社会問題を考える


by phtk7161
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 あっけない時はあっけないもので、参議院選は与党の大敗となった。投票率は前回参議院選に比べ2%アップしている。前回の衆院選ほどの高い投票率ではないが、あれは演劇型熱狂選挙であり問題点も多い。今回の数字(投票率)はそれに比べればはるかに選挙環境の健全さを示す数字だと思う。

 それにしても、私の予想をはるかに超える与党の敗北だった。自民の獲得議席は37議席であるが、しかし鹿児島、福井は3000票弱で民主の候補がひっくり返すことができた。さらに大分は野党が3候補も乱立した(野党が選挙協力の調整に失敗した)ための自民の候補のおこぼれ的勝利だったことからすれば、あと3議席減ったもおかしくない。つまりは34という数字すら現実的におこりえておかしくないほどの惨敗である。

 公明にしても、選挙区で3議席落としたうえ比例こそ改選議席と同じ7議席であるが、この比例すら7議席目は0.1パーセントの差で最後の議席を獲得したに過ぎない。したがって今回の獲得議席は9であるが、じつは選挙区2比例6で8議席で、これまたそれまでの過去最低議席9をさらに下回ることも十分ありえたほどの惨敗である。さらにいえば比例における獲得票数でも、投票率は前回参議院選より伸びているのに公明は減らしている。いずれにしても与党にはまさに衝撃を与える選挙結果となった。

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 与党の敗因は、「年金」「問題発言」「格差問題」「政治と金」などいろいろいわれている。単独でどれが直接の要因となったというよりも、複合的にそれらがからみあったことに与党敗北の要因があったと思う。もっとも、選挙戦でもっとも目だっていた安倍首相、小沢代表両者の主張した一番の対決点が「改革」か「生活」かであってことからすれば、やはり一番の主たる要因は(特に地方において)「格差」にあったのではないか。

 たまたまスタンダードアンドプアーズ(国際的な格付け評価機関)の、日本経済に対するファンダメンタルズ(経済的基礎条件)面の評価を目にする機会があったが、そこでは次のような見方がされていた。「輸出面での数字の好調さが、国内における賃金や労働条件の向上に反映されていない。そのため対外面の景気(のよさ)のよさが内需の拡大にあまりつながらず、バランスが良くない。これでは、投資対象としての位置づけは高くならない。」

 この見方は的確だと思う。ある分野の犠牲のもとで「改革」の恩恵をうけ経済的利益を得たものが、それをなかなか社会に還元しない。そのため、生活格差が広がる。しかし政府与党は、このままの方向性で正しいと主張する。都市部すら中小の企業が悲鳴をあげるなか(中小の倒産件数はますます増大傾向にある)、これでは地方(特に過疎はなおさら)はたまらない。それが一人区で自民党が大敗した一番の要因であることは間違いないだろう。現に小沢代表は地方特に過疎地や農村部での選挙活動にかなりの力をいれている。政府与党に対抗する野党の姿勢として、それが正しかったことは今回の選挙結果が示している。

 小泉改革以降の「つけ」を与党がもろにかぶった選挙であったが、それは経済改革だけの「つけ」ではない。問題発言にしても風による衆院選での大勝によって、「改革者」をきどり「ターブー発言」をしても数の基盤の強さにより許されると勘違いした大臣幹部連中の「ぞんざい」さのつけでもある。

 公明党もまた、理念と実際が全く正反対の方向で動いてきた自らの無責任さの「つけ」を払わされた。自民党との選挙協力の失敗という現実は、自民党にとって創価学会を基盤とする公明党の存在は、選挙のためのただの便利屋にすぎなかったことを、公明党はいやでも認識させられた選挙であったと思う。

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 とにかく今回の結果で、とりあえず日本の直面していた立憲民主主義の深刻な危機は回避された。もちろんだからといって、これからも油断はできない。アメリカとのからみで安全保障の問題がおこれば、また選挙の争点が○×式の単純思考の構図に持ち込まれ、ぶり返しも起こる危険は十分にある。しかし憲法9条の問題にしても、国民の間では9条の存在を評価する声がここ最近かなり高まっている。それは、タカ派の安倍首相とその仲間達に対する右傾化への国民の警戒心もまた、同時に高まっている証拠でもある。

