社会問題を考える


by phtk7161
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<   2007年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 昨日のダービーで牝馬のウオッカが勝利した。私はダービーの前日によく東京競馬場に行く。前日に行くのは、一度ダービー当日に行き超満員の人の多さにまいったからだ。そのときは、「ゆっくりと競馬を観戦」などいう感じは望むべくもなかった。それで、前日に行くようになった。

 昨日のウオッカの強さは決してフロックではない。牡馬との斤量差を考慮しても、それはゆるがない。というのは、土曜に競馬場に行ったときは差しがそこそこ決まっていたが、しかし昨日はおとといと違い、ほとんどの芝のレースで前残りが多かった。現に昨日のダービーでも差しの多かった有力馬は、3着にアドマイヤオーラがくるのがやっと。ほかの馬は沈んでしまっている。そういう中ですばらしい脚で一気に突き抜けたウオッカの強さはまさに本物である。

 同じ東京競馬場で、やはり牝馬のヘブンリーロマンスが天皇賞を制したことがあるが、天皇賞と違いダービーは一生に一度しかチャンスがない。しかも、今の日本の競馬のレベルは64年前とは全く違う。今度の64年ぶりの快挙は、レースの内容ともに絶賛されていい。南関東の公営競馬で「ロジータ記念」という牝馬の冠の名前の重賞がある。今度のウオッカの勝利も、そういう「冠」(ウオッカ記念のような)レースを設けるに値する快挙だと思う。
 
 さて、競馬界で牝馬の活躍が本物になってきた近年、それでは今の日本の女性の人はどうであろうか・・・・馬(牝馬)と人間(女性)を一緒にして不謹慎という声もあろう。もちろんそうかもしれないが、昨日の快挙もあったことだし、このテーマで今回は書いてみたい。もし、不愉快に思われる方には、前もって謝罪しておきます。

 旧憲法下において、民法上女性は「家」制度の中で無能力者だった。契約能力は男性に比し、著しく制限されていた。離婚自由も例えば「不貞」(浮気など)事由は妻側が原因の当事者の場合は容易に夫は離婚できたが、男性にその事由があっても、妻側は離婚はできなかった。
 
 そういう不公平なことが是正され、当たり前のことがごく当たり前になったのは、まさに今の日本国憲法のおかげである。24条はこれを受け「夫婦が同等の権利を持つ」ことを明記し、両性の平等が規定してある。

 偏見を承知でいうなら、昨今えらく保守的(というか、戦前タカ派的)思考の女性が多くなってきたように思う。女性評論家(桜井氏達)や新興会社の女性経営者(奥谷氏達)あるいは与党の女性議員(稲田議員や山谷議員達)など、いわゆるメディアでの露出度が高い女性はもちろんのこと、一般の女性にもこの種の思考の女性は間違いなく増えていると思う。

 上記に記したメディアでよく見かける女性の場合は、彼女達の飯の種(ある意味スポンサーとなってささえてくれる企業経営者のおじいさん達の思考)がタカ派主義と密接な関係にあるから、まあそんなもんだろうとは思う。その証拠に、今のオピミニオンをきどる雑誌のほとんどは、右系のタカ派雑誌である・・・もちろんそれは、雑誌に広告を出している会社経営者の背後での強い賛同があってこそそうなっているわけだが。だから、こういう生き方しか選べない女性もいるだろうとは思う。

 問題は、一般の女性の場合だ。平均的主婦やOLやあるいは老齢の女性。どの世代でも、一定数のタカ派的女性が増えているような気がする。彼女達は、どういうタイプの女性なのか。戦前と戦後との女性の地位の在り方をどうとらえているのか。セクハラについても、自民の女性議員の動きの鈍さと同じように、あたらずさわらずで日常をすごしているのかそれは分からない。

 ただ、こういう女性は外見的(これまた偏見になるが)には、ごくごく普通の女性のような気がしてならない。自らの体験で言うなら、ジャパンカップのとき自分の服を女性にまともに踏まれたことがある。連れ合いの男性は謝罪の態度をみせたが、当の女性はシレッとたままだった。それどころか、「見えない見えない」と連れの男性に駄々をこねていた(レース直前に来場して、いい場所で見えないのは当たり前だ)。このときの女性が実はごく普通の女性(外見も)だった。

 またみんながきちんと電車に乗ろうと並んできるときに、20代前半とおぼしき女性2組が、横からまともに先頭に割り込もうとしたのをみたこともある。そのときは、さすがに先頭の男性が「並べ!」と腕で女性をひっぱり、彼女達のもくろみは未遂で終わった。このときの女性も、ごくごく平均的な女性であった。

 以上の女性達に共通していたのは、外見から見るならごく普通の「大人しめ」の清潔な印象を持つ女性だったということだ。そういう行動をみなければ、日常生活で会った場合、外見上そんなに悪い印象は抱かれないタイプだということ。でも彼女達は、自らの間違った行動に対し、決して「あやまる」ことはなかった。まるでそれが信念であるかのように。

 ところが一方で、コンビニの前で私が自分の落し物に気付かなかった時、髪の毛金髪の顔ガングロ、服装派手派手の女性(18~20歳前後)に、「落とされましたよ」と言葉をかけられ丁寧にひろってもらったことがあった。言葉遣い、行動ともに丁寧だった。しかし、その前後の彼女の仲間との言葉使いはまさに今風である。コンビニに入る前、「ウザイ馬鹿娘達がいる」と思っていたので、そのギャップにそのときはとまどった。

