社会問題を考える


by phtk7161
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  格差社会といわれている昨今、しかしそれ以前からずっと格差はあった。ただその頃と今とで何が違うかといえばコミュニケーションではないかと思う。家族の構成も核家族化が進み、また家族とくらしていても家族間に気持ちのつながりがない場合も多く、孤独感を感じる人間が多くなっている。携帯電話は今や現代社会のは必須の道具だが、この機器を通じて孤独感を癒す人もいよう。

  リアルに自分の姿が見えてしまう世界では、本来の自分を見せない人も多い。等身大の自分を通そうとしても、社会のどの部分かでそれではうまくいかないものだ。だから社会にうまく適応していくため、本来の自分を押さえ社会と折り合いを付けていくようにする。社会における人間関係とはそういうものだ。

  ネットやゲームの世界は等身大の自分をさらけ出しやすい。自分の外形的存在を知られる危険が少ないからである。したがって人がこの世界にのめりこみやすいのも当然である。相手に合わせる必要もない。リアル(現実)の世界では違法とされることも、ここではバーチャルの形でなんでも行える。

  それが現実の世界でしのいでいくためのストレス解消になっているうちは問題はない。しかしバーチャルの世界にのめりこんだ結果、いったん現実の世界に引き戻されいやおうなく現実向き合わなければならなくなったとき、現実の世界に対し虚無感や絶望感を感じ出したらこれはもう危険といえる。

  そういう感覚をもつ人でも、現実の世界では単に「生きていく」ことだけを考えるならいい。単に「生きていく」それもまたひとつの人生のありかたである。お笑いで活躍するさんまは「生きているだけで丸儲け」といった。けだし名言である。人は犯罪を犯さず他人の「個人の尊厳」をなるだけ侵害しないで生きるなら、それで十分りっぱな生き方である。あとは世の中で最大の罪である「戦争」やそれにつながる「政治」にNOといっていればよい。

  やっかいなのは、現実の世界に虚無感や絶望感を感じた人間が、現実の世界にバーチャル世界での価値をなんとか反映させて自分の存在理由を見つけようとした時だ。無関係な人間を8人殺傷した犯人は、ゲーム世界での「殺人」(という価値)を現実の世界に反映させることでそれをみつけようとした。ゲームの世界に自らの全ての存在価値をおいた結果である。この種の人間は確実に増えている。

  バーチャルの世界は別にネットや携帯だけではない。リアルに生きていることを実感できない空間に居る人は、ある意味バーチャルの世界で生きているといいであろう。そういう人間が、何らかの理由で今生きているリアルな世界を感じたとき、つまり本当の現実に引き戻されときに自らの存在理由を無理にみつけようとするとやっかいなことになる。

  これを犯罪を行うことや人の尊厳を侵害する(例えば人種差別発言など)形で見つけようとする卑怯な人間、それが前述した犯人や思想実現を動機として違法行為を行う人間である。それは一言で言えば「生きていくことに甘えんぼ」的人間といえる。

  便利な文明の道具が進化すれば進化するほど、人の精神は後退する。道具の進化と人間関係における精神的貧困とは反比例の関係にある。私には昨今の事件がそれを証明しているような気がしてならない。
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by phtk7161 | 2008-03-30 19:02
   新学習指導要領が告示された。びっくりするほど馬鹿馬鹿しい内容でア然とする。愛国心だの天皇を敬うことなど「指導」するんだと。「馬鹿も休み休みいえ」といいたくなる。安倍や中川そして平沼をはじめとする国粋政治家やそれにへこへこおっべか使う官僚がどういう言おうが、この際はっきりわせてもらう。あんたらこそ、国家や天皇を自分達の政治のための道具に使う真に国を愛さず天皇を不敬する者だと。

  天皇主権とそれを認めた大日本国憲法のもとで、天皇は権力を持ちたがるものに利用された。そして軍隊が政治的主導権をもった結果、日本は軍事国家となり戦争の道をまっしぐらに進むこととなった。そこで行われてきたことは、国家と天皇への国民の忠誠であり、強制に基づく国民の生命の国家への提供(=徴兵)と洗脳教育による天皇敬愛だった。国民個人個人は所詮国家の駒であり「個人の尊厳」などなかった。それが日本国憲法誕生以前の日本であり、まさにそこには有無を言わさぬ愛国心・天皇敬愛への強制があった。