 国民が油断さえしなければ、これから「戦争ごっこ」的坊ちゃん達のお遊び(発言など)は、そうはできない。なにせ、敵国の攻撃から国民の命を救うという「妄想的未来」の問題より、「生活」苦から生じた目の前の現実に救うべき国民の命の問題があるのだから。もうそういうお遊びもやめる時期に来ている(自己満足的遊びともいえる私的諮問機関の設置も、もうやめるべき時であろう)。

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 これからの選挙で国民にとって最も重要なことは、問題点がおきてもそれを不必要に単純化することなく、議会(それにもとづく政府)が多様な観点からその問題を分析しバランス巣の取れた政策を生み出せるような環境を、投票行動によって議会に与えることである。今回の参議院選では、強行採決という議会運営の強引さの面でも与党にお灸をすえ、とにかく新しい十分な論議ができる議会の環境を国民は作り出した。そういう意味ではこれから民主党の責任も重大である。

 政治はしばらく混迷の時代をむかえるかもしれない(再編も絡んで)。しかし、それに動じることなく国民の側が冷静な「主権者」として行動(投票行動)すれば、別におそれることではない。むしろ国民の冷静な投票行動がある限り、日本が今よりさらに一歩すすんだ立憲民主国家となる可能性は十分にあると思う。
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by phtk7161 | 2007-07-31 08:20
 明日はいよいよ投票日だ。月曜の今頃にはすでに大勢も判明し、今の安倍政権への評価も下っていることだろう。

 今回の参議院選は、一面で今の日本人のバランス感覚がためされる選挙でもある。衆議院で与党が3分の2もしめるという、民主国家にとってこのうえない危険な状況にあるといえる今、参議院でもあいかわらず与党の過半数が維持されるという状態が続けば、もう与党の暴走を止めるすべはない。潜在的与党議員(荒井議員たちとその仲間)を含めて与党が過半数を維持すれば、安倍政権は存続し暴走がさらに加速することは確実である。

 共謀罪の成立、集団的自衛権の合憲解釈、格差も更に拡大することになる。それでもいいとするかどうか。それでいけないとするなら、与党に徹底的な惨敗を与えることが必要である。前回も書いたがそういう意味では今回の参議院選挙、本当に日本の将来の要となる選挙だと思う。

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 選挙に行くことは国民の権利だし、これはだれでも容易にできるはずである。しかし、経済的困窮がひどくなると、定まった住居で継続的に生活できないものが選挙権を行使することは実はそう容易ではない。住民票のある場所で生活できず本当に食うこともままならない人間にとっては、入場投票権を手にすること、あるいは選挙件を行使するため住民票のある場所に行く事さえもなかなか実際には困難なことなのだ。

 本当に困窮している人間は、選挙(投票)による「声」をあげることもできない。物理的困難さのみならず、無気力感もあるだろう。そういう環境にいることの自虐的あきらめもあるかもしれない。もちろんそれを乗り越え、なんとか気力をだして投票による「声」をあげる人もいるだろう。だけども多くの人は「沈黙」するしかない。
 
 現代の政治の役割は、自然のままの状態(レッセフェール)では人の尊厳(経済的面も含む)を守ることが困難な場合、賢明な力のバランス配分によりそれを保てる社会を維持していくことにある。そのためにこそ政治は存在する。自由権はともかく、社会権的問題に関してほっとくことが政策としてベストであるなら、政治はそもそも必要ない。富める者が貧しきものを「それは能力の問題で当然」と恥ずかしげもなく声高に主張できる社会を実現するために、政治というものがあるのではないのである。

 投票箱に投票用紙を入れる際には、私は声をあげたくてもあげられない(あるいは、その気力がない)人の意思(彼らのおそらくの意思)を含めて自らの1票を投じたいと思う。権力のバランスの調整のためだけでなく、人買いの人材派遣会社が4割のマージンをかさらって自らを成功者だと大喜びするばかげた社会の構造が少しでもかわるような結果がでるよう期待込めて、明日は投票所に足を運ぶつもりだ。
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by phtk7161 | 2007-07-28 01:28
 参議院選挙の投票日まであと3日。各党とも最後の追い込みに必死であろう。今回の選挙は、これまでの小泉改革とそれを引き継いだ安倍政権対する国民の評価が問われている。新自由主義を基本軸とする政策か、それとも福祉国家的形を軸とする政策か、どちらを選ぶにしてもその結論は必ず国民に返ってくる。今回ほど選ぶ側も腹を決めて選択しなければならない選挙は、そうはないと思う。

