社会問題を考える


by phtk7161
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 連休中で、休みの方も多いことでしょう。でも仕事のかたももちろんいらっしゃる。自分のことだけでなく、自分と違う環境の人もいる。それを考えることは、政治のバランスとしてもとても大事です。

 書きたいと思う話題は多いです。憲法改正にノスタルジー的にはりきっている首相が、集団的自衛権の合憲解釈の道筋までいいだしている。おまけに、内閣法制局に合憲的解釈論の立場をとるように発言したとか。彼もやっぱりダメだと思いました。感覚だけでものをいい(小泉前首相もそうでしたが)論理と言うものを考えない。

 感覚だけの政治は、昔で言えば童話の世界にでてくる時代の王様。あるいは、あくまで形式的な法治行政をとりつつ、その実質は独裁者による恐怖による恣意的政治であるファシズムの形です。安倍主権ではなく国民主権である以上、現代の民主政治が「法」による論理のしくみ(もちろんこれだけではいけませんが、まずはこれであることが、大前提です)でなりたっていることは、政治に関わるものならまずは何より認識しておくべきでしょう。

      ☆       ☆       ☆

 内閣法制局は、行政の法の番人といわれます。ま、本音では私も「ホンマイカイな」と思いもしますが、制度上ここが行政府の行為(法律の提案も含む)の憲法との合憲性を、法治行政の原則から行政内部の段階で審査し、内閣のいきすぎた行為を早い段階で防止する役目をになっている機関であることは確かです。

 それは、内閣の行為が不必要に、裁判(三権分立のなかで本当の法の番人である最高裁判所の)にまでもつれこんだり、議会での紛争の種になることを、政治の安定や経済性(無駄なトラブルは結局、無駄な金も使います)のうえからも防ぐためでもあります。

 で、このような役目からすれば、内閣法制局は内閣(総理大臣)とは、当然一定の独立性があることが当たり前なわけで。決して内閣の賛助機関ではないのです。そこに、内閣のトップが法解釈をこうこうするようにいうことは、やってはいけないことぐらい子供でも分かる理屈です。

 もしこれをやっていいとするなら、法制局は内閣に対し適切な法的アドバイスもできない有害無益の機関ということになります。独自に内閣内での法的適正の事前チェックができない内閣法制局など廃止すべきです。チェック機能の働かない機関なら、そこに払われる人件費は全くの無駄金といえます。それは、国民のために何の役にもたたないというより、むしろ大きなマイナスの存在といえましょう。

 もちろん、今回の安倍首相の発言は内閣法制局にとっても面白くないはずです。自らの存在理由を否定されるのと同じですから。強く言い返してもおかしくない。でもそうしたとは聞かない。「首相の発言(今回の法制局に関する発言)は聞いていない」というだけです。ま、彼らも所詮宮仕えの身(彼ら自身の感覚もそうでしょう)。高給の職を棒に振りたくはないでしょう。機関の存在理由としの崇高な目的をまもることよりも、まずは目の前恵まれた給与と安定した生活が優先。彼らも、所詮その程度の(行政の)法の番人ということです。

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 それにしても、ある機関の制度上の存在理由すら考えずに、こういう感覚(しかも質的にはおもちゃをねだる子供っぽいレベルの)だけでものをいってしまうことが許されてしまう今の政治。これが行政府のトップかと思うと情けない。これでは、そのうち最高裁判所にまで判例の変更を強く求めることまで起こしかねない気がします。もしかしたら今現在も、安倍首相自身、三権分立がなぜ必要なのかということすら本当には理解していないのかもしれません。

 小泉前首相とかわらないレベル(法より感情)の感覚優先の人間による政治とは、もう本当におさらしなければいけない。とりあえず、アメリカは、中間選挙でこの種の人間(ブッシュやネラムズフェルド的オコンン)には、「さらば」の道筋を示しました。

 お金がかかるからと街宣車を使うのをやめ、かわりに一日中パソコンを使って画面とにらみあいながら、せっせとタカ的意見を書き込む雇われバイトの右系の人間(彼らも生活が大変でしょう)や、自分の普段の卑屈さや意気地のなさ(コンプレックス)を、過激で下品きわまりない意見を書き込むことでごまかすしかない人間に、論理性を求めることはなかなか難しい。

 しかしその他の人には、もうそろそろ目覚めて欲しい。携帯に夢中になるのもいいが、時には論理的にものを考えるようにしなければなりません。そうしないと、日本でも、これから迎える契約社会の中では(三角合併が認められ、ますます日本の会社は外資・・主にアメリカ企業・・・の影響を受けることになり、いやおうでもますます契約化の社会はすすみます)、ただ食い物にされるだけです。

 論理を無視して、感覚ばかり優先することがどういう結末を生むか、それが悲劇になることは多くの歴史や現在でも日常起きている事件が証明しています(歴史で言えばナチスしかり、身近でいえば、ストーカーもそうでしょう)。そのためにも、そろそろ論理の重要さを再認識すべきです。
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by phtk7161 | 2007-04-30 12:30
 統一地方選が終わり、参議院補選は、与野党1勝1敗と言う結果となった。今回の補選が、2議席ともにもともと野党の持つ選挙区だったことからすれば、今回の結果は与党のほうに分があるといえるだろう。もっとも、自民党が強かったといえば、決してそんなことはない、統一地方選のみならず参議院補選に限ってみても、自民党は強くないというより、むしろ弱い。これは私なりに、今回の選挙結果を分析した結論である。この点、小沢党首は、今回の結果を「力負け」だといっていた。では、「力負け」とは何か。

 今回の沖縄補選の投票率は低かった。こういう選挙になると、組織票がものをいう。今の自民党はこの組織票をだす力はかなり低下している。しかし、その分を創価学会という宗教の信徒団体・・・実態は今や選挙サークル化した独自の宗教団体的組織・・・をバックにもつ公明党が支えている。つまり今の構図では、学会票は、自民党(与党)の組織票としての意味を持っているのである。つまり、小沢氏がいった「力負」けとは、この学会票に負けないほどの組織票を生み出す力が、今の野党、特に民主党に不足していることをいいたかったのだろう。

