社会問題を考える


by phtk7161
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 アメリカ南北戦争。黒人奴隷解放を主張する北軍と反対する南軍が衝突した戦争だ。解放をめざした北軍が勝利したが、その後も南部はかわらない。

 南部白人のもともとの考え方である黒人に対する「奴らは能のない人間(彼ら流の言い方で言えば頭が悪い)だから、彼らが生活するには肉体労働しかないのだ。だから彼らに教育なんぞ無駄だ。人権など考えさせない方が彼らのためにもいいのだ。それには人種差別があたりまえなのだ」とするのまことに馬鹿げた人種差別が、今現在も本音では歴然として存在する。

 残念ながらこれが二百年以上たってもかわらないアメリカの真実だ。

 その馬鹿げたな考えをもつ南部の多くの人間は、バリバリの共和党支持者が多い。やたら交戦好きで、後先考えない愚かな支持者達。歴史上間違いなく間違った戦争として残るであろう、あのイラク戦争を熱心に支持したのも彼ら共和党支持者だった。

         ☆         ☆         ☆ 

 最近の「イランの核疑惑の問題解決のためにイラン攻撃を支持するか否か」に関するアメリカ国内の調査で、なんと攻撃賛成52%という「アホか!」といいたくなる結果がでた。このうち民主党支持者の賛成の割合は41%、共和党支持者の賛成は71%という数字である。民主党支持者の41%も情けない数字だが(賢明な民主党支持者にしてはアホが多すぎる)、共和党の支持者に至っては「クレイジー」としかいいようがない。

 9・11のおいて被害にあった場所は北部の都市で、南部に被害はなかった。しかし南部の連中は北部の国民以上に、(アフガン)イラク攻撃に熱中した。

 頭より力(暴力)でしか自己表現できない無知性の国民が、まさに南部の共和党支持者といえる。彼らにとっては、攻撃=自己表現的お祭りなのだ。とにかく喧嘩(戦争・・・その質は問わない)で勝つことこそ彼らの唯一の存在価値なのである。そこに知性は入り込む余地はない。それはまさにジョージ・ブッシュ&ネオコンなる人物達を見ていれば容易に分かる。そして彼らは南部の共和党支持者をまさに具現化した存在ともいえるだろう。

 イラン攻撃(もちろん規模によるが)がおこれば、今以上に中東は大混乱に陥る。流れ次第では中東を二分する大きな戦争につながる危険も大いにある。二分する原因が、宗教的なものか、パレスチナ問題によるか、それとも民族的なものになるか。あるいはそれらの複合的なものになるか。それは分からない。いずれにしても、イラン攻撃によっていったん大きな混乱が中東に起こってしまえば、事態は収拾不可能なことになってしまう可能性は高い。

 しかし「レームダック」化したブッシュ政権にとっては、この攻撃は自らの評価を回復するための最後の大博打である。「どうころんでもいいや。どうせ残り少ない任期だ。」所詮無知性な政権の考えはその程度である。もっともイスラエルにとってはシリア攻撃をしたことでもあるし、「中東問題(パレスチナ問題を根本におく)をこの際一気に片を付けちまえ」とばかりに、アメリカのイラン攻撃は願ったり叶ったりといったところかもしれない。

        ☆         ☆         ☆

 アメリカのイラン攻撃が起きた場合、ただはっきりしていることがひとつある。それは石油商人(会社)は大儲けで笑いが止まらなくなるということである。ブッシュの有力な支持団体に石油会社の存在があるのはいうまでもない。チェイニー(かれなど元石油会社CEOでさえあった)・ラムズさらにはライスでさえもこの業界とはばっちりと癒着している。これがブッシュ政権の偽らざる実態である。

 それを考える頭をもたず支持する南部の共和党支持者達。ビンラディンやアルカイーダなどのテロ組織さらにはイランのアハマディネジャ大統領などいずれも馬鹿げた人間・組織であり「罪多き」存在である。しかし先進国を気取りながらも彼らと同じレベル(時にはそれを凌駕して)で付き合ってしまうアメリカブッシュ政権。「売られた喧嘩は買うしかない」とばかりにそれを(ブッシュ政権)支持し続ける共和党支持者。この人間達も彼らに(テロ組織など)負けず劣らず「罪多き」存在であることは間違いないのだ。

 いったいこういう国家にどこまで付き合い、石油を援助し続けるのか。中東で大規模な戦争が起こることをやむなしと指をくわえたままで、アメリカのイラン攻撃を「はいそうですか」と簡単に容認するだけでいいのか。日本国民もそろそろ腹を据えてアメリカとの付き合い方を考える時期に来ている(言うべきことは言う・いい意味での曖昧さで乗り切るときは乗り切る・・・一方的なサービスばかりしない!)と私は思う。
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by phtk7161 | 2007-10-31 01:06
  亀田興毅が昨日謝罪会見を行った。会見の内容に対しては一部厳しい見方もあるが、大方は評価をしているようだ。私も今回興毅の会見での態度は受け入れてしてよいと思う。言葉を彼なりに選んで丁寧に話したその姿勢は、彼の年齢にすればなかなかたいしたもんである。

 もちろん時に決して適切な言葉使いといえない部分もあったが、それは彼のこれまでの境遇(実際あの父である。敬語というものがほとんど存在しない環境なのだ)を考慮すれば、それは教育の責任でもあり彼に言葉の使いについてのすべての責任をおしつけるわけにもいかない。

 プロボクサー亀田興毅。これから彼はばかげたパフォーマンスを控え、練習に専念しなければならない。また今後は世界戦の前に一度実力の裏づけのある日本人選手との対戦をやるべきであろう。大毅ほどではない(彼の対戦相手は論外である)にしても、彼も今だにガチンコ的試合を通じての実力の評価はされていないといえる。それにはノンタイトル戦で日本チャンピオンあるいは日本ランキング上位の日本ランカー相手にグラブを交える必要がある。

         ☆         ☆         ☆

 さて興毅のことはこれくらいにして。昨日の記者会見もそうだが、大毅の反則行為に端を発した今回の問題。片方の主役が欠けた形でことがすすんできた。そして今回の騒動はこのままの形で終結を迎えようとしている。片方の主役それはもちろんTBSのことだ。亀田家の傍若無人の行動を支えたものそれは間違いなくメディア(ことにTBS)である。それは疑いようもない。