 ファッションセンスは、戦後特に昨今かなり良くなっている。私はかなりダサいけど・・・若いときには、こだわった時代もあったが、今は完全にダサい親父ファッションである・・・多くの女性がみんなこぎれいになったと思う。それは、それで本当にすばらしい。憲法13条の「個人の尊厳」は、服装レベルの外見上は確かに高レベルで実現されていると思う。

 しかし、行動の方はどうか。外見の印象と行動とは必ずしも一致しない。私人間の「他害性」を制限する13条の「公共の福祉」にかなっている行動をとれない女性(私が目の当たりにした最初の二つの例の女性)もまた増えていると思う(もちろん男性も多くなっている。だが相対的割合として、そういう行動の女性の頻度が高くなっているように思う)。戦前制約されたいた女性の地位がようやく戦後改善されたのに、それを大切に行使し守ろうとする意識が希薄化した女性が最近ふえていることは間違いない。

 タカ派的意見を述べる女性は、外見上「大人しい」印象持つ人物が多い。そういう意味では「爺殺し」的印象を受ける。女性同士のいじめの問題(たとえば、公園デビューなどを含めて)も多いと聞く。確固とした自分というものをもてずに、常に自らがターゲットにならないように気を使い生きていかなくてはならないのも大変だとは思う。しかし、その代償手段として感情的に(ストレス発散)タカ派的意見に安易に賛同したり、小泉劇場に参加することは慎むべきである。
 
 今女性が当たり前のように思っている権利を行使できるまでには、多くの女性の長い苦難の歴史がある。今の憲法をよく理解もできていない(知ろうとしないまま)まま、女性達が憲法改正の空気に安易に乗ることは、自らの権利を自ら捨て、あるいは集団的自衛権における現場の隊員(制服組でも幹部は自らは安全な場所にいて、それでおいて自らの権力の強さの向上は手にできる・・・だから制服組でも幹部は集団的自衛権積極派が多いのだろう)の生命を軽視することのきっかけに手を貸すことにほかならない。

 ウオッカはまさに、本物の実力を身につけ牡馬を蹴散らした。これからの日本の女性も、もっと今の憲法の真のよさを理解し、服装的な外形面だけでなく、行動や思考法においてより今の進歩的な日本国憲法にふさわしい、本物の民主的なリベラル感覚(他人への思いやり)を身に付けて欲しいと思う。

 サッチャーはそういう意味では、一個人の人格の尊厳を放逐し、人を抽象的機械的に把握した思考をもった人物であって、冷徹で具体的人間像をイメージする感覚がとぼしく・・・これにあこがれるあほな上昇志向の女性は多いけれど・・・本物ではない。もし、アメリカでヒラリークリントン大統領が誕生したなら、彼女は本物になれるか。そして、日本でいつ今の日本憲法にあった(民主的リベラル感覚を身に付けた)本物の女性の政治家が誕生するか。興味はつきない。

 今日女性について書いたことは、もちろん男性にも該当することだ。そういう意味では、政治のテーマにおいて男性女性の区別すること自体、本来は意味のあることではない。ただ、女性が、しょうもない意気地のないタカ派男性が政治の中心を占めるようになった昨今において、それをまね賛同することが、自らの女性としての地位向上になるのだというばかげた発想を持つことだけは捨てて欲しい。そうでないと、なかなか本当の女性の地位向上(生活面も含めた)はできないと思うのだ。
 
 ちなみに、私はダービーの馬券ははずした。ウオッカの頭の馬券は買っていない。それでも、牝馬の昨日の栄冠は素直に喜んでいる。かっこばかりの強さではない、真の実力(強さ)というものは本当にすばらしい。

 

 

 
 
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by phtk7161 | 2007-05-28 09:08
 夏の参議院選挙が近い。もちろん実質的選挙はすでに始まっている。今のところ与野党拮抗状態というところか。参議院で野党が過半数(非改選まで含め)を占めるためにも、野党への支持がこれから伸びて欲しいと思う。

 今回の参議院選挙、本当は野党は何もしなくても楽勝であっておかしくない。なぜなら、前回の衆議院選の結果が暴挙といえるほど与党の圧勝だったからである。健全な有権者があるなら、衆議院の3分の2を与党が占める(参議院も過半数与党が占める)今の状況がどれほどまずいことか分かるはず(今の状況では、どんなむちゃな法律も数の力で押し切れば衆参両院ともいとも簡単に通過し可決してしまう)で、この場合有権者の政治バランス機能が自然に働いて当たり前である。

 少し前の有権者には、それなりにバランス感覚を持つものが多かった。衆議院選挙では自民を支持しても、参議院選では野党に入れる人がけっこういた。自民党の後援会の関係者でさえ、選挙区で自民、比例で野党に入れた人もいる(私周りでそうした人が現にいた)。ひとつの党が権力を圧倒的に独占することのまずさを、人生観の中で悟っていたのだと思う。

 よく長い間日本人は「平和ボケ」だったといわれる。しかし、平和ボケは実は与党支持者(ことに普段選挙に行かないのに、この前衆院選で小泉劇場にのった人達)にふさわしい。今自ら当たり前に行使している権利というものを、何事もなく自然に得られたものと誤解している。

