社会問題を考える


by phtk7161
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<   2007年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 シエスパの事故の概要を知って、私が着目した点は社長の若さと会社名の「ユニマット」の冠である。ユニマットビューティアンドスパの社長は30代の女性である。報道によれば彼女はそれまで小さなエステサロンを経営していたが、そこから数年で今の規模にまで急成長してきたようだ。最初のエステサロンのあったビルでの経営は2年程度だった。

 このことから推測されるのは、明らかに彼女にはスポンサーがいたであろうということである。渋谷区松涛のシエスパの建設にかかる莫大な費用と建設までの手続き(行政上)などの面を考えても、そうそう若い一社長が容易にクリアできることではない。「美」に関する事に関しては、確かに彼女はエキスパートであろう。しかしその他のことに関して、いわゆる「プロ」の経営者的匂いは感じ取れない。したがって、今回のシエスパの運営会社ユニマットビューティアンドスパの背後には、別の大きな投資(経営支配)した会社(ないしは人物)がいるはずである。

 その会社がどこか。「ユニマット」の冠に着目すれば、コーヒーサービスの会社や金融関係の会社があげられるが、どうもこの点ははっきりしない。たまたま社名は「ユニマット」だが、つながりはないのかもしれない。この点は手近で調べた限りでは、はっきりしなかった。運営会社の登記簿を調べれば分かるかもしれないが、いずれにしてもメディアはこの点をはっきりさせてほしいと思う。

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 シエスパの爆発事故は、今の日本だけでなくアメリカをはじめとする新自由主義経済社会の問題点を浮き彫りにしている。コストを節約し売り上げを上げる。外見にお金をかけ、差別化をはかり「美辞麗句」のうたい文句を並べる。目の前の数字が能力や価値のすべてを表し、目に見えない「価値」や「質」は軽視される。その結果、人間社会にとってもっとも大事にされてあたりまえであるはずの「生命」の安全が軽視されていく。

 責任の所在の「分業化」は、経営者側からいいようにとらえればそれは無責任な制度ともなりうる。しかし分業を彼らがどうとらえようと、社会的にみれば如何に仕事が分業化したとしても、責任所在の中心となる会社は必ず存在する。今回の事件では、ユニマットビューティアンドスパという会社がまさにそことなる。

 シエスパの経営者は「癒し」と「美」を賢明に追求してきたであろう。その点の努力は認めてよい。しかし、施設の安全面の問題は(説明会でも住民からの安全面に関する質問は出ていたようだ)、行政上の手続きを履行するための儀礼的なものとしかとらえていなかったのではないか。自らの施設のハードの土台となる基礎知識は、単に知らなかったですむ問題ではない。

 天然温泉をやるなら、基本的な安全知識は自ら調べてでも備える能力は、経営者に要求される最低限の能力であろう。規模は小さいが同種(他者の)の事故もおきていたことからすれば、彼女(会社)には予見可能性は十分にあったといえる。責任を逃れることはできない。

 会社の規模が大きくなることは、経営者にとって大きな夢であるし、まただからこそ努力もおしまない。しかし、今の経営者全般にみられることは、「質的」面より「外形的」面のいびつなバランス感覚である。渋谷の一等地に会員制の女性専用温泉を作ることは、会社の外見面での高級感を生み出しイメージにも大きなプラスであったであろう。しかし地道な温泉運営に伴う「ガス」という問題は、意識しなかったか取るに足らない問題であるとして他人任せであった。

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 会社の責任者は外見面だけうまくやっていいはずがない。地道な、他人には表だって評価されないことでも、本業にとってもっともそれが大切であることも多い。航空会社がいくら飛行機を外形的にきれいに、あるいは座席を快適にしたところで(それ自体ではよいことだとしたも)肝心な運行の安全面が低下しているとすれば、それはまさしく本末転倒であろう。飛行の安全がまず第一に確保されていてこそ、航空業はなりたつというべきである。

 このことからみても、安全面のコストの節約を必要以上に要されるような経済競争のあり方は完全に誤った経済体制である。もちろん経験則にもとづく安全管理は、衣食住その他どの業界もこれはすべてに共通すべき原則である。

 メディアはシエスパの追求をどこまでやれるであろうか。どうも、女性社長は会見を避けているようにみえるが、それを強く非難するメディアはあまりない。運営会社のバックにいる会社に遠慮しているようにも見える。シエスパには必ず背後に出資をした会社があるはずで、おそらく女性社長との個人的つながりの投資であろう(推測の域をでないが)。

