社会問題を考える


by phtk7161
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いよいよ、今年もあと一週間。
時のたつのは、はやいものです。
昨日はクリスマスイブで、楽しく過ごされて方もいらっしゃるでしょうし、それどころでない方もいらっしゃるでしょう。
最近はとんと、民放メディアを見る機会はへりました。
ニュースはNHK中心で、番組がそのニュースをなぜとりあげるのか吟味しつつ見ています。
ようするに、ニュース番組が政権に媚へつらっていないか、それを考えつつということです。
受信料はこれまでちゃんと払い続けてきてます。
でも今後NHKが政権のチェックができず、もしヨイショ的なことをすれば、銀行にいって口座振替停止の措置をする気はいつでもあります。

もっとも、民放的スポンサーのつかない(電通的ものでない)形の、国民の受信料をもとにやっていく放送局の存在は、私はもともと必要だと思ってます。
だから、放送命令など気にせず、例え総務省で相手でも時には戦って、情報伝達の必要性をむねとして、ちゃんと国民に大事な情報を提供してほしい。
それをNHKには期待したい。
それが、またメディアの役目でもあります。

で、昨日のクリスマスイブ。
昨日はほとんどテレビをみてないので、よくわかりませんが、世の中どういうクリスマスイブだったのでしょうか。
楽しいクリスマスイブを過ごせる一方で、それどころでない人もいる。
ひとつの見方だけでなく、違う方面にも目をくばる、これは物事を考えるとき重要なことです。

小泉ブーム以降、世の中にはどうも一方的な見方だけで処理しようとする風潮が目立ちます。
おりしも教育再生会議の座長である野依氏が「普通の人塾禁止」発言をしたとの報道がなされています。
私も「塾」のありかたに疑問を覚えるときもありますが、彼ほど単純には考えません。
おそらく、彼は今の勉強のあり方が試験的ノウハウに走る弊害を捉えてのものだと思われます。
「自ら考えようとしなくなる」「こんな学問のありかたでは真に優秀な人材は育たないから」「ついていけない人のみ補助する形で、塾は十分」。
彼の言い分は、そんなところでしょう。

でも今回の彼の提言も、昨今の教育審議会で良く見られる、飲み屋的発言のレベルとあまりかわりません。
試験的ノウハウの問題は、それはたとえば大学側も所詮そのレベルの問題しか出題できていないのも、その一因であります。
自らの頭で考えないと解けない問題作り。
もっと本質をつくような問題作りを大学側が出題できるのなら、対策を立てる側ももっと物事の本質を理解させる勉強をさせるようになるでしょう。
今の大学の試験作りでは、それができてません。
予備校に、自らの学校の入試問題の作成すら任せる大学もある。
これでは、駄目でしょう。
そういう意味では、彼の立場側(大学)の責任も大きいのです。

大学のありかたでいえば、大学が大学の権威的ものに寄りかかりすぎてきた問題点もあります。
ちゃんとした文章すら書けない教授が、その権威によりかかりもっと本質を分かりやすく理解させようとする努力をしない。
「俺の本を理解できないやつは、そいつのレベルが低い」とばかりに威張ったまま。
そういう弊害もある意味あったため、塾や予備校、はたまた国家試験の予備校ばやりがおきたともいえましょう。
いやしくも教育者たるもの、賢明に理解しようとしている相手がいれば、そのための努力はしなければなりません。
それをせず、研究者教授のみに専念するなら、生徒への教授の報酬はもらうべきではないのです

塾や予備校はもちろん弊害もありますが、しかしもしこういう存在がなければ、受験や資格試験ものに対しては、明らかに有名校が有利になります。
なぜなら、難しい受験ほど、有名校に情報が集まりやすくなるからです。
合格したOBが多ければ、試験的ノウハウ情報もあつまりやすくなる。
これは、東大、京大とて例外でありません。
その結果、合格に必要な情報に触れられる人間は、限られる。
ある意味で、これは不公平な状態です。
そこを是正していくことに、塾や予備校が一役かったのも事実でしょう。

