社会問題を考える


by phtk7161
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<   2007年 08月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 選挙結果が判明したときからそろそろ始まるだろうなと思っていたら、本当に始まるから記事をみて思わず笑ってしまった。何のことかといえば、民主党の新人議員へのメディア攻撃。事に関係した議員にも問題があることはもちろんだけれど「週刊誌のほうもどうもなあ」という気がする。この問題は次回に書くとして、今回は運動員への報酬にからむ公選法の問題を考えてみたい。

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 今回の適用された公選法規定の意味するところは、要するに運動員は報酬を受けて選挙運動をやってはいけないということである。もちろん有権者に対して投票依頼する金銭供与やそのための金銭を運動員に交付することは結局票を金で買う行為であるからこれは禁止され強く非難されるべきことは当然だと思う。しかし今回のような運動員への報酬のケースは、そういう買収行為とは質の悪さの程度はかなり違うと私は思っている(たとえ単純労働・・・禁止の対象外・・・でなくても)。

 実際のところ選挙運動で見られるケースでは、当選のための選挙運動の時には無報酬でも選挙後何らかの恩恵(もちろん金銭的価値に値するもので)を期待して運動する運動員が活躍している場合も多い。直接的な金銭をもらうためでないとしても、仕事の斡旋(学生の就職活動も含む・・・本人自身のみならず親が子供のためにやるケースもある)や公的なお金(福祉などの手当てや自らの仕事に絡む各種手当て)などを受給するためなど他にもその見返りの形は多々ある。もちろんそういうものは当てにせずに純粋にやる人もたくさんいるが、そうでない運動員も多々いるということだ。ようはバイト感覚で金銭を受ければ公選法違反、仕事を確保するための業務感覚で無報酬でやるのはOKというわけだ。

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 ま、法治国家だしルールはルール。あまり直接に金銭が飛び回って、糸山英太郎氏のように露骨な金の力・・・彼の初当選のときは金の力がモロに露骨であり、結果すごい数の関係者が逮捕された・・・で議員の座を得られても困るわけで、そういう趣旨からすれば運動員報酬禁止の規定も意味がある。物理的力(金の力)にものをいわせ運動員を使った結果、結局使った金銭量があからさまに当落を決定することがよい形でないことはもちろんであるから「公正な選挙」のためにそういう取り締まりも必要であろう。

 ただではそれがきちんとどの議員に関しても適用されているかというと、与党の運動員が何人かあげられれば同じ数程度野党の運動員もあげられる数比べを見ても分かるように、取締りの現場での運用の実態はそうではない。他にも何らかの形で報酬を払っているケースは他の議員の中にもいるのに、警察のほうで一定基準でやるかやらないかを決めているわけで(しかも警察の利害に関係するかどうかの基準で)、いずれにしても選挙後の公選法違反(運動員に対する報酬)摘発は一種セレモニー化しているのが実態だと思う。

 そういう点からすれば摘発された議員が他の議員に比べものすご~く悪いかというとそうともいえない。もし彼らに悪い点があるとすれば、それは公選法の対象となった議員が警察と取引できるだけの権力(能力)をまだ手にできていないということにつきる。そういう意味では票を金で買ったり身代わり投票のほうが何倍も行為の悪質さの度合いは高い。有権者はその点は理解しておくべきだと思う。
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by phtk7161 | 2007-08-30 18:39
 ちょうど世界陸上の真っ最中の日本では今日内閣改造が行われる。参議院といえども歴史的大敗を喫した以上トップの政治責任者が辞任して責任をとらないことは、普通に考えて(橋本、宇野元総理のケースと比較しても)おかしなことであって、大臣のメンバーがだれになろうと根本的なことは何もかわらない。まあいくらかましになったことといえば、あの本当にしょうもない補佐官制度が見直されることになったぐらいか。この制度。特定の重要問題の責任担当にもかかわらず、人材的には根本的問題(例えば教育)点の現状をよく知らない度素人補佐官(たとえば教育再生における山谷氏)が起用されていた。まあ所詮アメリカの物まねハリボテの制度だしこの結果は当然のことと思う。

 いずれにしても、本日の内閣改造は時間の無駄をやっているようなものだから、興味も殆どわかずコメントする気にもならない。ただ防衛大臣に関しては、「ヒゲの隊長」佐藤某の問題発言もあるし、シビリアンコントロールの観点(なにせ民主制度の根幹に関わる)からこの大臣が誰になるかだけは注目しておきたい。

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 そういうわけで内閣改造に興味がわかない以上、今日のブログは政治と離れて世界陸上の私個人の感想を少し話したい。よかったら読んでみてください。

 私はオリンピックより世界陸上のほうが好きである。オリンピックになると「頑張れニッポン」的熱狂さと競技者個人の競技とは関係ない「感動話」がメディアによって加わってしまい、純粋になかなか競技を楽しむ雰囲気になれないからである。世界陸上のほうはその点はいくらかましだと思う。司会の織田裕次君もテンションは高いけれども、司会を長年継続してやってきたこともあり彼自身世界の陸上の選手にも関心が高い。個人的感想も多いけれども、日本選手のみでなく世界に目を向けてる分オリンピックのケースよりましな気がする(もちろん私の見方に対する反対意見の人も多いと思う。所詮これは個人的感想であるからご容赦を)。

 本当の感動は余計な「感動話」がついてこなくてもそのスポーツのガチンコの過程と結果のなかに十分見出せる。またそれでこその「感動」である。そこをメディアは勘違いしている。400m障害の為末選手は銅メダル2度の実績の持ち主だがその彼が今回予選落ちした。世界のトップもコンデションやレースのリズムを崩すとそうなってしまう。それくらい陸上の世界レベルは厳しいということであるが、でもそれがまた同時に真の勝負ガチンコのすごさというものを見せてくれる。そういうことが認識できるのもまた世界陸上を見る楽しみのひとつでもある。

 為末選手もベテランの域に入った。世界トップの真剣勝負の競技、今回のような結果もまたあって当然である。「経験と知力(技術)」をいかしてまだまだ頑張って欲しい。私はこれからの彼のベテラン的競技のスタイルがどうなるかのほうにむしろ大いに興味をひかれている。それがオリンピック、あるいは次の世界大会にまでつながれば、それは本当にすごいことだ。

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 昨日朝原選手が100mの準決勝で敗退した。正直言って世界のレベルの高さをあらためて確認させられたレース内容である。予選のタイムであれば決勝進出の可能性もいくらかはあったけれども彼の準決勝のタイムは予選より遅い。しかしそれでこそむしろ4本走って世界のトップに立つことが如何にに大変なことかよく分かる。1次2次予選で7割準決勝で8割~9割程度の力で通過できないとメダルなどとても手にできない。