  今回の新学習指導要領の中身はまさにそれだ。「指導」という名の愛国心と天皇敬愛への「強制」だ。今回新学習指導要領の罪は重い。現天皇のこれまでの発言を見てもらえばわかるが、どうみても彼は指導による敬愛などもとめていない。それぐらいなら、天皇制を自由に考えさせる国家のほうが百倍ましだと思っているといえる。現憲法を受けよく理解し、それにふさわしい政治を求める天皇の意向を無視するその態度こそ「不敬」そのものである。

  もちろん指導要領を関わった者(国粋政治家・文部省の役人)が現憲法下で天皇の意向を無視し不敬することは自由だ。現憲法下では天皇は政治に関与できないし、不敬罪もない(もちろんそれはあたり前であるが)。とはいえ、彼らが彼らにとって都合のいいところだけ国家や天皇を利用することは明らかにおかしい。彼らこそ心から国家や天皇を愛し敬愛していないことの証である。

         ☆          ☆          ☆

  戦後皇室は人間宣言による現憲法下もとで、おだやかな象徴天皇制の定着に努力してきた。その努力を壊す動きをしてきたのが、過激派であり右翼団体の連中だ。前者は違法行為を正当化する手段として天皇制の否定という形でこれを利用し、後者もまた違法行為の正当化と金のために愛国心や天皇制を利用してきた。そして今、先にあげた政治家や官僚は自らの政治権力獲得のために、めいっぱい「愛国心」と「「天皇制」を利用している。戦前もの言えぬ雰囲気を作り、天皇制を利用することで権力をほしいままに使った連中と彼らは同じである。

  私は国を愛するから、この日本が優れた住みやすい国家になってくれることを期待して、時に国家(国民・立法・司法・行政)を批判する。それはまさに愛国心の現れである。象徴的意味での「国家」や「天皇」を無条件に愛し敬愛することなどに何の意味があろう。中身が良ければ・・・たとえば自由にものをいえる国家や開かれ親しみやすく謙虚な皇室など・・・自然と象徴的存在への愛国心や敬愛というものはついてくる。決してそれは強制できるものでない。強制することは「個人の尊厳」を否定することと同じである。そこでは結局国民は、考えることを奪われた駒になってしまう。

  生きている個人個人が触れ合う公共の場である社会の延長線上の集積に国家はある。中身が生きていない象徴的国家観など現代では独裁と戦争を招く害悪である。その証拠は北朝鮮を見れば分かる。北朝鮮の国民は「愛国心」を強制され、洗脳的指導により「将軍様」への敬愛をもたされる。戦前の日本の皇民教育そのものだ。そういう国家に、どうして安倍・中川・平沼などの国粋政治家達はしたがるのか、神経をうたがってしまう。戦前がそんなに好きか。そんなに好きなら、お前らだけタイムマシンでもつくって過去(戦前)にもどれといいたい。

         ☆          ☆          ☆

  文部省も文部省で何やっているんだか。この三流役所はこれまで的外れな教育指導ばかりしてきた。結果教育現場は今ぼろぼろである。基本的な本業もちゃんとできてないくせに、今度はこれに輪をかけ、本来の教育にはほとんど関係ない分野までいじくりだした。タカ派国粋政治家におべっか使いクソ文の指導要領をつくってまで、そんなに出世したいのか。これまた自己保身のためだけの行動で愛国心のかけらもない。

  あと公明党にもいたい。こんな指導要領までつくらせて、あんたらいったい何のために与党にいるのか。天皇と池田様どちらがより敬愛すべき存在か。あなた達に一度聞いてみたい。天皇が無条件に敬愛するべきと(指導により)されるなら、その存在は池田様より上の存在ということを認めたと同じである。そしてこの指導要領を認めた以上、公明党およびその支持団体の創価学会も池田様が天皇より下の存在であることを容認したわけだ。ま、池田様の存在より権力や金のほうが大事というわけなんだろう。所詮この程度の政党と支持団体というわけだ。そこには信念のかけらもない。

  法的観点からも今回の指導要領の内容は問題である。愛国心や天皇への敬愛を指導することは、結局は従わない生徒に対するぺナルティ的な・・・たとえばあるいは居残り、それに沿った本を読ませる、マイナス評価をする等その他もろもろ・・・強制のおそれを払拭できず個人の心への介入であり明らかに憲法19条(思想・良心の自由)違反となる。指導により「こう考えろ。」「それ以外の考えはいけない。」とすること、それはまさに教育現場での洗脳による思想および良心への侵害行為にほかならない。


  あらゆるもの(もちろん国家の存在も)を自由考えることができることが、よい国家の一番の条件である。そういう国家こそ愛される資格のある国家だ。愛国心や天皇を敬愛することを指導するような国家は、北朝鮮的国家でまともな国家ではない。国家が国民に対してみずからを愛せと強要するストーカーのような行為をやってどうする。強要すれば強要するほど人の心は離れていくものだ。それくらい分からんのか。