 もしここで、与党が野党側の離脱議員(元新党日本の荒井議員など)を含めた計算で、過半数を維持するようであれば、もう日本の福祉国家的民主政治はもう終わりといってよい。もちろん政権交代もほとんど絶望的である。与党はやりたい法律をしたい放題成立させられる。政府与党が暴走しても、もうそれを止めるすべはない(ここでの数の力は絶対である)。

 その後は、新自由主義の名の下「富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなる」という、残酷社会が待っている。格差は固定され、人間が本音のみならず建前でも堂々と差別される、弱いもの(経済的に)にとっての奴隷社会の誕生である。

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 小泉改革後日本では「改革の」合唱の元、やみくもに公的制度が壊されるだけ壊された(壊すまでいかなくても、めちゃめちゃにされた)。公的制度以外でも、例えば改革の名の下で人材派遣業という人買いが幅をきかせ、働くものにとっては竹細工のようなもろい産業構造が、認可された規制緩和当時に比べてより一層進んだことがあげられる。信じたくもないが、一説には人材派遣のマージンは4割ともいわれている(このボッタクリはなんだ)。そりゃ、奥谷女史などは小泉ときらびやかなワインの会など楽しめるわけだ。ボッタクリ度は飲み屋以上である(暴力バーに近い)。

 どこかで読んだ新自由主義の浅はかな時代遅れの学者など(本質において産業革命時代とかわらぬ学者)「経済的弱者への援助は、経済的成功者の民間ボランティアによりなされるシステムの充実によりなされる、それが新しい時代の形だ」とのたまわっていた。こういう人間が、自らを進歩的人間だと思っているから、昨今のレッセフェール(自由放任主義)的学者にも困ったものだ。

 ある程度の安定した一定ラインでの継続された援助システムがない限り、経済的弱者にとっては本当のセーフティにはならない。それはやはり公的制度でなされなければ無理である。経済的弱者でなくても、そのへんの仕送りを受けている学生でさえ、もし仕送りがまちまちであり月ごとに幅があれば、その学生はおちおち学生活など送ってられないだろう。

 思いたったようなマチマチの援助(ボランティアを軸にすればそうなる)を基本にすることなど、弱者への援助(福祉)としては意味をなさない。安定した公的福祉制度、この土台があってこそ民間のボランティア(ボランティアの充実がなされることはもちろんすばらしいことだ)もまた効果的ものになるのである。

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 平成不況と、長く続いた公務員の怠慢(もちろんすべての公務員ではない)=公的制度の組織的構造の欠陥で、国民の不満のエネルギーが飽和状態に達したのが、この前の郵政選挙である。

 しかし、本当にもう公的制度は必要ないのか。小泉流は「民でできるものは民で」といいながら、実際はその垣根に制限はない。一部特権化した公的力を有するガリバー的民間企業(しかもそれは国内、外資問わず)を作り出すだすだけ。これが彼のいう「改革」の正体である(たとえ彼がそれに気付いていなくとも)。公的制度の機能的改革(合理的改革)は必要だが、公的制度の「破壊」は必要ない。これを破壊すれば、近代政治(福祉国家型自由主義)は古代に逆戻りである。

 この改革(公的制度の破壊)をめざし、小泉政権以後日本は彼流の「改革」の道を熱狂的に突っ走ってきた。でももうそろそろ頭を冷やし、一度冷静になって考えてみていい。どちらに進もうが、それはこれからの日本にとって絶対に必要なことだ。そのためには今回の選挙では、絶対的過半数による野党の勝利が必要なのである。
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by phtk7161 | 2007-07-26 06:05
 新潟で起きた地震は、大手の自動車メーカーにも影響を及ぼした。日本でのリング(部品のひとつ)のシェアーを大きく占める会社の工場が新潟にあるため、この工場の操業がストップすると、部品の不存在が他の過程にも影響を及ぼし製造をストップせざるえない。コストの節約は時には思わぬところにもろさがあることを今回の事態は示している。

 もっともだからといって、このことで「それみたことか」と自動車メーカーを責めるつもりはない。世界との激しい価格競争のなかで、メーカーに対し「今度の地震のようなことまで計算に入れてリスクを分散するシステムを」というのは簡単だが、実際それをやればコストの節約はなかなか難しいだろう。むしろ休業が数日(愛知のトヨタの場合)ですむのことが、かえって「世界のトヨタ」の力量を示しているようにも思える。