 朝原選手が2次あたりですでに9割~本気の力で走らざるを得なかったことが準決勝の平凡なタイムに影響していたことは間違いない。でもそうしなければ彼が確実に準決勝に進出できるかどうかは分からなかった。それほど大変な種目が100mという競技なのだ。

 朝原選手は長い間日本のスプリント界を引っ張ってきた。その彼もベテランの域に入り肉体的力はもう下降の時にはいってきているはずだ。しかしその分を「知力」「経験」で補い今回の大会に臨んだ。この大舞台でだした予選の10秒1はすばらしいタイムだし賞賛されるべきものである。100mで世界のファイナリストにはいることは、オリンピック競技などの他の種目金数個分(メダルレベルなら10個分か)の価値がある。

 今回の彼の走りは準決勝どまりだったけれども、そういう意味では実は今回の彼は十分他の種目のメダルの分の価値はあるのだ。そしてそういう彼の走りと、それと同時にみせつけられた世界の壁の高さといいうガチンコのすごさにはやはりある種の「感慨」を覚える。そしていつの日か日本で100mのメダリスト(もちろん男女問わない)が誕生したとき、それこそまさに真の「感動」をよぶことになるだろう。そう、「感動」というものは競技の過程と結果で十分なのである。余計な「感動」話的なものは度がすぎるとその選手のだした競技での過程や結果の純粋な「価値」さえ見誤らせてしまう。これは選手に対する冒涜以外のなにものでもない。   

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 この後末次選手の200mがある。彼が前大会獲得した銅メダルの価値は、オリンピックのほかの種目金5~6個分の価値は間違いなくある。なにせ1次2次予選を7割の力で通過して見せた選手なのだ。だからファイナリストにはいりメダルも取れたのである。それはある意味では「国民栄誉賞」に十分値する。もっとも国家からある評価を彼に与えることはかえって彼の業績の「価値」低下させることなのかもしれない。前大会で決勝の電光掲示板に結果がでるまでのそれを待っている彼の「表情」とそして3位の結果が出た瞬間の両手を前にぐっと突き出した彼の「姿」そして世界3位という結果自体。こういうことこそ彼のだした本当の価値の証(あかし)であるといっていい。それがまさに人を「感動」させるに値するものなのだ。そこに下手な感動話などいらないのである。

 スポーツの本当の感動は難易度の高い種目にこそ存在する。そういう意味では10年に一回あればいいほうなのだ。だから、毎回毎回お手軽につくられるスポーツの感動話(しかも競技に直接関係ない選手のプライベートの話)などただの「感動」したがりつくりたがり話であって、結局それは選手への冒涜に過ぎないと思うのだ。
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by phtk7161 | 2007-08-27 10:01
 27日に内閣改造が行われる。参議院選で予想以上の大敗を喫した首相が引き続き組織する内閣であるから、内閣支持率はスタートから低いであろうし、よほどのことがない限りその後も低いレベルで推移しうづけることになろう。そういう意味では、安倍内閣がこのまま続くことは時間の無駄ともいえる。ただ安倍以後の新しい政治の形を作るにしても、その準備期間は必要だから今度の安倍内閣は野球で言えば敗戦処理・・・野球における敗戦処理という役目はそれ以後の試合に勝つために他の投手を温存する大切な役目を果たすけれど、政治の場合そういえるかは分からないが・・・みたいなものだ。

 そうはいっても、その内閣が日本の国政を担うのであるから全く無視というわけにもいかない。「坊ちゃん」のつくる内閣は時に立憲民主主義を無視したおいたがすぎることがあるから、きちんと顔ぶれを吟味していくことはやはり大事なことだ。

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 今度の内閣改造では小池防衛相の処遇に世間の目が集まっているようだ。小池大臣をはずせば内閣が官僚(守屋問題で)に屈したイメージになるし、起用すれば起用したで小池大臣の守屋氏に対する処遇手続のみられた乱暴さ(根回しの悪さや携帯電話を使ったある種の軽薄さ)を容認したことにもなる。表面だけみるとこの小池大臣の処遇問題、安倍首相の悩みの種であるようにもみえる。

 しかし私は小池氏が閣僚に引き続き起用された場合には、今度の守屋次官をめぐる騒動に関し次のような見方(この騒動の最終解答)ができると思っている。それは結局安倍首相自身、守屋氏を更迭したがっていた(乃至は影響力を排除したがっていた)ということである。

 最終的な記事の裏づけは取れていないが、どうも私の調べた限り去年10月のある雑誌にすでに安倍サイドは守屋氏から西川氏に次官をかえたがっているという記事が載っていたようだ。前任者の小泉政権の影響が強い守屋氏の存在は安倍首相(乃至は安倍サイド)にとって決して好ましいことではなかったようで、ある部分では小泉首相よりタカ派的色彩の強いといえる安倍色に小泉色の強い彼(守屋氏)はぴったりの人物とはいえなかったのであろう(加えて前々回のブログにも書いたようにバックに企業を含めた経済的利権合戦の意味合いも、この騒動の背景にあったことはもちろんである)。

 したがって、もし小池大臣が今度の内閣でも引き続き閣内に大臣として入ることになれば、小池大臣の行った今回の人事騒動、それは安倍首相の意向(希望)を小池大臣が知っていて留任を確実にするために進んで点数稼ぎをしたか、あるいは安倍首相自身(乃至は安倍サイド)から彼女がその意向を直接的あるいは間接的(こちらの可能性が強い)に受けた結果の騒動だったということになる。

 もっとも小池大臣の今回の更迭のやり方(手法=手続き)までも安倍首相が容認していたことはないと思われる。やるにしてももっとうまい手法でやってくれると安倍首相は思っていたに違いない。その点では小池大臣は安倍首相の期待に十応えたとはいえない(更迭そのものは期待通りだったとしても)。その分のペナルティーとして今回は(大臣を)遠慮願おうとすることもあるかもしれない。

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 さて小池処遇に関してはこれくらいにして。実は私が今回の内閣改造に注目している点はもう一つある。それは菅総務大臣の処遇である。彼に関してはあまり注目されていないし、残留してもさほどたいしたことはないと思われているふしもある。しかしこれはある意味、小池大臣の処遇より注目すべき大きな問題点であるように思う。

 彼の留任は実はもっとも困った問題である。これまでの安倍内閣に問題児が多かったことは間違いない。金銭トラブル(事務所費)で名前のあがった大臣の数の多さがそれを示している。しかし彼らは金銭的にトラブルがあっても、政策的に在任中救いがたい過ちを犯した(発言内容は別)とまではいえない。しかし、菅大臣の方は金銭のほうはともかく大臣として行った政策はおきて破りのことばかりである。

