社会問題を考える


by phtk7161
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  早いもので今年ももう大晦日である。今年の政治は激動の一年だった。参議院選の与党の歴史的惨敗。ねじれ国会となり、参院は野党が安定多数を占めることとなった。

  9・11以降日本の政治は、明らかにおかしかった(軽薄そのものだった)。真面目な政治姿勢は軽んじられ、見栄えや面白さが政治のなかで中心的要素として扱われてきた。いわゆる小泉劇場がそれだ。ことにその形は前回衆議院選でモロに現れた。

  「官から民へ」のスローガンのもと経済的効率さばかりがどの分野にも求められ、その結果国民の生命に関わる福祉的問題までも財政的なお荷物といわんばかりの扱いをうけることとなったのである。

  しかし夏の参議院選ではもはや国民の側には劇場政治を楽しむ余裕はなかったといえる。目の前の生活の低下が実感となっていたからである。安倍政権はそれにもかかわらず「憲法改正」や「軍事問題(日本版SECなどいい例であろう)」「教育基本法改正(復古主義的)」など大上段の問題を政策の中心に据え政権選択選挙で勝負した。結果は惨敗。明らかに安倍政権はKY(空気よめない)政権だったといえよう。

          ☆         ☆         ☆

  小泉劇場政治の反省はどこにあるか。それは国民がその政策の効果が、どういう結論を招くか読もうとしなかったところにある。その場の雰囲気のみで主権者としての選挙を行使すれば、それはかなり危険な行為である。その影響が前回の衆議院ででてしまい与党に3分の2という馬鹿げた数を与えてしまった。結果強引な法案可決が強行された。

 今年の参議院選でもし与党が安定多数を獲得すれば、もう日本の立憲民主主義は戦前復古の流れの中で終焉を迎えていたであろう。しかしそうならなかった。だから国民にその危険性をとりあえず感知する能力が最低限備わっていたことも、参議院選の結果につなっがったと私は信じたい。もしそうであるなら日本の民主主義は、さらに成熟した形で発展することとなろう。

 これからの政治のあり方は、一人のヒーロー的人物に期待するような政治的形態ではだめである。望ましい政策と権力の抑制という、一見すると相反する両課題を主権者(国民)みずからバランスをとって(投票行動で)調整していくことにつきる。そのためには、何も動かない(官僚主導の政治)政治家(政党)には「NO」を示し同時に本来の政策の趣旨を越えて逸脱する権力の動き(例えば安倍政権時のタカ派政策)にも「NO」を示すことである。

 その視点からみれば、党の政策実現のためとはいえ小沢氏のとった大連立構想は論外の手法である。これをやることは、民主政治の敗北を意味する。もしいまだにこの構想に小沢氏が未練があるなら、民主党の代表は交代(たとえば岡田氏等に)すべきだと思う。独裁的政治の構成は、立憲民主政治においては政策うんぬん以前に、あってはならない形なのである。そのことをこの構想の仕掛け人たちは胆に銘じるべきだ。

 たとえアメリカの圧力があったとしてもその形には断固主権者として「NO」の意思を示さなければならないと思う。そしてそれは参議院選ですでに国民は示している。国民は与党の独裁にNOといったのだから。

           ☆         ☆         ☆

  来年も政治は激動の一年となるであろう。内外問わず問題は山積している。年金医療等の福祉に関わる問題、雇用における格差的問題、国外に目を向ければパキスタンの政治動向、ロシアのプーチンによる独裁的政治、アメリカでの大統領選挙、イランやパレスチナの問題etc。先の読みにくい問題も多い。

 そういう混迷の中では、ひとつのパワー的力・・・人(例えばロシアのプーチンや小泉元総理)や手段(際限なく民営化を善とするような)・・・に頼る解決手法はとるべきではない。それはかえってマイナスとなる(それは例えばイラク攻撃にによるテロとの戦いの現状のマイナスをみれば明らかであろう)。迫り強く忍耐を持って様々な関連するものとの調整とのバランスを図りながら一歩一歩確実に前進していく。これが複雑多岐化した現代社会における最良の政治的策だと私は思う。
  
