社会問題を考える


by phtk7161
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  アメリカ大統領選の民主党の予備選挙で、オバマ氏の優勢が伝えられている。私個人は、ヒラリー・クリントン議員が大統領になって欲しいというのが正直なところだ。もし彼女が大統領になれば彼女は自らがかねてから考えてきた公的健康保険制度の実現をめざすはずだ。これはアメリカという国が「相互扶助」の精神を持つきっかけとなる。それはアメリカのみならず世界にとって望ましいことである。

 高層ビルの最上階でワインを片手に町並みを見下ろす人間がいる一方で、路上で寝転ぶしかない人間もいる。これが自由競争における発展した社会といえるかというと、もちろんそうではない。一定の生活がどんな境遇であっても保障されない社会はよい社会とはいえない。

 私はヒラリーが大統領になれば、アメリカという国家が変わるチャンスだと思っていた。他人を蹴落とすことに懸命な社会構造だけでは進歩的な社会など決して実現できない。そういう国は結局は他の国家を食い物にしていくしか生き残る道はなくなる。それがこれまでのアメリカという国家だった。「共存」という精神などみじんももたなかったところに、アメリカという国家の限界がある。

 もちろんアメリカが衆国が繁栄してきたその精神的要因に、フロンティアの時代からの自治的精神があることはいうまでもない。独立戦争を経て培ってきたその考えの根底に、できるだけ(国家的)権力を最小限にとどめるという考えが、一面では確かに人権の進展にも寄与してきた。それは誇っていい。

 しかし国家の関与をなるべく最小限にとどめる「小さな政府」的考えは一方で、絶望的なほどの格差の構造を生み出した。これは何も経済面だけではない。精神的面でも確実に「格差」が存在している。治安の悪さは銃の存在が主たる原因だが、主観面では精神的孤立(格差)感がその要因であることはまちがいないだろう。その証拠にこの国は、外国との交戦がはじまると国内での銃乱射事件はおきなくなるのである。(たぶん他国と戦っているときは、それまで孤立感をもっていた国民も、精神面での格差を感じなくてすむからであろう。)

 ヒラリーのめざす健康保険の導入は、ようするに国家による税の強制的徴収だと主張するものもいる。そしてオバマ陣営もそういう批判をする。しかし、その批判はあたらない。極端な一人勝ちをよしとする国家像がどれほどアメリカ国民の精神を傷つけまたそのマイナスを他の国家に転嫁してきたか。せめて生命に関わるもんだいについては、「なんとか国家の責任で最低限の保障を」という考えは決して間違っていない。

 国民の生命をまもるのは何も軍事だけではない。健康保険もまた国民の生命を守る有力な政策なのである。その点をこれまでアメリカは軽視してきた。そして他の候補は、この問題にまともに答えるすべをもたない。あいかわらず「貧しいそいつのせい」と知らぬ振りをする。市場における自由競争を前提としながらも、どこかに「相互扶助」による「共存」の精神「福祉的理念」をアメリカ社会が取り入れない限り、そしてそれを実現する大統領が出ない限り、アメリカ(合衆国)という国家の発展はない。
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by phtk7161 | 2008-02-28 17:27
  三浦和義がグアムで逮捕された。ロスでおきた妻殺害事件、いわゆる「疑惑の銃弾」での逮捕容疑だ。ただこの事件、すでに事件から27年が経過している。日本では無罪が確定し、わが国の法律では一事不再理によりこの事件で、彼は裁かれることはない。

  しかしアメリカでは殺人に時効の適用がない上、殺人罪については属地主義(犯罪がアメリカ国内で行われる限り刑法の対象となる)をとっているから、アメリカの司法当局が三浦容疑者に対し逮捕・勾留・起訴の一連の手続きをとることに理論上何ら問題はないことになる。

  もっともそうはいっても事件から27年という時の経過がある。日本で時効制度が認めれるその理由のひとつに証拠の困難性(一面では「証拠の信頼性の低下」にもつながる)ということを根拠とする考えがあるが、こういう点からすれば27年後に発見された新証拠について、その信頼性に疑問なしとしない意見(おもに三浦容疑者側からであろうが)も当然でてくるであろう。

