社会問題を考える


by phtk7161
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<   2007年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 ミャンマーで大規模な混乱がおきている。僧侶の政府への非難行動がきっかけだが、さらに民主化をあるいは生活の困難さへの不満を訴える国民がそれに加わった形だ。人権が制限され生活の困難さ(ことに物価高)が加われば、如何に相手が銃を構える軍事政権だとしても抗議する行動が起きて不思議はない(もちろんこれは勇気の要ることである)。

 日本人ジャーナリストも犠牲者になった。この衝撃は「遠くの国の出来事」と考えている日本人にも、ミャンマーという国がどういう国であるか知らしめることになったであろう。私達が普段当たり前のように満喫している「自由」がいかにすばらしいものか、個人の尊厳を認める「人権」を守ることがいかに大切なことか、ミャンマーでの出来事は私達にそれをあらためて教えてくれた。

 少し前にタイでも軍事クーデターがおききたが、その後の経緯をみる限り今や軍事政権による政権運営は行き詰っている。所詮軍人は軍人、経済がモロに絡む政治の分野でうまく立ち回れるはずがない。これはもちろんミャンマーでも同じことだ。

 軍事政権ができる形は、ひどすぎる汚職や限界的な生活の困窮さがおきているときに、「民衆のために立ち上がる」的な図式が多い。このときそれを支持する国民は「自由」のすばらしさを忘れ、正義的なものに酔いしれるものだ。しかしその後は軍事政権(軍国主義)という高い「つけ」を払わされることになる。戦前のわが国もそうであったといえる。そしてミャンマー国民も軍事政権誕生から今現在まで長い間その「つけ」を払わされてきている。

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 このブログでも、いくつか文民統制(シビリアンコントロール)の重要さをテーマに書いてきた。タイのクーデターやミャンマーでの今回の出来事を思うと、改めて「軍」というものが如何にやっかいな存在か思い知らされる。この組織は国民の生命を守るはず・・・もっとも彼らの本音は守るのは国民ではなく法人としての国家というものなのかもしれないが・・・の組織なのに、ある状況ではその国民に「銃」を向けるのだ。その状況は彼ら(軍)が政治上の力を持ちたがるときにおきる。

 参議院議員に当選したひげの隊長こと佐藤議員は、イラクは派遣時にその任務の範囲に反するこを覚悟の上でテロ組織と交戦(狭い範囲ではあるが)する意思があったことを明かした。これは明らかに制服組が今現在でも文民統制を甘く見ている証だといえる。本音でそう思っていても、彼がシビリアンコントロールを重く考えていればそれを口にするはずがない。それを口にしてしまうところが、政治(家)が彼ら(制服組)からいかに軽く見られているかの証拠でもある。彼らは実際アメリカ国防総省のほうを向いているのだ。

 特措法をめぐる国会論戦ももう真近である。文民統制めぐる点についても真剣に論じられなければならない。佐藤発言めぐる問題も取り上げるべきであろう。これは自衛隊の海外派遣に関連した重要な問題点といえるものである。彼は明らかに民主要素が基盤(国会)となっている「政治(法)」を軽く見た。政治(家)が軍になめられたら民主政治は終わりである。そのことを国民の付託を担う政治家は何より胆に命じておくべきだと思う。
 
  
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by phtk7161 | 2007-09-30 03:24
 福田内閣がスタートした。顔ぶれを見た印象はけっこう手堅くまとめたなという感じだ。麻生氏の善戦もあったせいか、ほとんど留任が多い。実は鳩山法相あたりは交代かなと思っていた。総裁選で麻生氏サイドの中心人物だったからだ。しかしそれでも留任。それだけ協調を重視し波風のたつような冒険を避けたということであろう。

 福田氏の履歴をみると彼は今の時期にはうってつけの首相だといえるかもしれない。それは彼のサラリーマン生活が意外に長いからである。どうみても世襲政治家によくみられる典型的なお坊ちゃんの腰掛といえるパターンではない。そういう点からすれば小泉元首相のような強烈なリーダーシップはないが、反対にあまり無謀なこともしない人物ということだ。つまり手堅いということである。

 小泉政権以降「何でもかえちまえ」とばかりに浮かれすぎの「改革」ごっこが続き、極端な政治が続いてきた。そのツケが「格差」なわけだが、いずれにしてもいったん腰をすえ本当の「国民のための改革」と何かを真剣に模索し、政策(それを決定する政治環境も含め)を調整する段階である。「改革」に対して今は「静」の環境が必要なのだ。そういう意味でサラリーマン福田総理は意外に適任かもしれないと思うのである。

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 ところで防衛庁長官に石破氏が就任した。この人事には高村氏は喜んだ(あるいはホットした)と思う。テロ特措法の問題があり、今や防衛庁長官は参議院の現状を見る限りなかなか大変なポストとなっているからである。石破氏は明らかに防衛族(&農水族)だし制服組にも近い。もともと論客だし野党との論戦にもやる気満々であろう。

 私自身はある程度これもあるだろうと予想していたが、本当のところこの人事はパスってほしかった。今の時期に彼がこのポストについてしまうと、また民主党所属与党よりさらにタカ派の前原氏(人的にも石破氏と近い・・・もちろん防衛がらみで)あたりが喜んでしまうからである。論戦がすすむなかで、民主党にいながら与党サイド(テロ特措法について)の意見を述べたりするかもしれない。トロイの木馬になり背後から味方を撃つようなことだけはしてもらっては困るのである。

 もっとも、ちょっと前に石破氏がしゃべっているのをテレビでみたが、その中で彼はテロ特措法に関し「法律が文民統制にかなっているか」というせりふをのべていた。実質的な文民統制(民主的要素にかなう意味での)での意味なら、もちろんこのせりふは私も歓迎である。それにかなうような法案を、どう彼が論戦のなかで説明(防衛庁政府と打ち合わせしたうえでの彼自身の解釈も含め)していくかそういう点では彼の就任について興味深い点もある。

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 国内の政治はしばらく「静」で進みそうだが、しかし世界のほうは間近で流れたイスラエルのシリア攻撃のニュースを聞くと、私の予想以上のスピードで中東の情勢は困った方向に進むかもしれない。私はもし日本が集団的自衛権を認めてしまうと、その場合最初に攻撃に加担するのは北朝鮮ではなくイランだとこのブログで何度も述べてきた。しかしそれをはるかに超えるスピードで事が進みだすこともありうる。イスラエルのシリア攻撃はイランと無関係ではない。明らかにその序章を意識したものだ。