  この一年当拙ブログを読んでくださった方ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。2008年がよい年であることを願い、日本の立憲民主主義が日本国憲法にふさわしい成熟期を迎えることを期待して、今年のブログの締めとしたいと思います。それではみなさんよいお年を。

   
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by phtk7161 | 2007-12-31 22:47
  NHKの次期会長に福地氏が決まった。昨日の経営委員会で決まったのだが、それまでの選考過程の流れで危ない感じはしていた。安倍内閣の残した「負の遺産」ともいえる古森重隆(経営委員会委員長・・・富士フィィルムホールディングス社長)氏のとった選考手法は巷間伝えられているとおりひどいものだ。

 本人はそれを否定していたが、その否定会見を考慮しても少なくとも次のことは肯定できる。他の選考委員の意中の人は聞きながら、自らの意中の人間(福地氏)は選考過程で明かさなかったこと。それでいて「連れてくる以上その人に恥をかかせてもらっては困る」と前もっての委員会でのたまわった(一定の圧力的発言ともいえる)こと。

 会議が一人大声をだし議事を進め広く意見を聞き入れる雰囲気でなかった事実。それに加え今後の改革に対して「(改革により)受信料の拒否が一時的にあってもすぐ元に戻る」といったことも確かなようだ。

 こういう不透明かつ強引な選考での会議運営にもかかわらず、つい最近まで古森批判をしていたあの「日刊ゲンダイ」が選考数日前突然古森援護の記事・・・古森批判の委員のスキャンダル記事・・・を載せた。こういうことからしても今回古森氏が自らの人脈を使って政治的動きをしたことは想像に難くない。

 もちろん政府・財界ご用達週刊誌の週刊新潮は当然古森氏の援護をはじめている。これなどスポンサー的資本にものを言わせた力にいかににメディアが弱いかの典型である。それにしても権力監視の姿勢が基本である日刊ゲンダイの今回の変貌はあまりに情けなかった。

        ☆        ☆        ☆ 

  NHKの改革は一見すると組織の財政改革のようにみえる。しかし実はその本丸はNHKの放送を自己に都合のよい放送内容に動かそうとすることにある。

  彼らがめざすのは、人を非凡と平凡なものにわけ(私はこういう根拠のない区分け的発想自体反吐が出るほど嫌いだ)非凡な人間が社会の中心的動きに参加・決定でき、平凡な人間はその邪魔にならないようにするという社会構図だ。その非凡には世襲も含まれる。

 あるいは馬鹿げたアメリカ的自由主義「バクチ経済」政策をすすめ日本の財産をせっせとアメリカに投資しまくり、日本の社会をアメリカ的子会社化すること。その恩恵(見返り)に自分だけは何とかあずかろうとする人間達も今回のNHK改革をすすめる仲間といえる。

 当たり前のことだがNHKはスポンサー(企業)というものが民間の局と違ってついていない。逆に言えば、重要な社会問題があってそれがたとえ視聴率が取れなくても、それを放送できる環境に民間の局よりあるといえる。

 「エイズ問題」「C型肝炎の問題」「ワーキングプアーの問題」「格差の問題」「イラク問題」「拉致問題・・・ただし放送命令の形では絶対やるべきではない。政府の放送内容への関与は結果的にメディアの萎縮につながってしまう」「平和問題」こういう問題を視聴率とスポンサーの関係を問題にせず、じっくり放送できるのはNHKしかない。

 放送に際し経済効率性(視聴率とスポンサー料)など二次的なものでよいのがまさにNHKの存在価値の真骨頂なのだ。だからこそ、私もこれまで一視聴者として受信料をきっちりと払ってきた。そこを古森氏や町村官房長(さっそく古森氏の援護射撃をしていた)などは分かっていない。