こういうふうに、塾や予備校のマイナス面とプラス面、あるいは大学の中身のない権威的なあり方など、あらゆる面を考察した上で、野依氏は「普通の子は塾禁止」発言をされたのか。
何度も言いますが、飲み屋でなら短絡発言もかまいませんが、公式の場で国の政策に関わる提言をするなら、あらゆる角度から物事を吟味したうえで発言しなければなりません。
それができない人間は、教育審議会的なものに関わってはいけないのです。

大体「普通の子」とはどういう子をさすのでしょうか。
彼自身も、定義できないのではないかと思います。
今回の再生会議の一番大きな欠点は、家庭のモデル像をひとつの形だけでしか捉えておらず、あらゆる家庭のモデル像に適用できる「共有哲学」を導こうとする能力が、この会議にないことです。
そのため、思い付き的な飲み屋発言がどびかう。
彼らのお車代は完全な税金の無駄使いでしょう。

とにかく、これからはもっと地に足がついた政策を望みたいと切に願います。
たとえば「談合」の問題もそうです。
確かに談合は、完全市場競争での合理的価格向上の妨げとなるかもしれません。
しかしはたして、「建設」的産業は完全市場に適する産業なのか。
完全市場をやって、合理的価格というなの、その実無理した価格設定がかえって安全性の低下につながったり、価格競争の結果が将来的に少数企業による独占の弊害につながらないのか、そういう点まで考えなければなりません。
「談合罪」で摘発すれば、すばらしい建設産業界ができると単純に考えてはいけないのです。

世の中が一様でない以上、諸事情を分かったうえで総合的勘案力により、少しでもバランスの取れた妥当な結論を見つけようとしていく、そこに政治の真骨頂があります。
最近は完全にこの点を無視した、飲み屋的思い込みの政治(政策提言含む)が、国の公式政策の場で跋扈しすぎです。
この発想が続くなら、間違いなくそこの浅い薄っぺらな社会ができあがってしまうでしょう。
そういう意味では、お子ちゃま的、飲み屋的発言を政治システムに取り入れることは、そろそろ終わりにすべきです。
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by phtk7161 | 2006-12-25 04:24
教育基本法の改正法が成立した。
これは、憲法改正への布石にすぎないが、国の方向は自由に関する人権(制限)に対して、間違いなくある意味大きな政府の方へと向かっている。
経済が小さな政府へ向かっていることもあわせて考えるなら、このまま進めば、「国は金は出さないが、権力はもっと強める」「国としての義務は少なく、権利は多く」という政府ができあがることになるだろう。

ところで、今の危うい現状をつくりだした大きな原因は、前回の衆院選挙で小泉ブームにのり安易に投票してしまった有権者と、今の選挙区制のシステムにあると思う。
ブームにって安易に与党に投票した有権者は、衆院で3分の2与党にとらせることがいかに危険なことか、あまりにも認識が薄い。
そのことに対する有権者の帰責性は大きい。

選挙区制度のあり方も大きな問題があった。
先の選挙での与党と野党の投票比率は55対45(正確な数字ではもっと接近していたかもしれない・・・いずれにしても、これ以上は開いていない・・・最大幅でみてだ)だった。
おおよそ6対5ないしは5対4の比率である。
なのに、議席数は2対1(=6対3)では、民意が正確には反映されているとはとてもいえない。
これは、迅速性を重視する政党的要素を加えた小選挙区の利点を踏まえても、許容できないレベルといえよう。

先の衆院選では先に述べた有権者で、それまでほとんど選挙に行ったことのなかった有権者がブーム的に選挙に行き(まじめに選挙にいくなら、それはもちろんよいことだけれど)、政府与党に投票した人の割合がかなり多かったといわれる。
そして、そのことが、各選挙区の当確ぎりぎりの線での決着に、面白いように各小選挙区で与党に当選効果をあたえてしまった。