 今アメリカ国内では厭戦気分がひろがっているとはいえ、ネオコンというのはそんなことなどかまわず動く暴力馬鹿であるから、まだブッシュの任期が1年残っている以上大統領選もにらんでひと波乱企ててもおかしくはない。このままならどうせ民主党ヒラリーの勝利、それなら一か八か共和党政権存続のためあるいはブッシュが自らの政権の評価回復のための打開策として行うこともないことではない(もちろん今のところその可能性はまだ低いが)。

 そういうことも含めて考えると、特措法ひとつとってもその扱いが慎重であって当たり前である。ひとつ間違えば、日本もまともにイランを敵扱いにせざるをえなくなる。あのアーミテージが言った愚かなせりふ「グランド・ザ・ブーツ」がイランで実現することになれば、日本は大きな危険にに巻き込まれてしまうだろう(その場合テロの危険を考えるとき日本国内も危険に無縁ではない)。これは気楽に「対米追従さえしてればいい」で済ますほどで簡単な問題ではないのだ。そう考えると、今現在日本で集団的自衛権が認られないままで本当に良かったと思う。

 せっかくの新政権のスタートである。世界情勢について別の角度殻の見方も必要であろう。「テロとの戦い」におけるアメリカとどうつきあっていくか、本当に方向の修正は必要ないのか、その先をにらむとき・・・もしイラン攻撃があるとしても国連レベルでの賛成はイラク同様得られない。また有志国ということになるだろう・・・テロ特措法についてもそういう観点を必要としよう。そういう意味でも国会では、多角的な見方をもって真剣な論戦を行って欲しいと思うのである。

 
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by phtk7161 | 2007-09-26 02:20
 予想通り福田内閣が誕生する。現在まで明らかになっている党人事をみる限り、派閥的バランス配分になってるように思う。古賀氏を選挙対策委員長に据えこの地位も新たに党四役に決めるところあたりは、新首相の支持者への配慮がうかがえる。さしずめ協調(麻生熱血支持派を除いての)内閣といったところだろうか。

 総裁選全般をみて思うのは、メディアはどちらかというと麻生氏に肩入れしていたように思う。そうなったのは政策面でというよりも、福田氏にくらべ彼のほうが個性が強いからといえる(ただし週刊誌肩入れ理由は別)。テレビにとっては麻生氏の方が面白い(かなりのやすっぽさだが)ということだろう。

 それにしても、麻生氏側の行った演説での秋葉原の映像には怒りを覚えた。参議院選で格差問題で惨敗した党の総裁候補が、少なくとも食うには困らない萌え的アイドル遊びの人間のいる場所で何を訴えようというのか。「漫画を日本の文化に」はもちろんかまわないけれど、やはり生活保護の打ち切りや、倒産、ネット難民、妊婦の搬送なども関わる医療問題、年金など人の命に関わる切実なテーマが目の前に山積してるのに、この軽薄さはなんなのであろう。

 参議院で敗れたとはいえ衆議院ではなお与党第一党である以上、この総裁選は日本の政治の最高責任者を決める選挙であろう。そういう責任感や真剣さに欠ける姿勢がこの総裁選にはみてとれた(特に麻生候補・・・福田氏のシャッター銀座発言は彼に比べればまだましだ)。

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 討論会で麻生氏は北朝鮮問題で福田氏を攻撃していたが、しかしでは彼に拉致問題の決め手があるかというとそうではない。圧力だけでかたがつくなら何も苦労しない。それだけでは困難なことは、今現在のこれまでの進展状況がそれを証明している。このブログでもすでに何度も述べたが、制裁は北朝鮮への懲罰的意味合いになりえても救出の現実的手段にはなりえない。被害者家族の北朝鮮への気持ちをいくらかでも軽減(ただし救出にはつながらない)する意味でなら、圧力もありであろう。

 しかし真剣に現存している人質を少しでも生きている間に多く帰国させる手段を考えるなら、いやでも取引的策が必要である。麻生氏(安倍前首相もそうだが)の発言にはそういう点での無責任さが感じられるのである。もちろん福田氏もこの問題であまり頼りになるものでもないが、しかし「対話」をにじますあたりは、救出の現実的解決をにらむときまだましだと思う。この問題を解決困難にしているのは、自己のタカ派思考をこの問題を都合よく利用することで実現していこうとする、被害者やその家族の気持ちを真面目に考えない、自己満足的な愚か者が存在することが一番の原因である。

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 新潮・文春などの週刊誌の福田攻撃もこのところ激しい。これは福田氏が靖国問題や中国配慮を重視するところに起因している。両週刊誌ともバリバリの復古主義的右的経営者(あるいは右翼)層がそのスポンサーについている。金銭問題で福田氏を激しく追及していたが、さにあらんや麻生氏の方が金銭問題に関しての潜在的なダーティさは、はるかにうえのはずだ。ただそれが表に出ないようにするつながりが、彼の周りにはあるのである(日本青年会義所などそうであろう)。

 麻生氏の総裁選善戦の結果を見て思うことは、目の前の国民の生活よりあいもかわらずタカ派的いけいけ遊びになお興じる浅はかな政治家がまだまだいるということだ。討論会で麻生氏が福田氏に対し「自虐的歴史観」という言葉を述べたのには、麻生という人間の人格的レベルの低さをみる思いだった。都合の悪いことを自らに都合のいいように解釈し開き直ることこそ「甘えん坊の妄想的歴史観」であって、それではいつまでも次のステップには踏みだせない。そういう人間の愚かさ無責任さは、安倍元首相が見事に証明したといえる。

 過去の過ちは過ちとみとめ、現在の正当な主張は(たとえば領土問題など)過去に関係なく堂々と厳しく主張すればいいのである。それが過去の問題を素直に受け入れては主張できなくるというのは、人種差別好きのコンプレックス型の人間のいうことである。麻生氏がもし首相になることになれば、そのときはまたタカ派遊びの坊ちゃん政治が復活すると思う。

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 とにかく総裁選は終わり福田内閣がスタートする。脆弱な内閣であることにはかわりはない。ただそれでも福田内閣VS民主党に期待したいことは、これまでの小泉安倍内閣時よりも真面目な法治国家的論争である。メディアにとってそたとえれが面白いことではなくても(視聴率が取れなくても)そうしなければならない。それこそが、まずこの国の新たなスタートのいえると思う。人の生命に直結する問題が山積なのだ。もう面白さ半分の「改革」(もちろんバランスを考えた真面目改革なら結構だが)にこだわる政治とはおさらばしなければならない。
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by phtk7161 | 2007-09-24 18:20
 舛添要一厚労相の内閣留任は決まりといっていいであろう。福田次期総理が(現時点でもこういっていいだろうと思う)大規模な改造はないことを示唆しているうえ、なんといっても国民へのアピール度が強いといえるからである。次期内閣でも彼が目玉であることにかわりない。