 いやむしろ分かっていてそれをつぶそうとしている(いざとなれば公共放送・・・ただし政府ご用達の形はのぞいて・・・をなくすこと自体考えているかもしれない)といっていいのかもしれない。こういう連中(古森委員長・町村官房長・菅元総務庁大臣など)にとっては今のロシアのメディアの姿(プーチン万歳!一色)こそ最高の形といえる。

        ☆        ☆        ☆

  古森氏は今回の件で、自らの政治的力を政財界に見せつけることができさぞかし満足であろう。CEOの肩書きを喜ぶ彼のことだ。企業の買収合戦同様こういうことにしかもはや生きがいを見つけられないのかもしれない。そういうさびしい老人であることは確かにかわいそうにも思う。

 しかし読売の渡辺氏や中曽根大勲位様と同様「俺の力を見たか!」的「老害」である人物達にはもうお引取りになってもらわなければならない。そうでないとこのままでは日本の社会は間違いなく質的に三流先進国社会のアメリカ以下になってしまう。

  戦前復古主義(JR東海の葛西氏等その典型)あるいは日本の完全アメリカ子会社化(竹中平蔵氏など子の典型)を目指す人間が、日本の政財界にはうじゃうじゃうごめいている。そういう人間にとって、いまのNHKの放送内容は目の上のたんこぶである。

 それをなんとかかえさせたい。その端緒の動きとなるかもしれないのが、今回のNHK会長選の動きである。新会長後のNHKの編成内容次第では本当にNHKは用済み(経済効率優先の局ならその場合NHKは民放と同じようようなものだから)となるかもしれない。今回の選考手法とその結末の形は、今後NHKという公共放送の存在価値そのものに関わる大きな問題を投げかけたといえよう。
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by phtk7161 | 2007-12-26 15:03
  なんともやり切れない事件だ。身勝手な動機で何の落ち度もない人を殺傷する。しかも幼稚な戦争ごっこ的スタイルで迷彩服に散弾銃。全くどこに何に怒りをぶつけていいか・・・もちろん犯人にぶつけるべきことは当たり前だがそれでも・・・分からなくなくなる。

 事件の原因に犯人の性格、自らの感情をコントロールできない幼稚性・・・一定のレベルを超える行為(犯罪行為)を抑制できない・・・があることはもちろんだがそれだけではない。「銃」という存在が今回の事件の悲劇性を拡大した大きな根本的原因(物理的な)であるといっていいだろう。

 銃を無防備な人間・・・でもそれが人の当たり前の姿である・・・に向ける愚かな人間の起こした事件はいくつもある。最近でも隣人関係に起因する事件や暴力団抗争に市民が巻き込まれた事件。隣人間の事件の場合そのトラブルの原因も行為者の身勝手とも言える理屈によるものがほとんどなのだが、その解決として銃が使われる(もちろん解決などなっていないが)。

 長崎市長の元右翼団体員の事件もそうだし、朝日新聞阪神支局での散弾銃の記者殺傷事件もそうだ。古くは梅川が起こした三菱銀行での事件もあった。梅川など前科がありながら(しかも強盗殺人・・・ただし未成年時)合法的に銃の所持が許可されていたのである(その後事件を受けて見直しがあり、現在一定の犯罪歴がある者への許可は認められなくなっている)。
  
  暴力団による事件の場合、彼らには銃の許可などなくもともとその所持自体違法で所持の認知ができていればその段階で警察は動ける。ところがそうでなく合法的に常に身近に銃を所持できることが容易にできる環境にあるのが、今の日本の現実である。それもスポーツ趣味という形で、身近に銃がおけるのだ。

  憲法13条は「幸福追求」の権利を認める。野球をするのも自由。競馬を楽しむのも自由。飲酒や喫煙をする(楽しむ)のも自由。読書もするのも自由だ。そしてその楽しみにクレー射撃や狩猟を行うことも入る。

  しかし一方で個々の種類(上記したような)の行為の自由が認められる範囲も、行為の内容によって当然違う。私人間における「他害性」の度合(危険性)いによってはその制約も強くなる。それが「公共の福祉」という規定なのだ。 

