価値」(たとえば、犯罪的なものには、何があろうともごまかして対処しないというような)を共有していくことです。
そして、学校全体で問題を抱えている生徒や親に対しては、その共有した価値をもとに、ぶれない形で対応していくことだと思います。


最近の教育の現場みて思うのは、教師がだんだんものを「考えない」あるいは「考えさせてもらえない」環境にいるのではないかということです。
最近の現状を見ると、私は教師ではありませんが、想像はできます。
かなり、精神的にいろんな意味で追い詰められ、しんどい立場ではないかと思います。

メディアは学校が攻撃しやすいからと(なにしろ政治家と違い、反撃はほとんでで受けないですむから)、必要以上に学校を攻撃する場合も良く見かける現象です(もちろん、そうされてもやむをえない場合もありますが)。
教員免許の更新や君が代など、行政との間での問題でも精神的に追い詰められる。
これは、校長や教頭など管理職でも同じでしょう。
両方が、いっぱいいっぱいになって、その結果事なかれ主義に走る。

行政は私にすれば、行政の望む「ものを考えない、行政の言うがままに動く、機械的人間教師」をつくりたいようにしかみえません。
そういう社会の人間とは、「個人の尊厳」というものをもてない、相手にも「個人の尊厳」があるということを理解しない、劇場的感情(人情的ではない)優先型の人間です。

とにかく、今の生の教育現場を知る、あるいは知ろうとしない人間が、ごちゃごちゃ口を出しても、現場は混乱するだけで、結局は、生徒がそういう人間のたてたあさはかな計画の人身御供にされるだけです。

最近の経済雑誌を読んでいてあきれたのは、運動会を学校の父兄へのプレゼンにみたて、自分の子供の学校の運動会があまりちゃんとしていなかったことを、プレゼンに失敗しているようなものだと非難し、バウチャー制度導入などによる競争原理の必要性を説いていたことです。

この見方は、親の立場というものを、学校教育をあたかもサービスを受給する立場のみであるかのごとく、捉えています。
そこには、自らの「家庭教育」を省みる謙虚さもなければ、教育というものの「公的」意味を考える謙虚さもありません。
まるで、七並べのジョーカーのように「競争原理は」どこでも使えるものと言わんばかりの発想です。

しかし、レッセフェールは私に言わせればむしろ古い楽な発想です。
なにしろ「自己責任」ですむのですから、これほど「国」にとって楽な方策はないでしょう。
公的なものに不必要に競争を導入導入するなら、その結果生み出されるものは国が栄えて民滅ぶという結果です(米型社会を理想社会と考えるなら別ですが)。

私は、少なくともこういう弱者に配慮できない社会を「進歩」的な社会とはみとめません。
福祉国家は、現在でもあるべき資本主義社会の必須条件だと思います。
完全なる競争原理は、嗜好に関する製品をつくる企業の市場やマネーゲームなどの世界でやれば、十分です。

ましてや、子供の教育に関してはなによりも「物理的にも質的にも、できる限り平等な教育受けられる」ことが保障されるべきなのは、当然のことです。
そうでなければ、成人社会での競争原理が機能的に働く前提条件は、そもそも整っているとはいえないといっていいでしょう。

こういう点からみても、学校選択制度やバウチャーなるものは、希望の学校を選択できなかった子供に、責任もないのに負のラベリングを「自己責任」として負わせるしょうもない企画といえるでしょう。
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by phtk7161 | 2006-10-27 13:15

共謀罪について

法律というものは、なじみがない人にはこむずかしいし、中にはうっとおしくさえ思う人も多いでしょう。
でも、その法律が、実は人の日々の生活に直結してるんですよね。
場合によっては、法律は、生命さえ奪う力をもっているんです。
ひとつの法律によって、生活の糧が禁止の対象となり、経済的に打撃を受けるようなことは、自分には関係ないと思っていても、以外と身のまわりには少なくないのです。

内容次第で国民の「頼もしい味方」にもなるし「怖い暗殺者」(戦前の治安維持法、ナチスドイツ時はそうだった)にもなる。
怖いもんですよ。
法律ってのは。
だから、国民の方々、あなたがたも、「俺には関係ねえし」と、傍観者になってはいけないのです。
本当は、おかしな(危ない)法律を政府与党が作ったら、選挙民は、選挙でそういう党の議員に落選の「鉄槌」をくださなければならないんです。
それが、「主権者」である国民の役割でもあるのです。