 舛添氏のここまでの発言や動きを見る限り、今の彼は国民的人気も高く一見死角といえるような問題はないようにみえる。離婚がらみの女性問題にしても、過去のことであり現時点で彼の評価をさげることにはならないであろう。

 しかし私には今の彼は、大臣になる前の一議員あるいは評論家時代(あるいは東大助教授時代)と比べると明らかに危うい気がしている。専門は政治学者だったとはいえ法の本質あるいはそれを基盤とする民主制の本質(立憲民主主義)を当然理解しているはずの彼が、このところの発言を見る限り国民に向こう受けすることに力点を置きすぎ、法治国家的側面を軽視しているようにみえるからである。

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 それは例えば、年金を流用ないしは横領していた関係者(時効にかかる)に対して刑事告訴するかのような発言、さらにはTBSの番組「ピンポン」での年金問題についての放送に対する反論の発言などそうである。

 年金がらみの訴追の件では、後に「時効の制度を無視してまで告訴をすることは法治国家である以上できない」とトーンダウンしたけれど、当初は刑事訴追を時効の問題があっても追求すると発言していた。彼の法的知識なら当然時効の制度の趣旨や法治国家の重要性については知っていたはずで(刑事告訴が無意味であること)、国民に対する「政治的なガス抜き」を目的とした政治的発言だったとしてもあまりに安易すぎで、法治国家としての「重み」を軽視しすぎである。

 大臣になる前の彼であれば、少なくとも法的「原理」「原則」は無視するような無責任な発言はしなかったはずだ。それが大臣になった途端どうも「人気取り」優先の発言が目立つ。確かに一般の国民には受けはいいだろうが、しかし「法制度」を軽く見てはやはり無責任であるといえよう。

 「ピンポン」に対する発言でもそうで、確かに欠席裁判的(少なくとも長妻氏に対する反対の立場の関係者は同席させるほうがベターだったとは思う)な放送のあり方に問題はなしとしない。しかしだからといって、放送法における「中立、公正」までだして圧力を加えるかのごとき発言はいただけない。番組のありかたが一般論的に「フェアーではない」と発言するレベルでとめるべきで、放送法までだして場合によっては何らかのペナルティーまであたえるような発言をするようでは、それは権力サイドによる表現の自由への圧力なる危険性がある。

 もちろんあの菅元総務大臣のやった「放送命令」に比べれば危険性の度合いは低いといえる。しかし質的側面においては「放送法」をだしての脅し的発言(菅元総務大臣のケースは脅迫、強要行為であるが)である点でさほど両者の質はかわらない。そういう安易さが今の彼の発言には見られるのである。

 彼自身評論家をやっていた時代がある。だから「表現の自由さ」「権力者の自身に対する批判への寛容さ」がなによりも立憲民主主義の要であることは熟知しているはずである。それが、立場が変わった途端「ころっと」変わってしまうようでは、彼自身で自らの良さを捨て去ってしまっているのと同じである。これでは場合によっては「裸の王様」にすらなってしまうだろう。

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 もう15年~20年ぐらい前の評論化時家時代の彼の発言で、今でも私が鮮明に記憶している彼の発言がある。それは「政治は(いい意味での)妥協の産物であり、また過去の歴史に学ぶ事も大切である(歴史的経験則の重要性)」・・・( )の部分は私自身で付け加えて解釈したもの・・・というものだ。これは、本来あるべきべき政治というものの重要な点を簡潔に述べたものといってよい。

 この当時の(こういう発言のできる)彼は、すぐれた政治家としての資質は十分にあった。「法治国家の重要さ」あるいは「表現の自由」や「権力者の自身への批判への寛容さ」はいずれも歴史的経験則からみて立憲民主主義国家の要となるものだ。それを理解しているはずの彼が、行政機関の一トップにたった途端にそれを軽視する発言をするようではあまりに悲しすぎる。たかだか「大臣」ではないか。これなら一議員あるいは評論家時代の彼のほうが百倍ましである。

 大臣になってそのイスの快適さにおぼれたか、総理候補に名前が挙がって地に足が着かなくなってしまったのか、それは分からない。ただ大臣になってからは、それまでの彼の本当の「長所」が消えつつあるのは間違いない。

 確かに「国民」の声にこたえる事は大切なことだ。しかしそこでいう「国民」とは「理性とバランス」が備わっている「国民」を意味している。そうでない感情ばかり優先した国民の声に応えるだけの安易な政治(政策、行為)はプレビシッド(衆愚政治)にすぎない。それを何よりも分かっているはずの彼が、それに通ずるような安易な発言をしてしまうことが、大臣になって以降みられる彼の危うさといえるだろう。
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by phtk7161 | 2007-09-20 00:07
 自民党総裁選がスタートしたわけだが、結果はすでに決まったといってよい。すなわち福田康夫総理誕生ということだ。理由は単純で、あの「福田康夫」が出馬を決断したからである。単純ではあるが、これほど十分すぎる根拠は他にない。

 人は負けを覚悟で冒険的勝負をやる人と、そうでない人がいる。福田氏は間違いなく後者のタイプで、しかもそれもかなりの慎重派。相当程度先の展開が読めない限り(実際にそうなるかどうかは別として、論理的意味で)動きはしない。その「石橋を叩いてもなかなか渡らない」彼が決断したわけだから、これはもう決まりである。すでに様々な角度から勝てる要素は物理的にも十分、その確率もかなり高レベルであると彼は読みきっている。

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 安倍辞任以降、多くの自民党の政治家の動きが伝えられている。概要を見ていてこれは「ダメだな」と思うのは、多くの政治家があいもわらず「小泉改革」の継続を唱えていることだ。彼らは参議院選の敗北に何も学んでいないのかと思ってしまう。

 改革が正しければ改革開始から6年もたっている今では、多くの国民が生活の豊かさ(向上)をすでに実感していていいはずである。しかしそうでないから、負けた。すなわち、不祥事があったにせよ、やはり負けた主たる理由は「格差」や豊かさ(表面的数字ではなく、本当に中身のある形での)の現実性のなさにあって、「改革ばかりと唱えても(バランス欠いては)NO」と与党に結論つきつけたのである。その国民の声に気付かないとすれば、もう自民は「終わっている」としかいいようがない。

 一番哀れなのはチルドレンで、もはや彼らの居場所はすでにない。「小泉がらみ」でなんとか議員という「職」を確保し続けたいのだろうが、国会は彼らの「ハローワーク」ではない。かなりレベルが低下した職場(国会)とはいえ、さすがになんでもかんでも「小泉」頼みでわたりきれるほど、のんきな職場でもないのである。改革の中身をきちんと吟味し、バランスの取れた政策立案能力のない(それが分からない)政治家はもはや消える運命にある。