与党が3分の2とれば、世論さえ無視すれば(気にしなければ)それこそ何でもやり放題。
翼賛体制的な動きさえ可能だといえる。
最近の例をあげてもそれは見て取れる。
今まで憲法を踏まえればやるべきではないこと、常識外であったことが簡単に行われている。

たとえば、NHKに対する放送命令もそのひとつだろう。
拉致は確かに重要な問題だが、だからといって政府が放送局に特定の放送をするよう、強制的に命令を出せるとするなら、それは「平壌放送」的ものといえる。
拉致問題と放送の自由の問題は別次元の問題であって、どちらを優先させるべきかという問題ではない。

拉致問題だからといって、これを水戸黄門の「印籠」につかい、憲法を軽々に無視するようなことが認められていいはずがないのだが、今の政府は3分の2もっている強みからか、以前では考えられなかった暴走が目立つ。
タウンミーティングの問題が明らかになりながら、強行採決した与党の動きにしてもそうであろう。
与党が「理」を捨て「数」だけで強引に押し通していく傾向は、このままではますます強まっていくと思われる。

こうした、現在の危機を脱するために必要なことは、なんといっても来年の参議院選挙での野党に勝利に尽きる。
野党は、ここでなんとしても参議院議員の過半数(非改選数も含めて)を取る必要がある。
法案を参院で否決しても、衆院で3分の2あればその法案は成立するけれども、現実の国会期日を考えると、物理的にはそう簡単に法案成立とはいかない。

参議院で過半数とれれば、今ほど政府与党は暴走行為はできない。
そしてこの暴走行為を止めることが現実に可能なのもまた、選挙での有権者の民意である。
もしそれができなかったときは、それぞれの国民が自由を当たり前のように(水と安全はただ的に)謳歌できた(もちろん戦前との相対的意味でだが)生活は終わりをつげることになる。

安倍首相や森元首相、そしてその仲間たちの考えている憲法スタイルは、ある意味旧憲法に近い観念である。
そこでは、ある種の選民思想が前提となっている。
三浦朱門的に、国民を優れた人間と優れていない人間(世襲的ものもそこでは当然優れた要素にはいる)にわけ、優れていない人間は、優れた人間のじゃまをしないように(口をださない・・・言われたとおりにするだけ)して生活すべきとする国家観である。

それを、多くの国民は望ましいとするなら、私ももはや何も言わない。
ただ、そういう国民には、いまの「日本国憲法」はもったいなさすぎる。
すぐれたすばらしい機械があるのに、その説明書をちゃんと読むこともできず、使いこなせないのなら、それはただのオブジェである(オブジェですらないか)。
使いこなせないのなら、日本国民はとっとと今の日本国憲法をすててもっと質の悪い憲法にかえるべきであろう。
それが、お似合いだと思う。

いつまでも、キャリアの上級公務員や世襲の議員の不祥事には「あの人たちは別世界の方たちだから、経済的に恵まれていても仕方がない」とし、ほとんど実際の権力を持たない末端(下という意味ではない・・・便宜上の言葉)の公務員には、「あいつら、俺たちと同じレベルの人間のくせに安定した生活しやがって生意気だ。金なんてもらうな。」として、やっかんで小泉ブームの時のように投票するのもいいだろう
・・・(そりゃ、いじめが子供の世界でなくならないのも当たり前だ。大人の社会がこうなのだから)。

ところで、現憲法下では主権でなく象徴である現天皇は、憲法を軽視する議員や国民と違って、見事なまでに今の日本国憲法を理解され、時に現憲法を尊重する発言をされる。
米長氏が「国旗国家を尊重するよう教育委員の仕事にまい進している」と述べたのに対して「無理やりはいけませんよ」と述べられたのもそうであろう。