で、今度の共謀罪。
これは、これまでの刑法の基本原則を根底からかえていくもので、かいつまんで簡単にいえば、犯罪の実行行為がなんら行われなくても、言葉にだしただけで「御用」とするものです。
考えていることを口にだした、ないしは口にだしていなくてもその場にいただけで、こいつは犯罪者と、まだな~んも行為は行われていないのに、その時点で「御用」とすることができる。
これが、共謀罪です。

「テロがどうたら」「暴力団がどうたら」「条約に批准したからどうたらと」と、政府はもっともらしい理由をつけているが(本当はそれすら、もっともらしくないんだけれども)、もともと今の刑法の運用の実態をみればそれは、まったく理由になってません。

だって、今だって別件逮捕は当たり前。
また、逮捕する必要のないケースでも、「住居侵入」「威力業務妨害」など、いろんな法律を駆使して、強引にこじつけ捕まえちゃうこともやっている。
ようするに、共謀罪なんぞなくとも、取り締まる側は、今の現行法で、やろとおもえば、結構やりたい放題やれるんですよね。
もちろん、テロ対策も、早い段階でいろんな法律使えば、現状でも十分対策は取れます。

条約批准の理由にしても、言いだしっぺのアメリカが「留保」つきにしてるんだから、「共謀罪」には国際会議ではじめは反対だった日本の立場からすれば、(このときの日本の担当者はまあ、健全な法感覚をもってたということでしょうかね・・・それに比べてその後の担当者は、困ったものです)、いまさら忠実に、留保もせずにこんな欠陥法に素直に応じる義務もないのです。

最近とみに思うのは、権力側にいる人間が権力(法律)のおそろしさを知らなせいか、それともわざとしらないふりしているのか、よくもまあ、こういう子供じみた、ナチスドイツや戦前の治安維持法的な法律に賛成するもんだなあということです。

北朝鮮の問題もあって、今の日本は完全に「思考停止」の状態で、拉致問題などは、今や政府が防衛をどんどんすすめるいくための、利用手段に思えてしまいます。
拉致の家族会の中にも、防衛問題と拉致問題は別次元といっている賢明な人もいますが、これは少数派で、家族会の多くの人はそうではなさそうです。
いまや「拉致問題」というのは、政府が何かやりたいときに、ここぞとばかりに国民にみせるための「印籠」のように使われるもの・・・これが実際のところではないのでしょうか。

拉致問題の解決を真に考えるなら、各国との「連携」が不可欠です。
目標とするところが、拉致された人の生命優先(帰国)を考えるなら、そのための「おとしどころ」を考えなくてはなりません。
そうでなくて、「敵を討ちの」心情を優先したいのなら、高レベルのきつい制裁、あるいは究極的には戦争ということになるでしょうが(その場合、拉致された人の生命の危険は高まるとは思います・・・それはそれでかまわないという人もいます・・・いいはずがありません)、そのことがどういう結果(うまく崩壊させたとして)をもたらすか、当然考慮にいれなくてはなりません。
「北朝鮮」をだせば、なんでもやりたい放題やっていいということではいけないのです。

今回の共謀罪も「北のテロの危険」とかをリンクさせて、政府側はいってくるでしょうが、先に述べたように、現行法でもテロは十分摘発できます。
できないとすれば、それは、日本の「公安」関係の組織がもともとから十分な能力(人材)をもってないだけのことです。

だから、そういうレベルの権力側に「共謀罪」何ぞ与えたら、その使い道は、せいぜい政府側にとって都合の悪いまっとうな意見を封じ込めのためだけで。
狙われるのは「安晋会」のような権力者側を応援する団体以外の、政府を批判する「労働組合」「市民団体」ということに。
肝心のテロ予防の機能なんぞは、作る前と同じ状態で、その危険は作る前となんらかわらないのです。

ま、自民と公明タッグチームは「か・か・か・か」と大喜びで、ライバル政党を応援する者を黙らすことができ大満足でしょうが。
でも、公明党は何のために与党にいるんでしょう。
いつも疑問に思います。
自民にいいように使われて。
公明党の側は利用するつもりになってるのかもしれませんが、客観的に見て、どうみてもいように利用されっぱなしでしょう。