 いまさらいうまでもないが、政府が表現の自由に圧力を加えることには細心の注意を払わなければならない。しかし彼はそんなことは全く意に介していない政策を平気でどんどん行ってきた。例えばNHKに対する放送命令、選挙(速報)に際して報道機関に対する要望的通達など上げればきりがない。総務大臣としては史上もっとも危ない人物だといってもいいであろう。

 メディアの現代社会出の重要性については改めていうまでもないであろう。この市場に放送(報道)の自由さがなくなれば、それは即立憲民主主義(における自由)の危機につながる。彼の例えばNHKに対する姿勢を見ると、まるでワンマン経営者のごとく公的放送局に対し様々な圧力をかけてきている。そのうちNHKの裏のドンとして大臣退任後も君臨するつもりのようにさえ見える。

 片山元総務大臣が今回の参議院選で落選した今、また引き続き総務大臣を続けることになれば、ますます彼の暴君的傾向(野望)は強まるであろう。それができてしまうのも、安倍首相自身が同じ感覚の政治家(憲法的感覚の低さ=表現の自由への意識のなさ)であることが大きい。

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 参議院選で大敗した安倍首相だが、今度の内閣の前評判の顔ぶれを見ると大虎(酔っ払い)の過激発言大好き中川昭一総務会長や町村元外務大臣の名前もあがっている。特に大虎のほうは相変わらずのお友達であるし、両者とも思想的にはバリバリのウルトラタカ派(特に大虎のほうは超がつく、ちなみに小池防衛大臣もウルトラタカ派である)である。

 そういう点からみても、表現の自由に圧力を加え放送法をその手段として害悪的に駆使している菅総務大臣が続投することは大きなマイナスである。そうした内閣改造は国民にとって何もプラスになることはない。そういう顔ぶれの内閣ではどういじくろうとも結局は、相変わらずの「戦後レジームからの脱出」「美しい国」というばかげた独自のイデオロギーから本質的には脱却できていない内閣であることにかわりないといえる。つまりはそういう内閣が費やす時間は、日本の政治にとって無駄な時間つぶし(政治空白)の期間であるといえよう。
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by phtk7161 | 2007-08-22 08:54
 休みだし週末思いっきり競馬をしようと意気込んでいたのに、中央競馬と大井競馬(その他には金沢競馬)が開催中止になった。中央は昨日から中止だと分かっていたこともあり、大井競馬に行こうと決めて早めに家をでて競馬場まで行くと「開催中止」の文字。どうやらかなり直前で決定したらしい。結果的に電車代が無駄になった。

 ここまで読まれた方は、「こいつは大井競馬への不満を書くつもりだな」と思われるかもしれない。しかし、どっこい私は今回の大井競馬の開催中止決定の決断を高く評価している。知りえた情報によると、今日出走予定の馬の中に中央競馬から転厩したばかりの馬(このケースでは馬の所属が中央の厩舎から公営の厩舎にかわること)がいて、どうやらインフルエンザの症状をみせていたらしい。検査結果がでるまでは本当にインフルエンザかどうかわからないが、今日の開催開始の決定時間までに検査結果は間に合わない。結局「公正な競争」(&他の馬への影響防止)のため大事をとって開催中止に。しかしその後の検査結果は「陰性」(インフルエンザではなかった)だった。つまり結果的には開催しても問題なかったわけだ。

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 今公営競馬は厳しい時代を迎えている(中央も楽ではないが、公営に比べればはるかにましである)。そんななか、中央が開催できなくなった今日(土曜)もし大井競馬が開催していれば、間違いなく相当売り上げは増大したとはずだ(その証拠にどうやら競艇は売り上げ倍増だったようだ)。

 このことは当然大井競馬の主催者側(関係者)も分かっている。経済的に厳しい状況下売り上げを少しでも上げたい彼らにとって、のどから手がでるほど中央からのお客さんは欲しかったと思う。開催すれば、中央競馬の開催中止を受けてかわりに大井で競馬をやるお客さんはかなり多かったはずだ。しかし検査の結果を待たずに「バクチ」的な賭けに出てまで、彼らはそれをしなかった(開催を強行した場合、陰性なら開催したことに批判があってもとりあえずセーフとなると思う。逆に陽性なら大きな問題となる)。私が高く評価したいのは、売り上げが厳しいこの状況下で経済的にはマイナスになっても、しかし主催者への信頼にはプラスにつながる決定をした主催者の姿勢である。

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 おりしも「ミートホープ」や「石屋製菓の(白い恋人達のお菓子で有名)」(少し前なら「雪印」)期限改ざんや原材についてのごまかし(期限の古い原材料の使用のケースもこれにあたるであろう)が大きな問題となった。両方に共通しているのは、コストを削減し売り上げ増のためには「不正(うそやごまかし)」をしてもかまわないという経営者の姿勢である。両者とも問題が明るみにでるまで売り上げの好調さを受けて「優秀な経営者」の評判をとっていた。しかし不正が明るみに出た後は結局消費者の信頼を失なった結果、彼らの名誉は藻屑と消えその地位も失うことになった。

 日本には「損して得取れ」ということわざがある。信頼を損なう手段ではたとえある時期経済的には潤うことがあっても、いつか不正が明るみに出ればすべてを失うことになる(そこまで行かなくても信頼の回復には長いときを要する)。雪印やミートホープは存在基盤そのものを失った。おそらく石屋製菓も社長が辞任したところで、それだけのことではすまない。今後場合によっては会社の存在自体にも影響があるかもしれない。目の前の「不正」にめをそむけ目先の利益を追い求めた結果である。

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 競馬を楽しむつもりが結果的に無駄足になった一日だった。しかし不思議と腹は立たない。それはおそらく大井競馬の主催者が目先の利益に目を奪われず、自らの仕事の信頼性を確保することを重視した姿勢に、ある種のすがすがしさを覚えたからかもしれない。もちろん(公営)競馬もギャンブル産業だし、決してきれい事ばかりではないであろう。しかしそうであっても悩んだ末の(実際相当悩んだと思う)彼らの(主催者の)開催中止の決断は、間違いなく正しかったし高く評価されるべきである。

 金ばかりが仕事のすべてではない(もちろん金も大事だが)という当たり前の・・・しかし昨今ではなかなか困難な・・・決定がなされたことは、今後の大井競馬に大きなプラスになるはずである。今回のできごとの根底の問題は、決して競馬界だけのことではない。他の多くの分野にも共通する問題である。だからなおさら、お金がもろにからむギャンブルの世界で今回の決定がなされたことの意味は大きいといえよう。無駄足は踏んだけれども、大井競馬に対して「いろいろ経済的なこともあり大変だと思うけれど、今回みせた経営姿勢がある限り大丈夫。今回のトラブルにめげずにぜひ頑張ってもらいたい。」そういう思いを強くした一日だった。