  例えば喫煙の制約は近年厳しくなってくる。煙の与える他人への影響も考慮され愛煙家もずいぶん肩身が狭くなっているはずだ。ところが「銃」はそうでない。なるほど「銃」の所持そのものでは「他害」はおきない。しかしその存在をもとにした「他害」が近時あまりにも多すぎる。そうした意味では、銃はその「所持」の事実自体で一定の「他害性」の萌芽は十分ある。そう考えていくと「銃」の存在は、原則禁止の薬物「モルヒネ」「覚せい剤」同様に考えていい。

 これらの薬物も本来持つ自体(所持自体で犯罪は成立となるが)では他人に害を与えない。しかしそれを使用することによる「他害」の蓋然性は間違いなく高い。それゆえに所持でも罰せられる。したがって原則は禁止、例外的に医療用に認められるめられるだけなのである。

 職業上銃所持が認められる司法官憲も自宅に銃を携帯することは(例外もあるが)原則認められていない。しかしこと今回のような趣味スポーツ的「銃」の所持の場合この所持の原則と例外が逆になっている。ここに近年の「銃」の認可における問題がある。

 銃は使用されれば、その「悲劇度」は格段に高くなる。その点では刃物などとはけた違いである。そうであれば、例外的に昔ながらの職業的な「マタギ」や害獣駆除など場合をのぞいては銃(趣味・スポーツとしての)の所持は「原則禁止」としていいはずである。

 容易に人を撃ち殺せる道具を使った「クレー」の趣味(スポーツ)なども相当に厳しい要件・・・例えば警察や一定の管理団体などに銃を厳重に保管させあるいは許可の要件も相当厳しくした上で(例えば継続的にスポーツとして行っている実績があるかなどのチェックや生活上のトラブルの有無など含め)・・・のもとで狭い範囲で例外的に認められる趣味としていくべきだ。

 クレーをやる人にとっては、他の趣味を楽しむ人(読書やゴルフ等)と同じように銃を使用する(スポーツや趣味として)ことは楽しいであろう。狩猟(害獣駆除を除く)をする人にとってもそうだと思う。しかし彼らが扱う道具は、人の生命を容易に奪うことのできる「凶器」なのだ。その意味では、これまで野放しにされすぎてきた感があまりにも強い。そうだとすれば銃を使う「幸福追求権」は、今後は自由権のなかでもかなり厳格な要件のもとでのみ認められる権利として位置づけられるべきだ。

 ところで今回の事件で気になって点がもうひとつある。それは警察官関係者(OBも含め)のコメントが銃規制についてあまりにも消極的ということである。銃の許可には厳しい審査をもうけていると彼らはいう。しかしそれは形式的なもので実体は書類審査的なものすぎない。講習といっても車の免許とさほど違いはないレベルであろう。

 しかしその審査をクリアするのには、もちろんそれなりの審査料(登録料や更新料)を何がしかの団体(特殊法人的なものか、それとも直接的公的団体かはわからないがおそらく警察関係者が絡む団体だと思う)に収めるシステムになっているはずだ。

 そうなると合法的「銃」の制約はうがったみかたをすれば、この種の審査団体にとって経済的な損失にもつながるのではないか。事件を受けてのコメントでの警察関係者OBの消極的コメントを聞くとそう思わざるにはいられなかった。このあたりの問題も今回の事件を機にメディアには追及して欲しいと思っている。
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by phtk7161 | 2007-12-17 10:07
  前原民主党副代表が、武器輸出禁止の規定の見直しを提言したそうな。もともと与党以上にウルトラタカ派の彼のことだから別に驚かないが、やっぱり軍事ごっこ的な性格は相変わらずだなと記事を読んで思わず苦笑いしてしまった。

  彼のいう趣旨はこういうことだろう。国防にもコストを考えることは当然必要。なら他国と共同開発などをして、武器(ミサイルなど)の装備もより効率性をめざすべきだと。

  なるほど財政再建の必要な日本。一見もっとものようにも思える。しかしちょっと待ってもらいたい。そもそも武器関連産業自体まともな産業なのか。ミサイルはそこら辺の銃器とは違う。爆弾にしたってそうだ。人の命を一瞬にして大量に奪う兵器なのである。これを産業にして金をかせぐこと、それはまさに「死の商人」にほかならない。