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 今度の休業に関するニュースで、トヨタの従業員(おそらく工場の)がインタビューに答える姿をテレビで目にしたが、どの従業員も余裕が感じられた。それは昨今の格差社会における「勝ち組」の余裕の表れにもみえる。トヨタをはじめとする今の日本の輸出関連の好調な会社は「円安」に支えられている。したがって経済界における円安容認の空気が強いのは、当然だろうと思う。

 しかし一方で、この円安は外資にも強い味方となる。イギリスに在住する特派員の嘆きの記事が新聞に出ていた。イギリスの地下鉄の初乗り料金が、日本円で「1000円」になるというのだ。ユーロの強さはこういうことでも改めて認識させられる。地下鉄初乗り料金が、日本ではそこそこの「ランチ」の金額と同じであるという円の「安さ」(弱さ)は、それだけ外国の投資ファンドが日本の会社を買い叩けるということを意味する。したがって、今の円安を景気の向上(といってもその恩恵は特定の企業だけだが)のために維持されるべきとばかりいっていると、気がついたら周りは「外資」だらけということもありうるかもしれない。

 トヨタやキャノンは対外輸出の大きい企業であり、支社のありかたからしても「多国籍」的企業といっていいだろうと思う。こういう企業の経営者は、時に、いかにも「国際競争」のなかで日本が生き残るために必要だとして「これこれをやるべき」というメッセージ(というか主張)をだす。しかし実はそれは日本での自社の活動の円滑さを目的としているだけで、つまりは自分達の会社の利益を第一とすることがその前提となっている。本音は「他人は知らん、自分が一番かわいい」ということだ。その本音をうまくすりかえた形でいっているだけのことである。そしてそういう企業こそ彼ら流の「国際競争に勝てる企業」=「世界の時流のトップを走る企業」というわけだ。

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 私は、いまさら彼らの考えを強く非難する気もない。言っても分からんやつには分からんし、彼らのような考え方も、彼らなりの「弱者であるのは能力がないそいつの責任」的流儀でいえば、ひとつの考え(ばかげているとは思うけれど)なのだろう。ただ言っておきたいのは、そういう企業の保護団体である経団連が時に主張する政策は、決して日本のためを思っててではなく、あくまで彼ら自身のためであるということだ。そこを経団連は「日本のため」「国際競争」という言葉でごまかすべきではない。

 たとえばトヨタのアメリカでのロビー活動はもはや有名である。ロビー活動とは議員に対し議会外で、一定の政策や立法の成立(あるいは不成立)を目的として行われる活動のことをいう(こういう活動をおこなう人物をロビイストとい)が、こういう動きをきっちりトヨタがとれているということは、もはやある意味トヨタという企業が、その外国ではもはやとっくに「日本(会社)」ではないといういうことを示している。彼らはとっくに、自らを選ばれた国際人(会社)として位置づけたとえば奥田元会長などは、自らをある意味では日本人とは思っていないであろう。そしてそういう考えに今すごく影響されている人たちが、御手洗経団連会長(キャノン)や新自由主義を勢いよく叫ぶ人達である。

 円安は日本のためといいながら、そのために日本企業が外資に買収されてもそれはそれで実は仕方のないと、彼らは本音ではそう考えているはずだ。奥田氏が経団連の会長になり、経済界は政界にそれまで以上により近づきだした。軽井沢でのセミナーなどで「改憲」や構造改革を自ら主体となり、表だってより提唱しだしたのも彼だ。もちろん彼も日本の「政治」自体を牛耳ろうとするつもりはないであろう。しかしただそれが「商人(あきんど)トヨタ」の利益にかなう限りは、今後も奥田流の経済界スタイルで政界により近づき続けるだろう。

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 経団連の会長はキャノンの御手洗氏になったが、私は今でも経団連の本当の会長はトヨタの奥田元会長であることにはかわりがないと思う。そういう意味では、御手洗会長はお飾り的面が強い。その証拠に、今や御手洗氏と奥田氏の考えにはほとんど差はない。本当は就任当初見御手洗氏は記者会見で、これまで続いてきた「日本的雇用」のよさを評価する発言などもしていた。それが、今や経団連の奥田会長的お仲間の考えにどっぷりひたってしまっている。どうやら経済界でも、世襲の「お坊ちゃん」は中途半端でもろいようだ。