 
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by phtk7161 | 2007-08-18 19:24
  8月15日の終戦記念日。毎度おなじみというか、この日になると新聞では靖国問題が紙面を賑わしている。こうなると恒例行事みたいなもんである。

 それにしても平和はありがたい。総理大臣の靖国参拝反対賛成どちらにしても平和であるからこそ正面から論戦を戦わせる。一部には暴力による違法行為でおのれの立場を主張したい愚か者がいる。そうした行為は自らの立場の否定につながるだけであり、またそうした行為に及ぶ人間には、立憲民主国家ではもともと靖国問題を語る「資格」がない。

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 私は総理大臣の公式の靖国参拝は反対である。ただ私人としての参拝は認める。対外関係(中国など)が理由ではない。もちろん、対外関係も時の事情により考慮すべきだ場合もあろうが、それより総理大臣の公式参拝が政教分離(憲法20条3項)に反するからである。

 政教分離の裁判は靖国に限らず起こされてきた。しかし政教分離違反のもっとも最たるものは、やはり国家の行政の最高責任者による靖国神社の参拝だと思う。

 参拝の形式やその際の金銭の付与の有無に関わらず「公式」の肩書きで靖国神社でなんらかの参拝行為をすることは、(1)その行為の目的が宗教的意義をもち(2)国家として靖国が特別の存在であることを強調することで、その効果として靖国をより助長援助することになる行為となる。すなわち

 (1)行為の目的が靖国の参拝形式に従えばいうまでもなく、そこまでいかないとしても行為の目的の根底が結局のところ靖国という場で英霊に祈りをささげることにあり(単なる見物ならべつだが)、それに通ずる外形上なんらかの祈りにつながる行為があれば、それは宗教的意義をもつというべきである。行為に際しての内心的面を行為の外形とあわせて考慮すれば、その行為に何らかの宗教的意味合いを見出しえる行為(一礼や手を合わせる行為など)があれば、靖国における参拝の場合は伊勢神宮の場合などと違いその「世俗性」は薄いと考える。(もっとも最高裁判例のとる「目的」は外形的判断により世俗性を広く認める・・・しかし私はこの考えに反対である)

 (2)総理大臣が靖国に公式に参拝すれば、それは靖国が国家を挙げて「特別」な宗教法人だとして認める行為であり、その行為の効果は明らかに靖国の存在意義を助長援助促進することにつながる行為である。

 「小難しいこというな」というなかれ。意外と憲法の政教分離規定は政治にとって重要な規定である。例えば創価学会と公明党との関係で問題点として関わってくるし、外国でいえば宗教の教義そのものが政治に取り入れられている国もある(イスラム圏など)。またあのブッシュなど特定の宗教組織が彼に肩入れしている。そのためかどうか、彼はアフガン攻撃のとき「十字軍」という掟破りの言葉を使った。イスラムとの宗教戦争を一時は明白に強調したわけだ。これにネオコンも加わりのちの流れは皆さんご存知のとおり。世界(特に中東と欧米オ)の世情はブッシュのおかげで一段と不安定になってきた。これらから考えてみても、政治と宗教が必要以上に近づきすぎることは政治にとって明らかにマイナス面が大きい。

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 もっとも反対の理由をもっと簡潔にいえば、それは靖国が戦前において、国家の「戦争」政策に利する存在としてその存在意義をもつものだったからである。その本質が変わらない限りどうみても靖国は国家から公式に儀式をうけるべき施設(団体)ではない。

 では現在の靖国はどうか。英霊を思い純粋に参拝する人もいる一方で、靖国に来てあいかわらず戦争へのノスタルジーに浸る人間もいる。靖国に参拝する「資格」のある人間とは、「平和」の願いを心に秘めた人間だけである。しかし靖国神社自体相変わらずノスタルジー的体質をまだまだ改めていない。

 靖国が多くの国民に容認されたいのなら、まず靖国自ら「平和」を願い「不戦」の神社としてその存在意義をもつことであろう。しかし現実はあいもかわらず「顕彰」施設として存在する立場から靖国は自他(この場合の他は靖国参拝肯定派)ともに脱し切れてない。これでは8月15日に「国家」の代表が参拝すべき施設としてはあまりに不適切な施設である。こういうことからみても、やはり靖国は国家の代表者が「公式」に参拝することが認められる施設ではないのである。

 ちなみに私はもともと総理大臣は私人の立場としても、参拝すべきでないとする立場であった。しかし古賀元幹事長の父親が戦死した軍人であると聞いたとき、私は私人としての参拝は認める立場にたった。なぜなら、もし古賀幹事長が総理大臣になったとして、彼が一私人としても参拝できないとするのはあまりにバランスをかき、自分の父親が祭られている施設を子供(私人)が参拝することはむしろ自然な行為と思ったからである。

 こういう場合の参拝は靖国を特別扱いするものではない。子が父に祈りをささげる行為に対し世間はその祈りをささげた施設を特別なものとみたりしない。それはきわめて自然な行為である。ここが「公人(的)」と「私人(的)」の場合の大きな違いである。私的参拝の行為は靖国に対する助長援助促進効果はないといえる。もっとも私的参拝といえるためには「私人」としての立場を「明確」に示されなければならない。小泉前首相のようにあいまいな表現で参拝することは「公人」性を払拭できない以上、憲法違反とされてもやむをえない。

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 靖国問題についていろいろ述べてきたが、この問題の根底はなんといっても「平和」と「不戦」であろう。靖国に関わらず8月15日に考えるべきことはこれである(もちろん8月15日以外の日もそうだが)。

 戦後と戦前の日本とどっちがよいか(どちらの時代ですごしたいか)。国民投票したら「戦後」という国民が圧倒的であろう。それなのにせっかくの平和の日々を戦後レジームの見直しとか言うたわごとで崩そうとしたり、あるいは「日本(馬鹿)会議」というなぜだかやたら戦前の日本にもどりたがり、国民を選別し支配するものとされるものとに線引きしたがる、戦前を懐かしむジー様中心の暇人集団がたわごとを言う限り、総理大臣の公式参拝など認められていいはずがない。こういう馬鹿会議の人間達は本当は「靖国」に参拝する資格さえ(純粋な気持ちの参拝ではないからである)ないのである。