天皇の非政治性からすれば問題発言かもしれないが、それでも現天皇の発言の方向性は今の憲法をちゃんと理解されていることを示している。
おそらく、皇太子もそうであろう(次男は分からない・・・いくらかあやういうように思う)。

自由は当たり前ではない。
長い歴史の中で、多くの犠牲をはらって、ようやく勝ち得たものである。
自由は他の個人の尊厳も尊重しつつ行使しなければならない。
しかし、国家のために自由を放棄する必要はない。

権力(国家)は大きく力を持たすと暴走する。
それを(政府)監視するのが、憲法のもっとも重要な役目である。
それができないとき、ヒットラー政権下のドイツややスターリン政権下のソ連、あるいは北朝鮮のような国家が誕生する。
そのことを安易に考えるとすぐにそうなる。
衆愚とはまさにそのことを意味する。

これらのことは、歴史が証明している。
個々の人格の尊厳や自由を確保する社会にしたいのなら、国民個人が自らの手でそういう社会を守ろうとしなければならない。
そしてそれを可能なものにするのが、来年の参議院選挙だといえるだろう。
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by phtk7161 | 2006-12-18 19:01
教育再生会議でだされている教育改革の意見(発案)が、次々と新聞などで報道されている。
読むたびに、もちろんすべての意見がというわけではないが、メディアなどで取り上げられる多くのものには、ハア~アッとため息が出てしまう。
こういう意見が、とかくシンプルに○×的に物事を考えがちな若い世代(20代)からでたものなら、まだ無理もないかとも思う。
しかし、かなり安直といえる意見を述べているのが、本来人生経験豊富なはずの世代だから困ってしまう(情けない)。

見聞するところによれば、資生堂の社長である池田さんが、会議で積極的に意見をだしているらしい。
教育改革に関する彼の考え方の間違ってるところは、企業原理がそのまま教育の世界で通用すると思っていることだ(この発想は彼に限らない・・・えてして企業経営者は教育問題に関してこういう単純な発想をする人間が多いと思う)。

(資生堂の)企業の社員は、その根底に自らの生計の経済的理由もあるからこそ、池田さんの考えに(指導に)従うのである。
学校の生徒は、教師の指導に従ったところで経済的恩恵にあずかれるわけではない。
極論ではあるが、経済的恩恵を受けられるのなら(お金がもらえるのなら)指導に従う生徒も多くなるだろう。
もちろん、教育はそういう形態をとるべきではないし、そもそもそういう性質のものでもない。
よりよい社会を実現する糧としての、個々の人格を発展させるために(もちろん他人との人権的調和を踏まえうえで)教育は必要なのである。

教員の指導力が問われている。
もちろん、問題のある先生もいることも否定しない。
しかし、社会人を安易に教員にしたところで、生徒に対する指導力がそう簡単に発揮できるものでもない。
生徒と教師の間には、経済的に密接なつながりはないからである。
上司が部下に指導力を発揮できるのも、根底に生計維持のための経済的つながりがあるからであって、教育現場ではこの論理は通用しない。
そういうところが、池田氏にはわかっていない。

もっといわせてもらうなら、今の教育の荒廃の原因のひとつに、企業が子供(学生)をまともに消費者の対象として相手にしたことも大きな一因だと思う。
携帯電話しかり、ファッション的なものしかり。
資生堂も、もし学生が企業のファッション戦略の影響から離れて、大人になるまで、資生堂の商品を買わなくなれば、困るだろう。
ある意味で、企業が子供からも商品を買ってもらい(購買層のターゲットとして子供もその対象にし)企業が潤う一方で、そのぶん教育現場での指導はますます難しくなっているといっていい。
その意味では、教師の質ばかりが今の教育の大きな問題ではないのである。