選挙で自民に「助かった」といわれ、政党本来の政策をすてて、自分の政党と180度の政策を掲げる、政権党すりよることがそんなにうれしいことなんでしょうか。
学会員の人は、矛盾というものをかんじないんんでしょうか。
彼らが「思考停止」にあるとはお思えないんですがね。
でもやっぱり、ある種のマインドコントロールをされているのかな。

でもそういう人が、よろこんで自民党の候補に肩入れする結果、今度の補選のように与党候補が連勝する限り、日本版「ネオコン」が大いに跋扈し、日本は戦争へと大いに突き進むことになるでしょう。
その本格的はじまりが共謀罪の成立ということです。
ま、条約も関わってなかなかややこしい問題を含みながらも、裁判で法律の違憲性を争う余地はありますが・・・でも仮に無効になってもそうするのにはかなり時間がかかります。
それだけ、国民生活にとって、やっかいな法律、それが「共謀罪」ということです。
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by phtk7161 | 2006-10-23 18:25
最近、無責任な庶民感情というものが、メディアのなかで、あまりにまかり通っている気がする。
そこでは、「健全なる庶民感情」のなのもとに、事柄の問題点がきちんと把握されないまま、その場限りの感情論でものごとが進んでいている。
これは、ひじょうに危険な状況である。

もちろん、妥当な結論につながる庶民感情があることも、否定はしない。
たとえば危険運転致死罪(飲酒運転によるケースなども含めて)創設のケースがそうである。
これは、従来過失犯として扱われたものを、刑の重さを限りなく故意犯レベルにしたものである。
創設前の、交通事故に関わる一向に改善されない現実、また、車というものが、本来ひとつ間違えば簡単に人の生命を奪う凶器の側面を持つものであり、このことをあまりに軽視し、著しく軽はずみな行為により、重大事故を引きおこしたものの非難可能性の強さからみても、もっと厳罰が科せられるべきではないかとする庶民感情は、妥当でなものであると思う。
そして、この場合の庶民感情は、刑法本来の原則をくずすものではないし、その役割をゆがめるものでもない。

しかし率直にいって、多くの場合、現在の日本では、無責任なその場限りの庶民感情が、最近幅を利かせすぎである。
この種の庶民感情の形は、まずある解決していくべき課題に対して、その原因をある一箇所に求め、そこをひたすら叩けば解決できるとする形をとる。
対処法も、シンプルな万能薬的形を提示する。
その場限りの思考で、それまでの歴史的経験則から導かれた原理原則など簡単にけっとばす。
そこでは、たとえの表現も、あまりに軽薄である。
あるときは必要上に深刻に、あるときは面白半分に受けを狙って。

政治でいえば、郵政民営化の時が、そうである。
民営化反対のものは、庶民の苦しみをよそに日本の進歩的改革を邪魔する「悪」である、
これを叩けば日本は良くなると。
そこでは、外資に日本の資金が流失する問題、財投の決定権が大蔵省(今の財務省)にあることの責任、将来を完全にみすえたセキュリティー問題などはほとんど正面から論議されることはなかった。

社会事件のコメントでも、えらくおふざけ調が通っている。

たとえばみのもんたが、「痴漢はひれつだよねえ、外国には手を切っちゃう刑罰があるけど、痴漢やったものは手をきっちゃったほうがいいよ」テレビで発言する。
「痴漢なんかするやつは、どういったってかまやしない」という発想が彼の根底にあるからか、でなければ、その実な~んも考えてないのからのコメントか。
もちろん、彼としてはもっと痴漢を厳しく取り締まれということを彼なりの比喩でいたのかもしれないが、しかしたとえにしても、公共の発言としては、おそろしく幼稚である。
でも、これを聞いて「私たち庶民の感覚で、ずばっといってくれて、すっきりする」と思う人も、確かにいるのだろう。
でなければ、彼が画面にあれほど露出してるはずがない。