 野党共闘の場合、この公明の組織票と自民に残っている組織票の総計に対抗できる組織票を生み出す力があるかどうかが大きなポイントとなる。個人や党(支部)の後援会の組織票、さらには、これに連合や共産党の組織の票を加えても、現状ではもう少し足りないということだろう。「もう少し」といえると思うのは、負けた沖縄の選挙結果が接戦だったからである。無党派層の票も拮抗していたことからすれば、どちらの票も勝つためにもう少したりないということだ。

 もっとも、小沢氏があえて組織票にこだわったっているのは、それだけではない。もともと選挙の投票率というものを、水ものと思っていることもあるだろう。実際、天気や安物ドラマ茶番劇のようなもので、投票率は左右される。特に次期参議院選は、もう小泉劇場のような安物ドラマが起きる確率は高くない。だとするなら、まずは確実に計算できる組織票の基礎固めが何よりも重要だと考えているからだろう。そしてそれは、決して間違っていない。

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 民主党のなかには、野党共闘にかなり難色を示すグループがいる。しかし、彼らに問いたいのは、野党共闘をやめたとして、ではその分の組織票的ものをどこから持ってくるのかということである。

 これに対して、彼らは「いや民主党が小泉的風をふかせば組織票なんて必要ない」というかもしれない。しかし、今与野党含めて、安物(中身のスカスカ芝居)ではあるが、高い視聴率(投票率)をとれるドラマを起こせるような人材は見当たらない。また、そもそもあの選挙自体、選挙の形として、望ましい手法でもない。むしろ、本来の政治のあり方からすれば二度とあってはいけない手法なのである。ハメルーンの笛吹き男が登場する政治は、衆愚政治につながるし、それが限界点に達すれば、ファシズムの完成なのだから。それは日本のためにもならない。

 だから、安易に人気投票に堕する政治を目指すことはやめるべきだし、やったところで、もし風が吹かなければ、組織票まで固めなかった分かえって惨敗する危険もある。その場しのぎの風任せの選挙は、野党第一党としても無責任だと思う。

 それが違うというなら、その根拠を彼らのグループに説明してほしい。福島が大勝できたのは、与党の出遅れだけでなく、やはり基礎となる票がしっかりしていたからではないのか。選挙の争点まで含め、野党共闘しないほうがより勝算が高くなるという根拠を示して、それから彼らは野党共闘を批判すべきだろう。それが責任野党の責任者(幹事長)の役割である。

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 もちろん、組織票の基礎固めというやるべきことをやりつつ、同時に野党に風的ものを少しでも吹かせる手法を考えることも、当然必要なことだ。今の民主党は、無党派層の人気の点でも優勢なわけではない。もちろん自民党もそうだ。どっちもどっちである。だから、組織票を固めながらも、その上で少しでも浮動を取り込むために、有利な人選を進めるのは当然だろう。しかし、浮動票も基礎票があってこそである。

 少し前のことになるが、フィリピンでは俳優の大統領が登場した。彼は選挙のときにトラックから貧しい民衆へ向けてものをばら撒き、その民衆の熱狂的な支持で彼は選挙に当選した。そして、当たり前だが、彼の大統領時代、政治は全く呈をなしていなかった。

 民衆の熱狂さが出した結論は、妥当などころかむしろはるかに誤る結論に至る危険度が高い。このことからも、民主党が小泉的風を起こす手法に色気をだすことは厳に慎まなければならない。民主党にもこの小泉旋風こそがあるべき選挙の形(ヒーロー&そのための善悪の構図・・・妥当かそうでないかではなく正義か悪か)だと思っている軽薄者もいるかもしれない。しかし、それなら選挙などないほうがましだ。候補者に正義悪的ものは存在しない。存在するのは、その候補者が、妥当(相対的に見て)な政策を主張する者なのかどうかということである。

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 組織票を持つ組織そのものに問題がないわけではない。どこの組織も自らの利益誘導のために、政党の支持に走った結果、それがいびつな政策につながることもある。この点、もし主体的に政治をコントロールする意思を持つ有権者の浮動票が、恒常的に高いレベルの投票率を維持できていれば、そういう組織の政治への影響は排除できる。

 しかし、現実はそうではない。有権者の政治コントロール的主体性もまだまだだし、投票率も低い。そうであるなら現状では、一方の組織票だけ容認し(例えば、創価学会)、他方でもう一方の組織票を否定する(たとえば、労働組合)ことは、民主政治のうえからいってもかえって危険である。

 宗教にその存在基盤を置く団体が、限りなく直接政治に関わることは、本来かなり危険なことなのである。なぜなら、このような団体の場合政治的政策はあまり関係なく、自らの団体の勝利と言う事実(選挙で勝つこと自体)に重きをおくからである。その証拠に今の与党の政策と本来学会が掲げる理念とでは、かなりの乖離が生じている。

 このままだと、おそらく学会員は福祉や平和をまるで否定(180度反対の政策・・・例えば健康保険の著しい低質化や徴兵制、集団的自衛権など)する政策を公明党がとったとしても、せっせと学会の指令に従って公明党のために投票に行き続けるだろう・・・もちろん内心では疑問を持つものもいるかもしれないが、それを投票行動にはうつさない・・・・なぜなら、今の彼らにとっては、とにかく学会が支持することに決めた人間を当選させることそのものが、今や彼ら自身の存在理由(ある意味では生きがい)となってしまっているからである。

 これが、政治に近づきすぎた宗教的団体の怖さである。あるものを信じ(政治政策とは本来的に全くべつものの教義を信じ)、それには否定的な行動を絶対にとらない(その部分ではまさに宗教である)。しかしそれと比較すれば、政治理念などかれらにとって、せいぜい付属的道具にぎない。