 従来の公的ものに対する不満はそれなりに分からないでもない。しかしあまりに政治に感情面ばかりを持ち込みすぎ、その結果理がどこかにいってしまっている。特定の感情優先が政治のバランス機能を阻害しているといっていい(これがまさに、小泉&安倍政権における政治の本質である)。

 政治本来の役割・・・力の賢明な分配・・・を無視し、安易な○×思考になりすぎている。政治において、こういう考えがもっとも危険な状況を生み出すことは、歴史的経験則からも明からだ。

 権力の怖さ、軍隊が本格的に活動しだしたときの、政治におけるやっかいさ(もちろんシビリアンコントロールの問題だ)。集団的自衛権により、中東で日本の自衛隊がイランとドンパチやることの危険度の高さ(北朝鮮や中国とドンパチやる危険性などこの何十分の一だ)。

 憲法改正の目的が、最終ゴールとして・・・徴兵制や天皇の元首制(政治システムにおいて実質的に何らかの機能をもたせる)、さらには国民主権の「主権」性を弱め、法律留保までいかなくともそれに近い権力機能を国家に持たせることをにらんでいること・・・国民の権利を弱めることを目的としているのは間違いない。

 少なくとも今の憲法をきちんと真面目に理解し、自民のもともと予定していた改正草案の中身、今の憲法改正への動きの流れを知れば、容易にこの結論は肯定できる(ホント国民投票前に、すべての有権者にはこのことについて知っておいて欲しい・・・そうなればだいぶ世の中空気もかわると思う)。

 もし憲法改正が一端行われ、そのときの中身は環境権など新しい人権を具体化する程度であったとしても、そのとき同時に96条の憲法改正要件をより緩和する規定も成立しているなら、いずれ頃合を見計らいもっと積極的改正が行われ、目標へのゴール(タカ派の予定する)へとたどりつくことにだろう。

 そういうことまで具体的に分からなくても、今の空気がこのまますすめば「何かまずいぞ?」と感じることができなければ、まさに「平和ボケ」した有権者だと思う。今のメディアは確かにこの手のネタに消極的になっているかもしれない。しかしそれでも、今のヤバイ空気を感じ(探知)させる情報に国民が接する機会は、まだまだ十分にある。

 もしそういう情報に接しながら、それでも何にも感じず簡単にスルーしてしまっているとすれば、それはその人の政治バランスをはかるためのセンサーが壊れ、まさに「平和」ぼけ(何もしなくても、今の日々の生活が永遠に続くという気楽さ)してしまっている証拠である。

 余計なお世話であろうけれど、時にこういうタイプはオレオレ詐欺などにも簡単にひっかかってしまうのではと心配になってしまう。自らの権利を守る危機センサーが明らかに機能していない人は、絶対的信頼性の強いカリスマ性のあるものを求めやすく・・・例えば国家は間違ったことはしない(歴史的にそれが間違いであることを示す事例は枚挙にいとまがないが)・・・安易にそれを信じてしまう。

 そういう人(そういう象徴的ものに頼ってしまう人)は、ある意味自ら主体的に考えることを放棄した人間であり、それは「国民主権」が予定している本来の「国民」(像)ではない。

 国会の攻防をみてメディアやしょうもない評論家は、野党がだらしないと指摘する(自らのことを棚に上げてよくいうよと思う)。でもそれは大間違いだ。衆議院で3分の2与党(しかも参議院も過半数与党の)が占めている今の状況下で何が野党にできると言うのか。国民が野党に国会で戦うためのもっとも必要な最低限の有力手段(抵抗の手段の要件を達成するための最低ライン数の力)を与えないでおいて、それで野党の役割を果たせといってもそれはななかなかそれは難しい(むちゃというものだ)。

 確かに選挙協力や、国民投票の議決において一部に離反者がでた(困った爺さんである)こと等、もちろん細部を見れば野党にも問題はあろう。しかしそれでも今の数の力がない中で、野党はそれなりにやっていると私は思う。

 いずれにしても、今の政府の暴走状況(飲み屋ででる会話レベル感覚での幼稚な政策立案)を作り出した責任は、間違いなく国民にある。小泉劇場というお遊びに国民が付き合った結果であるのだ。

 だからこそ、真近に差し迫った参議院選は「福祉国家理念・・・格差」「政府の暴走にストップをかける数の問題・・・野党の過半数確保が絶対の条件であること・・・・これができないと与党に思うがままの政策(米軍再編法などその最たる例であろう)をやられてしまうこと」を野党は主張したうえで、あとはどっしりと構えて選挙戦を戦えばいい。国民が作り出した政府の暴走を許してしまう今の状況の是正については、サイは国民自身に投げ返すべきだと思う。

 その結果負けたとしても、それは野党のせいではない。有権者自身の責任である。国民主権は国民が自ら主体性をもって、政治をコントロールしていくことを予定している。選挙をいつまでも人気投票と勘違いしている国民が、感情のおもむくままゲーム感覚で投票することなど予定していないのだ。

 今の数の状況であっても与党を支持したければ、いつまでも携帯遊び(小泉をまた写メールでとりまくればよい、応援演説に飛び回るらしいから)や国粋遊び、はたまた宗教の信徒団体での選挙サークルのお遊びに熱中すればいい。そうやって、自らの権利の放棄へせっせと努力することだ(ただし、一度水を濁してしまうと元に戻るには多大な時間を要するけれど・・・また権利を取り戻すまで長い時間を要することになるだろう)。