 おりしも、経団連が偽装請負的システムを合法化するような規制改革を提案しているとの記事がでていた。請負偽装とは、使っている人間に対し実際には実質的な管理を行っているのに、外形上は自らは単に人材を発注している立場で管理責任はないとする形を装うことだが、これだと外形上管理責任がないから、3年以上同じ人を使っていてもその企業は正社員として雇用しないですむ。コストを低くしたい企業にとってはこのうえなくおいしい雇用の形、これが偽装請負である。キャノンでは最近、この偽装請負が表面化し社会問題となった。そのため、経団連からこういう規制改革案が出てきたのであろう。

 こういう面をみても、彼らが「日本が国際競争に打ち勝つため」とはいいながら実際は、まさに彼ら自身のために政策を提案しているのが見て取れる。「(日本の)国際競争生き残りのため」という一見それらしい言葉の裏には、実は「自らの利益のためだけにしか動くつもりはない」という経団連の中心となっている企業の本音もあるということだ。
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by phtk7161 | 2007-07-19 19:19
 昨日新聞とテレビで2人の芸能人(お笑いの芸人、タレント)が、ネット投票に対する意見を述べていた。新聞で読んだお笑いの芸人(キレ芸で有名)のほうは、ネット投票には否定的で、投票所にいって投票する今の形を続けるべきという意見。理由は不正の防止。テレビで見た(テレビコメンテーターとしてもしばしばみる)タレントのほうは、ネット投票を肯定する意見。理由は利便性による投票率アップだ。この二人の意見は、ネット投票導入の可否をめぐる典型的意見の(肯定否定の)の二つであろう。

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 結論から言ってしまえば、私はネットによる投票(電子投票的なものも含め)には反対である。確かにネット投票を導入すれば投票率はアップするであろう。しかし、ネットによる不正投票の危険性を考えるなら、投票の利便性という利点より、やはり選挙の公正を害する弊害のほうが格段に大きいと思う。ネット投票には、投票する側とそれを集約して公表する側その双方に不正を誘発する危険がある。他人に成りすます(あるいは間違えて他人として投票してしまう)ことや、集約した側が数字をごまかかすことなど、行為者の故意過失を問わずネット投票ではこういう危険が容易に起こりうる。

 今の記名式投票は確かにかったるい面もあるかもしれない。しかし、現に記名された投票用紙が選挙後も存在するからこそ(たまに投票箱をめぐるトラブルや記名内容をめぐるトラブルはあるにせよ)、トラブルに際して再集計を行えるし、他人になりすます不正もそうそう大規模に行えるものでもない。

 けれども、ネットになるとその規模ではすまない。ネットの利便性はその速さと膨大な処理能力にあるが、それは一定の目的である人間がある作為を起こした場合、その影響度もそれだけ大きくなるということだ。たとえば、他人のパスワードを盗むハッカーのように、一人の人間がいろんな手段を使って、膨大な他人の投票の権利を手にし行使することも可能となる。あるいは集計側が0をひとつ間違えたり、支持する政党のために再集計における真実性の担保の脆弱さ(なにしろ、現物の記名投票用紙がないのだから)をいいことに、集計の数字をいじくることも大いにありうる。

 何を大げさなと思うかもしれないが、支持する政党のために選挙に深く関わる人間が、選挙のときの現場の異様な雰囲気で、その精神状態まともでなくってしまうことはよくあることだ。そういう精神状態のとき、人間は目的(当選)のためには手段(不正投票、不正選挙)を選ばなくなってしまう。そうでなくても、金のためにこういった不正投票に関わる人間もでてくるだろうし、また遊び半分であるいは自らの思想実現のために、ハッカー的行動をおこすものもいるかもしれない。そして、そういう連中のやっている不正が結果現実となれば、それは民主主義に対する一種の「テロ」行為ともいえよう。

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 一度こういう事態がおきてしまうと、政治への事態の深刻さははかりしれない。ネット投票には手軽さゆえその分多くの危険が潜んでいる。現行の投票ではそうそうできない不正の投票行為を、その行為の容易さのため(肉体的苦労に見合う結果という意味で)やってしまう危険は大きいといえる。ネット投票には、そういう行為に手を染めやすくしてしまうある種の「魅力」がある。そこが、ネット投票の危険性の所以(ゆえん)である。