 その結果学会の人達は、結局は政策(学会の理念に反する政策)に対してよしあしを自ら考えようとしない人間、あるいは考えても、学会の指示とは反対のしかし学会の理念には合致している投票行動・・・学会の理念(平和、福祉)にかなっていない政策(例えば集団的自衛権これを今一番強く肯定するのは自民党である。イラク戦争のことを踏まえれば、集団的自衛権は平和の理念にかなっていない。あのイラク戦争に、集団的自衛権により日本が当初から攻撃に参加するケースを考えてみればよい)を主張している候補者に票を投じないこと・・・を起こせない人間と化してしまう。ここがまさに創価学会の問題点だと思う。そしてこの組織票は、自主投票でないかぎり機械のごとく正確に分散投票され、ゆるぐことはない。

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 与党側の学会票がそういう性質のものである以上、野党側も組織票の意味を否定的に捉えてばかりではいけない。学会票の性質に比べれば、ほかの団体の組織票の性質などまだ政治政策と密接につながっているだけ健全である。首をどんどん切っていく企業の政策を支持する政党に組合が支持することはほとんどない。支持した政党がそういう政策をとれば、組合はとっとその政党の支持をやめるか、そうでなくてもかなりの消極的支持(票数激減)となるであろう。従って、政治ありかたからすれば、後者の組織票の質のほうがはるか民主政治にふさわしい。

 野党は本当は、反学会の票をとりこんでもいいはずなのである。しかし、なかなかそうはならない。それは学会が巧妙にそういう世論を避ける手段に長けていることもあろう。メディア・・・テレビ、週刊誌、新聞、や他の分野もとりこんで、もはや表立った学会批判はかなりできにくい現状がある。
  
 それでも、その学会票を持つ与党に対して、野党は厳然と戦っていくしかない。学会が票を野党にほとんど分ける気がない以上、野党は野党の組織票を与党に負けず、とにかく少しでも多くの基礎票をかためていくしかないのである。それは、組織票の質的(質において、学会票よりもましな民主政治における組織票としての意味)意味でも非常に重要なことだ。それを踏まえたうえで、浮動票争いも向上を狙う。この点では、時には好感度にはしってもやむをえない。特に大都市部はではそうだ。勝ち組のぞんざいさが・・・人気投票に陥りがちな浮動票の多さ・・・蔓延しているから、こういう場所では特に、選挙ポスターのありかたや見た目に気を使うことも重要であろう。

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 とにかく参議院選挙まで、もうすぐである。いまさらガタガタ言っていてもしょうがなかろう。これまでの選挙結果で、与野党にさほど差はないし、今の自民党は決して強くない(現に公明抜けたら簡単に負けるレベルだろう)。なのに自民に政策の近い民主党議員が今になっても、勝つための反省ではなく、負けた愚痴をいうレベル(批判はできるが、その現状に勝る案がないレベル)のコメントいうなら、とっとと与党にいくべきだ。彼らも被選挙における政党の議員という意味では、間違いなく当事者なのである。傍観者ではない。

 この程度(参議院選までを目的とした野党共闘)で腹をくくれないなら、政権奪取など絶対できない。ここまできたら何事にも動じない姿勢(ひとつの形を貫き通す姿勢)が一番大事である。格差に加え、訴えの武器として、衆議院で3分の2与党がとっている現状を踏まえ、政府与党の暴走(一例として、共謀罪に関する動きや国民投票法案の強行採決など・・・ようはやりたい放題されるということ)を止められる有力な手段が現状ではないこと、そのためにも今回の参議院選挙が重要であることも強調して欲しい。

 とにかく民主党は、自民党の落ちこぼれの議員(自民党に色目を使う議員、自民党に居場所がないからいる議員)の集まる場所ではない。自民党と、正面から戦う議員の集まりであるべきだと思う。その姿勢が結局は浮動票の獲得にもつながるはずである。民主党はもちろんのこと、野党の議員には、党利党略を超えて戦う議員となり、夏の参議院選挙に向けてとにかく頑張って欲しいと願っている。

 
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by phtk7161 | 2007-04-25 04:06
 長崎市長が狙撃された。調べが進まないと本当の動機は分からないが、これまでのニュースから判断すると、経済的にいき詰まった暴力団による狙撃ということか。おそらく、市から何がしかのお金をひっぱりだそうとして、うまくいかずに怒りの矛先を市長に向けたのだろう。何らかの事情でしのぎがきつくなり、もしかしたら上部組織への上納金などで、本人も追い詰められていたのかもしれない。だとしても、市長狙撃は論外で、断じて許されるべき行為ではない!

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 私はこの手の事件には、特に強い怒りを覚える。前市長の本島氏のときは、その背景に思想的ものがあったが(天皇の戦争責任発言をめぐる、右翼による犯行)、動機が思想的ものであれ経済的ものであれ、だいたい何の武器も持たないものに、「銃」というもっとも圧倒的優位にたつ卑劣な武器を使って、人の生命を狙うところが一番気に食わない。

 ようするに人間的「弱虫」のやる卑怯な行為ということだ。朝日新聞阪神支局を銃撃した赤報隊の事件もそうで、思想に不満があるからといって、身を守る武器を何も持たない記者を銃撃し(亡くなった被害者の方には、奥さんと幼い子供さんがいた)、しかも、こいつはあげくにコソコソと逃げ回り、ついには時効となってしまった。

 私は、思想的な右左を問わず、暴力で思想市場や経済市場を叩こうとするものには反吐が出る。人間として最低である。銃を使おうが、ゲバ棒使おうが、火炎ビンを使おうが、刀を使おうが、こういう人物はいずれにしても社会に参加する資格は全くない。社会の中で、本当に一番守るべき最低のルールすら守れていないからだ。

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 もちろん、人にはそれぞれ生きるテリトリーがあり、生来的事情から、法とは別のルールで動く世界で生きていくしかない人間もいよう。その領域の範囲で、彼らが彼らのルールでやっていく分には、それがたとえ一般社会では違法であろうが、ある意味かまわないともいえる。