 小池(ゆりこ)、片山、猪口、佐藤(岐阜の選挙区は野田公認で9割がた決まりだと思う)の議員ですら、次回衆院選後議員でいられる保証はない。ましてや他のチルドレンはなおさらである。だからといって、ま、もう彼らも大人である。余り子供っぽいことはやって欲しくない。

 麻生氏には今の現状は大誤算だろう。彼も小泉改革をの継承を述べていたが、そこに自らが総理になるべきとする根拠の正当性を求めるようでは、彼が総理になったところでとても衆院選は戦えない。もっとも、安易にそういってしまうあたりは彼にも相当焦りがあるのだろう。そういう点でも、今度の総裁選の結論は見えているのである。

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 いずれにしても福田政治により、暴走していた改革政治は調整の時期に入ることは間違いない。市場万能主義、諮問会議(有識者会議)による既成事実づくりの政治の手法など問題の多い改革政治である。そろそろもう一度福祉国家の原点に立ち返って、何が「公的」役割で何がそうでないのか・・・たとえば学校運営を市場主義的(民間の経済競争的)に考えることは明らかに間違っている・・・きちんと考えるときにきている。それは日本の将来の考えるために不可欠なことであるといえよう。
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by phtk7161 | 2007-09-15 08:54
 安倍首相が辞任した。私は今度の内閣は単に時間の無駄であると8月末のこのブログですでに述べた。だから幾分早いと思うが、別に特別驚きもない。少し面食らった程度である。だから別のテーマで書いてもいいのだけれど、政治・社会問題のブログのカテゴリーでで書かせてもらっている手前、このテーマを避けるわけにもいかない。

 おそらく昨日今日とも何らかのブログを書かれている大半の方が、多かれ少なか昨日の安倍辞任のテーマに触れているだろうし、このテーマをかくことは挨拶代わりみたいなものだ(礼儀的に必要なこと)と思う。そういうわけで、浅い見方になってしまうと思うが、私なりに今回の辞任までの安倍政権誕生から崩壊までの印象を述べてみたい。

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 突然でなんですが、このブログを読まれているみなさんは将棋をご存知であろうか。もしご存じない方には申し訳ないが、将棋の一局にかけて今回の出来事を考えてみたい。ちなみに今日の記事に日本将棋連盟の武蔵野六段(もちろんプロ)が対局欠席の多さゆえ、引退を勧告されたという記事がでていたが、この記事をよんで将棋にかけようと思ったわけではない。

 この記事を読む前、昨日安倍氏辞任のニュースを知ったときにすでに私は将棋的な見方で考えていた(どうしてそう考えたのか根拠は特にない。ただなんとなくである)。「とっくに詰んでいることに、ようやく気づいたのかな」「それにしても投げ(投了)時がずれているなあ」と思っていたのである。

 安倍首相と小泉前首相の将棋(政治手法)はどこが違ったか。一番の違いはそもそも小泉が飯島という名参謀(秘書官)がいたにせよ、将棋の主たる手は自らの考えで指していたのに対し、安倍は自らの考えで指した手はそうはなかったということだと思う。ようするに、人のいわれるまま指した手も多かったということだ。

 もっともだからこそ、さほど党内に敵も作らず首相になるまでは順調に来れたともいえる。人の意見を良く聞くお坊ちゃんは年期のいった幹部的爺さん政治家にも、うけがよかったであろう。だからあの若さで首相となれたのだ。

 で首相の座についた後どうだったか。彼は首相になった以降それまでの彼のスタイルをかえてきたように見える。人の意見は小泉に比べればけっこう聞きいれたとは思うが、しかしそれまでほどではなかったと思う。自分で考えて手をさ指そうとしていた節はある。でも結局何が最善手かは自らの頭で考えてはわからなかった。最善手でなくても少なくとも悪手を指さなければまだなんとかなる。しかし彼はどういう手が悪手すら分かる能力もなかったのだ。結果結局人の考えた手でやってしまう。

 彼が考えることのできる範囲は、結局のところ「相手の飛車や角がとりたい」あるいは「王を詰ませたい」(憲法改正、集団的自衛権など・・・さらには「王を詰ませる」=抽象的表現にすぎない「美しい国」ということになる)という結果的目標までであって、ではどうすればよいか(その過程はどういう手筋でいくべきか)ということを考える能力はなかったのである。

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 この点小泉は違う。小泉も「どういう手筋がいいのか」ということを論理的綿密さで選択できる能力がそれほどあるわけではない。しかし彼はとにかく「直感」にすぐれていた。手筋の正しさの論理的説明はできないが、とにかく「攻めろ」「攻めろ」で相手方を困惑させ結果勝ちに持ち込む能力(前回衆院選でこの能力は如何なく発揮された)には長けていたのである。そしてここが彼のこれまでの政治家にはない特異性なのである。

 将棋をある程度されるかたは分かると思うが、全くの初心者とある程度実力のついた人との違いは、将棋は「攻めるだけが勝つための手ではない」ということに気付くかどうかである。時には自らの手を故意にストップさせ(当たりさわりのない手で)相手に手を預けたり(相手に仕掛けさせる)、確実に勝ちにつなげるために守りをより堅め相手に勝つ気をなくさせるという一見地味な手がさせるようになるかということだ。そして、日本のこれまでの政治の世界ではそもそもこういう地味な手が、それまでの定石(論理的に一定の結論までたどり着ける手筋のこと)といえた。

 しかし小泉はこの定石を無視し、攻めるだけ攻めまくった。結果国民の目には、小泉という棋士(政治家)はあっぱれともいえるほど強い手を指す名人にみえたのである。そしてこういう勝ち方はかっこいいように誰しもみえる(特に初心者には)。自らの陣はほぼ万全で自分の大駒(飛車角)が相手の陣地に入っており、相手の駒は取り放題。すっきりとした完全勝利に支持した国民は酔い、さらには他の棋士(政治家)までもこのスタイルにあこがれたまねしようとしだした(この攻めて攻めて攻めまくるこのスタイル、これをトップダウンによる改革と世間ではいうようだ)。

 しかしこのスタイルは小泉だからこそである。「直感」に基づく攻めの才能がない人間(でも標準的政治家といえる政治家・・・多くの政治家はそうだ)は、地味にみえても守りの手(あるいは相手に手を預けること)も指せなければ、結局は詰まされてしまうのだ。そして安倍首相には攻めにつながる「直感的」巧手を生み出すも才能がないのはもちろんのこと、実は守りの手さえきちんとさせる能力がない。