 靖国問題の本質は、憲法における合憲性や対外(国)関係が一番の問題ではない。それよりむしろ「戦前回帰」による「平和」や「立憲民主主義」への侵害が一番の問題なのである。その(侵害の)危険がある限り(戦前回帰の団体がごちゃごちゃ言う限り)、総理大臣の靖国神社への公式参拝など決して認められることはない。
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by phtk7161 | 2007-08-16 09:44
 防衛省の次期事務次官の人事をめぐり、守屋事務次官と小池防衛相の確執が表面化している。このことをある新聞記事が詳しく伝えているけれども、記事を読む限りはどうも小池サイドにたった記事である。他のメディアの多くの流れも、どうも小池サイドにたった記事がはやり多い。あの朝日新聞でさえ、小池防衛相が米国訪問で将来の総理候補として破格の待遇を受けているとの記事を書いている。

 これらの記事の真偽や意図はともかく、記事の伝えた守屋VS小池の確執の根底はいったいどこにあるのか。この両者の確執は、守屋次官にとって意表をつかれた次期次官人事の発表に端を発している。小池サイドは次期次官に警察庁趣出身の西村氏をたてるようだ。これに守屋氏側が反発している。一方で、実力は確かな守屋氏だがこれまでかなり強引な形で防衛省をひっぱってきたこと、あるいはたえず金銭にまつわるうわさがあることなどで彼に対する批判もある。冒頭の記事はこういった内容をとりあげている。

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 しかし私は今回の確執に関して、さらに次の点を指摘しておきたいと思う。それは防衛にまつわる防衛組織(軍)と企業との癒着の問題である。歴史的にみても日本でも古くはシーメンス事件があるし、戦後の政治家が直接関係した事件なら、自ら命をたった中島元文部大臣の贈賄事件がその典型的な例であろう。

 防衛が特に兵器関し金になる木である以上、商人達もこれに群がるのは当然ともいえる。そこに「国家のため」とのピュアーな面などありはしない(もっとも、それはそれでピュアーよりましな面もある・・・この分野のピュアーさはかえって民主的制度に対する危険につながる)。

 より多くの利益を生み出したい企業は、その目的に向けて影響力のある人物(政治家やフィクサー)に様々な手段で働きかける。映画「不毛地帯」はこの問題を描いものだ。ストリーはもちろんフィクションだが、しかし映画の指摘した根底の問題点は現実に存在している。

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 ここのところ防衛問題に使われているお金(直接、間接問わず)は、アメリカとの関係もあって莫大なものとなっている。構造改革で「官から民」のもと「無駄を省いて効率的に」を主張している政府だが、防衛に関する限りどうもその意気込みは低い。

 それは防衛に関する事柄が重要事項だとして秘密裏に扱われることで、そこがいかにも聖域化とされてしまうからである。国民の側もことが「国民の安全」に関わる問題(実は国民よりも、国自体そのものが政府のいう安全の対象なのだが)とされ、それに加えて兵器の適正価格の見極めの難しさ(兵器の値段などあってないようなもので、へたをすれば売る側と買う側の双方に都合のいい言い値である)などから、他の公的分野に比べなかなか突っ込みにくい面がある。だからそれだけ防衛に関する予算は(でもこれも結局は税金)、企業の標的(食い物)にされやすい。

 今回の両者の騒動。守屋退治に桃太郎的小池防衛相がのりだしたように見える話も、じつは両者の背後には防衛予算をめぐる企業(国内外を問わない)の存在があるといっていい。もちろん小池防衛相自身の、自らの将来への政治的野望をかけた防衛相残留への執念もあろうし、守屋事務次官の方も自らの防衛省での影響力を次官退任後も維持したいとの思惑もあろう。

 確かに守屋氏の時間在籍の期間は例外的(5年)で、彼に「防衛省は自分の省」だとするある種の思い上がりもあることは私も否定しない。今回の件で彼はそこを突かれたともいえる。しかしそうだとしても、記事となった人事をめぐる騒動、両者の思惑を考えればどちらが正しいかという次元の問題ではない。小池氏守屋氏どちらもドロドロの背後関係がある。今回の確執も結局は防衛をめぐる経済の主導権争いにすぎない。ようは利権をめぐる両者サイド(それぞれのバックにたくさんの応援団がいるはずである)の綱引きということである。

 
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by phtk7161 | 2007-08-13 21:39
 安倍首相が参議院選で大敗する数ヶ月前、このブログで「進歩的を自認する恥ずかし人間」の代表例として、塩崎官房長官について触れたことがある。何が恥ずかしいって「外国のまね=かっこいい」とみせるほど恥ずかしいことはない。

 もちろん外国の真似であってもよいものはよいし、中身がそれに値するものであれば外国のものでもどんどん取り入れるべきだ。でも日本の場合外国=アメリカしかないと思っている進歩的馬鹿人間も多い。中身を考えることなく、「アメリカではそうだから」ということ自体を、中身をみないで自らの考えの正当性の理由として使うからたちが悪い。それでは理由にならないことが分かっていないのだ。

 塩崎官房長官場合は、外形的スタイルの面でそういう傾向が強かったからまだましだった。もちろん考え方もそういうところはあったが、言葉の表現で露骨にそういう面が強く目立ったことはない。しかし今回の訪米先での小池防衛大臣の発言は、まさにウルトラばかげた「恥ずかし人間」のチャンピオンともいえるもの(内容)である。

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 なかでも「小沢氏の頭の中は、湾岸戦争で止まっている」云々にいたっては、あきれてあいた口がふさがらない。湾岸戦争で止まっていたら、世界はどんなにましになっていたか。何度もいうがイラク戦争は絶対起こすべき戦争ではなかった。「湾岸戦争で止まっている」ではなく「湾岸戦争で止まるべき」だったのである。

 もちろん湾岸戦争後にアフガン攻撃はおきた。しかし前回のブログで書いたように、私はアフガンまでは国連レベルの容認はあったもの解しているからその点では湾岸戦争とアフガン戦争に国際的同意の有無にさほど質的差はない。

 しかしイラク攻撃は違う。明らかにこれは侵略戦争であって、国際的に許容される余地のない戦争である。湾岸戦争とは質的に全くことなる戦争だった。この点の大きな違いを小池防衛大臣は分かっていない。「テロの戦い」をだせばどういう形の戦争をやってもいいというのは、あの大馬鹿のネオコンが付けた反吐の出そうな屁理屈であり、戦いの正当性を基礎づける理由とはなりえない。

 小沢代表の頭の中が湾岸戦争で止まっているなら、それはむしろ彼の考え方の「健全」さの証明である。小沢代表がシーファー中駐米大使に言いたかったことは、たとえ「テロとの戦いの」戦争であっても、それには国際社会の理解(=国連の同意)が絶対に必要だということである。