 しかし、一般社会に牙をむいたら話は別だ。自らのテリトリーからはみ出して、法が基準となる一般社会に、自らのルールを持ち込んだ場合には、社会は彼らに対して強い制裁与えなければ(牙を抜かなければ)ならない。
 
 牙を抜く手段。それは、人権上本当は危険な面を持つ手段ではあるが、ここは暴力団に向けて暴対法を乱発してでもやるしかない。また使用者責任を問う形での民事訴訟において、不法行為による損害賠償を組の最高本部の組長に求めていくこともできよう。さきほど見たニュースによると、被害者は亡くなられたようだ。暴力団への怒りがますます増してくる。民事の場合の原告は家族、ないしはもし危険がある場合には市が主体となってもよいのではないか。
       
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 今回の犯人は山口組系の暴力団幹部であるという。山口組の近年のこの手の事件をふりかえると、東京渋谷のビルをめぐる後藤組の起こした殺人事件(被害者は、交渉にあたっていた一般市民だった)や赤坂での住吉会とのトラブルにおける、白昼、公道での銃撃事件(被害者は、住吉会の人物だった)。このほか、ルポライターの溝口氏の身内を狙った傷害事件もある。

 山口組は、いまや日本最大の暴力団である。構成員も多いし、上位から下部組織への伝達の徹底さもどの程度かは分からない。しかし、このところの山口組が起こしていることは、明らかに法治国家を揺るがす行為であることは間違いない。あまりに、手段が露骨すぎる。それはある意味、自らの世界のルールをそのまま、一般社会でも通用させようとしているようにもみえる。

 日本は法治国家である以上、この流れは絶対に阻止しなければならない。今度の事件を機に、暴力団、特に山口組を徹底的に叩いておく必要がある。そうでないと今度の事件は、山口組によって逆に宣伝効果としてしのぎに利用されてしまう。

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 政治家と暴力団あるい右翼との関係は根深いといわれる。しかし今回の事件が、法治国家としてのデッドラインへの近づきを示すものである以上、政治家は暴力団に関する問題から逃げてはならない。これは、政治家全体の責任でもある。

 特に、行政権を担う内閣、それをささえる与党は特にその責任は重い。もちろんチェック機能を果たす野党もその責任を担っている。さらに警察にいたっては、今度の事件の処理、その後の暴力団への取り締まりのありかたで、その存在意義が問われると言っても過言ではないだろう。

 世の中、確かにきれい事だけではすまない。しかし、それでも限度がある。市民の安全をまもるという国家としての最低限である夜警国家の役割を果たすことは、政治の最低限の務めでもあろう。「美しい国」は、真っ当な法治国家(思想、経済市場からの暴力の排除)の実現も当然意味しているはずである。

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 本当は、次に書くときはアメリカのバージニア工科大学の銃乱射とアメリカの銃問題を書こうと思っていた。それが、まさかこんな銃撃事件が日本で起こるとは。和歌山でも、男が女性を銃で撃った事件もあったようだ。腹が立つこと、このうえない。怒りが増すばかりである。

 メディアはもちろんのこと、世論も、この問題から怖がったりして決して逃げてはならない(あたらず触らずでもいけない)。強い「怒り」をもって、政治家、警察、メディア(特にNHKは真価の見せ所だ。民放は広告代理店も絡む以上なかなかしんどいかもしれない)のしりを叩かなければならない。それは、法治国家を守るための国民の義務ともいえると思う。
 
 
 
 
 
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by phtk7161 | 2007-04-18 02:36
 このブログをスタートさせてから、半年がすぎた。書いた数は30件ちょっと。一月5件程度だから、平均的な人様のブログと比べても、投稿のペースは少ない方だと思う。私のブログはコメント拒否、トラックバック拒否のスタイルをとっている。だからある話題について、意見をお互い交換することもない。

 でも私のほうから、ほかの人のブログを時々読ませてもらうことはある。もっとも、そこでコメトを書くこともないし、トラックバックをしたこともない。ようするに、けっこう自分勝手にやっているわけである。ブログのあり方は、十人十色。ひとそれぞれの立場で自由に活用できることも、ブログのよさであると思う。

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 そんな、自分勝手な私のつたないブログではあるが、来てくださる方はだんだん増えてきている。もっとも、実際に書いたものを読んでくださっているかはわからない。なにしろ書いている本人でさえ、「お前の文章長げぇ~!」って思っているくらいだから。それに、同じ立場の者へのエール的意味で訪問してくださっている方もいると思う(私もその意味で、私自身はランキング投票には参加してはいないけど、同じ立場の人へのブログに時々ランキング投票してます)。それでも、わざわざ来てくださっている方には、あらためて感謝したいと思う。

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 ブログをほぼ毎日更新されている方は、ほんとにすごい。やはり根気も要るだろうし、まともに書かれてのブログの継続は、毎日続けることそれ自体でたいしたものだと思う。感心してしまう。

 それでも、ここのところ私の書くペースもわりと早くなってきている。もともと、何か「おやっ?」とか「むかっ!」とか来るような気持ちにさせるできごとが、書くモチベーションになっているものだから、その気持ちにさせる出来事が(もちろん私にとってだが)あれば、書くことはさほど苦にならない。でも、本当は私の能力では週一回のペースがせいぜいなのだ。

 で、実は今週あたりから、また週一ペースでやろうと決めていた。でも、仕事のあと食事がてらお酒を飲んで、夜11時過ぎに帰宅してから、パソコンでニュース記事をチェックしてみると、長崎市長が銃撃されたという事件である。テレビをつけてみると、事件が大きくとりあげられていた(当たり前だが)。おまけに、犯人は暴力団。もともと、長崎は右翼による前市長の狙撃のこともあるし、そのため、例の「むかっ!」にさらに火がついて、今夜はゆっくりしたいのだが、手が勝手に動き出してこうやって書いている。
 
 ここまで読み返してみても、我ながら泣きたいくらい枕が長い(性分はナカナカなおならない)。そのため、銃撃事件についての投稿はその(2)に書くことにします。前置き長くて、すいません。