 つまりは彼の将棋レベルは、ようやく駒の動かし方を覚えた程度にすぎなかったのである。だから小泉をまねしたくてもまねできず結局のところ、人の借り物的手(他人の考え)あるいは初心者に近い自らの考えによる手をさすしかない。しかもその手は大変な「悪手」ばかりであっというまに、盤上は絶対有利の形勢からかなり不利という状況になってしまったといえる。

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 何がまずい手だったかといえばあげればきりがない。格差の深刻さを根底で実感できなかったことが一番大きい。例えば再チャレンジなど全く意味のない手だ。しかしそれだけでない。柳沢厚生労働大臣の失言があっても彼をきらなかったこと。お金の問題噴出だった松岡農林水産大臣もきらなかったこと。松岡農相の結末は精神的にもかなり首相にダメージを与えた。この点でますます巧手を生み出す環境ではなくなったといえる。また他の多くの大臣不祥事もあった。

 極めつけは年金問題の不祥事を先送りしていたこと。さらにはそれに関して、民主党の管代表代行に一番の責任があるかのごとく主張し、この内容のビラをつくりこれを配ったこと(結局このビラは与党支持者からも反発がでてとりやめとなっている)。これは特に愚かな取り巻きの大間違いの考えによる大悪手だったといえる。本人達は攻めとして有効な手であると思っていたようだが、完全な読み違いである。

 長い間ほぼ独占的に政権にあった(ある)党(当然年金問題についても大きな責任がある)が、一時の他党の人物をこの問題の一番の責任者であるといって世間が納得するものでもなかろう。それなのに彼らはこのピンチを脱するすごく巧い手だと考えていたのである。

 選挙選に突入したときには、完全に不利な状況だった。ただそれでもまだこの時点で持ち直す可能性はゼロではなかった。つまりここで守りにはしる手か預ける手をうてばよかったのである。ところが「私か小沢さんかどちらが首相にふさわしいか」といって攻めの手にでて政権選択の意味合いをもたしてしまった。これがとどめであった。

 だから惨敗が決まったときには、もうすでに詰みまで何手もなかったといえる。それなのに、彼は投了しなかった。理由はこの将棋は俺自身の考えの手ばかりでない。他人の考えによる悪手が多かったから負けたのだ。だから「泣きのもう一局」といいたかったのかもしれない。

 しかし政治には解散(総選挙)以外には新たな一局(スタート時の最初の決められている形)はない。直近の選挙で政権党が負けた場合には、多かれ少なかれ手前で済ませたはずの終局の形は残るのだ。あっても幾分形が修正されるだけ。ただ別の棋士の指すスタイルによって局面の情勢が変わる可能性がでてくる程度である。したがって、続投すなわち指し手がかわらない以上、もはやこの将棋(安倍政権の政局)は詰むことにはかわりなかったのである。あとは投了時のタイミングだけであった。

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 そして昨日の投了の時期。将棋の投了には形作りというものがる。いわゆる負けははっきりしているが、最終局面はせめて一手さ(あるいは数手さ)あるいは一度は王手をかけておく(攻めの形作り)こういう形をとって投了することが多い。それが一種の形作りの美学なのである。

 私は安倍首相のタイミングはテロ特措法がらみの法案の可決(衆院で差し戻し可決があったとき)時だと思っていた。彼の祖父である岸信介は元首相は日米安保条約と引き換えに職を辞した(投了した)。したがって、安倍首相もそういう同じ形の投了の仕方をするだろうと思っていたのである。しかし、そうしなかった。投げ時(投了時)としてはあまりに中途半端で初心者の投了時に近い。体調のこともあり、もはや指す気力をななくし一刻もはやく投了したくなったのだろうか。もっとも他に何か大きな理由もあるようにも思う。いずれにしてもなお不可解さの残る投了(辞任表明)である。

 結局安倍首相(政権)の指した一局は初心者の将棋にすぎなかった。ルールをようやく覚えた程度だった。だからまだまだ学ぶべきことは数多くあったのだ。そのルールをやっと覚えたばかり腕前で、なのに小泉将棋と同じ形の将棋を指そうとした。小泉トップダウン攻めの将棋スタイルは彼独自のものだ。しかし現在ではその威力も前回衆院選ほどではない。同じ事(攻め手)をしても、もう今度は勝ちにつながる手とはならないであろう。いずれにしても安倍首相自身は、いまだ自分のフォーム(=政治手法)というものを身に付けていなかった。それが今回の辞任という結果に大きくつながったと思えるのである。
 
 
  

 
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by phtk7161 | 2007-09-13 08:43
  9月10現在4022件。これは日弁連に起こされた光市母子殺害事件の弁護士に対する「懲戒請求」の数だ。私はこういう・・・安易に懲戒請求してしまうような・・・人間をもっとも恐れる。冷静に問題の背景(何が問題となっているのか)や弁護制度の趣旨さらには法のありかたなど、自らは何も知ろうと努力しないまま感情のおもむくまま行動を起こす人間ほど、立憲民主主義にとって脅威となるものはない。ヒトラーや戦前の日本の軍国主義によるファシズムがおきた大きな根本的原因はこういう人間による感情的行動(衆愚的なポピュリズム)なのだ。

 テレビのニュース(ワイドショーも含む)を見たり週刊誌読んだけで、この裁判の根本的問題点の何をあなた方は分かったというのか。なぜ三権分立のひとつに司法権があるのか。その司法権を担う裁判制度においてなぜ弁護制度というものが存在しているのか。「懲戒」に値する行為とはどんな場合を言うのか。自ら知る努力をせずに、自分こそ懲戒に値する一タレント弁護士の軽薄な煽りに乗って「懲戒」の請求をおこすことが、あなたがたは本当の「正義」になるとでも思っているのか。

 断言してもよい。あなた方は決して少数者の味方にたつことはない人間であろう。もしかしたらいじめをやる側の人間かもしれない。自らの頭で考えようともしないで、自らの「感情」にあうなら「理性」など簡単にけっとばす。世間話のレベルでけなすのはかまわない。それはあなた方の自由な権利でもある。

 しかし合理的理由もなしに物理的に行動で特定の人間に対しマイナスの影響を与えるなら話は別だ。相手にも弁護活動のための自由があるのだ。それも考えず感情の赴くまま自らのストレス解消も含めた行動をおこすことは慎重でなければならない。なぜならあなた方のそういう軽薄な行為が、究極的には法に基づく「自由」な社会を壊してしまうことにもなるのだから。