さらには、過失犯なのに、重大な結果を招いたひどい自動車事故のコメントで「こういう人間は死刑にすべきです」とのたまわったコメンテーターもいた(タレントコメンテーターーではない、いわゆる有識者風コメンテーターである)。
故意と過失の違いを考慮することなく、過失犯を死刑にできるなら、刑法の大原則を捨てることになる。
これはもはや文明国とはいえない。
そのことをふまえた、発言であろうか。
しかし、どうどうと、こういいきってしまう。
このコメンテーターは、これが健全なる庶民感情にかなうものと考えたのか。
ここまでくると、もはや何をかいわんやである。
しかし、まぎれもなくその種の考え・・・シンプルというなのその実何も考えていない、スカスカの考えが・・・場合によっては、ひとつの庶民的な見解として通ってしまう。

またメディアは、司会者、コメンテーターだけでなく、あるときは、インタビューの形で「善人」である庶民のコメントを、またあるときは、「世論調査」という形で、「善人」な「質問にきちんと答えた庶民」を登場させ、善良なる市民感情に沿うものとして、ある政策決定の流れをつくる。
しかし、そこでの調査による「世論」が本当に市民が本気で考えた場合の世論なのか、その正確性を担保する手段はなんら設けられていない。
そこでは、たとえ、アンケートの回答が矛盾した形になっていても、「健全なる庶民の意見」ということになる。
そしてそういうメディアに、多くの有権者が影響をうけ、選挙という形で行動が飽和状態に達したとき、見事な衆愚政治の完成である。

ある事柄に、意見をいうのはかまわない。
しかし、少なくとも価値のある意見を述べるとするなら、最低限ものごとの経緯や背景を知ったうえで、述べるべきではないか。
たんに、「おもしろさ」「すっきりさ」的な感情からだけで述べた意見は、健全な「庶民感情」というべきではない。
専門家でなくても、経緯や背景を知り(細部の事柄ではなく、何が本質的な問題点か理解するために)問題点を把握し、その結果自ら考えた意見であってはじめて、「健全なる庶民感情」なるものの存在価値は、あるといえよう。

もっとも、この種の知るための準備作業に、日々忙しい多くの国民は、現実には時間を割くことは困難である。
したがって、そのためのフォローとして、メディアが存在するのである。
ある事柄に対して、正確な問題分析と争点、その解決の複数の策を提示し、国民にまじめに考えてもらい「健全な庶民感情」を培ってもらうことこそ、メディア本来の役割である。
しかし、今のメディアの中心ともいえるテレビは、ほとんどこの点では機能していないといえる(民放は特に視聴率主義の中で絶望的である)だろう。

一方で、国の根幹に関わる問題は山積である(北朝鮮問題、憲法改正問題、教育基本法の改正、共謀罪、年金、集団的自衛権etc)。
次の参議院選まで、そう時間もあるわけではない。
選挙の結果次第では、国の方向性は翼賛的に一挙に進むだろう。
となると、やはり今は国民自身が、ネットや出版ものなどを通じて、問題の本質を知っていく努力をするしかないのではないか。
まだまだ、それを提供してくれている出版物も数多くあるし、ネット(ブログなど)なども数多くあろう。
今はこれらを通じて、国民が一人でも「健全な庶民感情」を培い、真面目な政策論争が選挙でおこなわれるとを、願わくば期待したいと思う。
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by phtk7161 | 2006-10-16 11:51
戦後、平和主義の憲法もとで、日本の防衛組織は、警察予備隊から保安隊そして自衛隊へと、その名称はかえられてきた。
その経緯では、その活動の幅に変化がいくらかはあっても、専守防衛的形は維持されてきたといってよい。
PKOであっても、国連を通じた維持活動であって、有志国の枠でおこなわれたものではなかった。

最近、憲法改正が叫ばれるなか、今の自衛隊が防衛軍という形で軍隊として明記されようしている。
この論議をめぐる中で、私が気になるのは、もっぱらその論点が、対外的な問題(他国の攻撃から身を守るための方策)のために、自衛隊をどうするかの点ばかりに集中し、軍隊の持つ対内的な(内政的な問題)がほとんどなされていない点だ。

長い歴史的経緯からみても、日本に限らず、軍による政治介入やさらにはその暴走により、避けた戦争に、突入することになった例は、歴史上数多くある。
いあわゆるシビリアンコントロール(文民統制)は、立憲民主主義国家には不可欠な要素であると私は考えるが、しかし現在でも、民主的政治を掲げつつ、裏では実質軍隊が政治に相当な影響をおよぼしている国が数多く存在しているの現実である。
自由主義を標榜し、民主国家を世界にと高々に宣言しているあのすばらしきアメリカでさえ、軍産複合体的なものに政治がふりまわされているといってもいいであろう。

