社会問題を考える


by phtk7161
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 オーストラリアの総選挙は野党労働党の勝利となった。今回の選挙結果は単なる与党の敗北を意味しない。与党保守連合のハワード首相の落選という結果も含め考えるなら、それは今のアメリカ絶対主義の政治の流れをかえるべきとするメッセージが、国民から示されたといっていいであろう。

 ある新聞の社説に「与党が敗れたのは政策が否定されたのではなく、単に飽きられたからだ」という見解がのっていたがそれは違う。現実の生活から全く離れて単に飽きたかどうかで投票行動をおこすほど、オーストラリア国民は馬鹿ではない。

 9・11以降ネオコンによるアメリカ政治への強い関与は、他の自由主義国家にも強い影響を与えた。イラク戦争への参加あるいは支持を各国が表明しその形は、テロ対策の名ので自らの政権に対峙するもの(政党など)への攻撃材料として利用されてきた。さらにわが国の場合はそれにとどまらず、経済面でも構造改革という名のもと、実質小さな政府による格差的社会を当然に是とする経済構造の構築ということにも使われてきたといってよい。

 イラク攻撃の正当性に関しては、多くの国家で政府と国民との間には相違があったといえる。政府は力にものをいわすブッシュ政権の威光をおそれ(実際つい昨今までかなりやくざな政権だった)機嫌を損なわないよう進んで支持を表明してきた。もちろんその背景にアメリカとのつながりを通して(強調して)、政府が自らの政治地盤を固めようとする意向もあったといえるだろう。

 しかし国民(アメリカ国民をのぞく)のほうはそうではない。多くの国家の国民がイラク攻撃の正当性につい絶対的NOを表明していた。ただそうであってもイラク問題は選挙の争点にはなりえず(本当は政策の流れの根幹にそれはあったのだが)自国の政権選択には結びつかなかった。

 それは選挙というものが自国内の問題を一番の争点にすることもあるが、それだけではない。アメリカ国民がイラク政策の失敗が見えていたにもかかわらず、ブッシュを再選させてしまった点にもあった。これが、各国の政府の立ち直りをさらに遅らせてしまったといえる。

 しかし遅ればせながら(それも本当に遅ればせながらであるが)中間選挙で共和党が惨敗したときから(上院までひっくりかえされた事実をみればそういっていいと思う)流れはかわってきた。アメリカ国民がブッシュ政策にNOをつきつけ、その現実が各国の国民に「ネオコン的(喧嘩好き)アメリカとは距離をおけ」というメッセージで、選挙の際の政権選択にも影響を与えだしたのである。

 それが今回のオーストラリアの総選挙にもでたということである。この7年(特にアメリカの中間選挙まで)世界は調和を捨て「力」で突き進んできた。それは何も安全保障の問題だけではない。経済政策でもそうだ。そこでは得たものより失ったもののほうがはるかに大きい。

 国際問題でいえば、イランの問題よりプーチン政権の体質を強圧にさせてしまったことの方が一番の問題といえる。アメリカのイラク攻撃での先制権的自衛権というたわごとは、チェチェン問題にも利用されプーチンの独裁をロシアにもたらした。このままではロシアでは完全に自由主義の萌芽は消えてしまうだろう。

 経済問題いえば名目の経済数字だけは上がった国もあるにはあるが(オーストリアもそうであった)、平均的国民の実質的生活は豊かになったかというそうではない。まともな立憲民主主義国家であるなら、最低限の人間の存在さえ認めない経済構造を取る政治は政治ではない。一部だけの突出した繁栄を是とする社会構造は、これから多くの国家で問題となってくるはずだ。

 「友好的関係は必要だとしても、マイブーム的にアメリカ化(特に共和党的)する国家でいいのか」それに対する答えをだしたのが今回のオーストラリアの総選挙の結果といってよい。そしてそれは、いよいよ世界がアメリカの次期民主党政権に向け動き出しているということのあらわれともいえるだろう。

  

  
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by phtk7161 | 2007-11-26 17:37
 守屋元事務次官の山田洋行との接待疑惑をはじめとして、久間元防衛大臣の軍事産業取締役兼業問題や額賀財務大臣の口利き疑惑までとびだした防衛省をめぐる疑惑。秋山某なるフィクサーまがい(その実はロビイストにすぎない)の関与までとりだたされ検察も捜査に乗り出している。

 とはいっても、この件が正義的要素で解決するとはみなさんも当然思っておられないであろう。以前小池VS守屋の件で書いた(8月)とおり、映画「不毛地帯」の問題は間違いなく現存する。摘発される側もする側どちらにも、「防衛利権」に群がる利益集団がいるわけだ。守屋・山田洋行組みが消えてもまた同種の存在がいずれ登場してくる。それほどおいしい「利権」が防衛問題には備わっている。

 MD計画だけでも6兆円といわれる金のなる木。ミサイルの的中率などまったく当てにならない。イラク戦争どきのスカッドミサイルの的中度など目を覆うばかりの確率であった。たとえどういう新型ミサイルを導入したところで、その効果の程度は攻撃迎撃時に現実使用するまで分からない。軍事マニアがいくら効用を力説したところで実際はそうである。それでも多額のお金を投入することになる防衛問題、そこに防衛産業がうごめく現実がある。

 公共事業の見直しは進んだが、防衛産業の財政面での見直しはことの「聖域化」がからむゆえなかなかはすすまない。その金額がはたして「適正」なのか、他の分野に比べて「適正価格」の追求の難しさもあろう。いずれにしても多額の税金が使われるわけだ。

 効果的防衛の形は金額の多可できめられるものではない。湯水のように金を使っても交戦好きの国では足りないし、逆に交戦嫌いの国ではさほど金など使わなくてもそれはそれでやっていける。国家の外交のありかたひとつで軍事費などいくらでも節約できるのだ。それが防衛というものの「本質」である。