 いずれにしても運営会社であるユニマットビューティアンドスパがこの事故の責任をもし負いきれない場合には、背後の会社も何らかの被害者へ自主的に救済に乗り出すべきではないかと思う。そうでないと被害者はうかばれない。この被害の責任から、運営会社とシエスパに実質的に投資した会社は逃げてはダメである。

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 女性にはもっと社会進出してもらいたいと思うし、それがまたこれからの日本の発展にもつながる。しかしその手段として「爺殺し」的手段で進出してくるのはどうか。たとえ時がかかっても本当の意味の実力で進出してきてもらいたいと思う。そういう女性経営者こそがまさに本物の経営者であるし、それが本当の意味での女性の社会進出にもつながる。

 チャンスがあればセクハラまがいの動機で出資をするような爺さんオジサン経営者も相変わらず多い。しかし、それにのっかって事業が成功したところで、そういう女性は所詮その程度の経営者であろう。そういうことだと自らの本業の根底となる能力(今回の事件で言えば、ガスに対する安全面についての意識)すらいつまでの持てない、いつまでも「おじ様あっての経営者」どまりである。

 本当は広い意味で言えば(見方を変えれば)、この問題はホールディング会社の責任の取り方の問題も含んでいる。投資はすれど(多大な利益はえても)責任はとらないという形が本当によい形なのか。一度は原点にかえって、考えてみるべき問題だと思う。
 

 
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by phtk7161 | 2007-06-25 16:05
 渋谷区松涛のシエスパのガス爆発事故から1週間近くたった。従業員と近くを歩いていた一般人が犠牲となった。あまりに気の毒で、言葉もない。しかし場所がらからして、被害がもっと大規模なものにならなかったのは奇跡的である。ひとつ間違えば前代未聞の大惨事となっていたであろう。

 事故の原因は、はっきり言って人災である。運営会社(ユニマットビューティアンドスパ)や管理会社は、自己以外のところに責任の所在と求めたいであろうがそれは無理である。彼らは責任を逃れることはできない。

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 もっとも責任の度合いは運営会社と管理会社で異なってくる。弁護士がどうごちゃごちゃいってみたところで、責任は圧倒的に運営会社ユニマットビューティアンドスパにある。

 管理会社(元請け)は、運営会社との契約内容でガスの安全管理上の義務があった場合(文言で明記されていた場合など)には当然責任がある。しかし契約上の責任がなかったとしても、管理契約をするにあったって安全管理面(ガス施設に関する)での適切なアドバイスをしてこなかった付随的責任が、場合によっては問われる余地はあろう。もしそういうアドバイスまでしていたのに、運営会社がそれを無視していたのであれば、その場合管理会社に責任はないことになる。

 ユニマットビューティアンドスパの社長の事故の責任に関する発言が、最初の記者会見以降聞こえてこないのも、おそらく会社側の責任を最小限度にしたいとする会社(役員や弁護士)の意向があるからであろう。しかし、運営会社側はどう法をいじってみたところで、従業員に対する安全配慮義務違反の責任はまぬがれないし、一般の方に対する不法行為責任も免れない。

 運営会社は、今回の件を管理会社に責任を転嫁する方向でいく気なのかもしれないが、それはこの種の事件に関する法の大原則からすれば、無駄なことである。

 この種の場合の大原則、すなわち天然ガスを利用してもっとも多大な利益を受けるところはどこか、利益に比例して責任も伴う(報償的観点)この大原則からすれば、運営会社であるユニマットビューティアンドスパがほぼ全面的に責任をおって当然(管理会社にも連帯債務を負わせる場合も含む)である。もし今後の動きがそういう方向にならなかった場合は、なにかおかしな政治的力が働いた場合と考えてよいであろう。

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 せっかくここまで業績を伸ばしてきた会社をストップすることは残念であろうが、しかし事故の規模から考えて、ここは被害にあわれた方の救済を運営会社は第一に考えていくしかない。もちろん、設備投資のために多大な債務をまだ抱えているかいしゃであろうから、バックにいる本当の運営者(社)や銀行(あるいは投資会社)は自己の債権の回収にすでに動きだしているだろう。

 しかし、そのために被害者の救済が手薄になっていいはずがない。そういうことがやすやすと通るようなら、法的責任の土台がしっかりしていない今の新自由主義経済の制度は、やはりハリボテ的な構造(経済システム)であるということになる。

 すくなくとも、ユニマットビューティアンドスパの社長は、今の新自由主義経済の典型的な経営者であることは間違いない。そういう意味で、私はこの事件の事後処理が今後どう行われるか(きっちり責任を取れるか)により注目している。
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by phtk7161 | 2007-06-25 14:38
  フランス国民議会の選挙が終わった。結果は、UMP314(前回359)社会党185(前回149)と、UMPは30以上減らし社会党は30以上増やした。与野党全体でみても、解散時より与党の議席数は減り(約340)野党は増えている(約200)。