 確かに視聴率はテレビの世界で優先される。もちろんそれはスポンサー獲得という経営問題が直結しているからである。しかしそれでも視聴率は「優先」されるだけであり常に「最優先」されるべきものではない。「優先」にも「限界」はある。視聴率獲得も扱う事の本質を捻じ曲げてまで優先すべき事項ではない。

 今回の問題でいえば、それまでのつくられた対戦相手や、それに伴う馬鹿げたプロレス的パフォーマンスを用いての「プロボクシング」というスポーツのテレビでの取り扱いは明らかに限界を超えていた。TBSはどこかでショーから真剣勝負的意味合いに流れをかえなければならなかった。そうでないと「ボクシング」が「ボクシング」でなくなってしまう。

 それなのにそのままの流れで、TBSはとうとう世界タイトルマッチ(しかも愚行の程度はますますひどくなった)を行ってしまった。この責任は大きい。だから今回の騒動の多大な責任は亀田家よりもむしろ協栄ジムの会長そしてTBSにある(もっともファイティング原田ボクシング連盟会長の責任やこれまで亀田家にヨイショ的に群がった馬鹿げたコメンテーターなどの問題点については私なりに述べたいこともあるが、これについては別の機会に書きたいと思う)。

 したがって昨日のサイドの謝罪会見(協栄ジムの会長は昨日も同席している)にしても、一方の主役は相変わらず欠けたままなのだ。だからTBSは一度は謝罪ないしはやりすぎを何らかの形で認める姿勢をみせなければならない。

 そうでないと「人が日時場所を指定してピストル自殺をすると予告し」「それをテレビが実況中継する」という手法(もちろんこれがあってはならない手法であることはいうまでもない)で高い視聴率をとることすらとおりかねないのだ。こうなったときにはもはやテレビメディアは狂気の世界そのものとなる。今回の亀田問題も視聴率優先とそのための手法の限界という視点で論じていかないと、その先には狂気の世界しか残らなくなってしまうだろう。

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 憲法21条の「表現の自由」は立憲民主主義国家の要である。メディアの表現の自由は強く守られなければならない。だから今回の問題にしても政治がメディアに干渉することはあってはならない。しかしTBSがこのまま今回の愚行の責任を回避する姿勢をつらぬいたままでは、世論の流れしだいで放送に対する政治干渉の危険を招きかねない。ことは「逃げ」ですむ問題ではないのだ。

 自らの「表現の自由」を守るためにもTBSは今回の問題に対し自身でそれなりの姿勢を示さなければならない。それはまさにテレビというメディアの存在価値そのものに直結する問題ともいえると思う。
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by phtk7161 | 2007-10-27 10:20
 名古屋競馬でのH調教師の山本茜騎手に対するセクハラ(ないしはパワハラ)問題は、原告である山本騎手側の訴訟取り下げで区切りをつける形となりそうだ。この件について私の見方を述べておきたい。

 私はいじめが大嫌いだ。理由は簡単で弱いものに喧嘩して勝ったところで自慢にもならないし、強いものと喧嘩し勝ってあるいは負けてこそ人として「何ぼ」であるからである。またそういう人間でないと、大げさに言えば政治レベルでの国民による権力監視などできもしない。本当の民主主義など無理となる。だから弱いもからのいじめをする人間は、そういう意味では立憲民主主義国家にとってマイナスの国民でしかない。

 これに対して弱いものをやるのは動物の「本能」だからという見方もあるが、その本能を修正し動物世界とは異なるルールを築くからこそ人間はまさに「人間」なのだ。そしてそれゆえに人類はなお「進歩」することを可能にするともいえるだろう。

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 少し大げさな話になったが、セクハラもパワハラもその本質は「弱いものいじめ」である。相手が嫌がっていることを合理的理由もなしに行う。セクハラの典型例であるH系の行動もやる側の行動のきっかけが「性的欲求」であることに目がいきがちだが、ようはH的行為であろうがなかろうが相手が嫌がっていることを合理的理由もなしに自らの社会的優位性を利用して行い、その結果相手の人間の「尊厳を」否定していたといえればもうこれは「セクハラ」「パワハラ」となる。

 もっともそれにあたるかどうかの認定には時(時代)の社会常識を前提とすることも大事である。そうでないと人の行動そのものが抑制されることになりかねない。

 そこで今回のH調教師の行動。山本騎手の前で「全裸」になり山本騎手にも「全裸」になるよういったのであれば、これは間違いなくセクハラである。善意に解釈してそれが性的意味合いではなく騎手として向上するための指導法だったとしても、彼女はそれを嫌がったわけだから、一般的に見て社会常識はずれのその行動を少なくとも彼女が拒否したのちに、すぐにその場で彼は「常識のなさ」の行動を彼女に謝罪する必要があったといえる。でもそうしていないわけだから、これは間違いなくりっぱなセクハラ・パワハラである。

 これに対し山本騎手の恋愛がらみでの男女関係の問題とこれを結びつけ、H調教師のセクハラ行為を低減ないしは否定しようとするしょうもない連中もいるようだ。しかしこれは論外の理屈だ。仮に男女関係や恋愛問題でのことが真実だったとして、それは今回の「全裸」行動には全く関係ない。優位性をもつ人物が相手の嫌がる社会常識はずれの行動を(場合によっては公然わいせつとなる)おこなったのであるから、その日時・場所でのH調教師の行動は間違いなくセクハラ・パワハラなのである。

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 だから今回の問題では、H調教師が自らの「非」を認め彼女に「謝罪」することが絶対に必要となる。それは彼女自身のためだけではない。一般社会における人権意識の確立のためにも大事なことなのである。だから今回の山本騎手の訴訟の取り下げも場合によっては私は彼女の責任は大きい(無責任)と考えている。

 もし水面下でもH調教師が彼女に「非」を認め「謝罪」したのであれば、まだ取り下げの理由は肯定できる(もっともその場合でも本来は彼女はその事実(謝罪)があったことを公表すべきであろう)。しかし「謝罪」もなかったのに彼女が取り下げたのであれば、彼女の責任は重い。なぜなら一女性の前で「全裸」なった男が女性にもそう(全裸になること)することを指示し、なおかつその行為の過ちを認めない。この事実が訴訟の取り下げによって通ってしまうからである。