 本来の防衛の目的である「平和・安全の維持」(防衛)とは別の次元で働く防衛利権。それはまさに「羞恥産業」であるといってよい。この分野にどうせ税金をどぶに捨てるなら、少ないに越したことはない。それはイラク戦争をみてもわかる。米国の莫大な軍事費は結局は民間の軍事関連企業に流れ、この種の企業は人の命とひきかえにイラク攻撃以降「春」を謳歌した。それがまさに軍事をめぐるお金の真実である。チェイニーはどういう会社のCEOだったか。それがこの問題の答えなのだ。

 いずれ検察は政治的に手を打つであろう。面子のために守屋次官ともしかしたら与党と野党ひとりずつくらいはバランスをとってあげるかもしれない。しかしいずれ適当なところで手打ちをするのはミエミエである。自らの裏金問題には力を使って押さえつけ、将来の検事総長候補であった刑事局長(現プロ野球関係者)が大物右翼に挨拶状を書いてしまう組織にできることは、そのレベルまでだ。もっとも防衛をめぐる問題はいろいろな面でその奥は深い。底なしでもある。そういう意味では検察自身もおとしどころに頭を悩ましているかもしれない。

 今度の問題はまさに小泉政権にも関連してくる。守谷次官はまさに小泉政権下の防衛次官であったからだ。飯島(元)秘書官がこの問題に関わっているのかないのかこれもまた重要な問題だといえよう。

 今のところ国民のできる防衛をめぐる経済性の健全化への有力な手段は、守屋・山田洋行組みのポジションに誰が新たにつくかそれを関心をもって見続けることしかない。この監視の力こそ防衛利権に関する「財政再建」というべき力を持つ。それが適正な「防衛価格」を生み出す近道といえるだろう。

  
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by phtk7161 | 2007-11-21 00:46
 携帯電話を持ってない人は、一定世代を除けばあまりいないであろう。世の中の仕組みも今や携帯を持ってるのが前提となっていることも多い。パソコンの普及もかなり進み、こちらも生活に深く浸透している。

 そういう情報化が進んだ時代ではあるが、では人間の方はどうかというと、進化どころかむしろ後退しているともいえる。以前の人間なら潜在意識や願望の中にとどまっていた愚かな行為が、今やハイテク機器によって現実化してしまう。そのことが、今の人間の質をますます後退させてしまっている。

 以前(今でもか?)公衆トイレに行くとよく落書きがしてあった。内容は本当にしょうもない下品・幼稚きわまりないもので、本人の感情の劣化がそこれは見て取れたものだ。ようするに「便所の落書き」だ。そして今やこの形が携帯やパソコンの普及によって広域化してしまうのが、現代である。

 実名をあげて人を著しく誹謗・中傷する内容を書くことが、違法行為であり刑事上・民事上問題であることはいうまでもない。しかし年齢に比例することなく幼稚化してしまった人物は、そのことなど意識することもできない。幼い子供が「う○こ・○んちん」といって大喜びする程度のことをまさに大人になってからもやって喜んでいる。それが「2ちゃんねる」(もちろん真面目なものもあるが)や「闇サイト」に群がる人間である。

 今学生(特に中高生)のいじめに関して掲示板などを利用した形態も問題となっているが、これも上述したことの延長線上で起きている問題といえる。一番精神的に多感な時期に、実名をあげられてうける精神的迫害は筆舌に尽くしがたいことであろう。やる側の行為の愚かさを若い世代にも倫理的・法的に自覚させることが何よりも急務であると思う。

 このことはブログ全般についてもいえる。ブログの中には偏見きわまりない民族主義に染まり人種差別を当然の考えとする馬鹿げたものもある。もちろんこれも思想・表現の自由によって当然保障される。しかし一方で今世界でおきている解決困難な争いごとの根本原因に、こういう思想の存在があることも事実である。

 携帯やネットによりいくら社会が高度に情報化しようが、最終的に物の価値を決定するのは利用する側の人間の「質」である。ブログがどんなに普及しようとも、書き手が「個人の尊厳」を踏みにじるよう内容を平気で書いて喜んでいる限りは、成熟した民主主義への道のりはまだまだ遠い。
  

 
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by phtk7161 | 2007-11-20 00:48
  小泉元首相がシンガポールでいったそうな。「小泉内閣の構造改革が参議院で否定されたというのはナンセンス」。「改革はまだたりない」。

 あいかわらずのワンフレーズ。肝心の中身については説明のないままだ。なぜ、ナンセンスなのか。なぜ構造改革が必要なのか。その過程で生じる「痛み」にはどう対処していくのか。まさか「我慢せえ」というつもりであるまい。改革の過程では人の生命に直結する問題も待ったなしでおきているのだ。

 改革でトヨタ・キャノンなどの多国籍企業をはじめとして高い収益を手にした人(企業)もいるだろう。今の日本の経済動向は数値的には高い。しかし平均的給与はむしろ下がっている。また低所得者の割合も増大しているのだ。この問題に就任から現在まで彼は一切正面から答えていない。「死んでもいいから我慢せえ」ということか。

 弱肉強食をよしとし、「人は差別されて当然。凡人は能力ある人間の邪魔をしてはいけない。能力のない人間は最低限の生活で当たり前だ。」こういうことを当然と思っている人。あるいは、それなりに安定して食えてはいるがその生活は単調で楽しみもない。他人の行動に依存した形でいいから視覚や感覚での刺激が欲しい人。

 こういう人には小泉純一郎という人間(あるいは小泉構造改革)はたまらなく魅力的なのかもしれない。しかし世の中には様々な立場の人間がいるのだ。そこでの調和的な政策を見つけていくのが政治の仕事である。