 議員全体の数では、新自由主義的保守派(与党)が福祉国家的リベラル派(野党)より100以上多いから、野党の勝利といえないことはもちろんである。ただ、直前までの世論調査では400~480という数で与党の圧勝が予想されていたことから考えれば、今回の結果は国民がサルコジ政権(与党)に一定の警告を与えたものと評価していい。

 前評判とはかなり違った今回の結果を、サルコジ政権が増税を示唆した(直前になり否定)ことが原因とする見方もあるが、私はそうは思わない。むしろこれは、フランス国民があまりの与党大勝の予想に一定の危機感を抱き、バランス感覚を働かした結果であろう。与党の圧倒的な数を基盤とする政府の危険性、すなわち権力の暴走による人権へのマイナス的な影響など、「権力」というもののやっかいさを一定の国民が根底のところで認識していることが大きい。フランス人の国民性に、自ら権力者を倒して権力を獲得したDNA的なものが備わっていることの表れでもあろう。

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 人類が長い歴史の中で得た重要な経験則のひとつに、圧倒的な権力は腐敗し暴走しだすということがあげられる。数的なものでいえば(選挙的な)ひとつの政党やひとつの硬直した考えだけしか認められない国家(社会)では、人権的なものが許容される度合いは著し低く、人の生命も軽んじられる。その最たるものが全体主義(ファシズム)である。

 どんなに、すばらしい人間(人格者)でも、巨大な支持を背景に彼に権力を集中させれば、時がたてば必ず暴走する。これは、人類が常に意識しておかなければならないひとつの真理である。そして、そういう形(圧倒的な数的権力)を生みださないことが、また民主国家における国民の使命でもある。何かにすがりつくだけの主権者(国民)は民主国家にふさわしい主権者(国民)とはいえない。そういう意味では、フランス国民は今回の選挙で当たり前のことをしたにすぎない。

 ひるがえって、私達の国はどうか。前回衆議院選で与党に国民は圧倒的な権力を与えた。最近の暴走的な国会運営も、一面から見れば国民が与えた形でもある。それがまずいと思うならそれは、国民自身の手で是正しなければならない。それが間近に迫った参議院選挙でだせるか。いいかえれば、戦後民主化された日本で、真の民主国家にふさわしい国民が育ってきたといえるか。夏の参議院選挙は、その試金石となる選挙であるといっていいのかもしれない。
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by phtk7161 | 2007-06-21 13:03
 朝鮮総連売却に関する公正証書元本不実記載の容疑で、元日弁連の会長や国家公安元長官に対する事情聴取および家宅捜査が行われた。この事件だけでなく、北の事件に関するここまでの一連の流れををみてきての私の感想は「まるで、マッカーシー旋風だ」の一言に尽きる。
 
 アメリカで冷戦状態が顕著だったころ、アメリカ国内では共産主義に関連するいわゆる「赤狩り」が頻繁に行われた。この糾弾は、メディア、政治家、芸能界、教育界、さらには軍まで、分野を問わず広がった。マッカシーという当時の上院議員がその代表的人物で、「お前は赤である」というラベリング付け(一方的単純レッテル張り=決め付け)を自分の気に食わない人間にかたっぱしから連発し、少しでも共産主義に関することなら、なんでも使える(糾弾のために)トランプのジョーカーのように駆使して、リベラル派(人権)派への攻撃を行ったのである。もっとも、そのラベリングのやり方(そこの浅さ)はやがて見抜かれ、その糾弾手法が自由を害したものとして、逆に彼は厳しく批判されることになる。

 当時のやり方は、その人物本人が共産党員だった(だからといって、国に不利益を与えるスパイ的な違法行為をしたとはいえない)、党員ではないが一度集会にでていた(付き合いで行ったケースもある)、家族(奥さん)が党員だった(奥さんがそうだからといって本人がそうだとは限らない)、共産主義の学者と会談したことがある(本の企画で対談しただけに過ぎない)etc、共産主義に関連することなら些細なことまでも強引に、その糾弾の道具として使われたのである。

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 さて、東京地検の特捜部まで動き出した今回のケース。特捜部が官邸の意向で動いたのは明らかである。日弁連の元会長もことが総連に関わることである以上、公安が動くのはある程度予想はしていたと思う。しかし、特捜部まで動くことは予想していなかったであろう。私も、あのいわゆる優秀な人材で構成されているはずの特捜(もちろん、これは最低限の人権の配慮ができているであろうことを想定したうえでの敬意の念からの表現である)が、ここまで駄目になっているとは思わなかった。