 夏の参議院選挙は、今の有権者の質を見極めるのリトマス紙の役割を果たすいい機会といえるだろう。ここで、与党の過半数に力を貸す有権者であるようでは、まともな民主政治などそもそもできっこない。野党にどんなに優れた人材がいようとも決してまともな政治などできない。根本を支える土台(有権者)が、民主政治に必要な最低限の機能(権力の暴走を防ぐためのバランスをはかる力)を持ち合わせていないのだから。

 繰り返しになるが衆院で与党が3分の2参院でも与党が過半数である今の状況(法律案の可決要件)なら、夏の参議院選挙で国民の危機センサーが自動的に働いて当然である。そうできないのなら、もう国民の政治に対するバランス感覚が崩れてるとしかいいようがない。

 与党が過半数を維持することを有権者(国民)が選択した場合、そういう基本的危機センサーさえ働かすことのできない有権者が、自ら望んだアメリカ型契約社会のなかで、自分は生き抜いていけると本気で思っているのだろうか。外資に食い物にされるのがおちかもしれないのに。

 しかしもし基本的危機センサーを働かせるの力(権力の暴走を抑制させる力)がまだ国民の側にあり、野党の過半数を実現できるようなら、日本はそう簡単には外資の食い物にはならない。まだまだ勝負はこれからだ。そういう国民(危機センサーの働く国民)であることを、リトマス紙(有権者の質を見る)となる夏の参議院選挙では、ぜひ有権者に見せてもらいたいと思う。少なくともアメリカ人は、この前の中間選挙でそれ(バランス感覚)をみせているのだから。



 
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by phtk7161 | 2007-05-24 16:43
 村岡元官房長官の判決は、一審の無罪から一転有罪となった。二審の裁判における検察側の証拠はほぼ一審と同じもので、今回の判決は裁判官による同じ材料を基にしたうえでの認定の違いによる結論ということになる。 つまり同じ証拠であっても、裁判官(人間の)の違いによって「合理的な疑いを超える程度」の立証を検察官がしたかどうかの心証が異なるというわけだ。まあ裁判といっても、機械ではなく人間のやることだからそうであってもおかしくはない(自由心証主義であるから)。でも、ことは人の一生を左右する力を持つ裁判に関することだ。果たして、今回の判決は妥当といえるのか。

 今回の判決をめぐる問題の本質は、裁判官(所)ではなく、むしろ検察官(組織)にあると私は思っている。今の検察の何が問題か。今にはじまったことではないが、ただことに最近の検察の印象は一言で言えば、かなりあらっぽいということだ。それは物理的な意味のあらっぽさではなく、むしろ有罪を立証するための論理的構成の意味でのあらっぽさである。緻密な論理仕立ての世界から、勢い(時には、やっちまえ的な感情を根底とする)に任せた世界へどんどん流れているような気がしている。もっというなら、ある種の政治的力・・・たとえば裁判所とのつながり・・・に頼りすぎているということである。

       ☆       ☆       ☆

 今回の村岡元官房長の事件にしても、そういう面がみられる。有罪のポイントとなる要は平成総研の滝川事務務局長の供述証拠である。一審は彼の供述の信用性に合理的疑いをもった。当時の自民党事務局長が滝川事務局長から献金扱いにの相談を受け、一部迂回献金があった事実は濃厚である(この点は、裁判所も認めている)。

 それを受けて一審は、今回の事件を村岡&滝川組が事件の核心(政治資金規正違反の核となる部分)ではなく、むしろ他の政治家や組織(自民党本体)が今回の政治資金規正法違反事件の核心だとしてもおかしくないと考えた。その結果村岡被告が事件の中心人物であるとすることについて合理的疑いをこえるとまではいかない(=無罪)としたのである。

 ところが二審は、いやそれは(自民党事務局長をめぐる動き)は単なる付属的な出来事で、事件本体とは関わりがない。あくまで村岡&滝川組が事件の画策の中心であることに、合理的疑いを抱かせることはないとしているのである。

 実は当時の事務局長(元宿氏)は今事務総長となっている。つまりこの事件で彼は政界から身を引いたわけではない。今でも党の事務方としてそれなりの地位にいるといっていいであろう。この点からみても、私は一審の認定した、検察側が用いたストーリー以外の他のストーリーの存在の蓋然性に、かなりの無理があるとまではいえないと思うし、また仮に一審の認定したストーリーが違っていたとしても、だからといって、少なくとも検察側のストーリーが他のストーリーの存在を容易に連想させないほど、ゆるぎのない説得力をもっているとは思えない。

 私は裁判の事実認定において、最も大事なことは経験則(その世界の習性的もの・・・もちろん経験則がすべてではないが)だとおもっている。事件全体からかいまみえる、政治がらみの社会における人間関係の経験則からすれば、私には今回の判決は妥当とは思えない。
 
 日歯連をめぐる問題の中心人物は、橋本派の議員であることは間違いない。しかし、当時の力関係からして村岡氏が今回の献金をめぐる中心人物だったとすることには、かなりの無理があろう。もちろん、広い意味では彼も政治資金規正法違反の端っこで、事務的手続をめぐる動きにおいて政治資金規正法違反の要件に該当する行為はあったかもしれない。しかしあったとしても、それはかなりの端くれ行為で今回の判決ほどの可罰性を要する行為とは思えないし、しかもその行為の本質(持つ意味)を本人はほとんど意識すらしていないと思われる。