  ここまで努力して維持し定着してきたおだやかな象徴天皇制をぶっ壊し、愛国心を利用することで国民を支配したがる萌芽をもつ今回の指導要領。まさに愛国心のかけらもなく、今の穏やかな象徴天皇制に尽力する天皇にたいして尊敬のかけらもない内容といえるだろう。それはつまり自らに唾する内容ということである。
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by phtk7161 | 2008-03-29 04:16
  福田内閣の支持率が低い。特措法・年金・道路特定財源・イージス艦・日銀総裁など(それにしてもホント多い)問題続き、そのうえ参議で第一党を占める民主との協議がうまくいかないなかでは、この数字もしかたがない。もちろん問題の多くは福田内閣発足前からの問題であり福田首相に問題の原因があるわけではいが、しかし首相となった以上はそれでも解決しなければならない。昨日の会見もそれゆえの道路特定財源について09年度一般化の発表。彼なりの打開策なのだろう。

  衆参のねじれ現象のなかで問題の処理にあたるのは大変である。民主党との協議がうまくいかない限り、再可決に持ち込まないと法案は廃案になってしまう。しかし再議決にしても物理的に時間を要するし、またそれまでの過程次第では世論に強引なイメージがもたれる危険もある。そう簡単には乱発できるものではない。また大連立にしても今や画餅にすぎない(というよりそれ以前にこれは民主政治にとって絶対あってはならない形だ)。したがって、福田内閣にとって今の現状ではやはり、民主党との協議による解決が一番なのである。

           ☆          ☆          ☆

  ところがここまでの状況をみていると、この協議がまるでうまくいかない。原因ははっきりしている。首相を支えなければならないはずの伊吹幹事長と町村官房長官が、民主党との対決姿勢鮮明にしているからである。本来このポジションは内閣の要だ。主(あるじ)をささえる実務的に重要な番頭。このポジションの活躍次第で内閣の実績は決まってくる。

  しかし両者ともお殿様気分がぬけていない。ことに伊吹幹事長はひどい。一番首相のために汗をかかなければならない人間なのに、首相の指導力に問題があるかのような発言までしていた。これではなんのために幹事長になったのかさっぱりわからない。首相のために汗をかく気がないなら(問題解決のために時には野党に頭を下げる気がないなら)とっとと幹事長などやめるべきだろう。

  もともと伊吹・町村両者とも役人あがりだから、頭を下げるのは苦手だろう。そうであっても、一たんそういう地位になった以上、本来の役目にふさわしい行動をとることができなければそういう地位につくべきではない。態度だけは大物気取りの甘ちゃん2人を抱えた内閣では、福田首相もさぞ大変だと思う。

          ☆          ☆          ☆

  そもそも福田内閣は挙党体制をめざし派閥的バランスに配慮して造られた内閣だ。背後にはこれまた勘違いの仕切りたがりや森元首相もいる。しかし森元首相には、本人が思っているほどの影響力などない。ただ時の政治の流れに何とか遅れまいとしてその時々に調整的な発言をいうことで、なんとかそれらしい振る舞いをみせようとしているだけにすぎない。やっていることは的はずれなことばかりである。

  たとえば町村氏の官房長官就任は森氏の考えだったといわれる。しかし町村氏は官房長官就任時「なんで俺が福田の下で(官房長のポジションで)働かなければいけないのだ」と不満をもらしたとか。この不満の裏には派閥の会長の俺の方が福田より上だとも思いがあったからだろうと思う。こういう人物が実務に加え報道官的仕事もこなす官房長官についたのでは、内閣はまともに機能しない。完全に適材適所を誤った人事といえる。

  昨日の発表された案もつぶされる可能性が強い。支持率もあがらないままだと思う。しかしねじれ現象のなかでこの難局での政治をうまくこなせる人材が他にいるかというといない。アキバ系漫画大好き麻生氏などでは党はバラバラになりもっと絶望的だ。現状では、首相の自身の考えで首相の意図を汲んで野党と協議(対話)できる番頭(人材)を起用した内閣改造をすることが、一番望ましいといえる形だろう。ただそうさせてもらえるか。これもまた今となってはなかなか難しい。