 公安は特捜とは違う。国家の安全・・・安全の内容は、時の政治により相対的ものとなる・・・のために情報の収集や操作を行う機関である(その一番最たる困った形が、旧ソ連に存在したKGBである)。こういう機関は、法治主義的善悪に関係なく、時の政治動向によって、いかようにも動く。建前上は「国家のため」という形を取るが、必ずしもそうだとは限らない。自らの機関の権力(利益)擁護や時の政府の応援のため、人権なんぞへったくれもなく(時には合法性は無視して)動くこともある。それでも、政治がきれいことでばかりですむものでない以上、暗部的側面のものとして(それも程度問題であるが)存在するのはやむをえない。

 しかし、検察はそうでは困る。もちろん、検察にも公安部はあるけれども、それでも実質的な意味での法的裏づけ(法治主義)にのっとることは絶対である。そうでなければ、司法(行政組織とはいえ)に関する重要な役割を担う組織として存在する意味がない。ましてや特捜部ならなおさらで、実質的な意味での可罰に値する犯罪を摘発するつもりがなければ、そもそも捜査に着手すべきではない。それをやったら、それは国民のための検察ではなく、特定の政治家のための検察である。

 検察は捜査訴追機関としての役割と同時に、一方で人権を擁護する使命もまた担っている(政治的意図を受けたような捜査、あるいは利己的捜査はやらないとする使命)のである。もちろん、政治サイドの意図を受けた捜査はこれまでもあった。しかしここまで、露骨なのは珍しい。

 今回のやり方は、明らかに政治サイドの意向を受けた国策捜査の意味合いが、あまりにもミエミエである。事件(刑事罰の対象となる犯罪行為)の性質からして、特捜が動く事件では絶対ない。まるで、政治家の御用聞き的行為である。これを「あの特捜がやるのか」と思うと情けない。最近の検察(特捜)は、こんなものなのであろうか。彼らにいい意味でのプライド(法治国家担う要としての)を、期待するのはもはや無理なのであろうか。
 
        ☆       ☆       ☆

 北朝鮮による拉致問題は、これからももちろん追及していかなければならない。しかし同時に、具体的な解決法、すなわちこの問題の目指すゴール(結果の形)も模索する必要もある。

 本当に人質を取り返す気があるなら、物理的戦争(これを支持する究極的軽薄者もいようが、国民の大半はそうでないであろう)以外での救出手段としては、現実を見据えた一定の取引的方法によるしかない。そうではなく、人質を取り戻す気はポーズにすぎず、本音では拉致行為への敵討うちを目的とするなら、経済制裁をはじめとする、北朝鮮へのあらゆる便宜の停止ということになるであろう。
 
 私は、直接交戦以外の方法なら、目指すゴールはどちらでもよいと考えている。ようは、拉致された被害者の家族の究極の気持ちが、どちらにあるのかで決めればよいと思う。もちろん、被害者の家族の人たちの気持ちも人それぞれであろうから、どちらにするといっても、これもなかなか難しい問題である。

 安倍政権は拉致問題の解決を看板に掲げてきた。彼自身、若き一議員、あるいは秘書だったころ純粋にこの問題の解決に取り組んできた時期もあろう。しかし、今はそうではない。彼に関わらず、拉致解決を声高に叫ぶ議員の多くは、純粋に拉致問題の解決をめざすのではなく、明らかに、マッカーシー旋風的に、拉致問題を利用している。これが、なお、この問題の本質的解決を遠ざけている。

 彼らは被害者家族に、取り戻すと言いながら、時を見据えた現実的解決の手段は決してとらない。今の形ではどんなに期間をかけようとも、そうそう簡単に人質の救出はできない。北朝鮮が崩壊すれば、できると思っているのかもしれないが、それがいつになるか、本当にそうなるかは分からない。その間に、拉致された人は向こうで人生を終えてしまう可能性の方が、明らかに高いであろう。

 その一方で自らの政治的手段としては、この拉致問題のカードを政敵弱体化のためにに、自らの都合で利用しまくっている。「北の手先、仲間」としてのラベリング付けを連発し、メディアも含めた正義悪の単純構図に持ち込んで、政権維持に利用しまくっているのが現実である。
 
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 今回の朝鮮総連売却に関する事件もそうで、おそらく彼らは、これに関わった人物達を「北の手先、仲間」としての構図に持ち込むであろう。なるほど、朝鮮総連が拉致問題に関わってきた事実は濃厚である。総連のトップが拉致の事実を知っていたことも、十分ありうるとも思う。もちろん、そういう人間の責任は追及されなければならない。