 
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by phtk7161 | 2007-04-18 01:12
 民主党が、国民投票法案に賛成しなかったことを批判する意見が出ている。確かに民主党は国民投票法案の成立に協力した経緯はある。ただし、それは民主党の改正積極派の議員が中心で、決してそれは民主支持派の多数者の意向ではない。

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 今回の件を受けて、保守派の論者が、民主党は「左をきらなければダメだ」と述べていた。しかし、私に言わせれば、与党のほうこそ戦前回帰のノスタルジー的支持者をバックにもつ議員(例えば、国家権力の監視という憲法の構造を見直そうとしている保岡議員など)をきらなければダメだ。 そうでなければ、そもそも正当な憲法改正などできるはずもない。野党を批判する前に、与党が整えるべき憲法改正のための環境(人選的質)はいまだまったくととのってないのだ。

 他党を批判するくらいなら、まず自らの側の戦前ノスタルジー派を放逐するするべきなのである。それができないと、改正したところで、それは単により古い時代の遅れた憲法作っただけということになる。これでは、すぐれた新憲法どころか、現憲法より、格段にできの悪い中古品の憲法である。そういう背景があるから、当初改正論(改正賛成の立場)の最前線にいた憲法学者でさえ、今はその時期ではないと、現段階の改正に反対しているのである。

     ☆       ☆       ☆

 今の憲法改正論議のありかたとして必要なことは、これまでもこのブログで述べてきたが、現憲法をきちんと理解したうえでなければ、そもそも議論は始まらない。各条文の趣旨だけでなく、憲法の根底となる基本的役割・・・これは哲学的なものもふくめて、憲法は何のために必要か・・・について、共通認識に立ったうえで、そこから憲法改正の肯否を論じなければならない。

 それではじめて、例えば
 (1)判例の積み重ねではもう限界なのか 
 (2)防衛関係などはそもそも統治行為論で司法判断回避される可能性がある以上、文言の変更は、防衛に必要な範囲を超えるさらなる拡大解釈に弾みをつけるだけにならないか(現憲法以上に文言をかえたことで、かえって拡大解釈の範囲が更なる広がりをみせることにならないか・・・1の2倍は2だが、2の2倍は4になるように、今の憲法なら2ですんでたものが改憲すれば4にまでなってしまう)
 (3)96条を改正する・・・改正に必要な3分の2の要件緩和・・・とした場合(与党の狙う本星は9条よりも実はこの規定である)、個人よりも常に国家に優先するあらたな憲法の規定・・・たとえば徴兵制の創設など(自民党は間違いなく本気でこれを考えていることは断言できる)・・・をより容易にする(例えば議員の過半数でたりるような法律レベルの改正に堕する)きっかけをあたえないか、などのまっとうな論議ができる。

 その議論の妨げになるのが、戦前回帰のノスタルジー的な憲法改正をめざす議員であり、だから与党支持者の論者のほうこそ、これをきらなければ、まさに日本の未来はないと考えなければならない。
 
       ☆       ☆       ☆

 9条のことで付言すれば、9条の問題の中心はもちろん集団的自衛権である。これは現憲法では解釈上は認められないと私は思う。認めるなら、改正しかない。もちろん、私は絶対反対の立場だ。

 もし集団的自衛権(この場合、99・9パーセント日本はアメリカの意向に従うしかない。当然アメリカの一師団的立場になるわけだ)を憲法で認めればどうなるか。アメリカは、イラク戦争でばかげた先制的自衛権という自らに都合のいい理屈で、まったく道理のない侵略戦争を行った。

 今の国際状況を見る限り、そのアメリカが次の相手として攻撃を行う可能性が強いのは、間違いなくイランである。だから、集団的自衛権を日本がとることになれば、日本の本格的戦争の最初の相手(アメリカの一師団として戦う相手は)はイランと考えなくてはならない(北朝鮮や中国がその相手になる確率など、その何十分の一にすぎない)。

 イランとの戦争に最初から参加してドンパチやって、考えるべき問題。それは日本と中東との関係はどうなるか(資源の問題も含めて)国内がテロ(自爆テロの悲惨さはご存知であろう)のターゲットの標的になる危険はないかということである。こういう面まで考えた末に、集団的自衛権に賛成するかどうかの結論を、国民は各自で考えなければならないのである。私は、そんなアメリカ主導の中東宗教戦争のために、自衛隊員の生命を危険にさらすわけにはいかないと思っている。だからこそ、集団的自衛権は絶対反対だ。

 もっとも、国連決議を要件とした場合の参加に関し、国連軍的な意味合いのものを自衛隊とは独立させて一部門として設ける(ただし、実質的に自衛隊の一部門となることはやむをえないだろう)ことには反対はしない。私が、鳩山前原グループとぎりぎり妥協できる点はここまでである。日本の周辺事態に関しては、自衛権の範囲を明確にして、個別契約的やり方でやっていく。そこでの中身をつめればいい。おとしどころは、そのへんであろう。ただし、アメリカレベルの先制的自衛権(イラクで取った)など絶対認めてはならない。

      ☆       ☆      ☆

 今回の国民投票法案は、安倍政権が自らのきたる参議院選にそなえて、セールスポイント的な道具としてやったにすぎない。これに安易に乗れば、手続法にすぎないとはいえ、今の、一般国民に伝えるメディアの形では、改正肯定の流れを演出する効果をもたらすだけである。これに民主党まで安易に乗ってしまえば、改正がいまやブームという空気をつくりだすだきっかけをあたえるだけであろう。

  したがって、今回の国民投票法案に自らの対案で反対した民主党のやり方は、決して間違っていない。今度の参院選は、経済格差、あるいは自由主義を前提とした福祉国家VS新自由主義国家のどちらをめざすべきかという大きなテーマがある。今解決すべき政治課題から与党が逃げるたの道具として使った国民投票法案など、今いそいで成立させる必要はない(セコイ手段につきあう必要はない)。