 もっとわかりやすくいえばこういうことだ。会社の宴会で女性の前で全裸になり、女性にも全裸になるよう薦め、それを否定した結果不利益を受けた人物が会社に告発ないしは告訴してところ、「あんまりセクハラ・パワハラだと騒ぐと会社も迷惑するし、あなたも仕事に集中できないよ。あの女性騎手だって訴訟を自分の仕事の将来のためにとりさげたじゃない」などという、相手方のまことにしょうもない逃げ切りの理屈が謝罪もないまま通ることにもなりかねない。

 また一般の会社ではそういう流れにはまずならないとすれば、今度は名古屋競馬の「社会常識からの乖離」自体が問題となる。すなわち。「所詮公営競馬、まともな場所でないよ」こういう見方が社会からされてしまうかもしれない。そしてそれが財政上厳しい公営競馬の廃止にかかわりだしたとき、それが原因で存続に不可欠な「世論」の支持さえも失うことになりかねない。そのとき「あんなセクハラ・パワハラひとつまともに認めず善処できない名古屋競馬など廃止してしまえ」という感覚を名古屋の市民が持ってもおかしくないのだ。

 だからもし謝罪を受けていないままでの「訴訟取り下げ」であれば、山本茜騎手の責任は社会的にみても名古屋競馬の将来像からみても非常に重い。彼女が今回訴えたことは社会的に見ても名古屋競馬の将来像からも間違いなく正しい。しかし問題の決着(謝罪)を放置したままでの今回の訴訟の取り下げであれば、問題のもつ社会的影響からみて私は妥当な決着とはいえないと思う。

 このことはたとえ民事訴訟が処分件主義(訴訟の開始は当事者の意思)であろうが判決がでる以前の取り下げ(まだ同じ理由による訴訟を将来的に起こすことが可能)であろうが、それも今回の取り下げの合理的説明にならない。確かに訴訟は当事者が主体であるが、こういう社会問題を背景にした事件では、一面ではもはや彼女自身の問題にはとどまらない。

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 謝罪をうけないままの取り下げであれば、それは彼女がどんなに自らの仕事のため(実際そうであろと思うが)といっても、社会的見ればそれは「泣き寝入り」したようにみえる。これは最悪の結末だ。それが同じ境遇で苦しんでいる人(女性)に対しどういう意味を持つことになるか、若手100勝ジョッキーの彼女はそのことも考えなければならない。

 今回の訴訟の取り下げ、彼女が水面下ではH調教師から謝罪を受けていると思いたい。そして、謝罪を受けた事実があるのであれば、何らかの形で彼女はそれを公表していくべきである。今回のセクハラ・パワハラ問題、彼女の訴えの正当性が「明白」であるだけに、もはやこの問題は彼女一人の問題ではないのである。


 
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by phtk7161 | 2007-10-25 09:43
 亀田家(父親と大毅)と金平会長が会見を行った。会見に対するメディア評価はまちまちだったが、どちらかといえば批判的なものが多かったように思う。私もこの会見をみてある観点からの感想をもった。

 それは亀田家の父親の人間性についてである。というよりむしろ彼の人生観的なものについてといったほうがよいか。おそらく彼は生きてきた人生おいて「謝る=負け」という観点をもっている。本来日本人のもつ「謝る」という行為は、自らの非を認めすでに行った行為を相手に許してもらうという意味合がある。それは別に負けを意味しない。勝ち負けとはまた別次元のものである。この「謝る」という行為が、社会での人間関係を円滑にし共存を可能にする。

 また時に「謝る」的意味の言葉(たとえば「すいません」)には、相手の負担をねぎらう(たとえそれが相手にとってやって当然の行為であるとしても)意味の「挨拶代わり」的意味を持つ場合もある。たとえば、レストランで水のおかわりをするとき「すいません、水ください」というような場合などである。いずれにしても「謝る」という行為は、人が社会生活に参加していく上で「不可欠な」ものといってよい。

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 亀田家の父親の住んでいた「西成」という場所は大阪でも相当に荒っぽいところだ。彼が人生の大半をそこで過ごしたのであれば、彼も彼なりに「苦労」した人生であったであろう。その彼が生きてきた場所では「謝る」という行為は円滑な手段とはなりえず、それどころかむしろ「弱さ」のあらわれとして叩かれかねない行為だったのかもしれない。

 そのことは、記者会見で「パフォーマンス」と語気をいくらか強めて一瞬記者を睨んだ行為にもあらわれている。そもそも亀田家の子供達のメディアで見せた言葉や態度は「パフォーマンス」であれば、まだいくらかショー的ものとして許容される(ただ物事には限度があり彼らの場合は明らかに度をすぎていた)余地もある。

 しかしそれがパフォーマンスではなく「素」であるとしたら、もはや許容の余地などでてこない。社会には社会人として最低限まもるべき態度といえるものがあり、彼の子供達が「素」であの態度なら、もうボクシングを離れ人間性の問題となってくる。そこを彼(父親)はわかっていない。相手えらばず「つっぱって」「虚勢」をはること、それがまさに生きるための「美学」であると考えているようにも思える。ある種の知性が欠落(幼稚化というべきか)していることの現れともいえよう。

 間違った行為をした場合、それを素直に認めすでに行ってしまった行為について相手にその過ちを許してもらう。この「謝る」という行為の必要性を理解できずそれを修正する機会を持たないまま(それができなかったのにはもちろん環境的問題もあろう)彼はこれまでの人生を過ごしてきたのであろう。

 それはもっと分かりやすく言えば、多感な一時とはとうにいえない年齢においてもなお「やんちゃな暴走族」感覚の親がいたということである。その人物が真剣勝負のボクシングの世界の中で、演出されたテレビショードラマの中心的登場人物となり、あげく世界戦までその感覚でやってしまったことが今回の騒動の大きな一因となったともいえよう。

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 ところでこの「謝る」という一種の日本人的美学を、けなす知識人もいる。ことにアメリカ型の「契約社会」こそすばらしきものであり、これが進化した先端市場原理の社会であるとすることに自らの進歩性を見出そうとする人など特にそうだ。いわく、外国では「謝る」ということは簡単にすべきではない。それは契約型の社会では結局は「自からの損失」につながると。

 なるほど謝るということが、場合によっては契約関係のなかでは自らの「故意」や「過失」を認める(あるいは不法行為などでも)ることにつがり(あるいはそう解釈される)賠償を請求される場合もあるであろう。