 しかし一方では、北朝鮮が拉致の事実を認めて以降、在日に対する強い圧力(人権侵害)も日増しに強くなってきている。拉致に何らも関係ない朝鮮学校の生徒が殴られたり、学校への嫌がらせの行為もある。そういう動向も含め、今後も在日の中に総連の存続を願う人がいることもまた当たり前であるとおもう。いざというとき頼りにできる場所は、ことに少数人種にとってはいざというときの気持ちのよりどころでもある。

 拉致に関わった人物(犯罪レベルでの)が、刑事責任を追及されるの当然として、その一方で、歴史のなかで特殊の意味合いを持つ朝鮮総連を「つぶす」ことが、はたして日本の今後のためにもよいことかは別問題である。

 もし今回の政府の行為が、拉致問題の解決のための北への手段(メッセージ的もの)として、あるいは敵討ち的ものとして行われているなら、それもまたひとつの方法であろう(私自身は、人質救出のための有効な手段になるとは思わない・・・しかし被害者家族が敵討ちという意味でなら、被害者家族がいくらかでもそれで溜飲を下げられるなら、それもまた、ひとつの形かともおもう)。

 しかし、それはそれとしてだからといって、「在日は北へ帰れ」とか「お前ら朝鮮人は日本いる資格がない」とかいうような、下等な人間がやっている行為(言葉や嫌がらせ行為)をそのままほおっておいていいはずがない。こういう行為の本質的愚かさを認め、それを防ぐことは法治国家として当たり前のことである。

 私は、どんな事情があろうとも人種差別する人間を決して認めない。そういう人間のほうこそ、本来、法治国家の日本にふさわしい国民ではないのである。だから、これからも日本で暮らしていく在日の人に対する配慮は、拉致とは別次元の問題としてやっていく必要はある。総連をつぶすならつぶすで、そうする場合彼らの人権を、他のどういう形で守っていくかも当然考えてしかるべきである。それできる国こそが、真に「美しい国」であり法治国家の名に値する。

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 小泉政権で拉致問題が表ざたになって以降、タカ派サイドの拉致カードの政治利用が頻繁に行われてきた。実効性のある現実的解決(人質救出)からは目をそむけ、イメージばかりの「北」やそれに加えて「中国」的ラベリング付も、乱発されてきた。拉致問題の解決には近隣諸国の理解が必要なのに、時に拉致カードを使い「靖国」ラベリングさえも行って政教分離の問題レベルにとどまらず、近隣諸国の感情を刺激し、重要な時期に中国や韓国と拉致の解決について必要な連携をとることもできななかった。それが、拉致問題での日本のやってきたことの等身大の現実である。
 
 私はこれまで、この問題ついて、正面から批判することは避けてきた。被害者家族が、北を憎む気持ちは当然であるし、そのために一定の過激な表現をする家族がいても、それはそれで無理ないと思うからだ。しかし、今度の朝鮮総連の件に関して、公安のみならず、特捜部まで乗り出してきて、ラベリング付け的政治の延長がこれからも続くとなれば、話は別である。

 北の問題にリンクさせて、憲法改正や本来的人権の問題までも、正面からではなく、あさっての方向から、これに関連付けていじくられるのはこれ以上ごめんである。北の問題をはてしなく広げた末に、形式的には合法な、しかし実質的には違法な捜査が当然に行われていいはずがないし、またそれを利用して、まっとうな政府に対する批判意見を封じ込めていいはずがない。

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 参議院選ももう間近である。今回の問題も、年金問題で苦しむ与党は当然のように政治利用していくだろう。というか、今回の件は彼ら自身が練った企画であるから、当然そうしていくだろう。そして、公安による北の拉致問題の摘発も、参議院選をにらんで時に応じ、小出し的にメディアで取り上げられるだろうとも思う。しかし、こういう形がこれからも続くことは、日本の政治にとって明らかにマイナスである。公安について言えば、先に述べたとおり公安が一定の役割を担っていることは、私も認めるが、しかしこのままこういう形でのマッカーシー旋風的ラベリング付けの動きが続くなら、あまりにやりすぎている。この種の思考停止はもうやめにする時期に来ている。

 もしこれからもこういう形の政治が続くなら、北朝鮮の拉致の問題もそれなら、もっと本音のところもタブー視せずに検討されるべきである。たとえば、これまでとりあげてこられなかった、北朝鮮の拉致に関する公安自身の問題も検証されるべきであろう。