シビリアンコントロールが、法(憲法)的には形式上はかれることになっているとしても、事実上、軍隊組織の規模や物理力(軍事力)、そしてそれに関わる経済性が高ければ高いほど、軍の政治への発言力は高まり、実質上のシビリアンコントロールが利かなくなる傾向は否定しがたい事実である。
これは当たり前で、単純に考えてみても、武器を合法的にもてる組織が、もたない人間に刃を向ければ、向けられた人間がどう正論で対抗しようが、ひとたまりもない。
だからこそ、刃を合法的にもてる組織をどういう仕組みで縛っていくかは、現行法(憲法)をかえて軍隊を正面から認めようとするときは重要不可欠な課題である。

憲法9条の改正、防衛に関わる現行法の改正、解釈の拡大に関して、もっとも防衛に力を将来的にもつであろう(現在でもかなりだけれども)議員は、石破議員(元防衛庁長官)であろう。久間防衛庁長官も力を持っているが、私は彼は防衛庁の中でも事務系に近い存在と思う。
それに対して、石破議員は、かなり制服組(実働部隊)に近い議員である。

彼のことで、気になるのは、「制服組も政治的発言を大いにすべきと」いったり、「私は自衛隊を員を信頼している」、「徴兵制は現憲法でも可能だ」(もっとも今現在は徴兵制採用しても一般人は戦力としてはむしろマイナスだから、いまは採用しないのとべてはいるが)という発言からかいまみえる人物像だ。

彼はタカ派議員の中では、数少ない、法的整合性(法的思考はそれなりにとりいれて)は重視して意見を述べる議員である。
考えとしては反対の立場である私も、この点については彼を評価している(もちろん、法的見解には反対だが)。
立法機関の議員でありながら、これができない議員のなんと多いことか。
憲法改正を叫びながら、今の憲法すらまともに理解していない(それどころかどういう条文があることすらしらない)議員という名の先生方が、冗談ではなく憲法論議加わっているのがまぎれもない現実である。
それに比べれば、かれはまだ立法議員の資格はあるといえよう。
問題は、彼が軍隊の政治に対する影響力をほとんど意識していない点だ。
軍というものにシンパシーをあまりにだきすぎである。

法(憲法)の役割は、いうまでもないことだが、暴走しがちな権力をいかに縛っていくかにある。
そこでは、性善説でものごとを決めない仕組みになっている。
だからこその権力分立である。
個人的にあるものを信頼する自体は、一概に悪いことではない。
しかし、行政(軍隊)の監視役を担う立場の人物がそれでは困る。
組織の監視役の責任も持つものは、手ばなしに組織を信頼すべきではない。
手ばなしで人や組織を疑わずに信頼することが、よい人間といえるかは、ものごとによってである。
シビリアンコントロールを果たすべき役割の人間が、組織をシンパシー的に信頼するだけなら、それは単に自分の役割に無責任なだけである。
性善説にたつことなく、シビアに文民統制の観点から暴走を防ぐシステムを図っていくことは、防衛問題に関わる議員の、重要な使命でもある。

議員あるいは行政の人間として、文民の立場で防衛に関わる者は、軍隊の対外的役割、ことに交戦時のことばかりに力を注ぐのではなく、軍事組織が政治的に介入しないことにも、同時に力を注がなければならない。
政治に携わるもものが、それを怠ったとき、簡単に立憲民主主義国家は崩壊することになる。

世界の多くの国で、軍隊に関わる組織が政治大きな影響力を持っいることはまぎれもない事実である。
それらの国に比べれば、今の日本は(まだ今現在は)まだそれなりにシビリアンがきいている。
そんななかで、軍隊(特に制服組)に、形式上はともかく実質的に政治的力をもたせる抜け穴につながるような憲法改正を目指すのなら、憲法改正などすべきではない。
ましてや、今現在において、シビリアンコントロールをはたしていくべき人間が、積極的にむしろそれを放棄することにつながるような発言をけしかけることは、論外である。