           ☆         ☆         ☆

  福田氏に対する批判はこれからますます強くなることと思う。しかし小泉以降続いた馬鹿げたパフォーマンス政治ののひどさ、最近でも東国原・橋元知事などまだまだテレビ向け政治が続く中では、福田首相は時に不適切なことばもあるかもしれないが全体としてはかなりまともである。少なくとも「不真面目」さを感じさせない。そういう意味では自民党ではまだましな政治家といえる。彼をかえてかわりの政治家を使い、また自民党が馬鹿げたパフォーマンス政治でこの難局をしのぐことは時間の無駄といえる。彼でだめなら自民党はもう崩壊するしかない。

 福田内閣が退陣するとすれば、もう民主党の政権の誕生ということになる。その民主党にしたところで、議員の中には政策能力に欠けたただの目立ちたがり屋である議員も多い。民主党政権が誕生してもその状態は長く続かないだろう。しかし次の段階の政治に向けた流れという意味では、民主党政権の誕生は踏まなければならないステップである。その後は政界再編ということになる。

 ただどんな流れの形であっても、バランスを欠いた市場万能政治に酔ったりあるいは遊び感覚で「戦争ごっこ」をしたがる政権では政界再編の意味はない。そのためには最低限、馬鹿げたパフォーマンスにのっかる国民でないことを願うだけである。
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by phtk7161 | 2008-03-28 16:13
 沖縄県内で配達された一部週刊誌の折込チラシに、アメリカ兵による暴行事件の被害者と「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」の開催を批判する文書が含まれていることが分かった。「少女の態度も大いに反省すべきではないか」と少女の実名と思わせる(「仮名」と記さなかった)氏名を明記して少女の行動を批判したようだ。

 この文書を配布したのは国旗国家推進沖縄県民会議(会長恵忠久)というところ。チラシを入れた新聞は「産経新聞」「世界日報」ということで、いわゆる愉快犯的右翼の典型例だ。「産経新聞」や「週刊新潮」も少女の行動を批判する文章を事件後記載している。この手のグループにとっては、今回の行為も当たり前ということか。

 彼らが、反対する政治的集会に対して批判することはかまわない。それは「思想」を異にするもの同士ではむしろ当たり前である。国粋的者(集団)であろうがなかろうが「表現の自由」は当然に保障される。問題なのは、14歳の少女さえも自らの思想のために批判のターゲットにしてしまう彼らのその「異常」さだ。

 「世界日報」はともかく「産経新聞」「週刊新潮」とも保守系のメディアの中ではそれなりに知名度はある。当然その公知性ゆえの社会的責任はともなうはずだ。それが対象を問わず、だれもかれも自らの思想のために子供さえも批判のターゲットにしてしまう。それは内部に常識人がいないことのあらわれでもある。オウムなどがカルト集団になっていった背景には、暴走する行為を制御する社会的「常識」を持つ者が内部に存在しなかったことだ。これと同じ状態にあるのが、今の彼らだ。

         ☆           ☆           ☆

 今回の行為者(少女批判のビラの配布した者)あるいは「産経新聞」や「週刊新潮」の「常識」のなさはどこにみられるか。それは次の点である。
  
 強姦や強制わいせつにしても未成年者保護条例にしても、その刑罰の重さは年齢を考慮しているといっていい。法は未成熟段階にある者への、この種の行為をより厳しく評価しているのだ。だからこそ13歳未満への行為については暴行脅迫を用いなくても(たとえ同意があっても)強姦・強制わいせつが成立する(刑法176条)ことになる。そうだとすれば成熟性の段階で13歳未満とさほどかわらない14歳に対する暴行・姦淫行為は、その適用規定がたとえ成人と同じであっても加害者者への責任非難は一方的で当然なのだ。

 被害者が未成年者ことに今回のように14歳にすぎない場合少女がどんな態様をしたとしても、未成熟の段階の少女を行為の対象にした加害者の責任は絶対的である。被害者の態様を非難する種類の犯罪ではない。

 右翼カルトの連中は、この点が分かっていない。彼らは自らの支持する「思想」にとって都合の悪い政治状況につながることを危惧するあまり、被害者がまだ未成熟段階である少女ということを考慮に入れず「常識」的にものを見ていない。被害者が告訴を取り下げたことで暴行の事実そのものを否定し、あるいは少女を批判することで、自らの思想にとって不利な政治状況につながることを回避することばかりに懸命になっている。そこには彼らの好きな「武士道」のかけらもみえない。

 事件の被害者は14歳なのだ。この種類の犯罪についての未成熟段階にある被害者への非難は、まともな社会の「常識」では絶対ありえない。そもそも少女に対する性犯罪加害者への社会の見方は、他の先進国ではことに厳しい。だからこそ、この事件での米軍の姿勢は低かったともいえる。再編問題に関係なく、被害者が14歳の少女である以上事件の質自体やはり重大な人権問題だからである。