 織田信長を改革者として高く評価する人間も多いが、彼は所詮おもいつきの暴君である。ただ戦国だからそれで通っただけのこと。政治家としては失格だ。私は政治家としては徳川家康の方がはるかに優れていると思う。天下泰平270年。ダサく見えても平穏無事な生活を維持できる能力こそが優れた「政治」の証なのだ。

 日本の経済変化の今につながる流れは元をたどれば「プラザ合意」のときから始まっている。「日本は輸出に頼るな。」「内需拡大を。」「規制を緩めろ。」と外圧が強まった。そしてバブル期。それがはじけて経済不況。でその建て直しの流れの中で外圧に沿った形でことがいっきに進みだした。これがまさに小泉改革の正体である。

 だから彼の政策の根底に「国民のため」という理念はない(日本の金を使って外債をどれほど多くかったことか・・・まさに「どんだけ~!」である)そのため彼は「改革・改革」のフレーズだけはいえるけれども、中身の説明など当然できるわけがないのである。

         ☆        ☆        ☆

  少し前の映画になるが「ゼイリヴ(They live)」という映画がある。

 ストーリーは単純で格差が広がった社会で、まずしい肉体労働者がある日サングラスを手にする。そのサングラスをかけると、まわりの風景が一変する。きらびやかで豊かな生活を送る人間が、実は人間に化けた宇宙人だと分かる。

 とある商品の広告の看板。サングラスをかけないならば「○○をどうぞ」となっている。しかしサングラスをかけると看板には「何も考えるな」「だまって従え」と書かれているのである。

 サングラスがきっかけで真実がみえてくる。地球はすでに宇宙人に支配され、人間(地球人)のなかにもそのことことを知ったうえで、その恩恵にあやかろうと宇宙人に従うものも多くなっていた。

 やがて主人公は、地球でエリート的にすごす人間達が地球を明け渡すかわりに宇宙人に選ばれる形で、より豊かな彼らの星へ行ける計画を知ることになる。しかし主人公がからだをはってそれを止める。こういうストーリーだ。

 B級映画ではあるが、人間(地球人)を日本人、宇宙人を外圧をかける外国(主としてアメリカ人)、選ばれて宇宙(国際社会)に行きたがる地球人をアメリカの希望に沿った経済政策をやたら進歩的と叫ぶ日本の人物にみたてると、この映画と今の日本のおかれたポジション(ことに対米関係において)が面白いように合致する。

 今の日本の(公的)制度がそのままでいいとは私も思わない。無駄を省いて、より効率的になるよう見直すことは絶対に必要だろう。しかし(公的)制度そのものを「なくしていい」とすることは明らかに間違っているし、制度の見直しの過程で国民の生活に大きなマイナスがでるなら、その手当も必ず必要である。

 そうでない形の改革なら、それは単なる「破壊」にすぎない。地球(日本)を宇宙人(主として外国=アメリカ)に明け渡すことに等しい。

         ☆        ☆        ☆

 福祉国家観は現在でもあるべき自由主義国家の姿である。如何に数値的に国家が健全になったとしても、その結果多くの国民の生命まで影響が出てしまうのであればそんな政治など何の意味もない。

 小泉元首相が自らの構造改革を正しいというのであれば痛みを予防する政策(セーフティネット)の説明は絶対しなくてはならない。これを無視した形で構造改革を進めために安倍・福田政権はその後始末に今追われているのである。

 シンガポールで彼が言いなった「ナンセンス」。改革の具体的中身とその過程で生じる対策を説明しない限り、彼の構造改革の主張こそ「ナンセンス」極まりないのである。
  

 
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by phtk7161 | 2007-11-14 09:42
  今日(11月12日)の日経平均は、386円33銭下落し15197円9銭で引け今年の最安値となった。原因はご存知のようにアメリカのサブプライムローンによる不動産関連の破綻である。アメリカ政府も建て直しにやっきだが、しかしなかなかこの着陸は容易ではない。

 あのシティまでもこの影響で経営状態(財務状態)を不安視される始末だ。債権格付けでトリプルA(=AAA)だったものが今や紙くず同然になっているわけだから、こいう見方でてくるのも無理はない。

 今の株式をはじめとする投資のなかにはかなりギャンブル的要素を持つものも多い。ことにあらゆるものを証券化し、ものの価値を細分化はかることで価値が生み出される投資システムの場合、実態的経済的価値から離れた「つくられた経済価値」が一人歩きしだす。そしてその歩き出した「幻想」が馬鹿げた金額をつくりあげてしまうのだ。

 今回のサブプライムローンも、ローンを組んだ人物の現実の経済的資力(=等身大的価値)ではなく、飾った表紙(=一定期限後の高金利の経済的価値)が当然に実現していくという「幻想」が一人歩きしてしまった。

 その幻想をささえるもの。それはきらめくばかりの「最先端を行ってます私達」的朝の経済ニュースであり証券会社や銀行のCMである。NY市場からの経済ニュースのテレビ中継なかで、住宅景気は幾度となくとりあげられていた。そして多くの専門化がこの一人歩きした「幻想」を「幻想」としてではなく「現実」的ものとしてみなし、あるべき経済の形として高く評価していたのである。

 4月2日のブログで日本版ニューズウィークの変貌をとりあげた。かつては投資経済システムに対する警鐘をならしていた同誌のスタンスが、表紙の見出しを「投資嫌いが日本をダメにする」とするまでになった現実は、投資経済システムがいかに現代社会で跋扈するようになったかを教えてくれる。