 こういう人間が裁判員制度に参加して、まともな議論を経たうえでの判決がだせるのか。「市民」「世論」「庶民」いずれも「善」としてのイメージをもつ言葉だがそれは冷静な理性と人間らしい感情とのバランスが取れた人間であることが、その前提条件なのだ。「やったれ」的にのりで行動するのはお祭り的もので十分。人の人生や生命に関わる裁判。何でもドラマ化して感情の赴くままお遊び感覚ではやってはいけないのだ。

 今回のあなた方のと懲戒請求の行動は「パパラッチ」的ポピュリズムとなんらかわらない。光市母子殺害事件の弁護行動が「懲戒」の対象になるのなら、弁護制度などないに等しい。そうでないというなら、今回の弁護行動のどこが懲戒の対象になるというのか。そのことをタレント橋下徹弁護士ともどもきちんと論理的に説明すべき義務があなたがたにはあるといえる。

 そしてさらに断言してもよい。大きな組織の暴力団の組長がどんなに同情の余地のない残虐な事件をおこし、その弁護に際し弁護人がどんなに滑稽で腹の立つような弁護活動をしたとしてもあなた方の大半はその弁護士に対する「懲戒」請求などおこさないだろう。もちろん今回の一タレント弁護士もそういう場合には懲戒請求を口にすることもない。なぜなら行動の結果何らかの被害を受けるかもしれないという恐怖があるからである。所詮あなた方の「正義」とはその程度のものなのである。そのことは肝に銘じておいて欲しいと思う。
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by phtk7161 | 2007-09-11 08:24 | 社会問題
 テレビでおなじみの橋下徹弁護士が光市母子殺害事件の弁護団に加わっている弁護士から業務妨害で告訴された。

 テレビでよく見かける人物の大半は、所詮テレビ業界で生き残るためあるいは自らの本業を宣伝するためにでているのであって、そこに「まともさ」をもとめることはきない。もしその求めに真面目に応えてしまうと、そうなった時点でその人物はテレビの世界では「用済み」となってしまう。その要因として「視聴率」があることはいうまでもない。だからこの世界にどっぷり浸った人間は結局道化と化してしまうのである。

 橋下弁護士は、弁護士ではあるがもはや彼は「タレント」のほうが本業であることは間違いない。だから私はテレビでの彼の発言はなるべく聞き流ししてきた。テレビでその人間の本音は出せない。如何に「うけるか」「目立つか」それが優先される世界が、あの「四角い箱(テレビ)」の世界なのである。

 そうであっても何事も物事には一線(やっていいことの限界)がある。今回の告訴の原因となった発端は、彼が光市母子殺人の弁護士に対する「懲戒請求」を、テレビをみている視聴者に求めた発言である。私はこのことについては、彼は告訴されても当然だと思っている。弁護士の「懲戒」を求めるにはそれにふさわしい「理由」がなければならない。最も明白な理由にあたるケースとしては弁護士としての活動に関する「違法行為(例えば依頼人に対する横領行為など)」や、それ以外にも弁護士としての地位としての「品位」(かなり抽象的要件ではあるが)をおとしめる場合もその対象となる。

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 今回光市の母子殺害事件における弁護士は懲戒の対象に当たると橋下弁護士はいう。しかしこれは明らかに間違っている。私はこの事件の弁護士批判の問題について7月6日ブログですでに述べたが、弁護士が法を守るということ(これは弁護士だけはなく一般的なことでもあるが)の次に大事なことは何よりも「依頼人」の利益のために活動するということである。法の認める範囲であれば、弁護士は何よりそれを優先して活動しなければならない。それが「弁護人」の役目である。そうでない弁護人はただのお飾りである。

 光市の事件の犯人は許しがたい人物である。しかしだからといって彼の行為の悪質さを低減させるような主張を弁護人がやってはならないとするなら、それは裁判制度における弁護制度そのものを崩壊させることに等しい。「犯人の行為はこうに決まっている」とするなら裁判における審理の制度はそもそも必要ない。情状だけですますのが刑事裁判の役目ではない。何が「真実」かわからない。そのために検察官、被告人側双方の主張によって裁判での真実(=本当に存在した真実ではない・・・真に存在した真実を知るできるのは神のみである)を明らかにする(審理の結果での心証により事件の事実認定しそれを踏まえて判決を下していくのが裁判官である)のが裁判という制度なのである。

 光市の事件における弁護活動が必ずしも適切だとは私も言わない。弁護士によってもこういう弁護は「どうか」と思う人弁護士も多いであろう。そうであるとしても弁護活動として今回の活動も許容される行為の範囲なのである。たとえ「荒唐無稽にみえるような主張でも」その目的がことさら被害者とその家族を誹謗中傷することを目的として行われたものではなく、依頼人の利益のために行われる弁護活動である限りは(違法行為な行為に当たらないことももちろんである)、それは違法でもなく弁護士の「品位」を損なうものでもない。したがってそれはそもそも「懲戒」の対象自体にならない。

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 確かに光市の事件で庶民的感情が「許しがたい」的になることはもっともであると思う。しかしその犯人の審理の過程で庶民的感情にあわない弁論はなすべきではないとするならそれはある種の「魔女裁判」同じレベルに今の裁判制度を堕するものだ。どのような許しがたい悪人でもその人間のための「味方」になるのが弁護士(人)というものの職業である。そういう職業があってはいけないとするなら、今の弁護人の制度を自体根底から考え直すこととであるからその場合世間感情にあわない弁護活動は「違法」行為とする法律をつくるということにでもなるのであろうか。そういうことになればまともな弁護活動などもはやできないだろう。もっとも検察側は大喜びであろうが。

 庶民(世間)感情は必ずしも健全で正しいということにならない。ことにテレビがみせるような庶民感情はそうである。このことも昨年の10月16日のブログにも書いたが、「感情(感覚)」「理性(理論)」の双方の適度なバランスはどんな分野でも要求される。もちろん分野の性質によりそのバランスの配分は違うが、感情か理性かのどちらしかあってはならないとすることになればこれほど危険な状況はない。そして裁判という分野は何より理性が要求され優先される分野である。そこにはまた多数か少数かで決めるべき世界でもない。法が何を許すか許さないか(弁護活動でいえば刑事訴訟法や規則の規定、裁判所法や規則、弁護士法など)で決せなければならない。

 橋下弁護士が弁護士ではなく法の仕組みにも疎い一コメンテーターならテレビ的庶民感情に迎合する意見も番組の演出として許されるのかも知れない。しかし彼は法律のプロである弁護士なのだ。その分野の専門家であれば裁判というものの制度趣旨からも求められるコメント話すべきであろう。それが全くの素人張りに視聴者に対し、弁護人への「懲戒請求」を弁護士会にだすべきという意見では、もはや職業に値するコメントではない。