 それは遺失物横領のようなものに例えれば(たとえとしてはかなり強引で無理があることは承知しているが、事件をよりわかりやすくするためにあえて別の犯罪で単純化してみる)、落ちているお金をみつけ自分たちのものにしようと考えた人間たちが、その金を拾うこと自体(政治資金規正法違反であれば、事務上の無記載行為)は下っ端の人間(自分達の意のままに動く)にまかせ、一端は自分達のグループ(あるいは、そのグループの属する組織全体)のものにした。しかしそれがばれてしまった。そういう事件があったとしよう。

 この事件において、検察は実際に拾った人間と、お金が落ちていた現場にはいなかったが、拾った人間から「このお金どうしましょう」と聞かれ、「とりあえず持っとけば」といった(検察側のストーリーにのればそういうことになる)人間を主犯としているよなものだ(もっとも村岡氏側は相談された事実、お金の処理をめぐる相談の会合があったこと自体否定している)。事件全体の決着のつけかたとしては、どうみても無理があろう。

       ☆       ☆       ☆

 今回の判決からみえるものは、検察側の日歯連事件をめぐる筋書きの荒さと(論理性を含め)事件の支流(村岡氏の件は支流ですらないのかもしれない)を本流としてしまった、政治決着的やりかたである。今回の判決は、それにそのままのっかってしまっている。

 検察官に求められるものは、政治的処理ではない。法的処理である。刑事事件は人の人生に民事以上に重大な影響を及ぼす。したがってそこでは、処罰の必要性(本当に必要かどうか)や、事件に関わった人間の処罰の均衡性などを考慮したうえで、公訴権は行使されなければならない。それが時の政治的背景や時流にまかせるまま、論理を軽視し「とりあえずやっちまえ」では、治国家としての検察官の信頼は低下してしまうだけであろう。

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 今回の判決などから、最近の検察の公訴権の行使の動きをみると、近時の検察官(組織)には、法的「理」による「冷静さ」が低下している気がしてならない。最初に述べたように、事件によっては、刑事司法の原理原則的「(論)理」を無視して、かなりあっらっぽい処理をしているように思える。
 
 例えば、板橋の高校の君が代をめぐる元教師(この高校のOB教師)に対する威力業務妨害の事件なども、果たして起訴される必要があったのか。この事件は、警察すらそもそも逮捕するつもりのなかったものを、一都議による議会の質問で、この元教師の身柄拘留が行われたと言われている。

 事件の内容を見る限り、明らかに業務(学校側の卒業式)の実質的妨害(処罰を必要とするほどの)はない。ようするに、政治側の意図(ある都議とその仲間達の意向)を受けた捜査が行われたと言っても過言ではない。そして、そこに検察までのっかり、あげくに裁判所までのっかってしまっている。

 事件の背景(告発の動機などもふくめ)や可罰の必要性を考慮したとき、この事件で検察官や裁判官は、愚かな一都議の行った、元教師の逮捕を求める煽り行為にのって、安易に身柄拘束(これは警察がやったことだが・・・しかし裁判所はそもそも逮捕令状を許可すべきだったのか)したり起訴さらには有罪判決をくだすべきではなかった。

      ☆       ☆       ☆

 おりしも最近「人質司法」をめぐる問題もとりあげられている。これは、痴漢などをめぐる事件(迷惑防止条例違反事件など)で行為の事実を認めないものに対し、勾留を延長することにより(仮釈放を認めない)あたかも自白の有無と身柄の拘束がセットのようになってしまっている問題である。

 この問題のむごいところは、被告人に対して言い渡される刑罰以上に、それまでに身柄拘束された期間のほうが長期にわたっていて、その結果、判決の量刑よりもそれまでの過程で受けた処遇(長期の身柄勾留)の方が、被告人にとって何倍も過酷な状況になっているということである。

 痴漢は確かに卑劣である。許すべきものではない。しかしそのことと、「無罪推定の原則」をひっくり返してまで、身柄拘束(否認しているものに対する)や処罰の必要性が優先されるべきかは別問題である。被害者の供述のみで捜査における身柄拘束が容易におこなわれ、あるいは有罪となってしまう現状は、是正される必要があろう。

 検察官、裁判官、いずれも大変な職務である。職務の内容と忙しさからすれば、彼らの収入も決して高いとはいえない(私は世間が言うほど、彼らの給与が高いとは思わない)。そういえるのは、彼らが人の人生の運命を左右する決定的な権力を他の職業以上に持つ職業であり、それにふさわしい、高度な法的知識や人権への意識が常に求められるものだからである。

 彼らは、やみくもに人の身体を拘束すること(を認めること)や罰することを、職務として求められているわけではない。世間や時の権力に向こううけするような「感情」ではなく、高度の法的専門家としての法に基づく冷静な「理」にかなった職務の遂行が、彼らにはより求められているのである。今の現状をみると、その部分がゆるみつつあるような気がしてならない。
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by phtk7161 | 2007-05-16 22:30
 フランスでサルコジ氏が、次期大統領に決まった。選挙の結果はサルコジ氏53%ロワイヤル氏が47%と、当初の予想よりも両者の差は接近していた。これはサルコジ氏が勝ったとはいえ、彼を警戒する国民がかなり多かったことをあらわしているといってよい。ある意味でフランスも国論を二分する状況にあるといっていいだろう。とはいえ、サルコジ政権が今後少なくとも6年は(途中辞任がないかぎり)続くことになる。