 暴行脅迫をつかったどうか、その事実が被害者が告訴を取り下げたことで刑事事件と扱われず今となっては認定できない状況になったとしても、どう狭くみても最低限米兵が少女に対してわいせしようとした(あるいはした)その事実は変わらない。なのに何をむきになり彼らは被害者にその牙をむけるのか。まともな大人のやることではない。

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 強姦・わいせつに関する被害者の告訴は、被害者の精神状態からしても簡単なことではない。ましてや今回の事件被害者はまだ14歳である。米軍についての政治問題も関わるゆえ、あさっての方向からの嫌がらせ(圧力)もくる。そのような状況であれば、今回身内を含め被害者サイドがこれ以上かかわりたくないとすること(告訴のとりさげ)も無理からぬことであろう。そういう点まで考慮したうえでの「常識」が今回の行為者や国粋メディア(産経・週刊新潮)には欠けているのである。

 被害者である14歳の少女を批判していったい何が面白いのか。ネットでの中傷もひどいと聞く。異常である。カルト化しているといっていい。これが最近の国粋右翼の本質なのか。そうだとすれば、情けないの一言である。
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by phtk7161 | 2008-03-24 19:23
  いまさらそう言うしかないんんだろうが、ブッシュがあいかわらず「イラク戦争は正しかった」と強弁している。イラク戦争から5年。多くの死者をだし、内政は混乱。宗教的内戦の危険や隣国トルコも巻き込んでのグルド人問題など難題は山積である。

   フセインが如何に独裁的で「悪」的役割の人物だったとしても、大量破壊兵器は見つからず・・・したがって攻撃の道義的理由もなく・・・人命への多大なる被害と、将来への深刻な問題をこれだけ山積させて攻撃することが正しかったか。答えるまでもない。イラク戦争は「アメリカによる完全なる誤った戦争」と歴史上間違いなく刻まれるだろう。

   こういうしょうもない戦争がなぜ起こったか。一番の原因はそれを支持したアメリカ国民にある。9・11以降アフガン攻撃までは、それなりに道義はあった。アフガンは刑罰権行使の延長線上として容認されるものだ(少なくとも私はそう考えている)。

   しかしイラク戦争は、理論的(法的)にも道義的にも、どこにも攻撃を正当化できる理由はない。肯定派が攻撃正当性の主張の唯一のよりどころとする過去の国連議決も、現の国連の意思の前ではただのたわごとにすぎない。しかしアメリカ国民は、そのことを冷静(というか冷静でなくとも気づくレベルのことだが)に考えることができなかった。

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   なぜそうなったか。一番の原因は、メディアやネットにおけるやはり馬鹿げた「国粋思想」の存在ということになろう。それは例えば「FOX」など保守的メディアや「2ちゃん」的思考のものが書く保守的ブログなどである。これがイラク攻撃を否定する冷静な良識あるアメリカ国民の声をかき消してしまった。そういう点では、ネットの普及はきわめて質の悪いお遊びを生み出してしまったといえる。

   この現状はアメリカのみならず他の諸外国(アメリカのみならず中国や韓国なども)そして日本ももちろんそうだ。あきれるほどの国粋的政治もののブログが乱立している。私はランキングなど何の意味もないと思っているからこういう遊びには参加していないが、それでも判でおしたように同じタイプの国粋的政治ブログが多いことには、あきれてしまう。

   もちろんこれが現の国民の意思でないことはいうまでもない。世論の多くに支持されていれば安倍政権は参議院選で惨敗することもなかったはずだし、世論調査でもタカ派政策への支持が圧倒的であってよいはずだからだ。でも現実はそうではない。ブログの思想的数値的偏りと現実での数値にはかなり乖離がある。

   そういう点みればネットのブログは結局は所詮お遊びにすぎない。しかしそのお遊びの連中がうみだした「タカ派ごっこ」は、一面ではアメリカではイラク戦争生み出す一因となった。そうして多くの生命を奪い去った。そのことはまぎれもない事実といえる。そう考えるときちんと立憲民主主義を維持していくためには、この手のブログをコンプレックス人間の遊びだからと気楽に考えてばかりもいられない。