  日本がこれに手を染めてこなかったの背景には、9条(平和主義)の存在が大きい。彼は日本をアメリカと共に戦争できる国にしたいはずだから、こういう9条の趣旨など「クソ食らえ」といったところなのだろう。しかしこの手のことに手を染めていないことは、非核と同様わが国が世界に誇れるべきことといっていい。

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  今回の発言。うがった見方をすれればこうともいえる。今回防衛汚職でフィクサー的存在として名前の挙がった秋山某の研究団体(ミスター防衛議員がいっぱいだ)に、前原議員もまた名を連ねていた。それだけ彼と防衛族(産業)とは蜜月関係ということだ。

 また彼の今回の提言は日本経団連の提言とも一致する。経団連はかねてから武器輸出見直しを主張している。特に世界のトヨタが熱心だ。あらたな売り上げ増につながる分野を開拓したい彼らにとって、どうしてもやりたいのがこの種の分野なのである。

 彼らはまだ気づいていないだろう。武器(ミサイルなど)を製造するという行為は、実は覚せい剤などの禁止薬物中毒になるのと同じだ。一度この分野に手を染めたら、面白いほど金になるからもうやめられない。

 効率よく大量に人殺しをする「最新鋭」なる「製品」を開発することに血眼になり、政治人脈、献金(もちろん表に出にない)や形ばかりのプレゼンを経て、また大きな富を手にすることになる。そうやって、はい「死の商人」いっちょあがりというわけだ。そうなれば日本でもカショギ的人物が暗躍することになろう(秋山某はすでにそうかもしれないけれど)。

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  前原議員は概念的には福祉国家に近い考えをもっているようにも思える。生活弱者の救済のための政策を掲げる点では、今の民主党の政策と違うところはないであろう。これは評価していい。しかしこと防衛に限っては、明らかに乖離がある(なにせ与党でも超タカ派になるくらいだから)。

 彼をみていつも思うことは、防衛問題を彼は「純」にみすぎている。この種のことに集う人間は「海千山千」「腹黒い」人物だ。あの憲法改正を声高に叫んでいたアーミテージも、裏では防衛産業の利権に関わっていたことが今回の汚職問題でも明らかになっている。武器輸出禁止解禁も彼が思っているほど「純」な理念では動いていかないということだ。

  今でも多くの企業がこの産業に莫大な金を求めてよだれをたらし解禁待っている。解禁すれば不況時には「どこかで戦争でもおきないか。一儲けできるのに」と願う企業が誕生することになる。そうなったとき彼らはそのためにはあらゆる手段を使い売り上げ増につながる出来事を実現しようと(あるいは応援)するだろう。

 そのときの彼らは臆面もなくこう主張する。「きれい事だけで食って生けるか。人が死んでどこが悪い。われわれは武器を作るだけで、使用するのは別の人間だ」と。でもそれは全米ライフル協のたわごとと同じである。

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  いいかげん前原議員も「軍事ごっこ」から足を洗うべきだ。そうでないと、彼ただは利用されてそれでおしまいである。もっともそうでなく、彼もこの分野のダーティさが十分分かっていてそれでも死の商人を誕生させたいのなら、それならそれでけっこう。ただその場合できれば新党(イーグル党)でも作って欲しい。

  それにしても、彼の思考はこのところのタカ派的京大思考が影響しているのか。中西教授(彼でも教授になれるのが政治学という学問である)あたりとも親交はありそうだ。このところの京大は社会学の分野を含めてどうも壊れだしているように思える。もっとも東大も「みくりや」という中曽根応援もどきの学者が出てきている点ではあまりかわらないか。