 個人的にいえば、ああいう自己陶酔型のナルシスト的人物は好きではない。彼のような言葉の選び方ができない政治家を、私は認めない。危険な人物だとも思う(冷酷型プーチンほどでないにせよ)。そういう意味では、フランスのことを考えるとうっとおしい気分である。

       ☆       ☆       ☆

 アメリカ型市場主義を選択した今回のフランス国民の意思は、新しいグローバル化の流れに逆らえず選択されたのだとする論者も多いであろう。しかし、グローバル化による市場主義(小さな政府的経済政策)も根底からみれば、なんのことはない。単に産業革命化当初の時代に後退しているだけである。

 世界のリーダーを気取るアメリカ。この地位を支えるものは何か。それが軍事力であることはだれも否定しないだろう。これがあってこそ、今のアメリカ的市場主義をグローバルの名の下に世界に広げられるのである。そういう意味では、アメリカ人(といっても伝統的アングロサクソン系のというべきかもしれないが)の本質は独立以前のアメリカ大陸上陸どきから、なんらかわっていないといえる。

 ネイティブアメリカ(いわゆるインディアン=不適切な表現でいえば)に対し、土地に対する所有権の概念のなかった彼らに、(アングロサクソン的)契約の名のもとに暴力(軍事的力に類するもの)&詐欺師行為により(アメリカ人的合法)一方的に建国のもとである土地を取得したそのやり方は、現代でもかわらない。

 現在でもアメリカは、彼らであみ出した彼らのルールを世界基準として、押し付けようとする。もちろんヨーロッパ人(イギリス人、フランスをはじめとする)は、軍事力はともかく、人種面では本音ではアメリカ人は下級人種(そういう本音も決して肯定すべきものでないが)とみているから、そうそうアメリカのいいなりにはならない。

 しかし、日本はそうではない。アメリカの軍事力を必要以上に評価しそれに頼りすぎるあまり、経済システムをみごとなまでにアメリカ流経済システムにかえようとしている。この流れが続く限り、そう遠くない時期に、日本は間違いなくアメリカの一州として、経済面も軍事面も存立することになるだろう(三角合併など受け入れたのは日本くらいのものだ)。それは、まるでネイティブアメリカンのケースと同じと言えよう。

 ただ決定的に違うことは、ネイティブアメリカンは、当時の彼らの世界ではそのこと(土地の所有制=私有制)を理解することが困難だったのに対し、今の日本は確信犯的にそれに従っているということである。それほど、今の日本はアメリカ人になりたい竹中氏や木村剛的人物(彼らはなぜアメリカ国籍にしないのだろう)が増えているということであろう。

       ☆       ☆       ☆

 能力に自信があるものが、競争世界で勝ち残るために努力する。それはそれですばらしい。ただそれだけでは、ばかげた産業革命時代となんらかわらない。人類が立憲民主主義近代国家といえるためには、経済競争に勝とうが負けようが、どんな人間でにも衣食住は最低限保証できる世の中でなくてはならないということである。

 経済的に裕福であろうがなかろうが、システムとしてその政策を維持できない経済システムなら、それは原始時代以下の生活である。たかだか数%の人間が国家のかなりの部分の富を占有している経済システムのどこがすばらしいというのであろうか。自由主義を当然の前提としても、富が不必要(あまりに少数の人間や企業に富が集中する形)に集中するようなバランスのとれない経済システムなど何の意味があろう。その数%にはいるため、それが自己決定によるとしても、自らの体を整形しまくり、プレイボーイ誌をかざり、はたまた自分よりかなり年配の老人と結婚して莫大な遺産をつかむことのどこが、サクセスストリーというのか。

 自分の能力に自信をもつのはいい。仲間内で富をほこるのもいいだろう。でもそうでない衣食住に苦しんでいいる他人に対し、それは能力のないやつだから仕方がないという考えは、産業革命時の「馬鹿」的考えである。人間としても最低と言えよう。成功しているものが贅沢するのはけっこうなこと。しかし贅沢しつつもそうでない他人を思いやれない人間、そうでなくても最低限の生存セキュリティが社会になくてはならないと考えられない人間は、立憲民主主義にふさわし国民像とはとてもいえない。
 
 どうも、しばらくの間、こういう愚かな国民が世界中で跋扈しそうな流れである。しかし、例えばテロの問題にしても、その問題の最も根本的な解決が、経済問題にあることは否定しがたい事実である。自由主義(でもアンフェアな)を標榜する軍事事大国が、どれだけ最新の軍事兵器やセキュリティシステムをつくろうが、それだけでは絶対テロの根絶はできない。根絶するには後進国の経済面(貧困)の問題から逃げてはだめである。そしてそのためには、アメリカをはじめとする経済大国が根本的に発想を変えていかなくてはならない。

       ☆       ☆       ☆

 今のアメリカは、明らかに他国を食い物にして何とか生きながらえているのが現実の姿である。アメリカがアメリカの国内でのみ処理する経済政策をとるなら、アメリカには今の数倍もの失業者があふれ、国家の経済は間違いなく修復不能なほど破綻してしまうだろう。それをグローバルの名の下に、軍事力を背景にやりたい放題にやって何とかもたしているのが、アメリカの本当の姿である。