 選挙(投票)は国民主権を実現するための一番基礎となる重要な制度である。ここがごまかされては(不正が容易になれば)、もう確実に民主主義は終わりである。選挙制度において、投票における有権者の意思の正確な数的反映(ごまかしの危険の少ない)は何よりも重視されなければならない。それは選挙のおける投票の利便視よりも絶対的に優先される。そういう意味では、地味で如何に牧歌的にみえようが、現行の投票制度はネット投票などよりはるかに優れている制度といえると思う。
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by phtk7161 | 2007-07-17 08:47
 久間防衛庁長官が辞任した。久間氏に関して私があきれたのは、原爆投下に関しての「しかたがない」という発言だけではない。むしろそれ以上に、そのあとの記者とのやりとりで述べた「だいたい私は、原爆にあった人だけをかわいそうとする考え方は好きではない。それなら焼夷弾にやられて死んだ人はかわいそうでないというのか。」という発言のほうにも憤りを覚える。

 この発言に対して、ひとことでいえば「お前はガキか」といいたくなる。戦争で亡くなられたかた誰もを気の毒に思うことは、みな同じである。戦争おいて原爆で亡くなられた方そうでない形でなくなられた方を差をつけて考えるようなことは、まともな人間であればするわけがない。また、そもそも両者の「気の毒さ」自体、比較して考える性質のものでもない。そういうことすら、彼はわかっていないのである。
 
 原爆が先の戦争において、特に悲惨なものとして取り上げられるのは、その殺戮手段のいいようのない「むごさ」の点にあるのである。ボタンひとつで何十万もの人間を焼き地獄の世界におとす、それが質的に人類犯罪ともいえる行為だからである。だからこそ「核」は究極的には「廃絶」すべきものなのである。北朝鮮やイランのみにかかわらず、どのような国家であってもそれを持つ「資格」などありはしない。北朝鮮やイランが核を持つことを非難される根本理由はそこにある。

 どんな独裁国家、どんな民主国家、どんな大戦勝利国であろうが、核をもてる資格のある国家など人類に存在はしない。「核(原爆)」廃絶の正当性の根源として、その歴史的実証となるものが「ヒロシマ」「ナガサキ」なのである。「ヒロシマ」「ナガサキ」それ自体が、核廃絶の正当性を示す根拠なのである。この歴史的実証の前では、いかに核保持の正当性を整合的に理論づけようが、それはただの屁理屈にすぎない。

 それが本質的に分かっていない(分かろうとしない)幼稚人間が久間氏であり「憲法上日本も原爆をもてる」といってしまう安倍首相なのである。そういう意味で、今回の久間氏の「しかたがない」発言は、今の安倍内閣の幼稚性的体質をあらわしているものといっていいのかもしれない。
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by phtk7161 | 2007-07-10 19:27
 ブログを書くのが久しぶりになってしまった。久しぶりになったのは、一度書いた文章が投稿前に消えてしまう失敗をやってしまい、めげてしまったことも一因である。私の場合どうしても文章が長くなることが多い。それでかなりの量書いたのち投稿直前で消してしまうという失敗をやってしまうと、再度書くのがいやになってしまうのだ。そういうわけで、今日また気を取り直して書いています。

 ある程度期間が空くと、書きたくなるテーマも多くなる。そんな中で今回は、少し前の話題になるが光市の母子殺人事件の弁護団への批判について書いてみようと思う(ちなみに、一度書いて消えてしまったテーマは久間発言ついてである。これはまた別の機会にしたいと思う)。

 この事件はご存知の方も多いであろう。なんの落ち度もない親子(母親と赤ん坊)が、鬼畜のごとき未成年(当時19歳)によって、殺害された事件である。犯行の動機も暴行目的と、加害者には同情の余地のない事件である。

 1審の判決は無期懲役という判決であった。2審も検察の控訴を棄却。しかし、最高裁で2審の判決は破棄され差し戻されることとなる。またこの過程で最高裁で口頭弁論が開かれる直前に、弁護士が交代するという出来事もあった。ちなみにこの交代劇は、最高裁で口頭弁論が開かれる場合判決見直しの可能性がたかく、そのため死刑の判決を予想した弁護側の策的行為とする見方が有力である。