           ☆          ☆           ☆
        
  刑事事件に関してある問題が世論で論争となる背景には、異なった立場からの主張のぶつかりあいがある。

  ひとつは「悪いやつはこらしめろ。逃げとくを許すな。永遠に追っかけるべきだ。やってない人間が罪を認める(自白する)わけがない。自白した以上やっているんだ。捜査する側がその主観において間違った捜査などするわけがない。相手が結果的に犯人であれば、どんな(違法)捜査でもやってかまわない。」こういう捜査側・被害者側からみた意見。

 もうひとつはこういう証拠で・・・例えば劣悪的な長時間の取調べにより得られた供述や証人の信頼性あるいは科学判定への信頼性(DNA鑑定でも初期のものには信頼性においてかなり危ういケースもある)に問題のある証拠・・・有罪にされたらかなわない。やってなくても犯人にされてしまう。あるいは、こういう捜査がまかり通ったら・・・証拠保全の緊急性のある場合を除き、令状なしで捜査機関がいつでもどこでも勝手に目指す場所に入れるとしたら・・・個人の生活空間などないのと同じである。平穏な日常生活など誰も送れなくなる。だから捜査の適法性と内容の信頼性は何よりも重要だ。こういう意見だ。

 今回の事件も、三浦和義という人間のこれまでの行動から垣間見える人物像から「彼はやっているにちがいない」という考えの人もいるであろう。それは間違っていないかもしれない。しかしだからといって今後今回のロス市警の捜査方法がそのまま通って、彼が有罪になることが果たしてよい結論なのか。それは疑問である。その結果でてくることは、たとえば「(殺人の)時効制度をなくせ。許しがたい事件においては見た目や行動など総合的にみて怪しいと思える人間に対しては、法制度のありかた(時効や適法性など)など気にしなくてよい。」こういう風潮かもしれない。

  多くの人は人生において、まず重大な刑事事件の被疑者になることはない。だから、一般的に外側から許しがたい事件を見たときに、まず捕まえる側(あるいは被害者側)の立場でものを考えがちである。しかし考えてもらいたいことは、もしあなたがやってもいないのに何らかの理由で捜査対象となり、その過程で適法性は無視され好き勝手にやられ放題にされてしまったなら、あなたの生活(人生といっていかもしれない)はどうなるかということである。

  「私は品行方正な生活をしているから大丈夫。やっていなくても、品行方正な生活を送っていないような人間は疑われてもしょうがないのだ。それくらいは我慢すべき。」そう思われるかもしれない。しかしきちんとした生活を送っていながら、被害者の身近で生活空間を共有(同じアパートやマンションあるいは職場)している人間が思わぬ疑いをかけられ、あるいはやってもいない痴漢の疑いをかけられてしまう。それは現実にありうることなのだ。だから理不尽な捜査や扱いをうけないよう、憲法には法定手続きの保障が定めてあるのである。

  時には、捜査側からの見方だけでなく捜査を受ける側の立場からも考えてみることが大切である。今度のケースでもこのやり方が日本で認められた場合(殺人の時効が廃止された場合)、一般論でいえばやってもいない人間でもいったん疑いをかけられたら永遠にその捜査対象となり、長期間平穏な社会生活が遅れなくなるというとにもなりかねない。

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  今回の三浦和義氏の逮捕もそういう視点で考えていかなければならない。「ロス疑惑」における好奇心のみで今回の騒動を見ていては危険である。この騒動をめぐって今後アメリカでどういう法的扱いがなされ、それが日本にもどう影響を与えていくのか。それが日本でも普遍化されるおそれはないのか。その点に気をつけなければならない。

  今後裁判になった場合、たとえば今回の逮捕に至った新証拠というのが(新)証人の新証言存在であるなら、それに際し司法取引はあるのかないのか(例えば証言者は訴追を免れること条件に証言をするケースなど・・・もちろん日本ではこのやり方は法的には認められていない)、あればそういう証拠に真実性はあるといえるのか。物的証拠なら、その科学的信頼性は高いものなのか。そういうやり方で27年前の出来事を果たして裁けるとしてよいものなのか。