   ネットでの政治の扱いが、「2ちゃん」的ノリのタカ派ごっこ遊びに化している限りネット(たとえばブログなど)で政治を扱う意味はない。それどころかむしろ人の尊厳(生命も含め)にとっては「有害」である。ネットを有害な「おもちゃを」として使い続ける人物が少なくなっていくか。その点に今後の政治参加のためのネットの存在価値はかかっているように思う。
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by phtk7161 | 2008-03-22 10:16
  映画「YASUKUNI」の上映が中止になった。今回の出来事にはもちろんその伏線がある。最初に国粋系団体の広報である週刊誌「週刊新潮」が、「YASUKUNI」に文部省から補助金がでていることを誌上で批判し、仲良しのバリバリの国粋主義者代表の国会議員、稲田議員がこれにのっかった。これがきっかけだ。

上映前に内容を見てみたいと彼女が希望し・・・これは表現の自由に対する権力者による事前の圧力行為であり、これは検閲そのものとはいえなくても、実質的には検閲に近い・・・・結果国家議員による試写会(全国会議員が対象となったが、多くは右系の国会議員が参加した)が行われ、試写会後稲田議員は、これは偏向的である趣旨のこと(「若干中立的でない」という言い方はようはそういうことだ)を述べた。その結果がこれである。

  今回上映が中止になった原因。これはもう至極明白である。プリンスと同じ構図。右翼による「暴力」をおそれ、上映中止になったといってよい。ここまでくると、本当に日本は法治国家といえるのか。民主主義にとってまさに重要な問題である。

右翼-暴力=0。ここ最近の一連の行為はこれを示している。違法な暴力行為あっての右翼。それを示す証拠ともいえる。そして実際に暴力が行われる前に、暴力をバックに脅迫行為を行う。古いタイプの総会屋が得意とするスタイルだが、こういう潜在的暴力(暴行・傷害・放火・殺人)を背景にものを言う人間、それが今回の試写会に圧力をかけた国会議員達だ。

  その代表格稲田議員など、かつて北海道での講演で加藤議員宅に対する右翼の放火行為を話のネタに使い、聴衆に受けていたようだ(笑いがおこっていたらしい・・・もっとも笑った聴衆もこれではカルトと同じである)。放火という重罪をフォローもなく講演のネタに使うその神経。あるいは自らのホームページに、会の余興で軍服を着て喜んでいる若者の写真を載せるなど(これは後に削除されたようだ)、人格的に問題ある人物といっていい。

          ☆          ☆          ☆

もちろん女性が社いろんな分野に社会進出することはおおいに結構なことだ。ただ食うことに苦労したことのない人間が、自分の存在価値の確認の代替として国粋主義に走ることはいただけない。

弁護士であろうがなかろうが、彼女の考えは論理的というより感情的主張に過ぎない。簡単に仮面ライダーとショッカーを区別する単細胞の正義と悪ドラマ思考の人間である。人の痛みが分からない戦争ごっこ的人間という点では、安倍元首相・麻生元幹事長ら坊ちゃん議員と同じなのだ。

  そういう人物が、本人は意識していないかもしれないが、「暴力」的要素を背景に、気に入らない「表現行為」に対し文句を付ける。批判の対象となった方は、本人に対して反論するのはやぶさかではないが、なにせ付随する暴力集団がいるものだから、この後の報復をおそれて反論できない。あるいは今回のように結果的に表現行為を自粛してしまうことになる。これこそ民主主義のもっとも大敵「ファシズム」の構図といえる。

          ☆          ☆          ☆

 稲田議員がやっていることは、実際そういうことだ。そして彼女達の愚かさの究極は、自分達の行った行為が、結局は自らの「表現の自由」も狭めることになる危険性に気づかない点だ。彼女達は自らの表現の自由が、暴力行為の対象となることなど意識もしないだろう。しかし視点を変えてみれば、表現の自由への危険は本来彼女達も同じなのである。そうならないのは、左翼の暴力(あるいはその危険性)行為への(事前の)取り締まりに比し、右翼の暴力(あるいは危険性)行為への(事前の)取り締まりが緩いからにすぎない。そういう点では、警察の罪も大きい。

右翼であれ左翼であれ、表現の自由に対し暴力行為を行う者をきちんと取り締まることができなければ、警察の存在意義はない。チベット問題で中国を批判する資格はないということだ。中国政府と何らかわらるところはないといえる。