小沢代表はアフガン戦争ではそれはなかったと考える(国連レベルの同意)。しかし私はアフガンまでは国連レベルの同意は(乃至はそれに近いもの)あったと考える。この点国連(レベルの)の同意有無の認識は小沢氏とことなるけれども、小沢氏と私の考えに国際社会の同意(国連レベルを基軸とした)を必要とする点(攻撃の正当性が許容される要件的もの)では違いはない。この要件は国際平和を考える時、絶対欠かしてはいけない要件となるべきものである。それは国際社会における問題の民主的解決のためでもある。

 小池百合子防衛大臣は、シーファー会談で述べた小沢氏の考えを「湾岸戦争で止まっている」と揶揄したが(おそらく時代遅れの考えとしたいのだろう)、もし本気で彼女がそう思っているのなら、それは小池百合子=アメリカ、イスラエルの「ネオコン」であると宣言したもの見なしていい。

 新しい戦争の形、すなわちテロとの戦いに国連レベルの同意は必要なく、有志国(それも一国の独善的考えを中心とした形の)だけでいいとするのならそれは、まさにネオコン的考えそのもの(軍事的力による一国中心の国際社会づくり=国際社会の民主的決定の否定)である。彼女の今回の発言は、かえって彼女の本心を暴露してしまうこととなった。彼女は自らが日本版ネオコンであるということを、発言によって自認したのである。そしてネオコンの考え方はローマ帝国的ふる~い考えなのである。つまり彼女の頭の中は「湾岸どころか、ローマ帝国時代でとまったままなのだ。

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 それにしても今回の彼女の訪米での様子は、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいの姿であった。彼女としては、英語でライスと会話する自らの姿を日本の国民がみれば「まあ、なんて頼もしい。あのライスと流暢に(かどうかは知らないが)会話している。やっぱり、彼女が防衛大臣であるほうがいいわ」という流れを期待しているのであろうが、どっこいそうはならないだろう。

 イラク政策は行き詰まり、そのブッシュ政権でのイラク攻撃とその後の政策にライス(アーミーテージももちろんだ)にも明らかに責任の一端がある。そういう意味ではブッシュ政権のイラク攻撃の正当性が国際社会のみならずアメリカ国内でも否定されている今、その責任がある人物達に不必要に媚をうったり、あるいは自らの地位の上昇にそういう人との会談を利用する政治家が閣僚にふさわしいとは到底思えない。

 彼女はアメリカを使えば、なんでも日本ではそれが正当な根拠となると思い込んでいる。しかしそういう考えかたとも、日本のこれからの政治の中ではもう決別しなければならない。アメリカとの関係もたとえアメリカが最優先の友好国であるとしても、その関係の中身もきちんと考える時期にきている。外形的にアメリカを使えば何でもオールマイティーに通る時代ではない。

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 小池百合子防衛大臣はテレビ東京で経済ニュース番組のキャスターをやっていた。その後の彼女の動きを見る限り、彼女の政治家としての基本的形は、「機を見るに敏」優先でことの良し悪しは考えない、強いものに寄りかかっていくスタイルといえよう。まあえてして政治家(特に政治屋)はそうだが、やはり彼女はその中でも特に際立っている。キャスター時代には「経済界の爺殺し」の側面もあるし、政界でもその「爺殺し」的才能は如何なく発揮されてきた。それが政党のわたり歩きの一因にもなってきたようにも思う。だから彼女の今回のアメリカ訪問も、自らの閣内残留のためにアメリカの高官に対してその才能をふるに使った訪米に私にはみえる。

 しかし安倍内閣は、いつまで「かっこ(外形)」ばかり優先の政治スタイルを続けるつもりなのであろうか。参議院選ですでに政治に「中身」を求める有権者の解答は出ている。そろそろ本当に「中身」を考える政治スタイルに戻らなければならない。その思いをより強くした今回の彼女の訪米と発言であった。
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by phtk7161 | 2007-08-10 20:00
 小沢代表がアメリカ大使にテロ特措法の延長の反対を言明した。「アフガン戦争はアメリカの戦争であって国連レベルのものではない。国際社会の合意を得ずに始めたアメリカ中心の戦争には参加できない」という理由での反対表明である。

 私は小沢代表と違って、アメリカ自身のアフガン攻撃までは認める立場である。ここまでは、国連レベルでの世界各国の合意的ものはあったと認めてよいと思う。もっともだからといって日本がどういうレベルでアフガン攻撃に関与していくかはまた別次元の問題である。憲法9条の規定とPKO法案などの法の趣旨からできることに限界があるのは、立憲国家である以上当然のことだ。

 小泉前首相は、この点アメリカに対して大バーゲンセールをおこなったといえる。憲法9条や自衛隊の海外派遣の限界を慎重に考慮することなく、自衛隊を直接攻撃の手前まで加わらせたのがテロ特措法だったのである。「果たしてこれが本当に憲法の原則論に外れていないといえるのか」小沢代表の発言の根底はそこにある。

 この点からすればイラク特措法に至ってはこれはもう論外で、このブログでも幾度となく書いているが、イラク戦争は国際社会の反対を押し切りアメリカが勝手に行った侵略戦争であってこの件に関してはある意味法律の前提となる基盤がそもそも欠けている。いくらイラク復興を目的といっても、一歩間違えばイラクでの交戦の危険はいまだ存在しているから、これはやはり憲法の趣旨からいっても、本来いつでも中止可能な事項なのである。したがってイラク特措法を廃止しても、それはテロ特措法よりもさらにまともなことだといえよう。

 一部違いはあるけれど(アフガン攻撃の国連レベルの有無についての認識の違い)、それ以外の点は私も小沢代表の意見に全く同感である。したがって、私は今回の小沢発言を強く支持したいと思う。
 
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 シーファー大使に小沢氏が述べた内容は、日本にとってある意味画期的事柄である。立憲国家の原則論を述べ、できることとできないことがあると説明する。加えて、日本(この場合は日本の民主党サイド)から見たアメリカの行った行為(戦争)の等身大的見方を提示する。このあたり前のことができなかったのが、これまでの日本の(政権党による)対米外交だったのである。

 もっとも小泉前までは、日本もそれなりにぼやかす(狸的)やり方で、それなりに9条の趣旨から自衛隊の海外派遣を最小限にとどめてきた。それをぶっこわし、大サービスしまくったのが小泉前首相だったのである。その結果が、アメリカのイラク戦争での、日本の金銭や行動(自衛隊)のさらなるサービスだった。

 しかも、一切日本はアメリカに異議的意見は述べていない。その姿はまるで、日本がアメリカの一州がごときものだったといえる(しかも、大統領を選ぶ選挙権はない州)。この点でいえば小泉前首相のやったことは、経済に関してはそれが正しかったどうかは別にしてある意味「改革」といえるものだったかもしれないが、防衛に関しては明らかに立憲民主主義を害したものであるから「後退」といえるものだったといえよう。