  あらゆるメディアを使い、投資経済側は市民に対し投資は健全な経済行為だと認識させようとする。しかし株式をはじめとする現在の投資の多くは必ずしもそうではない。安定的経営基盤のなかで生み出された等身大の利益による株主への配当が投資対象の価値基準にならない限り、如何にイメージ的にかっこよくスマートに扱われていても、それは所詮バクチなのである。

  競馬は、馬や騎手それまでの戦績などで一定の評価をしお金をかける。しかし相対的にだした予想的中の確率がいかに高いとしても(賭けたのがたとえディープインパクトであったとしても)やはり競馬はギャンブルなのである。投資とはいえない。労に対する経済的利益が確実に発生しないかぎり、それは正当な経済行為とはみなされない。だからこそ時に大金を得てもそれは不労所得とされるのである

  投資経済において、投資の対象にされるものの評価には多くの「インチキ」が紛れ込んでいる。そこでは時に道端の「石ころ」でさえ、高い価値のあるものとされてしまう。ようは金を集中させることができるのであれば、表紙はなんでもいいのである。

  今回のサブプライムローンをめぐる投資経済の問題、それは結局バクチを正当経済とする今の経済システムの評価の問題につきる。投資経済において投資を熱心に勧めるメディアや評論家はては政府も、結局は競馬における競馬番組や競馬評論家そしてJRA(乃至はNAR)とその立場は同じなのだ。その認識がないことが、今の投資経済の最大の問題といえる。

 投資経済システムにおける投資評価において、正当な配当(安定的経営による)的価値を評価の中心におかない限り、バクチ経済における騒動は今後も繰り返されることになる。
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by phtk7161 | 2007-11-12 18:45
 世の中いろいろ腹の立つことも多い。しかし人はなるべく平和で楽しく過ごしたいから、大抵の場合起きている(あるいは今も起きている)事をいちいち真に受けないで流して(気にしない)過ごす。

 しかしことが政治的問題の場合、ことを「流す」だけで済ましていると、気づいたときには「平和で楽しい」自由の日々を奪われることになりかねない。時には「何を大げさな」と簡単に考えていてはいけこともあるのだ。

 読売新聞とその元会長の渡辺氏が大きく関わった今回の大連立騒動、前回書いたことで終わりにするつもりでいた。しかしエキサイトでみたニュースによれば、渡辺氏の友人(ホントは茶坊主)である政治評論家の三宅氏が、今回の出来事で読売と渡辺氏の擁護する熱弁(?)をふるったとか。

 どうもニュースを読む限り、彼は今回の出来事の大きな危険性をよく理解していないようだ。また読売&渡辺サイドもこのまま開き直るつもりにもみえる。そこでもう一度、今回の騒動のもつ危険性について改めて書こうと思う。

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  実は今回の騒動、例の亀田問題とその根本は同じである。亀田騒動の問題は、父親や子供達の礼儀的なことではない(もちろんこれもそれなりに問題ではあるが)。それは「虚構」(作られた試合)を世界戦まで持ち込んでしまったことだ。

 世界戦の試合までもボクシングをボクシングでなくしてしまった。そしてそれに、メディアであるTBSが当事者として主導的役割を担い積極的に加担した。これが亀田問題の本質といえる。

  一方今回の大連立騒動はどうか。大連立は確かに政策の遂行の迅速さ容易さを可能にする。しかしその利点をはるかに超える、政治遂行者(国会議員)による「独裁政治」の大きな危険がある。

 前回も書いたが、もし国会議員が大連立により自ら特権階級的意識をもちだしたら(俺達がひとつになれば、国民なんてどうにでもなる・・・どんな法律でも作れる)もう立憲民主主義は終わりなのだ。

 法律は実際そういう力(人の命さえ奪うことができるのだ)をもっている。いや三権分立により法律なんて違憲審査で無効にできると思うかもしれないが、裁判でカタを付けるまでの長さという現実を考えると、そうことは簡単ではない。

  だから絶対的な権力の集中(今回でいえば立法機関内での)は、何がなんで防がなくてはならない。歴史的経験則からも、それは容易に見て取れる。ヒトラー(ファシスト党)のナチスドイツによるファシズムしかり、戦後の最高ソビエトによる共産党独裁恐怖政治(ことにスターリン)しかりである。

 権力の集中をふせぐこと、これは立憲民主政治が立憲民主政治であるためには欠かしてはならない原則なのだ。もちろん読売&渡辺(&中曽根)組みには、意識の中ではそんなつもり(権力の独占のつもり)はないであろう。しかし実際彼らが考えていることは機能的にはそういうことなのである。

 国民に人気がなくても必要な政策がある。確かにそうだ。しかしそれはある党が政策の中でそれを訴え、多数の支持を獲得する(すなわち政権党=与党になる)という形で実現していくべきが原則なのだ。

 その過程をふまないで単なる政党の離合集散によりそれを実現したなら、ましてや占有率90数パーセントによる大連立によりそれを実現したとすれば、それは「虚構」の政治といえる。

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 TBSは「視聴率」のために、世界タイトルマッチまでテレビメディアのもつ「公共性」を犠牲にし虚構を流した。「技術」「リアル」をもたない「つくりもの」のレベルにしてしまったのだ。しかし亀田問題は、まだ国民の娯楽レベルの問題だから今回の大連立に比べれば、まだましな話だ。

 読売&渡辺組は自分達のやりたい理念(憲法改正・・・隠しているが今回の画策の本音はそうである)のために、民主制の過程(実際安倍政権の「憲法改正」の主張は、先の参議院選で「生活(格差)」のまえに吹っ飛んだ)を無視して大連立という政治的虚構を画策した。

 そしてその画策が失敗するや、自社の元オーナーをまもるためその責任を一人の人間(小沢代表・・・もちろん彼も責任はある)に全て負わせる記事を書いた。それが今回おきた出来事だ