稲田議員達のやっていることは、いうなればクラスの取り決めで気に入らないことがある場合、不良の存在(暴力的脅威)を背景に反対者を黙らせみずからの主張を通そうとすることと同じである。彼女はこういうかもしれない。「右翼の暴力(的)行動は私には関係ない。」と。しかし実際には今回のように彼女の発言が通ってしまう背景には、発言が右翼の潜在的暴力に依拠しているのと同じ効果があるからである。つまりは「徳育」「徳育」と言いながら右翼の持つ(潜在的)暴力をバックにものを言う人間、それが稲田朋美衆議院議員であるということだ。
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by phtk7161 | 2008-03-19 00:04
  イスラエルがヨルダン川西岸に数百個の住宅建設を決定した。入植地の新たな拡大である。そもそもイスラエルとパレスチナの停戦協定では、新たに入植地を設けることの禁止を取り決めている。今回の行為はこの協定に反しているはずだが、イスラエル側は「10年前に決定しその後凍結されていた入植計画が解除されだけ。」と反論している。詭弁に過ぎないと思うが、なかなか進展しない和平プロセスにイスラエルもごうを煮やているのだろう。

 
 イスラエルの一方的建国宣言から長い年月が経過したが、現状は当時から何の進展もない。ユダヤ人とパレスチナ人が共存していた場所で、大国(イギリス)の戦争(第一次大戦)を有利にするための戦略的意図により双方の人種がこれに振り回され、その結果パレスチナ問題は起きた。そういう点では、ある意味両者とも被害者でもある。ただ両者の被害者の度合は、大きな差がある。この問題のスタートから現在までのことを理解している人間なら、その大半はこういうはずだ。「パレスチナ人こそ、この問題の一番の被害者だ。」と。


 一番の被害者が明らかであるこの問題の解決が、どうして一向に進まないのか。イスラエルが一方的に建国を宣言できた背景には、いわずと知れた軍事大国アメリカの存在がある。番長の存在があってこそのイスラエル。そしてこの厳然たる事実こそがこの問題の解決を困難にしているのである。

 
 国連で何度イスラエルの非難決議を可決しようとしても、アメリカがそのたび一国だけ拒否権を発動し非難決議は可決しない。この現実が、イスラエルのパレスチナ自治区への進行を許しそれがまた暴力の連鎖(パレスチナによるテロ)を生む。

 
 メディアがパレスチナで起きた紛争(事件)について、時に先に手を出したのはパレスチナ(例えばテロなど)という伝え方をする。事実その通りの場合もあるが、本当はその原因(紛争となるきっかけ)がイスラエル側であることも多い(大半はイスラエル軍の行動に起因している)。そういう点で、パレスチナ関するひとつひとつの紛争の細かな事実について、本当の真実が何かをメディアに求めることはできない。メディアの伝える事実を手がかりに大まかにその背後にあることを推理していくしかない。

 
 パレスチナ人のテロにより被害を受けた一般のユダヤ人はもちろん被害者であるし、その行為を行ったパレスチナ人はもちろん加害者(犯罪者)である。しかしこの被害者加害者の後ろには、それぞれ本当の加害者が存在する。

 
 一方はハマスなどのテロ組織(あるいはそれに協力する者)であり、一方は強硬な政策をとるイスラエル政府(あるいは強硬姿勢を支持するイスラエル国民)である。そしてその加害者の背後に、さらなる大きな利害関係国が存在する。そのはざまで、両国の一般国民はなすすべがない。ただメディアの報道で、ある出来事の対象者(たとえば被害者の数字となって)と扱われるだけである。

 
 パレスチナ問題の解決はいつどのような形で実現するのか。分かる人間はいないだろう。もちろん私にも分からない。しかし「解決」策(案)なくして解決が存在しないことは確かだ。ただしイスラエルが一方的に土地の多くをを占領する形での解決は「解決」ではない。それは「侵奪」である。しかし今回のようなイスラエル政府の新たな入植地の決定を見る限り、事実はどうもその方向を向いているように思える。これではイスラエルは国際社会(アメリカを除く)の理解を得られない。

  
 抽象的な言い方しかできないが、この問題の解決は結局のところ両者が憎しみの構図を捨て、新たにそれぞれの国の未来に目を向け互いに譲歩しあうことだ。そのためには、イスラエル側の領土問題に関する譲歩がもっとも有効な手段といえる。

  
 これはもともとの理屈からいっても決しておかしくはない。イスラエルにとってはもともと建国そのものが目的であったはずだ。領土の拡大が目的でなかったはずである。もしイスラエルが領土の範囲でかなりの譲歩をすれば、イスラエルに対する国際社会の理解にもつながる。それはイスラエルの将来にとっても決して損な話ではない。