 小沢氏がいった内容が与える影響はいろんな意味で大きい。しかし誰かが今回のような発言をアメリカに対し言わない限り、このままでは日本は経済的にも防衛的にもアメリカに利用されるだけ利用され、その結果食い尽くされるだけである。それを黙って見過ごしてきたのが、小泉安部の両首相だった。

 確かに、北朝鮮の問題はあるし場合によっては中国やロシアの問題もある。しかしそのために、いかに日米安保が重要であるとしても、今のままでは日本にプラスになることはなにもない。どこかで歯止めをかけなければ、小泉、安倍ラインでは法的ものを無視して大サービスしまくるだけである(その証拠に安倍首相は集団的自衛権に一刻も早くやりたがっている)。だからこそ、アメリカに対して日本もやれることには限界があると示すことは、これからの対米外交にとっても必要なことなのだ。

 アメリカとて日本の存在は、アジアの戦略において不可欠なものである。そういう点では、日本はアメリカにとってもはや切りたくても切れる存在ではない(軍事的にも、経済的にも)。したがって、少々アメリカのご機嫌をそこねることがあっても、何もこわがることはないのである。むしろ、そういう点まで見据えて腰をすえてかかれなかったところが、これまでの日本の外交の弱さ(特にプレスリー大好き小泉以降は、狸戦略すらやめたため奴隷まではいかなくとも末端の子分に近い存在にまでなってしまった)であったともいえる。

 格差の問題のみならず、防衛に関しても今一度冷静になって考えなおしてみることは必要なことだ。それを示したのが、今回の小沢発言だった。

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 画期的発言を述べた(とはいっても、あたりまえのことを述べただけなのだが)小沢氏に対しては、アメリカは策略的手段をとってでも今後彼をつぶしにかかるかもしれない。しかし小沢氏が述べた内容は憲法論、法律論、さらにはそれを前提とする契約レベルでみても全く正当な主張である。そのことはそういう形の社会を前提とするアメリカ自身も分かっているはずである。それでも納得できないとするなら、やはりアメリカは所詮野蛮な国家だということだ。そういう野蛮な国家が、日本のために正当な意見を主張した政治家をつぶしにかかるのなら、日本の国民は強い世論でその政治家を支えていかなくてはならない。

 一方的にサービスばかり強要され、少しでもまともな意見で反論すると痛い目に合わされるとするなら、そういう対外関係はDV(ドメスティックバイオレンス)的外交関係である。そういう関係を解消していくことも、これからの日米同盟の進歩的関係のためには絶対必要なことなのである。それを実戦したのが今回の小沢発言であり、それはアメリカのためにもプラスになるといえよう。そういう意味で今回の小沢発言に対するアメリカの対応は、アメリカの日本に対する本音(友人なのか、弟なのか、子分なのか、奴隷なのか)をみるのに、またとないいい機会なのかもしれない。
 
 
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by phtk7161 | 2007-08-09 02:12
 民主党が参院選で大勝し安倍自民党が惨敗した結果、日本の立憲民主主義の危機はとりあえず回避された。

 実のところ自民惨敗の報道が選挙前からでていたことは私も知っていたが、正直日本国民の良識については、私はかなり懐疑的だったので結局自民党は40代の前半あたりに収まるだろうとおもっていた。その場合離党した新井議などが与党に合流し、安倍自民の暴走はもはや止まらないと半ばあきらめていたのが本音のところだったのだ。

 私がそう思ったのには、それなりに理由がある。今回のような投票行動ができるのなら、そもそもあの小泉劇場にそうやすやすと乗っかる国民であるはずがない。選挙にドラマ的感覚で参加してしまうような国民が、衆院で与党に3分の2取らしたことに危機を抱き、果たしてバランス感覚を発揮できるだろうか、そう思っていたのである。

 しかしふたを開けてみると結果はうれしい誤算(私にとって)ともいえる民主の完全勝利、自民公明の大惨敗である。この結果はどうみるべきか。国民が衆院選とのバランス感覚をはたらかしたのか、それとも安倍(とその仲間達)的横暴さが有権者の鼻についたのか。あるいは格差が相当深刻な事態にまでなっているのか。敵失的なものもあったし、与党の敗因はいろいろ考えられる。私はそのなかでも与党の敗因はやはり格差だと思うが、それでも「与党惨敗の結論を生み出した国民の本音はこうである」といいきるまでの自信はない。

 ただ、「憲法改正や戦後レジーム(体制)からの脱却というお前のたわごとよりも、まず国民に飯を食わせる問題が先だろう、ええ坊ちゃんよ!こっちとらそっちのほうが深刻な問題なんでえ~っ」という有権者の声がかなり根底にあったのは間違いないと思う。それに安倍首相自身がある種の「負のスパイラル」に陥って、もはやそこから抜け出せなかったこともある(むしろこちらのほうが一番の敗因なのかもれない)

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 参議院で民主党が第一党となり、確かに政権への道筋も見えてきたようにも見える。しかしそれはそれで、またひとつの危険な罠もそこには存在する。政権奪取をなんともしても手に入れたいと、度を越した与党との策略的妥協に陥ればその先には、表紙をかえただけの第二のタカ派自民党政権ともなりかねない。

 民主党に理解しておいてもらいたいのは、9条をかえるべきでないとする国民は、かえるべきであるする国民の倍いるということだ(2007年4月の共同通信調査)。安倍首相とその仲間達は、集団的自衛権が悲願であり、9条改正でそれがでなければ、現行解釈でその道を開こうともしている(柳井元駐米大使を座長とする私的懇談会がそれだ)。国民の今の声に反してまで政権奪取のために、安倍的な対米追従の道に安易に妥協することは現に慎まなければならない。
 
 政権の道筋が見えてきたとき、民主党には鳩山、前原グループという現自民と濃厚な接点をもった議員(このグループは集団的自衛権を肯定する)の存在は両刃の刃となる。彼らには常に自民に飲まれてしまう危険が存在する。民主が自民に勝てるようになったとしても、彼らが民主をのっとってしまえば自民は大喜びだろう。これでは、民主は現自民となんらかわらない。この結論では、真の政権交代がおこったとはいえないのである。

 今回の民主の勝利は、ある意味「小沢色」の勝利であって、永田偽情報にコロッとひっかかるような「前原色」あるいは、小泉政権と対決色が出せなかった「鳩山色」の民主の勝利ではない。そういう意味で、彼らが今後民主党の中心になってしまうことは民主支持のこちらとしても今後かなり警戒せねばならない。