 私はこの事件について、次の点が問題であると思っている。

 (1)そもそも無期懲役の判決が覆った原因としては、被告人側の事件後の態度を最高裁が問題視したためである。そしてこの加害者の態度が問題となったきっかけは、被告人の友人にあてて書いた手紙が週刊誌上であかされたことである。これが世間の注目をあびた。最高裁がこれにより、この記事に書かれた被告人の手紙の内容を不利な情状としてきつくみたであろうことは容易に想像できる。

 被告人の事件後の行為、すなわち友人以外の他人にみられることを予想せずに書いた被告人の手紙が、世間に知れる(あるいは最高裁にも)こととなった結果、それを情状のひとつとして(不利な情状として)捉えられ、それがそれまでの判決を破棄し死刑判決を可能とすることとなったことに問題はないのか。

 (2)また、被告人の弁護側の法廷での策略的行為に対し単に非難を浴びせるにとどまらず、それがバッシング的ものになり、あげくのはてには差し戻し審での弁護側の弁論行為は荒唐無稽であるとして、こういった弁論は被害者側の心情を傷つける行為であるから、損害賠償をすべきだというような批判まででてくることは、司法そのものの制度に悪影響をあたえないか。このことも問題だと思っている。

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 (1)の点につき、私はやはりこういう過程で被害者の情状が判断されることには躊躇を覚える。確かに一般社会で暮らす友人に手紙を出す以上、その内容が一般に伝わる可能性は当然にありうる。したがって被告人も手紙を出した時点で、そのことは覚悟すべきであるという意見もあろう。しかし、私は手紙の内容が外部にわかってしまうと分かっているなら、被告人はこういう内容の手紙は書かなかったと思う。ましてや、それが情状にまで反映されると予期していればなおさらである。

 本人の予期しない形での、事件後の行為の裁判での不利な情状での利用のされ方は、やはり被告人の利益を害するものであって、アンフェアーとすべきものだと思う。彼の犯した犯罪行為は、それまでの量刑の基準からして無期懲役、死刑いずれも可能とされる範囲にある。したがって、私は被告人に死刑判決が下ることが妥当でないとは思わないが、しかしこういう過程でのできごとが原因となって無期懲役を破棄し死刑判決を可能としてしまうことは、裁判のありかたとしては明らかに問題である。

 私も手紙の内容が救いようもないほど愚かなものであることは、百も承知している。被害者側にすれば、今すぐにでも殺してやりたいと思っても当然だとも思う。しかし、どういう点まで(どういう過程のものまで)裁判では情状にとりいれるべきかは、それとは別に冷静に判断されるべきことである。

 被告人の育った環境はかなり劣悪なものである。こういう人間は、仲間に対して必要以上に自らを悪く見せることにより、自らの存在意義を見出そうとする傾向が強い。彼が書いた手紙のの中身が、その延長戦上のものであることも十分ありえよう。そうだとすると、手紙の内容=等身大の彼自身と決め付けることもまたどうかとも思われる。さらにいえば、手紙の内容を週刊誌が友人から得た過程はどうだったのか。どちらから求めたのか。友人側から売り込んだのか。それとも週刊誌側から積極的に友人にアプローチした結果なのか。謝礼金は払われたのか。払われたとすればどれくらいか。一方でそういう点が明らかにされることもまた、手紙の内容を情状に取り入れるときには重要なことではないだろうか。

       ☆        ☆        ☆

 (2)の点につき。弁護団は死刑回避のために、策的行為を乱用しているとの批判が強い。メディア側は、これを弁護団(主任弁護士は安田弁護士)が死刑廃止の運動の一環としてやっているという姿勢で伝えている。しかし、これはおかしい。弁護団があらゆる手段を駆使しているのは、むしろ2審のまでの過程とその後(最高歳)で、判決の流れが変わってきたからでありある意味でこれは当然のことである。それは死刑廃止運動とは関係なく、被告人の利益のための弁護士として当たり間の行動であろう。


見方によっては、確かにやりすぎの感もあるかもしれない。私もこういう弁護活動が、最善のやり方だとは思わない。しかし、弁護人の使命は、そもそも被告人の利益擁護を第一にするこにある。社会正義の実現ももちろんだが、それは被告人の利益を害してまでやるものではない。もちろん、犯罪行為に該当するような弁護活動はゆるされない。しかしそれにあたらない限り、弁護人はなによりも依頼人の利益を第一として活動しなければならない。それが「弁護」人である。