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 懲戒請求に値するなら、むしろ彼の発言のほうがはるかにそれに値すると思う。たとえば彼の学生時代のエピソードとして、彼が漫画を店(そこは当時今の奥さんがバイトしていた店だったらしい)から持って帰りあとでもとに戻しておいたエピソードをはなしていたという(たまたまテレビを見ていた身近の人間から聞いた話である)。

 これを彼自身は犯罪にならないといっていたが、窃盗は財物をしまった(占有を取得した=取得があって時点)時点ですでに既遂であって、あとでもどしたから犯罪ではないということにはならない(もっとも店主の承諾があれば別であるが、この話の場合どうもそうではなかったようである)。りっぱにこれは「窃盗罪」の既遂である。そしてこういう話をたとえ弁護士になる前の過去のことであるからといって、臆面もなく面白エピソード張りに話すことのほうがよっぽど弁護士としての「品位」を貶める行為だと思う。 

 確かに弁護士が難しい試験を突破しそのためか世間の社会的地位の評価に甘え、ある意味ぞんざいで特権的ものとして保護された時もあった。それは私自身否定しない。そういう意味では橋下弁護士が弁護士像を「親しみやすく」「特権的でない(特別なものではない)」ものにしたことは評価してよいだろう。しかしそのことと、そのため不必要に世間的感情に迎合することは別である。そういう考えではとても「少数者の人権の砦」としての司法制度の根底を担う弁護人は努まらない。そこを彼は理解していない。

 もし彼が本当に光市の弁護人の活動は懲戒にふさわしい行為であると本気で思っているとしたら、彼はバッジをはずすべきであろう。そしてテレビのコメンテーターやタレントとして活躍すべきだと思う。そのほうが今の彼にはふさわしいと私は思っている。
 
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by phtk7161 | 2007-09-10 18:14
 イラン最高指導者の任命権をもつ国家機関「専門家会議」の新しい議長に、ラフサンジャニ氏が選出された。ラフサンジャニ氏は穏健派であるが、今回の議長選出はイランのおける政治の新たな一面を示している。

 一昨年の大統領選挙でラフサンジャニ氏は保守強硬派の現大統領アハマディネジャド氏に敗れた。この大統領選挙で国民は、穏健派によるそれまでの閉塞したイラン政治の打開のためアハマディネジャ氏を支持した。それは穏健派による世俗的になりつつある社会(それはある面では民主的ことでもあるのだが)のありかたへの不満や、停滞している経済状況の改善を求めてのことであり、加えてイラク攻撃でみせたアメリカのイスラム圏に対する横暴さに対する怒りもあったといえる(イスラム系の多いイランの国民には受け入れがたいことである)。アメリカに対する穏健派の曖昧な政治姿勢、その不満の受け皿としてアメリカとの対決姿勢を強行かつ鮮明にアハマディネジャ氏は打ち出大統領に当選。こうしてアハマディネジャ大統領による保守強行路線の政治がスタートした。

 それから2年アハマディネジャ政治の現状はどうなっているか。最近では明らかにアハマディネジャ大統領への国民の支持は低下している。理由はごく明白で、長いアメリカによる経済制裁の影響から低迷しているイラン経済の回復が一向に進まないばかりか、穏健派の時代よりさらに後退しているからである。国民の声的にこれを分かりやすくいえば「強い対決姿勢をだすのは結構だけれど、その前に目の前の日常生活、食べ物ガソリンなどをちゃんと与えてくれ。口で勇ましいこといっても(外交面で)足元の国民のきちんとできない政治家などなんの意味があろうか」といったところか。国民のこういう声が大きくなりだすと最高指導者のハメイ二氏もその声を無視することはできない。さらに最高指導者の任命権をもつ会議の議長に穏健派のラフサンジャニ氏が選出されたとなればなおさらであろう。

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 アハマディネジャ氏は観念的場所における立場から、現実的場所での立場による政治の困難さを今より痛感しているはずだ。イスラムの教えは確かに国民の生活の根底にはあるが、それはすべてを犠牲にしてまで常に優先すべきというではもはやないといえる。イスラムでも日常生活におけるハード面での現実(機械による生活の便利さ快適さ)はもはや十分世俗的であり、国民もこれを手放す気など全くない。イスラムの教えも日常生活のソフト面(精神面)での役割にとどまる。それもハードをあまり犠牲にしない範囲でである。これをよく理解していないとイランの政治遂行者はすぐに行き詰まることになる。イラン国民にとって、かつてのイランイラク戦争のようなことがおきることはもうごめんなのである。そういう意味では、そのことを良く踏まえている穏健派のラフサンジャニ議長が着々と政治基盤を固めている昨今の出来事には、アハマディネジャ氏も憂鬱であろう。

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 モータリゼーション(交通)が発達し日常生活でもより機械化やIT化が進む今の世界では、よっぽど特殊な事情でもなければ、もはやハード面での世俗性は避けがたい。ソフト面ですらその影響を受けている。それは政治面でも無視してはならない現実である。そういう政治が求められる今の社会で、遂行者として適任なのは原則として調整型の政治家であるといってよい。独裁型の政治家(例えばプーチン)が支持されているとしても、それは国民生活のハード面(機械による生活の快適さ)も維持できているケースに限られる。今のロシアの政治でプーチン流の政治が通ってしまうのは豊富な資源基にした経済の好調さがあるからにすぎない。

 そういう意味では今のイランの政治の姿は他人事ではない。かの国にも当然あてはまる。「ぶっ壊せ」と主張した信長型政治家、それをひきついだ「美しい国」「戦後レジームからの脱出」「憲法改正」など大上段の政治文句ばかり並べ立て、足元の生活を見ることのできない坊っちゃん政治家、いずれも国民の日常生活での目線をもたない政治家である点ではアハマディネジャ大統領と同じである。

 対決姿勢は一面ではかっこいいいが、それも安定して国民の日常の生活を守れてこそである。地味ではあるが、政治における基礎ともいえるもっとも重要な「安定した日常生活」を国民に提供するということのできない政治家は、やはり今の政治では適任でないといえよう。「大上段のことをやりたければ地味でもまず足元のことからこつこつと」この重要さは、政治に限らず今どの分野の世界でも改めて見直されるべきことだと切実に思うのである。
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by phtk7161 | 2007-09-06 23:56
 前回記したとおり今回は民主党新人議員をめぐるスキャンダル問題について書こうと思う。もう多くの方がご存知のことと思うが、横峯良郎議員と姫井由美子議員についての不倫スキャンダルが発覚した。議員になる前のこととはいえ両者とも議員という公的仕事に携わる人物となった以上不倫の事実そのものの報道は、当然「公共の利害に関わる事実」として明かされてもやむをえない。しかし私が今回問題と思うのは、その表現法特に姫井由美子議員についての広告などで大きく書かれている記事見出しのありかたである。