 そして読売にはこれ以外にももっと大きな「罪」がある。それは本来権力を監視するべき役割のもの(ジャーナリズム)が、その機能を害するシステム作り(大連立)に主体として積極的に加担したことである。この「罪」は大きい。

  ニュースを読む限り、今回の読売もTBSと同じく開き直った感が強い。一方は亀田ファミリーにその責任をおしつけ、一方は「連立の持ちかけは小沢代表のほうから」という虚偽の報道でその責任小沢代表におしつけた。

 三宅氏はこの程度の虚偽はほかもやっているといっているらしいが、ことの質が違う。今回彼らは立法機関そのものに直接働きかける動き(政治活動そのもの)やったのだ。それに関する虚偽の報道である。他のレベルの話とはわけが違うのだ。そこを渡辺氏の茶坊主である三宅氏は分かってない。

 いや分かっていても、茶坊主としてテレビの世界で生き残るためには、そうするしかないのかもしれない。老齢になってもそれを演じなければならないとすれば、三宅氏なんとも「お気の毒」としかいいようがない。
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by phtk7161 | 2007-11-10 07:38
  小沢代表の続投が決まった。私は彼の性格からすれば辞任を撤回することはないと思っていたので意外な気もするが、今の民主党の現状を見る限りやはり彼の続投はやむをえない。求心力は低下するだろうが、それでも党をまとめ上げるという点において彼を超える人物が今のところ民主党にはいないのだ。

  今回の大連立をめぐる一連の騒動。その大きな責任が小沢党首にあることは私も否定しない。だからこのブログでも今回の彼の行動に対し反対意見を書いた。しかし他にも今回の出来事は重要な問題点を提起したといえる。それはメディアと政治の関わりの限界についてである。

  今回の大連立騒動の仕掛け人が読売の渡辺会長であったことは、多くのメディアが指摘しているとおり。読売で自身すら紙面でそのことを認めている。一メディアの会長が与野党のトップとの間にたってある目的をもって直接に画策的な行動することももちろん問題であるが、それにもまして問題なのは、ある目的を達成するため虚偽の情報を記事にすることが(新聞でそれを書いてまで)許されるのかということである。

  「大連立を小沢氏のほうから持ちかけた」という記事は、今回の渡辺氏の関わりを見る限り虚偽に近い。正確には「渡辺氏が間に立って両者に持ちかけた」という書き方が正確であろう。それを小沢氏が積極的に先に連立を持ちかけたとすることは明らかに限度を超えて事実をゆがめている。しかもこの記事には自社(読売)の責任者(渡辺氏)の行動をフォローするための意図すら感じられる。

 もちろん社の体質(保守、リベラル)によって記事の書き方に独自性が出ることは当然である。メディアが市民への情報の橋渡しだけでなく一定の範囲で自らも政治的思想を持つことは、表現の自由(憲法21条)により当然認められるからである。しかし認知度の高いメディアには、その表現の自由とは別に、政治との間に一定の距離間を保つことを当然求められる。そうでないと、そのメディアは党の広報紙ないしは政治結社近い存在になってしまうからだ。

  今回の渡辺会長の行動と、それに伴う読売の一連の報道の仕方(記事の内容)はまさにそれに近い。朝日や産経も、記事の表現において時に一種思想的背景を伴う書き方をする。しかし今回の読売のやり方は明らかにそれを超えている。

 社(読売)に多大な影響をもつ(社の関係者そのものといえる)人物が、みずから積極的に政治的画策をし、この行動をその社(読売)が無批判に等身大で受け入れ、さらにはそれをフォローするために虚偽的な内容の記事を積極的に書いたとすれば、それはもう公的な性質のメディアではない。それは政治結社(団体)そのものである。その場合その団体の発行する新聞はもはや新聞とはいえない。むしろ政治ビラのたぐいに近い。

  読売の今回の一連の騒動は明らかに政治との距離感を誤っている。騒動がおきて以来新党の独立を書き立てる記事も多かったが、ことに人数的(参議院の)なものをにおわせ民主党の参議院議員を動揺させる(疑心難儀にさせる)ような記事のつくりは、冷静に見てやはり読売が一番積極的だ。

  この手の記事の出所は不明瞭だし、もちろん取材源もあかされることはない(それすらあるのかどうか含めて)。たとえばある与党議員が何の根拠もなくみずからの憶測(希望的観測)として「小沢さんが新党を作れば○○人はついてくるよ」といったことを、何の裏づけもとらず(場合によっては数に根拠のないと知りながら)そのまま客観的な書き方で記事にすれば、それがさも真実に近いことになってしまう。そしてその背景に与党の安定多数をめざすことに組する新聞社の意図があるなら、それはもう報道ではない。それは画策(謀略に近い)である。

  もちろんこの手の記事を真に受け動揺する民主党の参議院議員がいるとすれば、それはそれで情けないし、根本的には議員としての質の問題ともいえる。しかし議員への実際の影響度を別として、認知度の高いメディアがこういう報道をすること自体が政治報道のありかたとして問題であることは間違いない。

  報道機関がなんとか国民の関心(興味)をひこうとすることは、報道のもつ性(さが)からいってもある程度は仕方がない。しかしそれでも限度はある。興味を引こうとするあまりメディア自ら騒動をあおる(場合によっては虚偽的記事を使って)ことは現に慎まなければならない(というより立憲民主主義的にもやってはいけない。)今回の読売の行動は、このあおりレベルも超えもはや画策に近い。

 読売が今後も認知度の高いメディアとして存在しようとするのであれば、政治的行動を控え今後はメディアの原点に立ち戻り節度のある報道(真実の裏づけのある)をすべきであろう。それは日本の立憲民主主義のためのみならず、読売自身のためでもある。