 したがって、今回のような弁護活動も否定一色(確かに一部不適切な戦術もあった)で捉えるべきではない。そうでないと事件の犯人が明らかな場合には、早い話検察官と一緒になって被告人を糾弾する弁護人ほどよりよい弁護人となってしまうことにもなりかねない。それでいいなら、極論すれば弁護人は刑事裁判制度にお飾り的役目以外には必要ない存在(事実を争わない情状ロボット的存在)ということにもなろう。

 ただのお飾り弁護人なら、それは真の意味での「弁護」する人とはいえない。アメリカでは弁護士としての資格を得た後、宣誓を行わなければならない。その宣誓の内容は、合衆国憲法に従うことと、依頼人の利益を守ることである。 私は決してアメリカの司法制度を高くは評価していないが、この弁護士になるときの宣誓内容については、その使命として正しい内容を示していると思っている。

 その弁護が、たとえ加害者側の心情を傷つけことになっても、それが犯罪行為でない限り許される。被害者、ないしはその家族を弁護のために必要もないのに、罵倒したり愚かしめたりするなら、名誉毀損の対象にもなろうが、弁護側の用意したストーリーがたとえ荒唐無稽であっても、それが上述した範囲のものではなく、かつ被告人の利益のためになるものであれば、それは許容されるべき弁護活動といえるであろう。またそうでないと、被害者側の心情を傷つける弁護活動が許されないとするなら、もはや刑事裁判において、弁護活動というものは成り立たなってしまう。

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 主任弁護人の安田弁護士は、地下鉄サリン事件の麻原の弁護人もつとめている。

 地下鉄サリン事件の裁判は、そもそも当初の弁護人であった横山弁護士では、被告人に十分な弁護が保証されないと考えた裁判所・・・(本音では弁護活動は形式的レベルでよいとするのが裁判所の本音であったと思う。つまり形作りである。横山弁護士ではその形作りでさえできないと裁判所は考えたし、また量的にも横山弁護士一人では到底無理だということもあったであろう。)・・・・が弁護人を探したが、誰も世間の批判や自らのイメージダウンを恐れて弁護を引き受けない。あの帝銀事件で有名な遠藤弁護士でさえ、家族反対にあい弁護を断っている。そういうなかで、最高裁判所のたっての頼みで無理やり弁護を引き受けさせられたのが、彼(ら)が弁護人を勤めることとなったいきさつである。

 もちろん引き受けた以上、安田弁護士はお飾り弁護活動ではなく、麻原の利益を第一にそれまでとってきた彼の弁護活動と同じスタイルを貫いた。もちろんそのやり方には批判も強かった。しかしそのことは、頼んだ側の最高裁にはそれまでの彼の弁護活動から当然予期できたことである。しかし検察はそれを腹に据えかねて、全く別件の不動産がらみの事件で、安田弁護士を逮捕する。

 この逮捕劇、本音のところでは検察にとって麻原の裁判を妨害する(ただし合法的にである)弁護活動を行う安田弁護士を懲らしめようとするところに意図があったといえる。結局その別件の不動産がらみの事件、安田弁護士には無罪判決がでている。この逮捕劇からも分かるように、彼は被告人の利益第一にこだわる分(彼はそれが真実の解明につながる行為であるとする。それもひとつの考えであろう)、彼には腹を据えかねる人も多い。しかし、それだからこそある意味では彼は本物の「弁護」人である(世間一般の評価はともかくとして)ともいえるだろう。

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 光市母子殺人事件は、加害者に全く同情の余地がない事件であることは私も同じである。死刑判決であっても、私はおかしな判決だとは思わない。ただ死刑判決を下すとしても、それは事件までの彼の行為状況のみを前提としてくだすべきである。決して、その後の被告人の書いた手紙の内容が週刊誌にだされることにより、それが加味された結果下されるべきものではない。こういうことがまかり通るようだと、感情優先の渦の中で司法制度はゆがんでしまう。

 また、弁護人の活動はなによりも、被告人の利益が第一であることは、当然のものとして認めれるべきである。そうでないと、被害者の感情優先のなかで弁護活動は萎縮し、それが場合によっては、結果として冤罪を防げなくなることにもなる。そういう点で、最近の光市母子殺人事件の弁護団へのバッシング的な批判は妥当さを書いていると私は思う。
 
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by phtk7161 | 2007-07-06 07:55