 私は、アメリカのリベラル的考えは好きだ。だからこそ、ブッシュ政権などとっとと撤退し、はやく民主党政権になって欲しいと思う。もちろん経済的にはその場合、日本に対するアメリカの保護主義政策はかなり強まるだろう。それでも、今の共和党の対日政策に対し、朝貢的に必要以上にサービスする日本の与党政権をみると、それをやるくらいなら、経済的にたとえもっときついめにあうとしても、そこから自力をつけていかないと、本当の意味で日本の経済復活がなったとはいえないであろう。また、このままでは、ことに軍事面で日本は後戻りできなくなる。アメリカバイキングの軍事政策(第二の馬鹿ブッシュが出現したときそれは現実となる)に付き合うことになってしまう。

 今後世界は、いよいよ軍事産業をこれまでに以上に、まとまもな産業として認知しだすだろう。そして彼らは言い出すだろう。「それは平和の問題とは関係ない。経済を発展させる一手段であると」。しかし、覚えておいたほうがいい。あれほど軍事的に圧倒的な力を誇っていたイスラエルが、なぜヒズボラに大苦戦したか。兵器が発達すればするほど、テロ組織の軍事的力も発達していく。なぜなら兵器産業がまともに商売化すればするほど、供給者にとっては、金になるかぎり需要者(お客)が誰であろうがかまわないからである。

 このブログでもすでに指摘したことだが、今のレベルまで軍事力が発達すると、もはや軍事力は決定的な力とはなり得ない。なぜなら地球レベル(対象国をこえる広い範囲にわたる、それこそまさにグローバルである)の破壊が現実となるからである。そのうちテロ組織が核を持つことすらありうる。

 したがって、原点に返れば結局今の日本国憲法の9条の精神(自衛権は当然の前提、しかしイラク的手段的自衛権・・・馬鹿な有志連合など・・・は侵略戦争で論外)こそまさに、今の世界が抱える問題の解決の道筋になるといえよう。アメリカが日本に対して与えた最も多大な功績である憲法9条の精神は、実はアメリカをはじめとする世界にとっても本当は必要なものなのである。
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by phtk7161 | 2007-05-10 07:51
 中学時代に野球をやっていた。私のいた中学は野球が強く、県でも何度か優勝した実績を持つ学校だった。この野球部は、練習はもちろんのこと先輩後輩の上下関係も厳しく、しごきを受ける毎日。ケツバットは当たり前で、一人の先輩に付き人のようにつくのが決まりだった。雨が降った日には室内練習の後、説教という名のいたぶり。おまけに盆と正月、テスト期間の数日を除いては、休みもない。最近でも高校野球レベルでの先輩からの暴力事件が記事になるが、それとかわらぬレベルを中学時代にやってたわけだ。

 この野球部は、下級生が途中でクラブをやめるときは最後の練習というなのしごきを受けなければならなかった。1周350mほどのグランドをうさぎ跳びで何周もさせ、懸垂100回、腕立て1000回(できるわけない)、人を肩車してのスクワット100回と、中学生の体力ではまず不可能な内容だ。当然、やめる生徒が泣きながら体が動かなくなるまで続けるわけで、まわりで見ている下級生の部員のほうが、やめることに恐怖を覚える内容だった。やくざがなかなか足抜けを許さないようなものだ。それでも、入部当初の同級生の半分近くがやめていった。

 この野球部に、私の一つ下の下級生が入部してきた。もともとは小学校時代に転向して来た子で、この子の兄(その頃は高校生だった)も中学時代野球部にいたが、その兄は練習のきつさ(あと、いじめ的な人間関係もあったかもしれない)で退部していた。弟の方は、野球がとてもうまくレギュラーを脅かす存在になっていた。そのため、上級生(私の同級生)の中には気に食わなく思っているものもいて、例のごとくしごき(私はやらなかった、元来この手のしごきは私は嫌いだった)を彼に加えていた。そのため彼も嫌気がさし、結局は彼も例の最後の練習で涙を流しながら、退部して行った。

 この彼に対し、私が3年最後の大会をの試合を終え、野球部を引退したあと、野球部の同級生から彼をリンチにかける(ヤキをいれる)話が持ち上がった。その理由は分からない。私から見て、彼が退部した後学校生活でみかけても、特に悪い態度だったようにはみえない。ただ、3年のワルの一部と、野球部の同級生全員がとにかくこのリンチに加わることになった。

 私は、集団の暴力はそのことから嫌いだったしやりたくなかった。でも情けないことに、結局は私もしぶしぶ加わってしまった。野球部全員が加わる中で、集団の流れに負けたわけだ。

 20人近くの人間で、ひとり10発の拳固を彼の顔面や腹に叩きこんだ。日ごろおとなしいと思っていた同級生まで、勢いよく殴っていたのにはびっくりした。最後まで「俺はいい」と私は拒んでいたが、周からの「なんで、お前だけやらないんだ、やれよ」の声の中で、彼に「すまん」といいながら腹を2発だけ殴った。後味が悪く、後悔の念だけが残った。