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  私はそもそも「犯罪大国アメリカ」の司法制度自体、日本には地理的・文化的にもあわない面が多いと思っている。だから今回の三浦和義容疑者をめぐる逮捕劇にも、一般論としては厳しい見方をせざるを得ない。もしこういうやり方が将来日本で普遍化(法的に認められたら)されたらどうなるか。ウン十年前の出来事について、捜査側は長期間いつでも都合のいい時期に証拠を用意できる一方、被疑者側は長い時の経過によりその防御手段は困難を極めるということである。

  そういう意味で、今回の騒動をワイドショー的な好奇心ばかりでみるのではなく、捜査の手法あるいは殺人事件の時効制度のありかためぐって両者の立場からきちんと法的側面の妥当性を考えていかなければならない。メディアはその点をきちんと伝えるべきなのだ。刑事手続きにおける法のあり方次第では、三浦和義の立場は決して対岸の火事でない。
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by phtk7161 | 2008-02-25 16:54
  イージス艦と清徳丸の衝突事故をとりあげているブログは多いことと思う。事故原因や事故後の対応のありかたをめぐって問題点も多い。しかしそれらの点についてはこのブログではあえて触れない。私自身これらの点を論評できるほど知識が十分でないし、ニュースや他のブログでその点については触れてあると思うからだ。

  ただ次の点だけは別の角度から指摘しておきたい。それは防衛省(自衛隊=軍隊)と特別裁判所(軍事裁判所)の関係についてだ。憲法76条2項は「特別裁判所」の設置を禁じている。したがって今回の問題も事件性があるなら(当然あると思う)、通常の裁判所のおける刑事裁判で裁かれることとなる。

  しかしたとえばアメリカのように軍事法廷を認めている国ではそうはいかない。通常の裁判手続きとは違い、軍事法廷で裁かれることとなる。その結果どういう問題がおこっているか。記憶に新しいところでは、「えひめ丸」の事件がある。ハワイ沖で研修中の水産学校の生徒達乗った訓練船が、アメリカ軍の潜水艦による訓練時の浮上によって衝突し沈没に至った事件である。このときアメリカの潜水艦は一般人を潜水艦に乗船させ訓練を公開し、浮上のデモンストレーションを行った。事故はその浮上時に起きた。

  この事件明らかに潜水艦側に過失があった。でなければ起きようのない事件である。この潜水艦では事件の当日一般客に潜望鏡をのぞかせたりしたりしていて(もちろん浮上時にそれをやっていたわけではないが)いずれにしても緊張感に欠けた雰囲気のさなかでおきた事件である。

  事故時の潜水艦側の行動対応からすれば、日本の刑法では過失は免れない。しかしアメリカ軍がだした結論は不起訴であった。軍の士気高揚保持のために「刑事罰」を課すことを極力避ける。これがいわゆる「軍事司法」の正体である。この手のばかげた結論に至ったケースは他にもある。

 イタリアでの米軍戦闘機のケーブル切断事故もそうだ。2機の戦闘機が訓練中どちらがより低く飛べるかをゲーム感覚で競いそのあげくケーブルカーのケーブルを切断し大事故に至った。しかし裁判の結果はやはり「無罪」。事故原因はパイロットにではなく戦闘機の機器に問題があったことが原因とされた。しかしそれならそれで整備部門の(刑事的)責任がとわれてもよいはずだが、それも問題となっていない。他にも韓国で訓練中の米軍の装甲車と韓国女子学生の死亡事故もあった(アメリカの軍事法廷のだした結論はやはり無罪だった)。
   
  いずれの事件も民事的な意味での損害賠償は行われているはずだ。しかし刑事責任はことごとく免れている。交戦時での戦場における行為については、一般の刑事責任よりもその認定は難しい。戦場での特異な心理状態も考慮すれば、この場合には刑事責任を裁く軍事法廷的な制度の存在もまだいくらか許容される余地があるかもしれない。

  しかし先にあげた事件の場合、行為の態様・心理状態とも一般の行為(過失事件・・それも重過失そのものあるいはそれにより近いと思う)と比較してかわりはない。わざわざ特別法廷で裁く必要のないものだ。一般の裁判で十分審理可能である。それを特別扱いしてしまうから、日常生活化における軍による粗暴行為が後を絶たないのだ。それは決して訓練時の特殊状況からおきるものではなく、どこか軍が自らを特別な存在と思う「甘え」の心理状態(による気の緩み)からきているのだと思う。