 横峯氏姫井氏が公的エリア(あるいは問題)に関わらない普通の一般人であれば、今回これを記事に載せた「週刊新潮」「週刊文春」は刑法上の名誉毀損あるいは民事上の不法行為に該当する名誉毀損として、処罰あるいは損害賠償の対象となる。しかし今回そうならないのは、両者とも「公共の利害」に関わる人物(=関する出来事)だからであって、この場合記事の目的が「もっぱら公共の利益を図る目的に出た(これは民事の場合)」場合には記事による名誉毀損での不法行為は成立しなくなる。

 今回の特に姫井氏についてスキャンダルをとりあげたのは「週刊文春」であるが、この記事の表題(広告のための)には「もっとぶって」「Mである」などの文字踊っている。はたしてこの表現「もっぱら公益を図る目的」にかなう表現といえるのであろうか。

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 結論から言えばこの部分に関しては明らかに週刊文春は勇み足である。たとえこのことが真実だったとしてもそれは「公共の利益を図るため」「もっぱら公共の利益をはかる目的に出て」のためとはいえない。この部分は文春側が売り上げのために単に興味本位ないしは「2ちゃんねる」的内容を書いて陰湿に喜んでいるにすぎない。はっきりいえば書いてはいけない内容ということである。仮に裁判で全体的には免責されるための要件をみたすとして民事上の請求が棄却されるとしても、この部分については強い非難が編集者には課せられるべきと思う。

 少し前のことであるが、ニュースステーションで解説員を努め人気のあった元新聞記者の不倫問題がでたことがある。そのときも元議員秘書の愛人によって彼の具体的な「性的行動(あまり書きたくないが「バイブをつかって」などの表現であった)」があかされた。こういう内容がだされてしまうと、彼としてはそれが真実であれば恥ずかしくて反撃しようがなかったであろう。しかし私はこのときには、彼はその愛人と雑誌を徹底的に名誉毀損で叩くべきだと思っていた。

 不倫があった事実は記事にしていいとしても、そういう興味本位のことがら(具体的な性的行為)はたとえそれが真実だったとしても決して「公共の利益」にかなうものでない。りっぱな名誉毀損である。記事の一部については彼は恥ずかしさに耐えてでも裁判で戦うべきだった。そうでないと、こういう興味本位の「2ちゃんねる」的表現方法による人物つぶしが容易におこなわれてしまうからである。これはもはやメディアがやることではない。それは人間としても低レベルの行為である。

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 それにしても横峯氏の愛人といい姫井氏の愛人といいどういうつもりなのか。もちろん腹に据えかねる部分もあっただろうが、やはり一番は「お金」が目的であったであろうことは間違いない。当然週刊誌は多額のお金を渡しているであろう。書く側はその分公的利益を離れたより興味本位の話を引き出そうとするし、情報提供者(愛人)のほうもその分サービスしてそういう話をしてしまう。そして場合によっては自分で脚色して話してしまうことも十分ありうる。そういうことを含めて考えれば、記事に載った証言者の話を鵜呑みにできないことはもちろんである。

 議員として不倫が「その適格性」に問題があるかないかといえばそれは直接には関係ないといえる。しかし「人的信頼性」には関係あるといえよう。なぜなら不倫という行為は、いまだ民事上りっぱな「不法行為」の対象となる行為(これに対し刑法上の「姦通罪」は今は規定されていない)だからである。すなわちそういう意味では、やはり人的非難の対象に当然なる行為なのである。

 そういう意味では、横峯、姫井両者とも不倫という行為自体非難されて当然であるし、今後の議員活動における人的信頼性が低下してもそれはやむをえない。そして何より家族に対して強い精神的ダメージを与える原因となる行為をしたことは事実なのである。両者の家族のみならず愛人側にも妻や夫や子供がいればその家族にとってもこれは同じことである(もっとも今回の愛人とされる人物は現在独身のようだ)。そういう点まで考えれば公的人間が過去のこととはいえ民事上違法である人的信用性の低下につながる行動をしていた以上、不倫の事実自体は記事にされてもやむをえない。

 しかしそうであっても週刊誌側は不必要に強いマイナスをあたえてしまう性的行為の表現は決して載せるべきではない。もしそういう記事を載せたとすれば家族の側はそういう部分(性的行為に関する)の報道に対し、それを不法行為として精神的慰謝料を求める民事訴訟を出版社(今回のケースであれば新潮の記事がよりそれにあてはまる)に請求できることになろう。

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 「新潮」「文春」とも保守的メディアであるし、ことに小泉政権以降勝てるものしか非難しない(ようするに弱いものいじめ)記事の傾向がめだつ。一見すると強いものを叩いているかに見える記事でもさほどの内容ではなかったりする(あたらず触らず的)。これにはもちろんスポンサーの質も大きな影響を与えているといえる。しかしそうすること・・・弱いものいじめ的な記事を載せさらには同じ体質(保守的)を根底にもつスポンサーの援助(広告などで)を得ること・・・で、斜陽の週刊誌の業界の中で両雑誌ともトップの位置にいるわけである。

 今回のケースにしても叩いてもまず弱い反撃しかできない乃至は反撃してこない新人議員が叩かれたわけで、相変わらず「イラク人質事件」における高遠さんらへのバッシングにみられた「弱いものいじめ」「興味本位」の記事の体質は改まっていない。そういう意味では両週刊誌のメディアとしての質はもはや「2ちゃんねる」レベルに落ちているいえる。だからこその「もっとぶって」「Mである」という表題のつけかたなのであろう。

 本当はもっと大物の議員についての下半身についてのスキャンダル記事ないしはそれにとどまらない犯罪についてのスキャンダルは存在する。その事実をめぐって裁判にまでなっているケースもあるようだ。しかしこういう記事は両誌とも書かない。もちろんそれ以外の週刊誌や新聞もそうであるが。真実性の裏づけが弱いこともあるかもしれないが、結局は腰がひけていて喧嘩したら損であるという計算をしているということである。

 そういうことからすれば今回の記事も公益性を含むとはいえ一面では弱いものいじめにすぎない。だから書くにしても週刊誌も公益性(主たる動機に)があるからと興味本位の内容までも記事にすべきではない。そこに「もっぱら公益を図る目的」にでる動機はないのである。それはたんなる陰湿な彼らの遊び的な喜びにすぎない。文春や新潮は他誌に比べて「公益目的の範囲」を逸脱したそういう興味本位の見出しのつけかた(乃至は記事の一部内容で)があまりにひどすぎると思う。
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by phtk7161 | 2007-09-02 21:45