 この件は後日学校に知れ、授業中呼び出しをくらい反省文、呼出し後放課後まで廊下に正座、さらに1日の停学となった。でも、これくらいの罰はあたりまえ(それどころか、今思えばむしろ軽すぎる)だ。

 私はこの時から決心した。いじめはもちろんのこと(野球部のレベルはいじめをはるかに超えているが、本質はそうだと思う)、自分が納得できないことで、二度と集団の流れに加わるようなことはやるまいと。集団になった時のたちの悪さが、如何にしょうもないことかいやというほど認識させられた。

 3月に入り卒業真近の頃、彼の兄が私たちの野球部の先輩からリンチを受けたと言う話を聞いた。彼が受けたリンチを兄が学校に抗議したこと(当たり前だ)を、私の同級生の兄(野球部OB)と仲間(やはりOB)がなまいきだと、彼の兄をリンチにかけたらしい。そして、その兄の件で彼は、私の野球部の同級生に対し、OBたちの行為を非難し(これまた、当たり前だ)同級生の了解の下、同級生(彼にとっては上級生だ)を遠慮がちに2発殴った(私の同級生も自分の兄たちがしたの行為を決して快くは思っていなかったと思う、だから殴らせたのだろう)。

 このことがまた、下級生が上級生を殴ったという話になり、卒業式数日前にまた、このまえのグループでまた彼を殴ろうという話がでた。今度は私は断固として断った。ワルにも「なんでおまえはやらないんだ」といわれたが、断固「俺はいい!やらない」と繰り返した。結局一部の不良と野球部の同級生の数人が加わったようだ。この件も、もちろん学校で問題となった。高校時代、別の高校に入った彼を喫茶店でみかけた。高校に入って、あらためて野球はやっていないようだった。彼女らしき人物と楽しく談笑している彼の姿を見て、ほっとさせられた。もちろん、私のやったしょうもない行為は、それで許されるものではない。

       ☆      ☆      ☆

 高校生以後、このときのことを教訓としている。自らへの返しをおそれ、流れに飲み込まれる行為の愚かなことを。

 高校の時、ある授業のボイコット署名が不良グループ(とはいっても進学校だから程度はしれていたが)を中心に始まった。私もその教師の授業は嫌いだった。しかし、その署名の集め方が暴力を背景とした威圧的方法だったので(明らかに署名したくないのに、しぶしぶ署名させられていた生徒もいた)、私以外のクラス全員の署名があったけれども、私は署名を拒否した。もちろん、中学時代の教訓があったからだ。

 拒否したとき、不良グループから屋上に来いといわれ「行く」といった。まあ、ぼこぼこにされるだろうが、その中の少なくとも一人だけは絶対、同じ目にあわせてやろうと思っていた。でも、なぜだか結局はもういいよということになり、屋上にはいかないですんだ。なぜ、彼らが呼び出すのをやめたのかその理由は分からない。

      ☆       ☆      ☆

 以上が私のしょうもない学生時代のエピソードだ。ちなみに、私は決して喧嘩が強いわけではない。それでも集団の力や、暴力を背景として理不尽なことを強制されるのが、たまらなく嫌なのである。

 私は今40代だが、今の私より下の世代が、数にものをいわせ、あるいは暴力を背景とした行為の愚かさ、はては軍隊的組織の非人間さのことを、どの程度知っているか分からない。国際貢献のための憲法改正、愛する人のために命を捨てると言うしょうもない「軍国美語」がはやりだした世の中である。流れにまかせて、あたらず触らず、あるいは頭の中のイメージだけで判断していると物事の本質を見誤ってしまうだろう。

 私はもちろん軍隊の経験はない。しかし、軍隊と言う組織が、訓練はともかく、他の日常面で私のいた野球部の何倍もきついりンチまがいのことが内包的にあっても、当然な組織だということは分かる。そこは上が○と言えば本当は×であっても○となってしまう組織なのである。

 昔、私の父から戦前の学生時代の頃、軍事教練のなかで先輩からものもいわず殴られていた話を聞いた(殴られた理由など分からずじまい。理由などないのかもしれない)。この話のからも、軍隊的体質が、本質において非民主的なものであることは知っておくべきだ。憲法改正により、そこがアメリカの一軍事支部となって暴走したとき、誰が止められるというのか。

 憲法改正に賛成するのはいいが、その先には徴兵制、あるいはそれに擬似する軍隊的ものが待っていることは、若い世代は覚悟しておいたほうがよい。すでに今でも、防衛族議員や官僚の中でも徴兵制を公言しているものはいる(いまでできるというくらい・・・もちろんばかげた解釈だが・・・だから、改正すれば、なお当然となるだろう)。映像や漫画だけのイメージだけで、戦争に参加することをノスタルジー的に考えていると、今に痛いしっぺ返しが来るだろう。

 愛国の名のもとで軍隊で奴隷的扱いをされたければ、憲法改正に賛成することだ。君らのおかげで、坊ちゃん世襲議員は安全な立場で、君たちの戦いの高みの見物ができるのだから。坊ちゃん議員の中で、体連的体質の愚かさを認識しているものは少ないだろう。また、しょうもない暴力的上下関係で、しごかれた経験をもつものも少ないだろう。こういう議員にとっては、集団的自衛権によって戦争ができるようになることは、さぞかしこたえられないノスタルジーなのだ。しょうもない坊ちゃんたちである。
 
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by phtk7161 | 2007-05-03 13:36