 今回の事故はもちろん一般の刑事手続きに乗って裁かれる。こういう事件では「軍の特殊性など関係ない。一般事件と同じ。」この感覚が当たり前のことだが重要なことである。立憲民主国家なら当たり前のことだ。それは一面では、シビリアンコントロールにもつながる問題ともいえる。

 潜水艦「なだしお」による事故では、日誌の改ざんが指摘された。しかし私はこれが軍だからの行為とは思わない。軍であろうがなかろうが、もともと組織というものは、ことに対し虚偽的あるいは違法(的)なことをやってでも組織防衛をするのが習性なのである。

 したがってこの場合大事なことは、事件の刑事手続きの流れにおいて、特別扱いをされる「組織」を一切認めないとする法制度の存在が重要とえいる。そしてこと裁判制度に限っては、今だわが国ではこの原則が守られている。それは日本がこの分野でまだ他国より「まとも」な国家であることの証でもある。

 与党の一部のタカ派の議員のなかには、馬鹿げたことに憲法76条2項を改正し特別裁判所の設置により軍事法廷的なものを認めるよう主張をするものもいる。しかしそれがどういう馬鹿げた結果を招くか。あえて述べるまでもない。今回の事件での今後の刑事手続きの流れを思うとき、76条2項の存在(特別裁判所の設置禁止)の重要性を私はまたあらためて認識させられている。
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by phtk7161 | 2008-02-22 01:22
 プリンスホテルが日教組大会開催の契約を拒否しただけでなく、職員の宿泊(大会自体は別の場所で個別の大会だけになったようだ)まで拒否したことが、あきらかになった。大会開催がなくても多くの日教組職員が宿泊した場合、やはり街宣車が大量にやってくることでホテルの運営に支障をきたすと判断したのかもしれない。

 しかしホテルが宿泊を拒むには、宿泊拒否が社会的に許容されるだけの理由が必要である。単に経営に支障をきたすかもしれないからといって宿泊を拒むなら、少なくともそのホテルは3流以下のホテルだ。ハンセン病の人やエイズ患者の宿泊拒否したホテルは、ホテルの社会的存在としての位置づけでは最低のレベルであるといっていい。

 街宣車は確かにたちが悪い。暴力をちらつかせがなりたてる。その行為は明らかに迷惑行為であり、学校の授業を自分さえおもしろければよいと妨害する生徒達とかわらない。それを大人になってもなおやっているのだから、なおさらだ。また彼らと暴力団との距離もそう遠くない。なかにはほぼ同体(=暴力団)といえる組織もある。日教組大会の開催と国粋不良団体、どちらが反社会的存在(ありは行為)であるか、後者がそうであることは明らかだ。

 こういう反社会的団体の行為を恐れてプリンスが正当な宿泊提供の債務を履行しない(契約を守らない)ことは、自らへのとばっちりを恐れ暴力的組織に手を貸すのと同じである。間接的関係者(プリンス)を脅せば無理が通ると、街宣車を動員するような団体に思わせることは、結局かれらの思う壺となってしまう。どこかで毅然と対峙しなければ、やっていること(契約拒否)は総会屋に賛助金をだす連中と同じことなのだ。ますます彼らの暴力的示威行為(潜在的な形も含む)を調子づかせるだけである。

 保守派の政治家にはこの手の団体と付き合いのあるものもいるし、時に国会や議員会館でも会ったりするから、そういう面でも商売上彼らの扱いに困る立場の人もいると思う。そういう点で彼らと関係・・団体の存在を肯定的にとらたレベルで・・・を持つ政治家の責任も大きい。しかし本来は、彼らの活動が暴力を背景(実際に行使しなくても)にしている以上、法治国家であるなら彼らの活動はいずれは消え行くのが当たり前なのだ。

 もちろん国粋的思想の団体でも日頃から暴力的示威行為を一切せず合法的活動のみであるなら、彼らの存在は反社会的ではないしまた日教組に対し抗議活動をすることも当然認められる。そしてもしそうなら、その場合プリンスが経営への妨害を恐れる必要はないといえる(違法な行為をするおそれはないのだから)。しかし今回プリンスが恐れてしまったのは、やはり抗議活動をする団体の多くに反社会的(違法の)匂いを感じているからであろう。