 しかしそれは謝るということの一面の理解でしかない。謝るということには本来人間関係のトラブルを「円滑」にするというすばらしい効用も本来はあるのである。法的意味の「謝罪」と人間関係の円滑のための「謝る」ということとは、同質的にみるべきではないのである。そこを一緒くたんにしてしていることが今のギスギスした社会の一因といえかもしれない。

 これは行政の行為にも大きく影響を与えている。行政が「誤りをみとめ謝罪すること」=「損害賠償責任により金銭の支出が生じる」ということに拘泥するあまり、硬直した対応がみられときに重大な問題が不必要に先送りされてきた。例えば水俣の事件やエイズ事件でもそうだ。行政の謝罪と金銭の賠償とを同レベルであつかうべきかどうか。訴訟のことも含めてなかなか難しい点はある。しかし謝ることを行政がおそれるあまり、見過ごしていいはずのない重要な問題がそのまま放置されることは考え直す時期に来ている。

 誤解を承知であえていえば謝罪することとその救済のための経済性の問題は必ずしも同次元で考えなくてもいいのではないか。謝ることを先に「確定させ」その後の被害の拡大をその段階で「食い止める」。しかるのち経済的救済(迅速な)を次の段階で考えていく。こういう形もあっていいように思う。

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 謝るということのできない最大に愚かな人物。いうまでもないがそれはアメリカのジョージブッシュとネオコン達である。イラク攻撃を行ったことは最大の過ちである。それはアフガンに協力した他国への「裏切り」でもある。イラク復興に多くの国が素直に協力できることの条件。それはアメリカの「謝罪」(ブッシュ&ネオコン)において他にない。それによりイラク復興の意味合いは変容し本当の意味で「人道支援」となる。今の他国による軍隊を使った支援は結局「侵略戦争」支援の延長にすぎない。

 ネイティブアメリカンを征服したアメリカのフロンテイア魂に「謝る」という文字はないのかもしれない。しかし、複雑多岐にわたる今の国際社会にこそ、日本的な「謝る」ことでの円滑さを必要とするのではないか。契約社会型国家でも「謝る」ということの効用性を、もうそろそろ見直していい時代にきているように思えるのである。
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by phtk7161 | 2007-10-22 09:45
 一対一で頼るべきものは自分しかいない。パンチを食らうとポォーっとするし、鼻も曲がる。それでもひきつける何かがボクシングにはある。多分、殴るという行為が肉体的戦いの原点だからかもしれない。

 亀田一家のことは、長男デビューの当初(2戦目くらいか)から知っていた。しかし対戦相手を知る限り、どうみても勝って当たり前の相手だけと戦っていたし、その戦績も作られたものにすぎない。彼の試合はTBSもからんでボクシングがいつの間にかショーの要素の強いプロレス的ものとして扱われていたと思う。

 誤解のないよういっとくけれど、プロレスはショー的要素が強いとはいえ、そこで戦っているレスラーの肉体はプロフェショナルの肉体である。鍛えた肉体だからこそ、過密な試合日程の中でも肉体を酷使できるのだ。それもまた優れたプロスポーツのひとつの形である。プロの格闘技としてガチンコかショー的ものか、その違いだけである。

         ☆        ☆        ☆
 
 亀田家のボクシングに関することは、まともに捉えないようにしていた。あの親子そろっての言動・態度である。人にもよるだろうが、私は彼らの言動・態度は不愉快だったしそれまでのテレビ局のからんだ過程からみても、真剣勝負を彼らの試合から期待するのは無理だと思っていたからだ。

 長男はそれでもまだましだ。相手がさほどでもないランカーといえども、王座決定戦ではボクシングの試合をやったといえた。最低限(本当に最低限ではあるが)の世界戦をやるだけの能力はあったのだ。

 しかし次男の大毅は違う。パンチはあるが、大振りでコンビネーションもぎこちない。なによりも柔軟性にかけている。簡単に言えば、不器用なボクサーだ。それまでの試合の過程を見れば、どうみても世界タイトルをやる器ではない。世界レベル相手にまともにパンチを当てることはできないレベルである。

 その次男が世界タイトルに挑戦すると聞いて、「ウソだろう」と思った。ボクシング界テレビ局とも単なるショーマンシップ試合で大毅の連勝ごっこにつきあうのはまだいいけれど、世界タイトルマッチとなると話は別だ。彼が挑戦できるのなら日本ランカーのほとんどが実力的にその資格があるといえるだろう。それほど彼の実力は世界レベルではまだまだなのである。

 今回の試合で大毅のパンチはほとんどまともにはクリーンヒットしなかったはずだ。12R立っていられただけ大健闘というべきか。しかしまさか相手を抱えて投げようとまでするとは思わなかった。自分の形に持ち込めない、パンチもロクにヒットできないイライラの中での行為だったのであろうが、精神的にもまだ未熟すぎることをあの行動は暴露してしまったともいえる。結局彼は世界戦に全く値しない挑戦者であった。そしてそのことはやる前から分かっていたことなのだ。

        ☆         ☆        ☆

 以前の5月3日に書いたブログで授業ボイコッのト署名に一人反対し、結果やんちゃどもに屋上に来いと言われたエピソードを書いた。 実は私が彼らの強制の署名を拒否できたのはそのとき書いた経緯があったからだけではない。その勇気を与えてくれたきっかけがあるのだ。それはあるボクサーの試合である。私は一時この試合を見てボクシングにのめりこんだ。

 そのボクサーとは大場政夫である。ご存知の方も多いと思う。フライ級屈指の世界チャンピオンである。不慮の交通事故で5度目の防衛の後亡くなってしまったが、彼の試合ほどスリリングで見ているものに勇気を与えてくれる試合はなかったといいっていいだろう。特に私が勇気をもらったのはオーランドアモレス戦とチャチャイチオノイ戦である。