嗜好的楽しみは、ある意味では自由主義には不可欠なものである。
ファッションを楽しめる社会はいい社会だし、それでこその自由である(表現の自由ほど自由主義のかなめ的ものではないにしても)。
ただ、子供が大人的世界(ファッションなどある種の嗜好的なもの)に近づけば近づくほど、教育現場では生徒を指導しにくくなってしまうこともまた現実である。
化粧はする、携帯電話は頻繁にかける、挙句の果てには「世の中金がすべて的な援助交際」的ものに、大人のほうも相手が子供もわかっていながら、そういうことをすればするほど、そういう影響をうけた子供に対して、教員が指導力を発揮しようとしても、それはますます困難になっていく。

教育問題にまじめに取り組もうとする人間には、精神的にはまだまだ子供なのに(未熟なのに)行動は大人的レベルのことをしたがる(あるいは実際にやっている)子供を教育することの困難さを、ちゃんと認識してほしい。
そうでなければ、教育再生的なメンバーのやっていることは、今の拝金主義的な社会の影響を受けた教育現場の荒廃の責任を、自分たちのことは棚にあげただただ教員の指導力に押し付けている(尻拭いさせている)にすぎない。
資生堂を含めて、今の企業の戦略が教育現場の荒廃の一因になっていることも、いい年した社会人ならば理解しておくべきである。

その昔、マリーアントワネットは餓えのために抗議する人たちの集団を見て「あの人たちは何を騒いでいるの」と従者に聞き、従者が「パン(食べ物を)をよこせといいっているのです」といったところ、「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」といったといわれている。
これは、物事の根底の原因をしらず安易な発想をしてしまうことの愚かしさをあらわすひとつのエピソードであるが、今の教育再生会議の出す案も、それに近いものがある。

池田さんに言いたいのは、教員のことをヤンヤ言う前に、発展途上にある多感な時期の子供を、企業の経済戦略にまともに巻き込んでいることに教育上の問題はないか(資生堂のファッション戦略も含めて)、あるいは経済的恩恵を受ける関係にない教員と生徒の関係に、果たして企業論理の管理システム的ものが当てはまるのか(優秀な経済人=優秀な教員となりうるのか)そういうことををまじめに見据えて考えたことはあるのかということである。

企業ものありかたも、教育問題に大きなマイナス面を与えているのである。
そのことを、企業人たる彼も認識しておかなければならない。
教育再生の話はそれからである。
そういうところを見据えないで、単純な発案を続けるなら、それは「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」的発想にすぎない。

そういう意味では、今の教育改革に関する諮問会議的の意見は安易すぎる。
レッセフェール(競争原理を根底においている自由放任主義)は教育にはなじまないことを、彼らには肝に銘じていてほしいと思う。
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by phtk7161 | 2006-12-12 01:28
今日はロシアがらみの事件ついて。

ロシアがらみで、暗殺(未遂も含め)と思える事件が連続して起こっている。
ロシアのジャーナリストであったアイポリトコフススカヤさん、リトビネンコ元保安局中佐、ガイダル元副首相(幸い未遂で命は助かった)と、プーチン政権に都合の悪い人物が次々と狙われている。
この一連の事件とは関係ないが、日本がらみでいえば、少し前漁船の銃撃事件があった。

こうした一連の動きをみて思うことは、最近のロシアがある一線を越えて国の体質がどうもかなり「暴力」的体質になりつつあるということだ。
プーチン自身がKGB出身だし、今回の一連の動きはありがちなことと思う人もいるかもしれないが、しかし今回の動きが彼 (ないしは彼に近い人物) なりに「計算」されていたとしても、あまりにも露骨で、その行為のセンス(言葉として適当でないかもしれないが)の悪さには驚く。

イギリスでは国際的スキャンダルがらみの、おかしな死亡事件はしばしばおこる。

たとえば、BCCI(バンクオブクレジットコマスインターナショナル)がらみの事件・・・BCCIスキャンダルの鍵を握る人物が橋の下で、外形上は首をつって自殺にみえたその実暗殺されたであろう事件・・・などもそうであろう。