  前原議員とその仲間達。今後「死の商人」誕生にどこまで尽力するのか(小沢氏ももちろん無関係ではないだろうが、彼ほど正面きってこの種の産業の応援発言することはしない)。できれば彼と防衛産業との関係ももう一度洗いなおしてほしいものだ。

  
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by phtk7161 | 2007-12-10 18:39
  月曜の早朝ロシアの下院選挙とベネズエラの国民投票についてブログに書いたのだが、なぜか送信に失敗。けっこう力(りき)入れて書いたものだったので、気持ちがめげてしまった。その後再度同じものを書く気力もなくそのままである。いずれ機会があればこのテーマでまた書こうと思っている。みなさんも、送信トラブルにはお気をつけください。


 ところで話はかわるが、気になったニュースに「吉野家のテラ丼のニコニコ掲示」「ミクシィにおけるケンタッキーでのゴキブリのウソ」のふたつがある。両者ともバイト(元含む)の人間がいたずら感覚でやった(書いた)ものだが、それでことがすまないのが今のネット社会だ。会社名がはっきり分かる形でネットでことを扱えば、その影響は当然会社にも及ぶ。吉野家、ケンタッキーがすぐに事を起こした人物探しに乗り出したのも当り前だろう。


 本人たちはちょっとした遊び(あるいはジョーク・・・実はなっていないが)のつもり。確かにネットにのせず、身近な(バイト仲間やあるいは友達)間で今回のようなことをやったり(言ったりする)ことはある。そういう経験者もいるはずだ(人によってことのレベルはちがうだろうが)。ネットのない時代なら多くの場合ことはそれですんでいた。

 しかしネットが絡んでしまうとそれではすまない。いわゆる「便所の落書き」でも対象者は大きな影響をうける。「がきのいたずら」が、伝播していくという点ではメディア(週刊誌や新聞あるいはテレビ)に近い力を持つ。そして内容によってはネットに載せたもの(書き手)は・・・たとえば今回の件など・・・不法行為による損害賠償(それもかなり多額な)責任を免れない。

 外国がどうといいたくないが、これがアメリカなら場合によっては途方もない賠償金となるであろう。バイト君たちは「故意」に吉野家・ケンタッキーのイメージを低減させる内容を周知させる目的でネットに投稿しているから、敗訴は疑いようもない。

 子供(精神年令が)がやることに対しては、アメリカよりいくらか大人・・・(企業のほうやりすぎるとも大人気ないととられてしまうのを恐れている点もあろう)・・・の日本であるから、そこまでされないだけである。しかしこれからは分からない。場合によっては、行為者自身(あるいは家族)が財産を失ってしまうこともありうる。

         ☆        ☆        ☆

 ネットに載せる行為は、じつは成熟性を相当程度要求される。対人間の手紙や狭い範囲でとどまる「便所のらくがき」とはちがって、ネットの世界は広範囲の周知性をもつ。だから載せるせる以上、抗議されてもそれなりに「抗する」ことができる責任をもって載せなければならない。

 もっとも内容が権力者(機関)に関するものなら、私人間とは違いあるていどの揶揄(内容にもよるが)した表現も許される。それは権力のいきすぎをよく抑制するひとつの効果もあるからだ。この許容性がもはやないからロシアの今の「現実」がある。ロシアでは権力者に対する批判的表現の自由はもはや風前の灯となった。

         ☆        ☆        ☆

 十分大人なのにそれでも「がき感覚」の精神的に幼い人間が、自らの責任を意識せず面白感覚だけで違法の事実(法的意味での)をネットに載せる。残念ながらこれが今のネットの現実だ。

 当然野放しだといけないとの声はあがる。そこで規制。しかし権力とはやっかいなもので、前述した健全な「揶揄」や「権力批判」まで規制の網にかけようとする。そこがまた問題を難しくしてしまう。その原因は、どちら側にも「バランス」感覚に欠けた人間がいるからである。

 ネットに投稿する側は対象とする人(企業)の「個人の尊厳・・・(憲法13条あるいは「公共の福祉(私人間の権利調整)」への配慮がなく、取り締まろうとする側も「表現の自由(特に政治がらみの)」への配慮を書く。今両者ともにバランスのとれた「成熟」性が何より求められているといえよう。