 拉致の事実を公安が把握していた時期、それを踏まえ、そういう危険を高度に認識しながら、それを公安が政治サイドにきちっと伝えていたのか、あるいは伝えていなかったのか。また伝えていた場合、どういう政権(もちろん与野党ともバリバリ含まれていよう、声高に拉致問題を追及していいる議員の父や祖父が関連してくることもあろう)がその事実を放置してきたのか。公安が拉致の事実を明白に認識していて以降、それを公安自身が何らかの形で世間にリークすることによって、一定の時期から拉致を未然に防ぐことはできなかったのか(おきないですんだ拉致があったのではないか)。そしてもし、公安自身にも拉致の事実を知りながら、長い間何らの手段もとらず、この問題を放置してきた事実があった場合、そういうことが公安の役割なら許されていいのか、いけないのか、そういう問題もタブー視せず取り上げる時期に来ていると思う。

 拉致問題について本音で検証していくなら、その関連する組織の性質は関係ないであろう(特に被害者と家族にとってはそうであろう)。少なくとも、安倍首相自身が取ってきたこれまでの政治姿勢からすれば、そうであって当然である。もし、日本の法治国家性を、北のラベリング付けの形で壊し続けてていくというのなら、そこまでやるべきだ。政権に都合のいいところだけ、見過ごされていいはずがない。政府に都合のいいばかりの今の思考停止の政治では、日本は本当に法治国家として危険な時期にきている。安易なラベリング政治とは、もうおさらばすべき時だ。
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by phtk7161 | 2007-06-15 07:47
 自衛隊の団体、個人対する市民監視の事実(イラク派遣反対やその他の批判活動などについて)が明らかになった。

 私はこの事実を知っても、特別驚かない。無制限的諜報活動は自衛隊の組織の性質上十分ありうることであろう。そうはいっても、今回明らかになった諜報活動の地引網的広さ(かたっぱしからやりすぎである・・・これでは諜報活動の範囲は無制限近い)の点もさることながら、この事実が明るみにでたことに対する防衛庁サイドの開き直りの対応である。

 実はこの点(シビリアンコントロールにもとづく説明責任をはたさない姿勢)こそが、今回の一番の問題だと思う。日本が民主国家であることに対する防衛庁サイドの意識の低さが、あからさまに出すぎである。これでは防衛庁と自衛隊は、民主国家として国民の信頼に足る防衛組織とはいえない。

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 権力による監視の中でもっとも問題がある形は、監視機関の諜報活動について具体的な法的履践の制度がなく、さらにそれをきちんとチェックする独立の機関が外部に設けられていない場合である。今回の情報保全隊や公安の情報部的活動などは、これに該当する。

 この手の活動の場合、何が問題か。例えば警察的組織が人権を制約する活動ないしはそのための捜査(あるいは探知)活動を行う場合、緊急性や現行犯以外は裁判官による事前の令状チェックの手続きが入る(もちろん、現行犯などについても事後的チェックは行われる)。つまり、その活動を実践している機関に対する外部のチェックの制度が存在しているわけである(実効性はともかくとしても)。

 ところが、今回のような諜報活動の場合そのチェック手続きができていない。仮に内部的にそのチェック制度があるとしても、対外的にはその実態が明らかにされていないし、その諜報活動の範囲も明確でない(どの範囲で行われているのか)。したがって、地引網的にやりたい放題に諜報されていたとしても、それを国民の側で防ぐ手段は今のままではないということになる。

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 今回の件で防衛に関することである以上、当然だと言う意見もある。しかし、私達の国はあのしょうもない北朝鮮でもないし、ミヤンマーのような軍事国家でもない。民主国家、法治国家(立憲民主主義国家)なのである。今回の開き直りの対応は、軍事国家を理想とする暴君的国家がすることだ。防衛組織の探知の暴走を予防する何らの担保手段がないままでの、無制限の探知活動が立憲民主国家でみとめられていいはずがない。

 当然今回の件でも、シビリアンコントロールの責務を担う政府は、自衛隊の探知活動がみとめられるべき理由の必要性と、その活動をささえる根本的土台としての法的裏づけについて、国民に説明責任を果たす義務がある。それができない内閣は総辞職すべきだ。それが民主国家のあるべき形である。

 アメリカでもCIAやFBIなどが、その時々に同じような諜報活動を行っている。しかし、アメリカの場合でも、問題のある諜報活動が発覚した場合、委員会で公聴会が行われ、その責任の所在を追及することはおこなわれている(十分とはいえないが、それでもあるだけましである)。今回の自衛隊の問題について、アメリカの公聴会的システムの制度はわが国にはない。責任の所在を問うとすれば、委員会や議会で証人喚問のような形の追求をやっていくしかないであろう。