 今の憲法は、世界的に見てもかなり優れている。少なくとも合衆国憲法など相手にならない。アメリカ自ら積極的に関与してつくった日本国憲法ではあるが、そのアメリカ(もちろんその他の国も)が、今、日本の憲法にみならうべき点はいくらでもある。そのすぐれた現憲法すらよく理解できていない議員(現憲法を理解していないで、どうして今よりよい憲法がつくれるというのだろう)が、平気で改正論議に関わっている環境での拙速な改正は、百害あって一理なしである。

 それを踏まえて考えれば、与党案に賛成しなかった、民主党の今回の対応は、まさに真っ当な対応である。したがって、最初に述べた、保守派の人物の意見など、まるでおかどちがいでの意見にすぎない。そして、そういう背景まで分かっているのに、それを書かないメディアもまた、情けない限りである。
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by phtk7161 | 2007-04-15 12:39
 宇都宮市が、給食費の納付に関し、滞納の有無に関わらず、全家庭に連帯保証人つきの確約書を交付することにしたようだ。給食費を支払えるのに支払わない保護者の責任を重く見て、今回の措置を肯定する人もいよう。朝のニュース番組 (というか7時台でもワイドショーと言うべきかもしれないが) の中年コメンテーター (経済評論家) も、今回の措置を当然のようにいっていた。果たしてそうだろうか。
  
 日本は世界の中でもめずらしく、連帯保証制度を多用している国だといってい。本来契約は自己責任。多くは当事者同士の対価関係にもとずいている。一方があるサービスを提供し、相手方がその対価にこたえる行為をしない場合、サービスを提供したもの (教育委員会) は相手方本人 (父兄) にかかっていく (支払いを求めていく) のが原則である。

 銀行の融資などでは、物的担保(抵当権など)だけでなく、人的担保(連帯保証など)もとられるが、実は債務者自身の物的 (本人の土地や家など) 担保をのぞき、ほかの担保の多くは、日本人特有の人的関係につけこんで、銀行が他人にその債務のリスクを負わせる、かなりアンフェアな制度なのだ。

 もちろん、このアンフェアな制度の中で長年日本は経済成長を遂げてきたし、だからこそ、少し前まで銀行員は高級報酬を得られる民間型公務員となりえたわけである。もちろん融資を受ける方も、長く馬鹿高い利息があるにせよ、おかげで本来よりは早い時期に家をもてるなどのメリットもあった。

 しかし、今はもう国際競争の名の下、博打的経済ゲームに突入した時代である。外資もブイブイいいながら、日本経済に参入してきている。そこでの原則は自己責任。これは、とられる側だけでなく、とる側の大原則でもある。他人に責任を転化して・・・たとえそれが(保証)契約という形式になっているとしても・・・自らの債権を回収していくルールは、みなおされるべき時代だと思うし、またそうでないと国際競争にも対抗できない。
     
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 宇都宮市は、給食費の確約書に関し、これまできちっと払ってきた人にも連帯保証人を求めるという。保証は頼む側も、頼まれる側も、愉快なことではない。保証は頼むこと自体で、デメリット (借りをつくる) がある。

 市が、きちっと給食費を払っているものにまで、連帯保証つきの確約書求めることは明らかにやりすぎである。滞納している者には、市が強制執行などにより直接本人に給食費を払わせるのが本来のありかたであって、また同時にそれが、債権者 (宇都宮市) 自身の自己責任・・・債権実現に関する・・・のありかたともいえよう。

 現に宇都宮市は、これまでそうしてきている。それでは手間がかかり、また余計な費用がかかるからと、父兄に連帯保証を求めるとしても、それは例外的手段であり、やるとしても滞納のひどかったものに限るべきであろう。
 
 もっとも、それで本質的な問題点は解決されたとはいえない。給食費滞納 (払えるのに払わないケースでの)の問題は、その根底として払わない側のモラルが第一にあげられている。

 だとするなら、連帯保証人に迷惑がいく (給食の支払いをさせられる) ことを、仮に滞納者がへとも思わないなら、結局は連帯保証人が人的関係の犠牲者 (まあ、多くは生徒の親の親、あるいは親の兄弟だろうが、そうでないケースもあろう) になったにすぎない。問題の本質は金の問題 (ま、市側にとっては金の問題だろうが) よりも、むしろモラルの問題だとするなら、連帯保証は問題の本質的な解決にはなっていない。

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 さらにいえば、この問題はもうひとつの問題点も生じる。それは仮に行政 (宇都宮市も当然これにあたる)が、国民や住民が負うべき負担金について、国民や住民にその回収実現のために連帯保証人を求めたらどうなるかということである。 

 たとえば、健康保険制度にこれを求めたらどうなるか。 保険証書の交付に際して連帯保証人の存在が必要になったとしよう。 なんらかの事情で保険金を本人が納付できない場合、行政は連帯保証人にこれを請求できることになる。その場合、おそらく保険金の納付率 (回収率) は格段にあがるであろう。

 しかし、その一方で泣く人 (連帯保証人) もでてくることになる。それは、実質的には江戸時代の五人組制度 (連帯責任) と同じである。 一人の農民 (国民) が責任を履行できなかったら、別の農民 (国民) にその責任の負担を求めるということである。もちろん、これは現実には法的問題もからむから、そう簡単にありうる話ではない。ただ、給食費レベルの話でも、広く捉えれば、そういう問題も含んでいるのである。
 
 だから、給食費の回収をよくしようと、宇都宮市が滞納に関係なく父兄全員に連帯保証を求めることを、「給食費は払うのは当たり前 (もちろん、払えるのに払わない人が払うのは当たり前だ) だから」 と安易に肯定するのは気楽にこの問題を捉えすぎである。

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 どんなかたちでも、納付率が上がれば、それでいいとするのは本来の行政のあるべき形ではない・・・おそらく宇都宮市の教育委員会は目の前の数字を追っかけたのであろう。当然、一定のバランス (著しい滞納の前歴の有無など) はとらなくてはならない。