だから、イギリスの中佐の事件など、諜報活動の世界では、別に驚くほどのことではないとする見方もあろう。

しかしそうであっても、今回の一連の事件は、いかにもセンスが悪い。
ある種のいい意味での先進国的プライドを考えない、スパイ体質的匂いを世界の表面にだしてしまった極めて「ダサすぎる」(表現不適当は承知であえて)行為である。
いい意味のプライドがあるなら、普通はここまで表にでる形ではやらない。
ある種の一線を越えている(あるいは超えつつある)気がする。

9・11をアルカイーダが起こす前のことであるが、アルカイーダはアフガンで仏像を壊すという行為に出ている。
宗教を根底とした象徴的(文化的)ものを壊すという行為は、たとえ宗教的違いがあるにせよ、それは一線を越えた「暴挙」といっていい。
それは、思想や宗教の違いだけでは説明できない、壊れた集団の「カルト」的行為の萌芽といえるであろう。

ものごとには、たとえそれが犯罪行為であっても、その世界なりに、まともな範囲というものがある。
それが、一見ささいにみえる行為であっても、ある一線を超えまともな範囲でない行為をやりだしたときは、その行為をおこなった団体や組織あるいは国家は、ある種の「危険信号」(萌芽)をだしているといっていい。

そしてここを超え、さらに走り出すといよいよ「カルト」の段階に突入していくことになる。
ファシズムや全体主義的独裁による、抹殺や虐殺行為は、まさに国家がカルトの段階に突入したことを意味する。
アルカイーダによる9・11やナチスドイツによる虐殺など、その最たる例であったわけだ。

この段階になると、その国家は自らその行為を止めたくても、自らその行為を止めることは不可能になる。
なぜなら、この段階では、抹殺や虐殺行為自体そのものが、もはやその国家の存在理由となってしまっているからだ。

したがって、ある国家にカルト的前段階の萌芽にあたる行為があったならば、その国家は現代国家における国家としての存在価値(カルトではない国家)をもつといえるかどうかの、水分線に近づいてきたといっていいであろう。
この萌芽行為の見極めは、先進国であればあるほど、相対的に厳しく判断されなければならない。
先進国 (先進国といってもその中身は危ういものだが) の行為は、それだけ世界の人々に対する生命への影響が大きくなるから当然である。

今回のロシアの行動は、上にのべた萌芽行為か、あるいはそこまでいかなくても、少なくともかなりそれに近い行為であったといっていい。
今後、この段階を超え、次の段階にプーチン政権が進むようだと、国際社会はかなり危ない状況になろう。
本来緻密に解決すべき国際社会の問題を、大雑把な感覚で、暴力的「力」で解決しようとする風潮が強まるかもしれない。

それを防ぐためにも、今回の問題は、国家単位の枠を超え、世界的市民のレベル(特にジャーナリストをはじめとするマスコミ)で、さらに厳しく追及し監視していく必要があるといえよう。
先進国を気取るわりには、いかにその行為が三流的「ダサイ」行為であり、このままではロシアが国際的には後進国として認知されるてしまうかを、プーチンや彼に近い人物に知らしめる必要がある。

それにしても近年のロシアのこういう行為は、イラクにおいて、アメリカのとった暴力的「力」による解決(しかも正当性がない)があったことも、少なからず影響しているのであろうか。
だとしたら、この意味でもアメリカのイラク攻撃は悔やまれる。

今後ロシアは、チェチェンをはじめとするロシアよりでない人々の多い近隣諸国に対し、ますます暴力的「力」による解決を強めていくかもしれない。
せっかくアメリカがまともになりつつある時に、また新たに愚かな暴力馬鹿の体質をもつ国がでてくるのは本当に困った問題であるといえよう。

いったそばから、また長くなってしまいました。
すいません。
次回はもっと短い文章になるよう努力します。
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by phtk7161 | 2006-12-01 08:29