  
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by phtk7161 | 2007-12-06 17:13
  守屋次官が逮捕された防衛利権に関する過剰接待問題。彼の妻も逮捕されることとなった。今回彼の妻の逮捕はいわゆる「身分なき共犯」がその形態となっている。

 「身分なき共犯」とは、身分犯(例えば収賄罪における職務権限を持つ者等・・・特定の立場・関係をもつ犯罪主体者)において構成要件(犯罪行為に該当するための第一段階ともいえる外形的な条件)の主体に該当しないものが、該当する者の行為に加わることにより犯罪が成立する場合である。

 収賄に関し「身分なき共犯」が妻に適用される場合、共犯といってもその多くは身分を持つ者の道具に近い形である。すなわち身分をある者(夫)の行為が犯罪要件に該当することは知ってはいるが、本人(妻)は補助者(したがって消極的な関与である)で加担しているにすぎない場合が多い。

 しかし守屋氏の妻の場合は本人(妻)自身があきれるほどかなり積極的に行動(タカリ)しており、そういう点でこれほど露骨な妻の「身分なき共犯」も珍しい。検察も守屋氏本人ばかりでなく妻のほうも主犯的扱いで、立件のためにかなり本格的に取り調べるはずだ。

        ☆        ☆        ☆ 

  もっとも本件の立件は法的に厳格に考えればそう単純ではない。過剰接待=対価と結論づけるのはやや乱暴すぎる感もあるし、また報道されているような数百万単位の金額の振込みも、被疑者側は金銭貸借といいているからである。(しかも本人達は返したといっている)。

 もちろん金銭貸借という理由はかなり苦しいし、接待の全体像からみれば明らかに「対価」はあるといえるだろうが、果たして具体的立証事実として何をどうあげていくか。

 確かに過去(かなり古い物も含めて)の判例からみれば、今回のケースでも対価は認められる。しかしそうはいっても、ゴルフ(費用の一部負担)や焼肉などひとつひとつの機会自体に使われた金額は正直言えば接待としてありうる範囲のものでる。

 そういう意味では、守屋夫妻と同じ形で接待を受けたことのある役人政治家、そういう形の接待をしたことのある民間業者は、今現在でも枚挙にいとまがないはずだ。「ようは常識はずれの回数が問題」ということで、小さな積み重ねでも全体としてしての多さを「対価」として収賄が成立するなら、今後公的立場のものは日常的接待についても頻度が多ければうかうかできないことになる。

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 贈収賄がその罪質として国家的法益を害するものであり、それゆえに罰せられるとしても、その行為の外形的形態は民間でも往々にみられる。民間(公益性のない)における取引でも自らの地位の優越性をいいことに「たかり」を行う人間は少なくない。身近でその手の話を耳にした人も多いであろう。

 そういう点では贈収賄の醜さの本質は「たかり」(もらう側)や「物欲に突け込む」(贈る側)ところにあるのであって、「人格」的素養が大きい。それは結局は社会構造の問題ともいえるであろう。ある物事の決定(物の受け入れからそれこそあらゆる試験の合格にたるまで)に際し物欲を基にしたコネのありかたそのものをどう考えるのか。「袖の下」の歴史は古い。これをどう断ち切っていかはこれからの社会に課せられた課題ともいえる。

 今回の事件は守屋夫妻と宮崎元専務だけの問題ではない。それは防衛利権に根ざす「袖の下」的な構造の問題でもある。彼らが批判されるのは当然だとしても、それにまけない人物(「たかり」の人格)は他にもいる。たとえば今回の問題に関連する者の多くは(全員とは言わないが)そうであろう(日米問わずそれこそ両政治家政府高官にいたるまで)。それは長い間民間も含めたわれわれの経済社会に根ざしてきた、経済構造上の質的問題(「袖の下」「たかり」)でもある。
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by phtk7161 | 2007-12-02 13:11