 アモレスは殺し屋の異名を取るほどのハードパンチャーで当時「最強の挑戦者」といわれた。戦績に示されたKO率の高さもそれを証明していた。

1Rにパンチをあごにくらい大場はダウンする。しかしすぐに2Rにダウンを奪い返し、その後嵐のようなラッシュでアモレスをマットに沈めたのだ。

 私が勇気をもらったのは、1Rダウンした後の直後の大場の戦いっぷりである。アモレスのパンチは荒々しいが重くものすごいスピードだった。見ている私にもアモレスのパンチは見えないくらいである。アモレスは大場を果敢に攻めロープに追い詰めた。一方的な展開である。並みのボクサーならアモレスのパンチをガードするのに必死でおかしくない。なにしろ一発食らえばリングに沈んでおかしくないアモレスのパンチなのだ。

 しかし驚くことに、大場は怒ったような目でロープを背にアモレスに対し果敢に打ち返したのだ。このときの私の驚きは今でも忘れない。あのアモレスのパンチを恐れずに打ち返す勇気には衝撃を受けた。それほど大場というボクサーは「気の強さ」でもまぎれもなく超一流のボクサーだった。大場は自分の力にしか頼れない場所で自分の力を信じて戦っていた。

 もうひとつのチャチャイチオノイ戦。この試合でも1R大場は右ロングフックを食らいダウンする。しかもそのとき足がつっていた(実はダウンしたときに捻挫していたのだ)。このときも片手でロープを握りチャチャイの攻撃をなんとかしのいで、後半チャンスをつかみ血みどろの乱打戦の末チャチャイをKOした。この試合に熱中し感銘を受けた人も多かったはずだ。

 大場の試合見て「単に怖がるだけではだめだ、勇気を持つことも必要だ」という教訓を私は得た。だからやんちゃ達の強圧的な形による授業ボイコットの署名を拒否することもできたのだ。屋上でやり合えばまず相当めちゃくちゃにやられるだろうが、その中の一人には少なくとも絶対に何発かまともに決めてやる。そしてその自信もあった。数の力でものをいうのではく、時には一人でも立ち向かう。その勇気を与えてくれる力が大場の試合には間違いなくあった。むろんそういう試合は何も大場の試合だけではない。輪島の試合をみて感動した人もまた多いと思う。

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 過去に幾多の名チャンピオン、挑戦者による世界タイトルマッチが日本でもおこなわれ、幾多の名勝負がくりひろげられたきた。その世界タイトルマッチの中でもっとも最低の世界戦が今回の亀田大毅の試合といっていいい。こんな試合のどこに感銘をうけろというのか。

 亀田家のボクシングに関係するもっとも大きな罪、それは「世界タイトルマッチ」に技術面でも精神面でもチンピラまがいの未熟なボクサーが登場したことである。それが最大の罪なのだ。その責任は大毅や親父ではなく、むしろタイトルマッチを企画した協栄ジムの会長、そしてデビュー以前からこのボクシングショーに関わったTBSに最大の責任があると私は思う。亀田家の言動・行動をそのままショーにしてボクシングをボクシングでなくしたこと。それが会長やTBSのやったことの本質なのである。
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by phtk7161 | 2007-10-16 09:26
  信じたくもないが、中谷元元防衛庁長官があるテレビの番組で「民主党の特措法反対に喜ぶのはテロ集団だけ」「民主党はテロ集団か」などと前代未聞のウルトラ大馬鹿発言をしたそうだ。発言が事実なら、愚かな行為にもいろいろ程度はあるが、この発言の愚かさはボクシング世界戦で反則行為を行った亀田大毅以上のものがある。

 もし中谷議員が大臣であれば、即刻罷免に値する。その意味で福田首相は彼を党三役や大臣にしていなかったことはラッキーであった。もし彼が閣僚であれば、野党との話し合いスタイルを強調している福田内閣にとって、彼の発言は内閣の命取りになったかもしれない。

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 それにしても中谷議員はどうしてしまったのか。中谷元議員は私の印象では防衛族のなかでも比較的柔軟な対応のできる印象が強い。それなりに法的知性も持ち合わせいたはずだ。安倍元首相とその仲間達にみられるウルトラタカ派戦争大好き人間ではなかったのだ。その人物が、この発言。安全保障調査委員会での付き合いで質の悪い人間に感化されてしまったのか、それとも大臣の地位でない限り平素は発言に気を使わないその程度の人物だったのか。全くもって不思議である。

 人間は普段付き合う人間に思考行動とも左右される人が多い。おとなしく真面目な議員が、右翼や国粋を掲げ暴力的団体に近い人物と付きあいだすと、ばかげた強さを気にしだしその気になってえらく知性を欠く過激で乱暴な発言をしだす。タカ派議員の多くはその類にいると思う。

 中谷議員がこのパターンにはまってしまったのかどうかは分からない。もともと小泉首相以降相手を揶揄することが政治的にうけると勘違いしだした悪しき風潮もあった。その流れが参議院選以降変わったことを彼は感知できなかったのか。自らの政策に反対するものを悪的ものに決め付け○×思考の2者択一に持ち込む政治がどれほど危険なことかは、もう学習済みなのだ。近時では郵政民営化がそうであったし、歴史的にはユダヤ人は「悪」ときめつけ虐殺にはしったヒトラーのファシズム政治がそうである。

 中谷議員がいう「特措法反対ならテロリスト」というばかげた幼稚的発言の根底には、ある種ファシズム的ものがあるといっていい。民主党が特措法に反対するのは、特措法が法治国家を掲げるわが国にとって憲法違反と解しているからだ。国民の中でも反対は3~4割あるのである。テロとの戦いに参加するにしても、一端仕切り直しをするあるいは今とは違った形の日本なりの支援方法を考えていいのではないか。それが特措法の反対趣旨だ。しかも新法は国会の承認はずしのシビリアンコントロールを放棄した「悪法」なのだ。立憲民主国家であるなら反対があって当然である。

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 もいいかげん今回のような、議員によるばかげた幼稚な表現による相手方への「揶揄」はやめるべきだ。これは与野党の議員いずれにも当てはまる。

 このところの国会での答弁は真面目で一見退屈ではある。しかし本来、それこそが理路整然と討論することを求められている立法機関の姿なのだ。ひとつの「法律」の成立如何で、国内外の人の生命や生活は大きく影響される。そのことの大きさも踏まえ、「法案」は多角的な見方で叩かれてこそ、調和のとれた定立を可能とする。しかし国会で揶揄が飛び交った小泉スタイルの政治には、その観点がなかったといえる。もっともそれも、人の生命さえも揺るがしかねない著しい「格差」問題が争点となった参議院選の結果ジ・エンドとなった。