  
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by phtk7161 | 2007-11-07 20:30
  (その1)で小沢氏の今回の行動に対する反対の理由をのべた。それはそれとして、ここではあらためて小沢氏の考えと参議院選出の大きな勝利による立憲民主主義への彼の貢献度についてのべておきたい。

 私のブログを読んでもらえば気づかれると思うが、実は9条解釈に関し私と小沢氏の見解はほぼ同じである(と思う)。私は小沢氏の本は一度も目を通したこともないし、彼のホームページも見たことはない(あるのかどうかも知らない・・・多分あると思う)。ただ憲法を真面目に学んだ点では彼も私も同じであるということだ(だからといって、これ以外の解釈は認めないという趣旨でないことはもちろんである。たとえば自衛隊の海外派遣を一切認めない・・・他の形による組織ならOKという見解も含め・・・とするのもひとつの見解であろう。)

 9条による平和の重要さと、そのうえで政治に不可欠な要素である妥協(調和)点をめざして導き出したのが、国連を機軸とした自衛隊(乃至は自国の国連用の部隊)の派遣の要件設定である。これによりわが国が侵略戦争へ加担することを防ぎ(したがって集団的自衛権は認めない・・・集団的自衛権の形では侵略戦争に加担する危険は十分にある。イラク攻撃をみれば明白であろう)一方で治安維持を含めた平和のための国際協力を実現していく。

 ようするにイラク戦争があった以上、アメリカオンリーの形からある程度は国連のほうに比重を移すべきだということだ。その根底には自衛隊を侵略戦争に加担させてはいけないとの思いがある。今のままの歯止めのない形でのなし崩し的な自衛隊の派遣ではなく、国連を基軸にした形で要件を設け自衛隊の派遣に歯止めをかけようということである。これは文民統制の維持にもつながる解釈である。

        ☆        ☆        ☆

 このように私は小沢氏の考え方には「共生」(自由主義前提とした福祉国家)の理念を含め共感するところも多い。9・11時に米の大統領が歴史上最悪の大統領であろうジョージブッシュだったタイミング、そのときに劇場的パフォーマンスの首相小泉が同時期に誕生し衆議院選で歴史的大勝をしたこと、これに一部の国粋的メディアと政治家(安倍元首相など)があらぬ方向から政権内外で加わり、結果として(実際の民意はともかく)一時期日本の立憲民主主義は相当危ない状況に陥った。

 参議院選でもし与党が勝っていたら、日本の立憲民主主義はもう終わりだったと思う。法治国家を軽視した形で、憲法改正や集団的自衛権が実現することで、自衛隊の海外進出は歯止めなく進み、その過程で文民統制も相当危ういことになっていたはずだ。いずれは徴兵制につながる法案も十分にありえた。その一方では「テロ対策」の名目で国民の自由を簡単に制約できる共謀罪などの法律が作られ、国民の「食う」レベルの生活だけでなく「自由」を享受する生活も相当窮屈になっていたのは間違いない。
 
 この危機的状況を脱するには参議院選で大勝するしかない。そしてこれは基礎票を固めた上で地道な選挙戦略を行うことのできる小沢代表以外にはなし遂げられなかったと思う。なぜなら民主党議員の多くは少なくとも当時は風を吹かせる(小泉劇場的な形で)ことばかり考えるものが多かったといえるからである。そういうなかで都会派的思考をもつ議員の「古い」「過疎に行ったところで票なんかかせげるか」という冷笑をあびつつも、彼は「生活」を中心に据えることで安倍政権との対立軸を作り上げ参議院に大勝した。

 そういう意味では、小沢氏の参議院選大勝の功績はことのほか大きい。それはおおげさでなく日本の立憲民主主義の救世主ともいえると思う。実際参議院戦後与党の不祥事(防衛省、厚生労働省など枚挙に暇がない)が次々に発覚した。与党が参議院選で勝っていたら、ここまで不祥事があきらかになることはなかったはずだ。

 で今回の辞任劇。彼なりに悩んだ末の結論であったと思うが、少なくとも次期衆議院選までは小沢氏には与党との対決姿勢の形で行って欲しかった。代表辞任は残念である。しかし決め以上彼のことだから、やめるのは間違いない。

 個人的いえば、民主党の新たな次期代表(暫定的でない)には岡田氏が適任だと思う。参議院選で「生活」重視で勝利したことを思えば、岡田氏の前回衆議院選での小泉劇場による敗北は決して大きなマイナスではない。時がたった今なら、当時彼のいっていたことの正当性(小さな政府的面ばかりではダメだということ)を今なら有権者にも十分理解してもらえると思う。また彼も国連基軸の考えであり、集団的自衛権の考えはとっていない。そういう意味で、今の民主党には一番バランスの取れた代表になりうると思っている。
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by phtk7161 | 2007-11-05 04:03
 前回のブログで大連立の挫折の件について書いたが、時を経るまもなく小沢代表の辞任である。前回から1日経過していないけれど、ことがことだけに小沢氏辞任の件に関し書かざるを得ない。

 昨日の記者会見は最初から最後までテレビで見ていた。今まだ深夜1時過ぎであるし新聞による要旨も当然読んでいない。したがってメディアによる都合のいいところ悪いところを省いた状態で読まされる(みせられる)危険のない、ライブでの記者会見の全てをみた私の感想を書きたいと思う。

  小沢辞任の理由は次のとおり。ビデオをとってくりかえしみたわけではないから、私なりの言葉(彼の趣旨から離れていない範囲で)で表現した部分はご容赦を。

 (1)法案提出しても衆院で与党が多数である以上、参院選で有権者に約束した生活重視の政策が実現できない。しかし今の状態で次の衆議院選を戦ってみても民主はまだまだ力不足で勝てない可能性が強い。つまりは有権者との約束を今のままでは果たせない。しかし連立すれば、それにより法案を成立させることができ選挙時の有権者との約束を果たせることになる