 今後民主党がどういう方向に行くか。岡田元代表は衆院選で郵政小泉と対決し敗退した。しかし逆に言えば、小泉政権のツケである「格差」問題で安倍自民が敗北した今、岡田民主党の評価をもう一度考え直してみることも必要である。あの時岡田民主党が訴えていた小泉改革の問題点は、決して的外れでなかったといえる。今の日本の現状がそれを証明している。そういう意味では、岡田議員が党の代表としてまた再登板することがあってもおかしくない(彼は、集団的自衛権には反対の立場である)。

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 むかし社民党が新進党さらには自民と組み政権党となった。しかし、彼らは結局政権の中で大臣のイスにおぼれ(大臣病)理念を弱め、その存在意義を失った。今公明党がある意味この立場に近いかもしれない。そして民主まで、その誘惑に安易に乗ることは現に慎まなければならない。「現実」とい名の「おためごかし」に惑わされ安易に妥協をくりかえし、大臣のイスを手にすることはまた、転げ落ちる始まりでもある。

 もし、民主が政権の誘惑に負け、安倍的自民党と安易に妥協し、さらには前原鳩山グループを巻き込み政界再編でタカ派自民的政権が主導権を握れば(そして集団的自衛権が成立すれば)そのときには日本の立憲民主主義はまた大きな危機を迎えることになる。そうならないためにも、民主党の今後の内部での動きにはより注意していく必要がある。

 参議院選は日本の立憲民主主義にとって好ましい結果にはなった。しかし、だからといって安易に楽観してはならない。もしわれわれ国民が今後立憲的に危なくなることがあっても「大丈夫、また選挙でそれなりの結果に落ちつくさ。なんとかなるだろう。」と、今回の結果を見て安易に考えていると、次はもう本当に立憲の危機をストップできないかもしれない。そういう意味では、有権者の側も今回の結果に浮かれたばかりいられないのは、民主党と同じであるといえよう。

 
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by phtk7161 | 2007-08-07 13:40
 今回の参議院でも何人かのタレント的候補が当選した。私はタレント候補だからといって一概に否定はしない。議員としてきちんと政策を学び、多角的な見方をもとに法の成立(提案および議決による承認行為)に尽力してくれれば、誰であろうが議員としての資格は十分あると思うからである。

 ただそうはいっても、やはりときにパフォーマンス優先のタレント議員がいることは愉快ではない。結局は選挙民がそれを支持しなければすむ話であろうけれど、選挙がまだ十分には人気投票的一面から脱し切れていない面もあるから、どうしてもこの種の議員は存在してしまう。

 自民党の比例で当選した義家氏は、もともと教育再生会議の委員であったが、その地位を放棄しての出馬であった。国会議員になりたいと、与野党問わずメディアに関わる中で自らを政党(あるいは政治家)サイドに売り込んでいたという話も聞く。彼の関わった教育再生会議の馬鹿ばかしさは、このブログでも散々批判してきたからここであらためて述べない。ただ彼が今の教育の根本的問題を論じるに適さない人物であることは、今度の彼のとった選挙スタイルからみても十分見て取れた。

         ☆        ☆        ☆  

 「子供達を教育の現場できちんと守っていく」彼のそのお説は正しいけれど、では彼のいう救わなければならない子供達とは、具体的にはどういう子供達か。彼は、自らが学生時代問題児でありそこから立ち直り、教師となっていわゆるヤンキー先生の名で有名になった。その観点からすると、いわゆる「グレた子供」を見捨てずに立ち直らせることが、彼のめざす教育改革ということであろうか。

 もちろん、そういう子供達のフォローも大事なことだ。しかし私に言わせれば、もっとも今の教育の深刻なダメージを受けている子供は誰か言えば、やはり虐めにより心に大きなダメージを受けた子供達であるようにも思う。クラスで暴れ、学校で思う存分規範的違反の行為をする子はその子なりに、家庭あるいは環境で影響を受けある種の内面的心の不満を持っていることは否定しないけれど、そういう子から粗暴的被害を受けている子の立場はもっと深刻である。

 平穏に受けられて当たり前の授業時間に暴力をうけ、落ち着いて授業を受けられない。いつ、たたかれたりこずかれたりされるか分からないのである。そのため授業中でも彼らは、自分の周りを警戒するくせがつき落ち着きをなくしてしまう。常にビクビクしながら学校生活を送らなければならない。場合によってはそれが乗じて登校拒否や引きこもりになる子も多い。これに対処すべきはずの教師の方も、生徒に対する体罰が許されていないうえ、逆に教師自身暴力の対象となるのを恐れてしまったり(そうでない先生もいることももちろんである)、さらには粗暴的行為を行う子供の保護者にも問題があるケースも多いから、学校側もなかなか有効な手立てが取れないのが現実である。

        ☆        ☆        ☆  

 今回の選挙で、義家氏が横浜銀蠅のリーダー達と共に行動している姿が報道された。横浜銀蠅は多感な時期にやんちゃ(というか、ヤンキー)に走る学生(中高)に人気があったグループである。不良のレッテルで理不尽な差別をすべきでないという彼らの理屈は、一面では正しいけれど、しかし彼らが学生時代好き勝手やった結果、平穏な学生生活(授業)をうけられず、カツアゲやパシリに使われ、あるいは彼らのストレス解消のターゲットになったために登校拒否や学校を辞めざるを得なかった生徒も、また別の一面で存在しているのである。

 そういう子供達がそのことで、人生そのものに大きなマイナスを受けているのは間違いない。そして、そういう子供の問題こそ、今の教育の重大な問題(もちろん他にも数多く今の教育のかかえる問題はある)であると思う。

 子供達を救いたいといった義家氏は、そういう子供達の気持ちはわかっていない。わかっていたら、横浜銀のリーダーなどと行動を共にするはずがない。暴力に弱い子供達ほど、彼らのような「不良的」イメージの人間が怖くて(いやで)しかたがないからである。横浜銀蠅のリーダーは今体調をくずしており、今の彼(銀蠅のリーダー)は弱者の気持ちが分かる人間になっているかもしれない。しかし、横浜銀蠅という名前は、やはりイメージ的には「不良」の象徴である。

 義家氏が救いたい子供達とは、今ワルの道にすすみつつある(あるいは、進んでいしまっている)子供達が典型的なケースなのであろうか。そうだとすれば、あまりに彼の考える「学園」のイメージは甘すぎる。本当に深刻な問題に直面している子供達は、むしろ不良の子供達の(彼ら側のいう)心の叫びからくる粗暴行為によって、暴力的被害を直接に受けている子供たちなのである。それを根底で分かっていない義家氏は、やはり教育問題の現場を真に分かっている人物とはいえない。そういう点で、今回の彼の選挙パフォーマンスはあまりに無神経な行為だったといえると思うのである。
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by phtk7161 | 2007-08-04 01:17