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 防衛庁サイドにしてみれば、今回の諜報活動は有事のときの戒厳令的な、特定の組織や個人に対する拘束の迅速性をおそらく目的としているものと思われる。しかしそういう活動は、日本が軍事国家ではなく民主国家を宣言するものである以上、その団体や個人の日本の防衛に対する侵害の明白な事実の存在あるいは高度の蓋然性が明らかなものでない限りそうやすやすと認められていいはずがない。

 例えば、イラク攻撃に対する反戦活動(もちろん適法な形の)は決して上記の対象とすべきではない。イラク戦争は、明らかにアメリカの侵略戦争であって(何度もいうが、私はアフガンまでは認める立場である)、その罪は本当は安保理で何らかの制裁を課せられても仕方がないものである(世界軍事NO1の国家がその対象である以上、それはもちろん実行できないが)。これを非難することが諜報の活動の対象となるなら、それは日米が唱える「民主国家」の理念に明らかに反している(北朝鮮やミヤンマーを批判しながら、そういう国と同じことを自分達もやっていることになる)。

 今回の諜報活動の開き直りの対応は、実は何年か前の小泉政権の頃にもあった。しかし今回の場合の方が、明らかに開き直りの度合は高い。これは、やはりこのところの防衛庁の制服組の意識が、日本国民ではなくアメリカの国防総省の方に向きだしていることの影響が大きいであろう。バックにアメリカ国防総省という一種ジーョ-カー的カードを得た(つもり)ことで、いけいけ的に自分たちの活動が何でもやって許されるよう誤解しているのではないか。

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 民主国家を標榜するなら、シビリアンコントロールは絶対である。今回の諜報活動も政治家を当然にその対象にしていた(もちろん以前も)。このことは、実は防衛組織が政治にも干渉する意思があることを示している。こういうことが当然のことになってしまうと、防衛組織が自らにシンパシーを抱く議員の擁護ために、諜報活動で得た情報を役立てる危険性もある。自衛隊が特定の党の議員のための助力的機関として存在しているわけではないことはいうまでもない。特定の政党のために防衛組織が存在するのであれば、その行き着く先は、ミヤンマーや北朝鮮のような軍事国家である。そのことは肝に銘じておく必要がある。

 石破議員や中川総務会長などににこういうことを期待することはできないであろう。しかし他のまともな民主国家の意識を持つ議員には、国民に対して、自衛隊の諜報活動はオールマイティに許されるものではなく一定の制限はあるという意識を示すことは、シビリアンコントロールを維持していくための、議会や政府の構成員の責務と考えておいてほしい。こういう組織が暴走し出したら、民主国家はあっという間に終わりである。そういう意味では、今回の防衛庁側の対応は、軽々に見逃してよい問題ではない。きびしく追及すべき問題であろう(民主国家であることを防衛庁にもっとつよく意識させることは必要である)。

 今度の問題は、民主国家の根幹に関わる問題である。今回事実がまた明らかになった以上この機会にこういう自衛隊の諜報活動の適法性を裏付ける法的根拠や、地引網的活動を防止する一定のラインを線引きを検討するいい機会である。それが結局は、真の民主国家にふさわしい防衛組織の確立につながることになると思う。

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 ま、こういう問題があるからこそ、余計に現憲法の9条のありがたみがよく分かる。この規定がなければ日本はとっくに、軍事が政治に幅をきかす窮屈な国家(人権的に)となっていたであろう。私は最近、9条は平和主義のみならず実はその潜在的趣旨として、66条2項とともにシビリアンコントロールについても規定したものと捉えている(こういう考えの学者はほとんどいないであろうことは、百も承知だけれど)。

 そういう意味では、日本国憲法9条は防衛組織の暴走の防波堤としての役割をも果たしている規定である。そしてそれは、結果として自衛隊員の生命の安全性(いたずらに隊員の生命を脅かすような政策を、安易に政府にとらせないという意味で)にもつながっていると思う。
 
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by phtk7161 | 2007-06-08 02:42
 2年後裁判員制度が実施される。裁判員制度は司法の民主化の観点から考えられてきた。日本でも戦前陪審員制が実施されてきた時期もある。また裁判に国民が参加することにより、司法に対する国民の信頼をよりたかめようとする意向もあろう。しかし、私は今度の裁判員制度の導入には反対である。