 中谷議員に言いたい。民主党がテロ組織であるというなら、あなたの思考は間違いなく独裁者ヒトラーと同じである。民主政治にとっての最大の敵であるといってもいい。反対意見に対してこれを馬鹿げた表現で揶揄する人間には、そもそも国会議員としての資質に欠け立法を担う資格はない。それほどあなたの発言は民主政治の取って許されないものなのだ。民主党はあらためて彼に言い返すべきだ。「あなた発言こそ、民主政治に対するテロ行為そのものだ」と。
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by phtk7161 | 2007-10-15 19:11
  昨日の夜書いたばかりだけれど、書きたいテーマがあるので連チャンでもう一本。

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 小沢党首のISAF(国際治安支援部隊)参加発言が、与野党を問わずいろんな方面に波紋を広げているのはご存知のとおり。私なりに彼の発言の真意を慮(おもんばか)れば、その趣旨は対米追従での歯止めのない侵略戦争に加担しかねない形での自衛隊派遣よりも、国連基準でのきちんとした派遣での国際貢献(場合によっては軍事的要素もからむけれど)をということだとろう。実際今のままの与党の考えでは、きちんとした派遣の要件もなければ歯止めの垂分線もない。だから彼の発言は与党に比べれば無謀すぎるとまではいえない。

 彼自身の頭の中では、ISAFについてはそれなりに合憲性の理論づけも十分にできているとはずだ。もちろんそれが多数意見として通じるかどうかは別である。しかしそうであっても、きちんと自らの考えの基本的テーゼ(法治国家にふさわしいきちんとした法的裏づけのある政策)を示すことは、民主政治にとって当たり前だが重要なことだ。これができていなかったのが、小泉・安倍(両者とも自らの政策を法的にきちんと裏づけて説明できなかった点では共通している)政治だったといえる。

  ただ今回の発言に関して、参議院選大勝したこの流れでなんとか衆院選を戦いたい小沢党首に与党との対立軸を急ぎすぎた感はいなめない。もう少し民主党内部あるいは他の野党とも基本的土台をある程度つめてからでよかった。与党に給油問題で民主党の対案をつかれた場合を考え「国際社会」での問題でひきたくなかった気持ちはそれなりに分かる。でも、である。

 参議院選でテーマーとなった争点は「年金」「格差」などの生活重視の問題であり、決して日本の国際社会へのかかわりが大きなテーマとなったわけではない。むしろ安倍政権は生活問題から乖離した憲法改正などの大上段の問題で戦おうとしたため惨敗したともいえる。要するに「国際社会」の問題で多少曖昧があっても、それが選挙での致命的原因にはならないということだ。

 もちろんメディアはごちゃごちゃいうだろう。場合によってはいい加減なアンケートなども駆使し、国際問題に関する曖昧さが原因としてこのままでは有権者が離れるような記事の書き方をするかもしれない。でも投票行動に与える影響度は項目によって違うのだ。同じような数字が出ても、国民的関心度の中身は違う。だからそういう記事はかなりの確率で的外れだといえる。

 メディアは有権者そのものではない。「国際社会」への係わり合い(例えば特措法における給油問題など)が原因で票が大きく動くことはないのである。これは断言してもいい。投票行動の現実とはそういうものだ。少なくとも多くのまともな国民はなるだけ「安定」した「平穏」な生活を求めているといえる。刺激的なことは政治でなく国民個人の生活の楽しみでやればいい。そのことに多くの国民は気づいている。「政治に刺激を求めそれを必要とするのは、刺激が飯の種の退屈を嫌う「メディア」(特にテレビ)とそれに感化された軽薄人間だけだ。」こういう見方も今の民主党には必要だと思う。

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 ところで与党の幹部達がそれぞれ小沢氏のISAF発言に対し憲法違反だと批判していたが、正直聞いていて思わずひっくり返りそうになった。そのときの気持ちを一言で言えば「お前らがいうか」である。

 まず自民党の伊吹幹事長。少し前まで与党の安倍内閣は私的懇談会で「集団的自衛権」の合憲性を検討させていた。そのことに彼が強く異議を唱えた(違憲だと主張した)との話は聞かない。侵略戦争へ軍事組織が関与してしまう可能性が強いのはどちらか。考えてみればいい。ISAFより「集団的自衛権」のほうがはるかに違憲性は強いのだ。少なくとも「集団的自衛権」の合憲性に異議を唱えなかった議員に小沢発言の違憲性を述べる資格はない。

 さらに公明党の太田代表。こちらもまた違憲との批判。これまでも公明党は自民ののタカ派的見解に対しその時々に懸念を示してはいた。しかしそれだけだった。日本の今の対米追従ばりに、政権党のうまみに追従するあまり現実の与党としての動きは党の「理念」から乖離していった。

 イラクへへの自衛隊派遣を人道的見地というおためごかしの理屈で行い、結果アメリカの侵略戦争に軍事的組織が事後的に加担することになった。これが果たして公明党の理念である世界の「平和」にかなっているのか。まだ小沢氏のISAF参加のほうがその理念にかなっているといえる。少なくとも、正当な理由もなしに(国際社会の道理を無視して)治安維持活動をするわけではないのだ(しかも現段階では小沢氏は非軍事的分野の参加に限るとしている)。

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  今回の小沢発言に絡みこれから民主党が気をつけるべきことは、民主党を「憲法改正」へ誘(いざな)う与党の「罠」である。民主党がISAF参加を党の方針に掲げた場合、「それをやりたければ9条を含む憲法改正が必要」としてと9条改正へ誘う動きである。

 しかしISAFが9条の平和主義・・・すなわち侵略戦争に加担することない形で(国連同意の要件など)真の国際的平和に寄与する・・・に適う活動といえるのであれば、現憲法でも解釈上認められるはずである。もし改正しない限り認められないとするなら、それは「9条」の理念に反するもので「平和」的なものではなくむしろ世界平和にプラスにならないということだ。いいかえれば、ISAFに憲法改正が必要なら、その時点でISAFの活動などすべきでないということになろう。