とにかく重要なことは、ある組織にそれまで以上の力を持たせることをめざすなら、その力を好き勝手に使わせないことも、同時に考えていかなければならないということである。
これは、物理的力を持つ組織をかえていくときには、避けて通れない問題である。
民主国家においては、国家の内政が、軍産複合体の意向にひっぱられて政治が利害関係で一心同体になったときが、その国はもっとも危険な状態にある。
それが、イラク戦争時のアメリカである。
防衛問題において、そうならないようにすることが、政治の重要な役割といえよう。
それを踏まえて、今の自衛隊を本当にかえていくべきか(行動の範囲の問題も含めて)、その観点も含め憲法改正(9条)の問題も論議されるべきであると思う。
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by phtk7161 | 2006-10-13 17:27
昨今の、日本の政治における最大の問題点は、ものごとを決定する過程での、その思考のやりかたにある。
そこでは、物事の決定思考が、○か×かの2者択一式である。
これは、政治的意思決定の方法としては、もっとも愚かな思考法であるといえよう。

政治はそもそも、数学的論理でやれるものではない。
政治の本質は、過去の歴史から経験則をみにつけ、それをふまえたうえで、多様な意見のもとに、いい意味での妥協的案を見出していくことにある。
それがない政治は、たんなる原始的な物理力のみのバイキング型政治に堕するだけである。
立憲民主主義制度に参加する国民は、少なくともこのことは理解しておく必要がある。

政治にスーパーマンやジャンヌダルク的ヒローを求めることは、常に危険がつきまとう。
一人の政治家によって、彼が常に正解をだせるとしたら、それはまさに彼が神であったときだけだ(もっとも、ギリシャ神話においては、その神も感情的決定をなすこともある)。

今の現代社会において、もっとも求められるべき政治家像は、多様な意見を合理的方法でなるべく迅速に把握し、妥当な妥協案(おとしどころ)を決定していく能力である。
これができない政治家がふえれば、核がはびこる今の状況では、いずれはどこかでまた大戦がおき、結局焼け野原の結論をだすことになろう。

アメリカは北朝鮮の核実験にさいして、「同盟国を守るためなら」という表現を使った。
今のアメリカの頭には、国連はもはや二の次であって、国連とは別の、同盟国(有志連合)による同盟国のための、その実アメリカ国益最優先のための、国連構築の構想があると思われる。
派閥ができることは、どの世界でも当たり前のことだし(三人よれば派閥ができる)、それ自体はさして悪いことではないが、同盟国という名の派閥の親分が暴走してしまうと(少なくともイラクはそうであった)他国は巻き込まれるだけで、一方的に自国の運命をあずける事態になってしまうだけある。
そこでは、他の国には自国の利益もへったくれもない。

今のタカ派的日本の政治家は、日本がアメリカの意向に沿ってアジア領域の軍事的先発隊になることに、ある種の感慨(親分にほめられてよろこぶ子分)をもつ人物が多いように思える。

少し前まで、戦後の日本の政治家は、アメリカは同盟国(子分的立場であることは認識しつつも)といいつつ、いい意味での曖昧さを駆使して、軍事的トラブルを避け、経済政策を優先し、国民の生命安全を図ることを行ってきた。
日本の歴史的経緯、地理的立場からみても、そのことは最善ではないとしても、少なくとも間違った政策ではなかったといえる。
そこでは、先に述べた、いい意味でのおとしどころを、見つける努力がおこなわれていたといえよう。

そのことから考えると、昨今のタカ派政治家は「軍事ごっこ」の危険なお遊びに手を染めすぎている。
テレビのヒーローもの、戦争ドラマ、あるいは育った極端な家庭環境などに影響された戦後政治家、そうでなければ、はたまた戦争にいくつもりが、途中で戦争が終了し、はしごをはずされた、燃えカスの野残った軍国少年的政治家。
彼らが、タカ派政治家の典型的なものである。
彼らに、おとしどころを心得た、優れた政治家の要素はもとめるべくもない。

9・11後のアメリカは、間違いなく壊れている。
イラク戦争の反省もあり、いくらか戻りつつあるが、少なくともネオコン的人物が、政治の表舞台からは去らない限り、まともさを取り戻したとはいえない。
そのことを踏まえ、アメリカが今現在どういう質の国家なのかきちんと把握しないまま、日本が集団的自衛権を認めることになるなら、日本は戦争という大きな危険へ一歩ふみだすことになるであろう。