 で、朝テレビで見たコメンテーターの意見。いまさらコメンテーターに、思慮分別のある言動を求めようとは思わないが (もはやテレビに真っ当さを求める時代は終わっているから) それでももう少し多角的見方ができないものか。きちっと払ってきたのに、保証人をお願いしなければならない立場の人 (ことに身内以外の人に何らかの事情で頼むしかない人) の気持ちになれないものであろうか。

 たかだか給食費の連帯保証のことといっても、場合によっては頼まれた人物が、何か別のことで連帯保証になってくれることを頼んでくることもある。その場合たとえ給食費程度のことでも連帯保証を頼んだ側は、自分も頼んだことがある以上断りにくい。結果、自分が連帯保証人になることでその借りをかえさなければならないことも、ありうる。人間関係とはそういう面を持つ。だから連帯保証制度は、そう安易に多用すべきでものではない。やるにしても必要最小限でやるべきものである。
 
 「人間関係まで考えればそれくらい分かるだろう、かりにも経済 (軽薄) 評論家なんだから・・・(これから日本の連帯保証制度も、間違いなく法的レベルで縮小的方向に進むことは彼にもわかっているはずである)。経済評論家の肩書きが笑うぞ。どんな些細なことでも、連帯保証を求めることを軽くみてはいけないだろう」。7時台の朝の番組を見て、そう彼に言いたくなった。


  
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by phtk7161 | 2007-04-12 18:08
 鳩山幹事長が、統一地方選特に知事選の結果において執行部の責任に言及した。私は彼は本当に政治家に向かない人物だと思う。彼は政治家にならないで、やはり大学で先生を続けるべきだった。

 彼が民主党の代表の時、どうして彼がその地位に向かなかったか。それは、小泉との党首討論で野党のトップとしての討論ができなかったからだ。一口に言えば喧嘩のやり方を知らない。安易に与党の政策に理解を示し、討論としての呈をなしていなかったこともしばしばで、完全に小泉にやり込められていた。これでは、まるで与党の一部である。そのため、国民にも与党との対立軸が何なのか、かなり分かりにくかったと思う。

 参議院選を前にして、今は執行部ウンヌンを言っているときではない。対立軸を明確にして、一喜一憂せずにぶれずにことに当たるべきだ。与党支持の有権者の一部に色目を使って、ぶれた政策をやればやるほど致命的である。

 今回の結果をみて、前原議員やその他の集団的自衛権支持の議員は、ごちゃごちゃいうかもしれない。でも彼らの希望通り、与党と同じいやもっと強いタカ派政策をやっていったところでそれで得る票の数より、そのために民主党から別の野党に流れる票の数のほうが多くなってしまうだろう。集団的自衛権を民主党が政策に入れるなら、私も民主支持をやめる。それはまさに民主を支持する、水分線だからだ。

 もちろん国民投票に関する今回の結論は、彼らのグループもかなり我慢してくれたはずだ。それは、私も高く評価し感謝もしている。今は経済的格差が一番の問題。憲法改正は優先順位は低い。一枚岩でそれを貫いたことは価値がある。

 ところが、その矢先、今回の知事選の執行部責任発言。しかし、今回の知事選は執行部の責任が浮上するほどの番狂わせがあったわけではない。地方議員数で、自民より民主党が伸びている地域も結構あるし、だいいち知事選でいちいち執行部が責任とっていたら、まともな執行部などできやしない。求心力を進んで減退させるだけである。いいかげん、多少のことでは動じないずぶさをみせないと、余計にひ弱に見えてしまう。参議院選までもう待ったなしだ。執行部の一人がそんな弱みを見せる発言していて勝てるものか。

 時々前原氏や鳩山氏のグループを見ていて思う。彼らはトロイの木馬ではないか。与党のグループが野党の中に潜んでいる。そう思えてまう。野党の幹事長が自らの党の足をひっぱり与党につけ入る隙を与えてどうする。今回の発言、そうiいうところが情けない。しっかり一枚岩でぶれずに福祉国家理念で戦う。それが、まさに今民主党に求められている。
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by phtk7161 | 2007-04-09 01:26
 東京都知事選は現知事の再選という結果になった。明日から、メディアはいっせいに石原ヨイショのあらしだろう。今後4年間、彼と彼の取り巻きは間違いなく「わが世の春」的暴君政治をやっていく。しかし、これも東京都民が出した結果だから仕方がない。ばかげた結末でも、これもまた民主政治の一面だからだ。

 都知事選について、評論家や無党派、はたまたブログで石原を支持しない人でも、今回の結果を浅野氏の知名度のなさや曖昧さなどで、候補者のせいにする人が多い。はっきり言って、この考えは愚の骨頂である。政治は有権者の意思で変えられる。政治を選ぶ側がコントロールできる力、それが選挙というものだ。アメリカ国民は遅まきながら中間選挙でそれを実現した。

 それを候補者のせいにして、評論ばかりしてどうなる。浅野氏は石原都政に対する、福祉国家のテーゼは示してくれた。それで十分。石原都政の負の部分を壊したければ、自らの意思で投票行動に移し政治をコントロールしていく。それが民主政治のあるべき姿である。

 政治に関する世論調査のアンケートの答えで、私が最もばかげてると思う回答理由に「ほかに適当な人がいない」というのがある。この回答になるのは、ほかに人がいないのではなく、回答者に別の人物を選ぼうとする主体性がないゆえだ。こういう人は、結局自ら政治をあやつる意思のない人間である。これでは、主権者とはとてもいえない。

 政治家へのメッセージとして、有権者は知恵を絞って投票し、少しでも質の良い政治家が育つようコントロールしていかなくてはならない。それを放棄しているのが現職を選んだ東京都民であり、ほかに適当な人がいないとこたえる人たちである。この態度を続ける限り、決してまともな民主政治はやってこない。いつまでもドラマもどきのお遊び政治が続き、やがて当たり前のように思っている自らの権利を失う日がやってくることになる。