 従って、ISAFを「憲法改正」に結びつけることなど必要ない。与党はこの問題で「9条改正」に絡めてゴタゴタいいだすだろう。しかし与党のしかける憲法改正への誘惑など、民主党は全く相手にする必要はないのだ。
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by phtk7161 | 2007-10-13 02:50
 どうもこのまま時津風部屋のリンチ事件はうやむやになってしまいそうな雰囲気である。メディアの扱いもにも温度差がみえ、親方や理事長の責任を厳しく追及するところもあるが、一方で相撲界のイメージ回復に努める形の番組もでてきた。コメンテーターの中にも擁護的発言をするものもあり、見方によってはこれなどテレビ局サイドと角界との手打ちの感じにもみえてしまう。

 擁護論の大方は、相撲の国技としての価値や長い伝統にもとづく角界の独特な体質を論拠にするものが多いように思う。しかしこれは全く理由になってない。考えても見て欲しい。国技としての価値や独特の体質が人の生命の問題より優先されるべきものなのか。

 両者は次元の違う問題である。仮にこれからも国技を維持することが重要なことだとしても、だからといって人の生命に関する問題があいまいにされていいはずがない。まして「これまでの角界の体質がこうだったから」ということなど、一人の人間が死亡したという厳然たる事実のまえでは擁護する何の理由にもならないのだ。擁護論者はこのことを本質的に認識していないと思う。もし認識していてのコメントであるとしれば、それはおそらく彼自身の「飯のタネ」が角界の利益と深く関わっているからだろう。

 ある出来事に関しいろんな意見があってよい。それは自由な社会として当然であり、またそうでなければならない。しかしそれはもちろんより自らの気持ちに正直な意見(批判であろうが、擁護であろうが)であればこそである。「食うこと」を犠牲にして正直であることは大変なことではあるけれども、そうでなければ公的存在のメディア(特にテレビ)に値する意見とはいえないのだ。ことに「人の生命」に関わる問題についてはそうである。メディアには時に「経済性」を犠牲にしても優先するべきものがあるのだ。
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by phtk7161 | 2007-10-12 19:22
  沖縄での軍の命令による住民の集団自決に関する教科書の記述が、検定で削除された問題で沖縄では大規模な集会が開かれた。そのためか教科書で削除された記述の復活が検討されることとなった。

  この件でまたしょうもない戦前復古大好き議員や評論家がごちゃごちゃいいだすだろうなと思っていたら、やっぱりいいだしたのが例えば中山元文部大臣と桜井女史。

 中山議員の方は「一県民の集会で検定基準がかえられていいのか」とほえていたが、もともと政治的思惑による検定で、このの箇所が削除されたのが問題の発端なのだ。その根拠も裁判で元幹部の軍人が一民事裁判で「命令はなかった」との証言などにもとづいている。

 この裁判での証言。これがあればなぜそれが真実といえるのか理解に苦しむ。証言はただの証拠にすぎない。しかも訴訟の当事者なのだから、自らに都合のいい証言をすることは容易にあるだろう。つまり裁判における証拠(証言)=真実とはいえないのだ。これを文部省側が検定での削除の根拠としていることにはどうにも理解に苦しむ。

 百歩譲って仮に彼が認識した範囲がそうであったとしても、彼の知る範囲外で命令の事実はあったかもしれないのだ。それに現にまだ生存されている住民の人の証言にもかなりの説得力がある。この点文部省はどう考えるのか。

 以上を前提に考えれば、一方の側の言い分だけで「軍の命令」についての箇所は削除されたいえる。これはあきらかに検定のありかたとしてフェアーではない。いいかえれば公正・中立であるはずの検定制度に政治的決定が持ち込まれた現われでもある。そういう意味では中山議員がほえた内容は自らにつばする行為に等しい。文部大臣だった彼のほうこそ自らの立場の説(命令はなかったとする考え)を検定制度に持ち込み制度を政治化させたといえる。

 また桜井女史も裁判の元軍人にインタビューし彼の話が本当だという「感想」をもったと新聞のコメントで答えている。しかしこれまた一方的であろう。反対の根拠となる住民の証言者にはなぜインタビューしないのか。もしすでにそうしているのなら、その場合には証言者の何をもってそれが「本当でない」と思うのか。その分の説明も必要なはずだ。それをしないままの彼女のコメントは、結局自身の一方的見方にすぎない。明らかに「客観性」に欠けていよう。

 軍の命令の記述の箇所が検定で削除された背景には、この検定がなされた当時の政治状況が大きく影響しているのはいうまでもない。すなわち当時の安倍内閣のタカ派的意思である。いいかえれば戦前復古主義的タカ派思考の産物これが今回の検定をめぐる問題の本質である。しかし参議院選の結果により、いきすぎたイケイケ思考は(もっともこのイケイケは戦前という古い方向をむいているが)は正される時期なのだ。イケイケ検定の結果も元に戻されて当然なのだ。

 
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by phtk7161 | 2007-10-07 16:36
 前回のテーマに加筆する意味で、今回もテロ特措法に関し書く。

 イラク特措法に基づくイラクへの自衛隊派遣は現段階でも違法で、それに対しテロ特措法によるアフガンに関わる補給を自衛隊が行うことは合憲・・・ただし国会の事後承認を要件としている既存の特措法の内容で行う場合・・・であると前回書いた。

 両者の違いはアフガン攻撃とイラク攻撃の攻撃の正当性の違いによるとも述べた。加筆しておきたいのはアフガン攻撃に正当性が認められる理由とアフガン攻撃の場合なぜ自衛隊の行動(補給活動)が合憲なるのかについてである。この点につき加筆しておきたい。

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 アメリカのイラク攻撃が正当化されるのは、アフガン攻撃がアメリカの刑罰権行使の延長線上の行為としての意味を持ち、さらにはアメリカ(自国を攻撃された)の自衛権の行使といえるからである。

 イラクを攻撃したビンラディン容疑者とアルカイーダはアフガンのタリバンと密接なつながりをもっていた。9・11の事件についてアフガンという国家が事件に関連した中心人物と団体を摘発し身柄を拘束した(ないしはしようとした)のであれば、アメリカのアフガン攻撃に正当性はない。

 しかし現実にはアフガンは、事件の中心人物や団体を擁護あるいは少なくとも積極的に容疑者と団体を拘束する意思はなかったといえる。そういう状態であればそのままではアメリカの刑罰権は不可能となり、結果アメリカ国民の生命の安全(自衛権)にさらなる危険をもたらすことになる。