今世界で、人種や宗教、あるいは政治思想に起因する戦争が頻発している。
この問題の解決するには、物理的「力」だけではなしえない(イラクはまさにそれを証明したし、パレスチナ問題もまたしかりである)ことを私たちは認識すべきである。
それを解決するのは、○×的な100パーセントの結論ではなく、多様な意見をつき合わせより良く練られた、妥協的70パーセントの結論である。
それが、現代の政治のあるべき姿である。
そして、それができる能力こそが、今の政治家にもっとも求められるべきものであると思う。
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by phtk7161 | 2006-10-12 10:26
昨日北朝鮮で核の実験が行われたようだ。
日本も新たな経済制裁などの動きをすると思われる。
ただ、正直いって、日本としては核抑制に効果があげられるような手段はあまりないのが現実だと思う。
北朝鮮はアメリカしかこの問題の相手としてみなしていないからだ。

日本の国民が理解するべきことは、いくら日本だけで「悪の北朝鮮をこらしめろ」といってみても北朝鮮問題にかかわる他の韓国、中国、ロシア、アメリカが連携した動きでなければ、国内での自己満足で終わってしまうということ。

安倍慎三首相は北朝鮮の核実験後の記者会見では、生き生きした目だった。
これが怖い。
もしこの問題で、彼が正義のヒーロー的ノスタルジーにひたって動きをするなら、かなり防衛問題にリンクさせて、強引な動きをすることもありうるだろう。
しかし、この問題で重要なことは、「どう国民の生命を守るか」ということであり、いたずらに危機意識をあおりたて、国民を戦争不可避のような錯覚に陥らせてはならない。
何が問題のポイントか理解し、どういう解決がよいか、そのための妥当な手段を考えていくのが重要である。

そもそも、北朝鮮の動きに拍車がかかったのは、イラク戦争が大きな原因だと思う。
先制攻撃的自衛権とやらの「イラク侵略」があったために、北朝鮮のような独裁国家は「核をもたなければやられる」と思いに強く拍車がかかった。
さらに、アメリカの金融制裁。
その結果の、核実験ともいえるだろう。
したがって、この問題の一番のポイントはやはりアメリカである。

北朝鮮はまともな経済政策ももたない幼稚な国家だが、プライドだけは高い。
こういう国家の扱いは確かに難しい。
仮に崩壊(軍事的手段によるよらないにかかわらず)させることができたとしても、北朝鮮の問題はむしろそこらが、本番だといえる。
北朝鮮国家の再建のために、経済的な問題や難民の問題は避けて通れない。
日本も相当の費用の負担と、在日の人がすでにいる以上、かなりの難民、移民の受け入れをもとめられるだろう。

そうなったとき、日本はどうするのか。
中国、韓国、ロシアなどは、崩壊後のありかたが、各自の国家に大きな影響をあたえるために、この問題で慎重な動きをとっている。
これは、ことが隣接している国家の問題である以上当然のことといえよう。
日本にとっても、当然今範疇に入れておくべき問題のはずである。
この問題意識をもたずに北朝鮮の問題を考えても、意味がない。
しかし日本の多くの政治家は「たおせ、こらしめろ」だけが眼中にあって、その先のことをあまり意識していないようにみうけられる。

アメリカは、自国にミサイルが届くことも考えてはいるだろうが、そうだとしても国家間はかなり離れているわけだから、崩壊後の面倒は先の国ほどではない。
ある意味軍事力の行使はわりと「やってもかまわない」的立場である。
ただ、イラク、アフガン問題が苦戦し、パレスチナ問題も混迷をふかめているだけに今北朝鮮をやるのは「めんどくせえな」といったとこだろう。
その程度である。

安倍政権は、この問題にはどうも、アメリカの軍事力にすべてたよって、その点から処理していこうという発想が、その中心を占めてるようにおもわれる。
それに乗じて、国内の防衛力を整備し、本格的軍隊をつくっちまおうという意図は大いにあるだろう。
しかし、すべてアメリカとともにでいいのか。
そのプランにのっかって軍事攻撃した場合の過程ではどういうマイナス(生命、財産)がありうるのか。
崩壊後はどうするのか。
もっと多角的に考えていくべき問題である。
選択肢をせばめることは、もっとも愚かなことだと思う。
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by phtk7161 | 2006-10-10 11:52