 (2)かねてから自分の念願である国連決議に基づく自衛隊の海外派遣を福田総理が飲むといってくれた。これは自民党のかねてからの憲法解釈をかえるもので、私自身は高く評価した。このひとつとっても政策協議に入る価値がある。福田氏は連立を組んでくれるなら特措法はあきらめるとまでいってくれた。この誠実な姿勢を私は高く評価したい。

 (3)民主党の責任権党(政権党)としての実力不足がよく指摘される。私も今一歩力不足だと思う。そこで民主党が連立政権にはいることで責任政党としての実績を培うほうが民主党にもよいと考えた。この過程を経たうえで国民の支持を得ることにより、いずれは単独政党の形で政権党となることができる。そういう意味から、今回連立政権が実現すれば私の悲願である真の意味での二大政党制の実現に近づくことになる。これは日本の民主主義のためにも必要なことだ。

 (4)連立の呼びかけについて「小沢代表のほうからの呼びかけ」という報道が日経朝日以外のメディアで報道された(主に読売、産経か?)。しかしこれは明らかな間違いであり、よびかけは政府(福田総理)のほからだ。しかし多くのメディアは政府与党サイドの議員の話をそのまま鵜呑みにして(乃至はうそだと分かっていて)報道している。

 私自身もまた私の秘書もこの件に関し、間違った報道をしている報道機関からは一切何らの取材を受けていない(本人あるいは本人サイドに何らの確認しないまま報道している)。これは政権による情報操作でありこのことが如何に危ないことかは、過去の日本の歴史(戦前戦中時の)がそれを証明している。メディアはこのこと(権力に操られる危険性)を強く反省し、きちんとした報道をしてもらいたい。

 私が辞任するのは私の考えが私の選んだ執行部に受け入れられなかったことに加え、今回の報道に見られるように、私に対する(私を政治的に抹殺しようとする)与党を通じた策謀的な動き(報道)が党の代表である私の評価を低下させようとしている。これは結果として党へダメージへを与えることにもなる。そうした影響を防ぐことも辞任の理由である。

         ☆        ☆        ☆     

 以上が小沢代表の会見の趣旨だ。一点分かりづらかったのは、連立なのか、対象の範囲を絞り込んだ形での政策協議なのかその辺の垂分線いまひとつはっきりしていない。ただ記者の質問に対し「連立政権は普通の連立政権だ」という応え方から、今回の行動はやはり一定の問題に限る形での政策協議を超えた連立構想であったと見ていいと思う。

 小沢氏は(1)~(4)の説明で、十分連立の必要性を説く理由になると考えている。その証拠にけっこう堂々とした記者会見だった。意外に記者の質問にも臆することなく応えていた。自らの信念(それが妥当かどうかは別として)に自信があるからだと思う。

 今回の大連立騒動に対する私の評価は前回書いたとおり「ナシ」であると書いた。理由は以下の点にある。

 (1)権力が大きな枠で集中することは「翼賛政治」的独裁につながる。これは立憲民主主義の政治のあり方において最も回避すべきことである。小沢氏は連立のもつ「効用」にのみ目を奪われ、この危険性を軽視している。

 (2)さらに連立を組む手法での政策の実現が果たして本当に国民が望んでいるのか。国民が民主党に望むのは、政策だけでなく野党として(野党の形のままでの)政府与党の政策を厳しくチェックする政治システムにも期待しているのではないか。

 (3)さらにいえば、有権者は民主党が政権をとるとしても、それは野党のままの形からの正攻法での民主党政権の誕生を望む支持者が多いのではないか。

 (4)また次期衆議院選で勝てなかったとしても、参議院の数の優位は現状から考えて少なくとも6年近く続く。3年後の参議院選で与党が非改選まで含めて優位に立てるだけの大勝をするのは至難である。ということは次々期の衆議院選で勝てばまだ政権となるチャンスはあるということになる。

 そういう意味では次期衆議院選をさらなる次をにらんでのステップ的に位置づける戦略として位置づけてもいいはずだ。二大政党制(もっとも私は小沢氏と違い、二大政党制が必ずしも民主主義にかなうとは思っていない)が小沢氏の悲願であるとしても、それは小沢氏が代表のうちに達成できなければ意味がないというものでもない。

 確かに年齢面や健康面の不安もあるかもしれない。それはわかる。そうならなおさら場合によっては彼自身の手での実現での政権実現にこだわることなく(実際自民党時いつでの総理になれた小沢氏はそういう小さなことにこだわる人物ではない)、岡田代表などを後継者として育て、次の次の衆議院選での勝利をめざしてもいいはずである。

 民主党議員の力量を低くみるあまり(実際選挙について地道なことを嫌い青い議員がまだまだ多いけれど)、そういう視点(場合によっては後継者で実現していくという)が小沢氏には欠けているように思えてならない。

 チャンスはそうはないのは確かだが、しかし参議院選の勝利は次々期の衆議院選までのチャンスを与えてくれたと思う。少なくとも今回の大連立の形よりそういう考えかたのほうが、有権者の期待にかなう形という意味でははるかにましであろう。そういう意味では小沢氏の今回の行動は、あまりに時間をあせりすぎた感が強い。
 
 以上が私が今回の小沢氏の行動を支持しない理由である。

 
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by phtk7161 | 2007-11-05 03:44
 自民と民主の大連立構想が持ち上がり、すぐに挫折したのはご存知のとおり。「なぜに突如大連立か?」メディアも騒がしい。持ちかけたのは「福田だ」「いや小沢の方から」と水掛け論も続く中、もっともらしくテレビや新聞で評論家(大学教授含む)などが言いたい放題である。