 したがってこの場合、アメリカがアフガンを攻撃することから生じるアフガンの一般国民の生命の危険と、9・11で現実に被害を受けたアメリカ国民の生命と安全そのための刑罰権行使の必要性とを比較して考えたとき、アメリカのアフガン攻撃はぎりぎりではあるがやむをえない行為として認められてよい。

 確かに現実にはタリバンに支配されているアフガンの一般国民に、事件の首謀者団体を摘発するよう求める(あるいはそういう国政にする)ことは困難なことではある。それは分かるけれどもそれでも彼らが事件の首謀者団体の身柄確保に責任をもつ(主たる拠点があったわけであるから)アフガンの国民である以上、ある種の責任擬制がはたらくこともやむをえない。したがったアメリカのアフガン攻撃は正当化される。

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 以上を前提とすると、アメリカのアフガン攻撃を日本が支持することに問題はない。ただ支持をすることと、その支持の結果アフガン攻撃に関し日本がどういう行動を行っていくかはまた別の次元の問題である。

 この点について小泉元首相は安易に自衛隊の海外行動を容認したといえる。つまりそれまでの日本の海外での軍事問題でのスタンスや憲法との整合性を無視して勝手にアメリカに一方的にサービスすることを決めたのである。

 これは法治国家的のありかたとして明らかに誤っている。結果として行為が容認されるとしても、その裏づけとなる理論(法的解釈)は法治国家として絶対に必要なことで、この点で彼の行為はその過程をみるとき到底容認できない。

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 もっとも小泉的過程無視からでた結論には反対であっても、私はアフガンの問題に限定して適用される限り現行法での自衛隊の海外での補給活動は違憲とはいえないと考えている。

 この問題に関連してくるのはもちろん「平和主義(9条)」との関係である。

 私は9条の平和主義は、非戦を理想としながらも侵略戦争を否定した形での自衛権の存在は当然に認めるであり、また世界の平和実現のためにわが国が何らかの作為を行うことも否定していないと考えている。

 不作為だけが平和主義の趣旨ではないとしても、では認められる作為とは何か。それは「侵略戦争」および「それに加担する行為」でない、「平和」の実現につながる行為(行為の正当性=国際的理解)を意味する。この侵略戦争の否定は自衛権行使の場合でも要求される。たとえ自衛のためとしても、侵略戦争に加担する形での自衛権の行使は否定されているのである。

 例えば集団的自衛権になぜ私が反対か。それは必ずしも「集団的自衛権=侵略戦争およびそれに加担する行為ではない」ということにならないからである。このことはイラク攻撃をみれば一目瞭然であろう。アメリカのイラク攻撃は明らかに侵略戦争(断言できる!)である。

 イラク以前にもし日本でアメリカとの集団的自衛権が認められていたら、イラク攻撃に日本も加わることになっていたであろう。そうなった場合「これでは何のために平和主義を規定したのか」ということになる。したがって憲法上集団的自衛権は絶対に容認すべきではない。

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 これに対しアフガン攻撃は侵略戦争ではない。そして攻撃当時国連レベルに近い同意はあったと私は考えている。アメリカ自身が大規模なテロの形で攻撃を直接受けた。したがって、この問題を放置することは「世界の安全=平和」にも重大な懸念を与える。よってこれに日本が何らかの作為の形で加わることは決して平和主義にも反しない。あとはその作為の内容である。

 この作為について、作為的行為に自衛隊の関わりを否定すべきという考えもあろう。例えば経済的形のみに限定するという考えだ。それもひとつの考えであろう。しかし私は武力行使に直接関わらない補給および情報収集は、その活動の過程で対外的に攻撃を受ける蓋然性が低い場合には容認してもよいと考えている。

 自衛隊であっても、この範囲に活動が限定されるならやはり、作為的行為に「平和実現」の寄与の実質性すなわち行為の機能性が重視されてよいであろう。もちろん同じレベルの機能性を自衛隊的でない「非軍事機関」ができるのがより9条的にはベストな形だけれども、現段階でそういう組織がない以上自衛隊がそれを行ってもやむをえない。

 もっとも上記のことに自衛隊を使うことが認められるとしても、それはインド洋での「アフガン攻撃」関連する範囲でである。イラクに関することにはいかなる形(イラク特措法での人道支援の意味合いであるとしても)でも、いっさい自衛隊が加わることを認めるべきではない。

 もし加わるならたとえそれが人道支援のためであっても、「侵略戦争」を起こしなお現段階でもその行為を否定していない国家(アメリカ)の行為を、日本の軍事組織を使って日本が支援したことになってしまう。これはあきらかに9条の平和主義の趣旨に反することになろう。

 自衛隊が軍事的組織である以上、他国がある他国を攻撃した場合それに関わる問題での自衛隊の関与は、他の組織(日本の)が関与する場合に比べその活動はより厳しく限定されなければならない。それは直接的には軍事組織の侵略戦争の絶対的否定のためであり、間接的にはシビリアンコントロールのためでもある。

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 以上からいえることは給油がイラク攻撃に使われたなら、その運用がされる限り現行の「テロ特措法」は憲法9条に違反し無効である。また仮に新法で国会の事後承認の規定を設けないなら、その場合の新法は文民統制(66条②)に違反し無効となる。

 なおもし、新法を国会承認の事項を欠く形の内容で成立させた場合、福田内閣の責任は現テロ特措法を成立(現特措法は国会の承認を規定している)させた小泉内閣以上に重いといえる。

 町村外務大臣は「現特措について小沢代表が特措法を違憲であるとするなら提訴されればよい」と言っていたが、これは勇み足である。提訴したところで問題が「高度の政治性」を持つ以上「統治行為論」で違憲判断を裁判所は行わない(憲法判断を回避する)ことは明らかである。したがって、司法権はこの問題には関与できない。

 現行法・新法ともこの問題に関しては政府と国会論議が実質的にはすべてである。それほどこの問題での彼らの責任は重大だということだ。この点で町村発言はあまりに軽率である。政府閣僚としてはもっと法の整合性を重視した観点からきちんとした見解を述べるべきであろう。

 今は感覚で何でもありの小泉内閣・安倍内閣ではない。実務重視の地に足を据えた議論をやろうとする福田内閣である。それがこの内閣の数少ない長所といえる点である。そのことを現閣僚も議員も肝に銘じておかなければならない。

 
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by phtk7161 | 2007-10-05 09:51