 これもまた、主体的形で自らの権利を獲得したことのない国民性の弱さだろうか。まさに、人権感覚において平和ボケ国民である。空気や水のように権利を自然発生的に思っている。しかしそれは長い歴史を経て、ようやく得たものなのである (たとえば、戦前までは女性は契約の当事者能力すら認められていなかった) 。それを、ドラマ化した政治遊びに埋没して守ろうとしない有権者。同じ東京都民ながら、東京都民が情けなくなる。今回の知事選の結果は、まさに都市部的市民のおごりだと思う。
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by phtk7161 | 2007-04-09 01:13
 コンビ二で雑誌のコーナーの前を通りかかったら、ニューズウィーク(日本語版)のタイトルが見えた。その題名は「ファンド嫌いが日本をダメにする」。

 実は、ずいぶん昔この雑誌(同じ日本語版)を私は定期的に読んでいた時期がある。どれくらい前か、はっきりとは覚えていない。15年~20年前か。で、この時期読んでいた頃、私が覚えている印象的な記事のひとつに、同じファンドがらみの特集があった。その内容は、大まかにいえば次のようなものだったと思う。

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 MBA(経営学修士)のみならず、ロースクール(法科大学院)を出たものまでも、短期での莫大な収入(初年度から1000万近く)を求めて、投資銀行(ファンド)への職をめざす。この傾向は、今のアメリカの企業経営にとって、大きな問題である。優秀な人材が、アメリカの産業を支えている一般企業や通常の法律事務所よりも、目先の高い年棒を求めてM&Aなどを専門に行う法律事務所や投資銀行に多く流れることは、アメリカ社会にとって大きなマイナスになる。

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 このときの記事の警告は、今のアメリカ社会を見ると正しかったといえる。ただ、残念ながら昔このような記事を書いたニューズウィークさえ、今度のような特集を組む現状からみると、結局アメリカは本質において「博打的経済システム」といえるものからの脱却はできなかった。

 ニューズウィークに限らず、M&Aの弊害をアメリカメディアが記事にしていた時期は間違いなくあった。地道ではあるが、着実に安定した経営を行ってきた企業に対して、真面目な形で経営参画する気などないにもかかわらず、株式の支配によりその経営基盤を手にし、その後優良な財産(動産、不動産、債権、特許権etc)を売っぱらい、短期で莫大な利益を手にするというファンドのやりかたに、非難を浴びせていたのである。

 時がたち、さすがに最近は露骨この手のことをやるファンド減ってきた。それでも短期で莫大な利益獲得を目指し、そのための博打的買収ゲームをよしとするファンドの本質はあいもかわらない。しかし、「博打的経済ステム」の象徴であるこのファンドのありかたを、まともに非難するメディアはもはや近年アメリカにほとんどないように思える。それは、メディア自身が企業の買収ゲームの中で翻弄されてきたこともあろう。

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 もちろん、株主主体による経営統合(M&Aなどによる)が、ケースによってはプラスとなることもある。経営が硬直化している企業(世襲的ワンマン経営など)の場合、遊休財産の合理的活用や柔軟で円滑な意思決定システムの構築による経営の建て直しは、株主や社員(商法上の使用人)にとってもプラスといえよう。

 しかし、こういうケースは実はまれだといえる。仮にそのようにみえても、実際はそれは形式上のもにすぎないケースも多い。リストラが進み、アウトソーシング(人材の外注)などにより、たとえその企業に一時的に大きな利益がでたとしても、経済全体でみれば、結局のところそれは経済的弱者(一般社員・・・油断すればいつでも子会社ないしはリストラ・・・やパート)を犠牲にして、「株式」や「経営者的地位(CEO)」を独占するものに高笑いをもたらしただけということも多いであろう。

 博打的経済システムの中では、長いスパンでの地に足の着いた経営などそうはできない。なぜなら、短期で利益をもたらすことがないものは、そこでは株主の利益を害するとして「無能」とされるからである。認められることがあるとすれば、国家が協力した形でその企業の将来的価値を意味する「財産的情報」そのものが、息長く株式的価値に反映している場合だけである。

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 如何に評論家や財界人が今の経済のあり方を「国際競争」のもとに正当化しようが、今のシステムは間違いなく、「博打」である。他人の努力で生み出されたものを「横取りする」(いわゆるハゲタカファンドなど)システムのなかで、その横取りの元となるファンドのもつ株式には、たえず博打性は付きまとう。そして、この経済システムは、数字や時間短縮だけを追い求め、機械はすぐれて進化しているはずなのに、生命への安全性は後退し、人間の精神は常にぎりぎりの状態におかれる。

 自由な社会において、どんな人間でもなるべく公平で安定した生活が送れる社会。この自由主義を前提とした福祉国家モデル。これは、人間が進歩的社会を目指すならば必要不可欠なものである。

 これを、ユートピアで現実的でないと、弱肉強食の原始人型人間(というと、原始人に対して失礼か)の保守的新自由主義者は主張する。しかし、彼らは結局のところ「なぜ戦争は起こるのか」「戦争を回避するにはどういうシステム(経済面も含めて)がよいか」ということを考える能力がないか、あるいは、そのための思考を回避しているにすぎない。それはある意味、子供的な思考法(物事を単純に考えがちという意味で)と同じである。

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 小泉以降、日本国民は博打的経済システムの中に巻き込まれることを、進んでよしとした。国民にはそのつもりがなくても、前回の衆院選はそういう結論をもたらした。

 オレオレ詐欺に簡単にひっかかる日本人が、はたしてどの程度までこの博打的経済システムを理解しているか。契約理念があいかわらず薄い社会である。投資信託ひとつとってもそうで、銀行で年配者が解約をめぐってもめているのをみかけたこともある。しかし「ガバナンス」「国際競争」「官から民」のスローガン(今回のニューズウィークの特集もこれにあたるだろう)の中で、日本でこの博打的経済システムが「正当な経済」として扱われる日も近い。
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by phtk7161 | 2007-04-02 09:11