 さて大連立をすべきかどうか。政治が混迷を極めるなか、なかなか法案が成立せず停滞がつづくことはいけないと、これを肯定する考えもあるようだ。しかし私の結論をいってしまえば、大連立など「なし」である。理由は簡単。これほど立憲民主主義にとって「命取り」になる政治の形態はないからである。私は鳩山幹事長はあまり好きではないが、今度の騒動に対し「翼賛的なものはいけない」とする彼の意見については強く支持したい。これこそまさに今回の騒動に対する「正答」だと思う。

        ☆        ☆        ☆

 ただ不思議なのは、「法的」観点からの思考を重視するあの小沢党首がなぜ今回の「大連立構想」に対してはっきり拒否の姿勢をとらなかったということだ。大連立構想は立法府の権力一点に集中させることになり独裁政治につながりやすい。

 目的が「政治の安定」であり、当初はそれなりにバランスの取れた政策が仮にできていたとしても、時がたてば多くの議員がその政策のスムーズさに快感を覚え、あるいはそうでない議員の場合でも巨大な数の前に無気力となり、いずにしてもその形での権力の「うまみ」あるいは権力への「絶望」のいずれかを知ったが最後、あとは独裁政治の始まりとなる。これは断言してもいい。

 今回の大連立構想を強く勧めた人物として、中曽根元首相や渡辺読売会長の名があがっている。両者とも「独裁型」の人物であり、自分の考えに自信満々のタイプである。彼ら考えの根底には唯一の「正しい」結論があって、結論に至る過程でもっとも重要な「バランス」は二の次となる。端的に言えば、彼らの思考法は立憲民主主義国家にふさわしくない思考法なのである。だからこそ、特に中曽根元首相などは復古主義的憲法観にもとづく憲法改正に入れ込むことになる。

 まあもともと「大勲位」などという勲章を自ら創設し、自分はどんな日本人よりも「偉大で」あるという形作りに熱心だったナルシスト中曽根氏ことである。自分こそが「正解」を出せる人間で「議会制などはうざいだけ」と思っている御仁であるから、今回の大連立の主張などこの御仁にとってはあたりまのことなのであろう。もちろんそうすれば「憲法改正もできる」という彼なりの計算もそこには当然含まれている。

 でそういう独裁の危険を熟知しているはずの小沢党首がどうして今回曖昧な行動となったか。確かに安倍政権の後それを引き継いだ福田政権の色彩は、市場万能というよりむしろ「共生」的面のほうが際立っているから、そういう意味では同じ「共生」を掲げてきた民主党としても福田政権を「対立軸」として戦いづらいのも確かだ。

 しかしそうであるからといって「大連立」はなかろう。もしこれをやれば、民主にとってそれが「自殺行為」に等しいことは誰の目にも明らかである。だからこそなおさら、私には今回の小沢党首の動きは不思議でしかたない。まあそれなりの圧力も彼にかかっているとは思う。そうも思いたくなるほどの摩訶不思議な今回の彼の行動である。

        ☆        ☆        ☆     

 今の混迷した政治を解決する方法は何も「大連立」だけではない。「憲法改正」や「安全保障」など大上段の問題はともかく、今の政治の一番の問題である国民の年金や医療に関する「生活」面の問題を「政策協定」という形で一定の時間内におとしどころを決め、やっていけばいい。大上段の問題はもっと時間をかけて決めていけばいいのである。

 そういうと必ず「でも国際社会が」という国際派気取りの評論家や政治家がつばを飛ばして反対する。でも彼らの屁理屈など付き合う必要はない。その屁理屈の向こうには、自らの中東政策(イラク戦争)の失敗は棚に上げ(反省せず)裏では「石油でウハウハ」笑いの止まらないブッシュ政権を喜ばす構図があるだけなのである。

 そのことは彼ら(国際派を気取る政治家や評論家)ももちろん知っている。ただ知っていても自らの地位の安定のためにそれをいわないだけなのだ。その世界(政界やメディアなど)で「用済み」となるのをおそれているのだ。だから彼らの屁理屈などに付き合う必要はない。

 だから今の膠着状態は、一定の問題については「政策協定」でやっていけばいい。もちろん「解散」もひとつの手段ではある。その場合には、一定の重要問題について政策を掲げ文字通り「政権選択」選挙でかたをつけるしかない。その場合、「市場万能」でいくのかそれとも「福祉国家」でいくのか、その比重を示してけりをつけていくべきであろう。

 もっとも選挙の結果如何ではなお「カタ」はつかないかもしれない。だからどうせ選挙をやるなら、その前に自民民主とも「憲法観」「安全保障(集団的自衛権の肯否)」「市場万能の自由放任国家」か「福祉国家」かで割れるとこは割れてシャッフルしてからのほうがいい。そのほうが国民のほうも選択しやすいであろう。

        ☆        ☆        ☆           

 もっともねじれ現象といわれる政治の形も、きちんと機能すれば本当は悪い形ではない。衆議院で与党が法案を成立させ、野党がその法案を参議院では徹底的にたたき台にして厳しい討論をへたうえで「修正」をしていく。そうやって当初より一歩上のバランスのとれた法案を作っていくことも可能なのだ。そういう点では今の政治形態のほうが、法案に対するチェック&バランスという点では理想的ともいえる。

 もっともこの場合「嫌がらせ」的反対や極端な国民受けをねらう(たとえば、政治資金規正において1円からは論外である。1万円で十分であろう)行動などやらないということが前提となる。その前提が備わっている形でやっていくことができるのなら、今の政治形態でも本当は十分「アリ」なのである。
 

 
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by phtk7161 | 2007-11-04 04:35