 理由はいくつもある。たとえば、司法制度改革の会議が結論を先走った(この会の座長は京大の憲法学の教授で、陪審制の導入にかなり熱心だった)ことである。これに対して彼らは「いや、裁判員制度の問題はそのかなり前から、長い間検討されてきた」というであろうが、しかし実際に国民がそのことを知った時期がごく最近であることからしても、やはり会議が導入を先走った事実は否定できない。

 私がこの制度を反対するもっとも本質的な問題は次の点である。すなわち、司法の場が場合によっては、裁判員間の政治力的場に変容してしまう危険があるからである。

 司法の意義は、少数者の人権の砦というところにある。もちろんこれは、いつでも少数者に味方しろという意味ではない。それは、たとえ民主的感情では1対99の結論であっても、1のほうが現に存する法にかなっているならその人権は守られなければならない。すなわち、決して多数決的感情で法の解釈を捻じ曲げてはならないことである。裁判員制度を導入するなら、この点をきちんと裁判員が理解しておかないと、裁判が魔女狩りの場と化してしまう。

 もちろんこの弊害を防ぐために裁判員制度でも裁判官が複数存在しているとする反論もあろう。しかし、それでも裁判員制度が感情による政治力的多数で動く危険は、完全に払拭できない。それを防ぐために、逆にもし裁判官のいうことがより優先されるとするなら、それはそれで、そもそも本当に裁判員制度は必要といえるのかという疑問もでてくる。

 さらに次のような問題点もある。事実認定において裁判員制度が現在の裁判官のみの制度よりもプラスになる面があるにしても、裁判員がそれをこえて事実認定に際して法解釈にまで踏み込まなければならなくなったとき、どうするのかということである。事実認定と法解釈は、ひとつの裁判においてそう容易に切り離して考えることはできない。事件によっては密接に絡まってくることもある。

 この辺の具体的処理の仕方も、今度の導入の中ではあまりはっきりしていない。もし法解釈まで裁判員が踏み込んで、感情優先の法解釈(定立された要件に事実を該当させるのではなく、要件が事実に該当するよう解釈されることになるような)がされるということになれば、それはやはり司法の危機といえるだろう。

 私は何も裁判員制度そのものに反対しているわけではない。ただ導入するなら導入するで、司法に対する国民のコンセンサスが確立していなければ、今のままの裁判員制度では弊害を招くだけである。少なくとも、一定の時間をかけて、司法のそもそもの本質的役割(少数者の人権の砦)や裁判員制度が人(被告人)の人生を左右する重大な役割を担うことをきちんと国民に理解してもらったうえでなければ、決して健全な民意による裁判制度たりえないであろう。

 アメリカはもちろん陪審員制度がとられている。しかし、アメリカは多人種国家であり、そもそも人種間の不信の問題の中でこの制度が存在してきた。現に、裁判に人種間の問題持ち込んで、事件の本質そのものをうやむやにしてしまう(すりかえてしまう)ことも多い(OJシンプソン事件などその際たる例であろう)。また裁判がパフォーマンス化して、裁判が裁判ショーになることすらある。そういう点で、陪審制そのものの問題点も多い。

 少なくともアメリカと人種的な風土の違う日本で、そういう制度が適切なのか、国民間でのその本質的議論もないまま、今の裁判員制度の導入は進められてきた。裁判員制度の導入に積極的であった座長の京大教授は、今の国民の人格の成熟度をどうとらえているのでろうか。はたして今のままの国民で彼の予定する裁判員像に本当にあっていると思っているのであろうか。ただ単に導入という既成事実だけが優先されてきたように思える。

 この点では今度の裁判員制度は、なんでもかんんでもアメリカに似せることがベストであるとする今の悪しき風潮の側面をもつことは否定できない。

 裁判(司法)を、国民にもっと身近に感じてもらうこと=裁判員制度、という図式は当然には成り立たない。裁判(司法)をもっと国民に身近に感じてもらう方法はもっと他にもいろいろあるし、司法の信頼を確保していくための努力は、裁判員制度導入の問題とは別にこれから先も行っていかなければならない。

 司法に対する信頼とは常に国民感情にかなうことを意味しない。どういう世論の流れの中であっても、司法という場が、「感情」より「理」優先の場であることは決してゆらいではならない。それはある意味司法の生命線でもある。そういう点を国民にもっと理解してもらうこともやはり司法の使命でもあろうし、それが結局は司法の信頼にもつながると思う。

 そうはいっても、すでに裁判員制度は決定されてしまっている。そうである以上、今は、裁判員になられる人が少なくとも「感情」より「理」を優先される(「感情」を否定しろという意味ではない、「理」に裏づけらられた「感情」をむねとすべきということである)ことを願うばかりである。
 
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by phtk7161 | 2007-06-04 16:01