  プリンスの元会長の堤氏も過去にこういう連中ににお金を脅し取られた事件があった(ヘリコプター使用からんでのもの)。裏で金を使ってこういう連中とのトラブルを解決した当時と今のプリンスの体質はあまりかわっていない。経営に関し法(暴力的形に屈しない)を基準において判断できない体質はあいかわらずである。

  自社の利益を上げるだけでなく同時に社会的責任も果たしていくのが現代の企業像のあるべき形である。そういう点からすれば、プリンスの今回の行為(契約不履行)は暴力を背景とする反社会的団体の恐怖に屈した、法治国家からの逃避的な行為である。そしてそれは企業としてコンプライアンス的もの・・・今回の行為は直接的には関係ないが根底の部分では共通するといえるだろう・・・からも程遠い行為ともいえると思う。 

 
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by phtk7161 | 2008-02-16 22:16
  倖田來未の羊水発言が波紋をよんでいる。本人としては自分流の言葉で「結婚したマネジャーに赤ちゃんを早く生んで欲しい」的表現だったと思うが、いずれにしても公然(ラジオ放送)での「くさる」はいただけいない。こういう表現をしてしまう本人、あるいはそれに気付かないスタッフ含めて・・・録画取りだった・・・結局は人(品)格的・知性的な問題に行き着くと思う。

 もっともこれが彼女(達)だけの問題かというと、もちろんそうではない。この手のことで一番ひどいのは、いうまでもなく政治家である。別にこれはよくある「政治(家)が悪いから・・・云々」の決まり文句的揶揄でいっているのではなく、心底本当にそう思うからだ。

 つい最近でも麻生氏の「今回の餃子の問題で、日本の農家は中国に感謝しなければ」発言・・・彼には「アルツハイマー」をめぐる発言もある・・・あるいは米軍基地をあり方を巡って激しい選挙戦となっている岩国の市長選では、自民党の県連会長の視聴覚障害者に例えた侮蔑的な発言(これについては等身大の表現では書きたくないから、この書き方でとめる・・・いずれにしてもいまどきこんな表現をするやつがまだいるのかというあきれたものだ)があった。

 大阪橋下府知事などは「売春は日本のODA」など究極の知性のなさを見せ付ける発言をしている。彼と石原東京都知事など失言語録で軽く本が何冊も出せるだろう。そういえば埼玉県の上田知事も自衛隊の職業に関し「人殺し」といったことがあった。

 こういう人間に共通しているのは、ずけずけあからさまに表現することを自らの勇ましさ(おもいっきりのよさ)の形と勘違いし、目立ちたがりやである点だ。あからさまな表現が聴衆にとって分かり安くうけるに違いない、そういうまことに幼稚な考えに拘泥しているのである。彼らは政治家は演説を聞いてもらって(うけて)何ぼと思っている。それは「うける=人気」と勘違いしていることも大きい。

 公の場所での自らの発言が、その人たちには何の帰責性もないのにそういう(発言の対象の)立場になっている人たちをどういう気持ちにさせるか、あるいはその表現を使うことで、一般社会においてそのこと(表現対象に関すること)への認識にどういう影響を与えるか、そういう視点が彼らには欠けているのである。ようは、自分の外側の世界の他人に対し慮(おもんばか)る・・・不作為的表現(=表現自体しないこと)も含めて・・・心をもてないということだ。
 
 徳育がどうのとか若いへ世代の教育をいうまえに、こういう人物達こそみずからの徳育のなさを認識すべきだろう。長い人生経験を経て、いまだにこういう馬鹿げた発言をしてしまう自らをもっと恥じ入るべきだ。まずは自らが道徳心を身につけることである。

 不思議なことになぜか徳育のない政治家ほど、古い道徳的ものを強調し教育的に押しつけたがる。そういう矛盾の構造があるかぎり、教育再生会議がいくら道徳(徳育)を推進しても、本当の倫理観や公共心は育つことはない。公での言葉は、その人間の質そのものといえるのだ。
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by phtk7161 | 2008-02-06 10:46