  他にも帰還権をめぐる問題など解決すべき難しい問題点も多い。しかし今は両者が寛容な心を持ち、未来に目を向け譲歩しあうことで解決していくしか道はない。様々な問題を乗り越え、パレスチナの地にいつの日か平和の日々が訪れることを願いたいと思う。
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by phtk7161 | 2008-03-15 19:40
 「新銀行東京」問題。この銀行が1000億円を超える損失を抱え、更に400百億の追加融資を都が議会におねだりしているのはご存知の通り。都議会はこの件をめぐりおおもめである。

 
 知事の議会での答弁聞いてもいまさら何も特別な感想はない。石原知事の都合の悪いことに対しての開き直りは毎度のことであるし、あの駄々っ子の甘えん坊さん気質もあいかわらず。それを容認している都民にも責任はある。

 
 築地移転を大反対している市場の人間が、それでも票を入れる。開催地に選ばれることなどまず困難なオリンピック。「そんなもんいまさらもうやんなくていいよ。」といいながらそれでもやっぱり票を入れる。これではどうしようもない(きっと今後もオリンピック開催の名のもと、しょうもない箱物がせっせと建てられることだろう。)そりゃ本人も調子に乗ってしまうはずだ。


           ☆          ☆           ☆

 
 新銀行東京の危うさなど、前回都知事選挙以前にすでに分かっていたことだ。以前からそれについて触れた記事やブログはもちろんある。それなのになぜここまで放置されてきたか。それは(大手)メディアがこの件で完全に及び腰だったことが大きい。ふれても遠慮気味。ブログなどの方がはるかにましだった。

 

 メディアが及び腰だったのは何故か。それはもし石原知事にへそをまげられたら、例えばイベントがらみ・・・マラソンやオリンピックなど・・・のネタの収集に差し支える。あるいはその他のことでも実質的に都の情報から締め出され、記事で他社に遅れを取ってしまうかもしれないという恐怖がメディアにあるからだ。

 

 東京MXに知事との記者会見を中継する番組がある。夜時々これを見る機会があるが、これは笑える。まず完全に記者は知事に及び腰である。質問などより知事の機嫌を如何に損ねないかに一番気を使っているのが良く分かる。きびしく追及する姿勢などまずみたことはない。知事も知事でちょっと気に食わない質問があるとすぐ怒り口調になる。それで記者団はまたおとなしくなる。


 これじゃ記者会見ではなく、ただの都広報である。そして新銀行東京の件もそういう調子で扱われた。私がこの番組を見たときたまたまこの質問が出たが、「これは具体的な数字が出てからお答えします」その一言で終了。それ以上追求もなかった。これでは話にならない。

 
 そして今日の某新聞の記事。野党の追及に対し、記事の文末は(知事は)「・・・こういなした。」「皮肉たっぷりにやりかえした。」「切り返した。」との表現。記事の表現は、答弁評価の印象にもつながる。


 もし文末が「直接的には避けた」「強弁した」「開き直った」などの表現だったらどうだろう。印象もずいぶん違ったものになると思う。社説で厳しく書いても、一番読者が目にする一面トップの記事の表現がこれでは、本気でメディアはこの件を追求する気はあるのか(知事に遠慮しているのか)と思ってしまう。

 
 もっとメディアが遠慮せずに早い段階から分かっていることを素直に追求していたら、まずここまでの赤字にはなっていない。これは断言していい。都議会の責任も大きいし、都民の彼に対する甘やかしも(広い意味では)今回の一因。しかし何より、メディアの知事に対する遠慮する姿勢が、損失をここまでの馬鹿げた金額にしてしまった。


          ☆           ☆          ☆

 
 MXでみる記者会見。おそらく記者クラブの形態をとっていることだろう。そこで記者が新銀行東京の問題を、もっと早い時期に厳しく追及する質問をしていたとしよう。

 
 知事はどなって言い返したかもしれない(多分そうなると思う)。それでもなお追求していたら、記者会見をボイコッされ、あるいは他社のメディアから(いらんこと質問するな知事が機嫌を損ねるじゃないかと)文句をいわれたかもしれない。そしてそのあげく記者クラブからその記者(そのメディアも)は締め出しくらったかもしれない。しかし確実に都は動いたと思う。金額の損失は何百億かは違って(減って)いるはずだ。

 
 仲良しごっこだけを維持するだけの都の記者クラブなら、そんなもんあってもしょうがない。公人特に政治上の公人のトップにはできる限りメディアの質問に答える義務がもともとあるのだ。それはメディアの先には国民(住民)がいるからである。感情でボイコットなどできない。これは現代民主政治の原則といっていいい。

 
 今度の(MXで放映されるはずだ)記者会見でも、当然新銀行東京の問題は避けられない。さて、どういう追求を仲良しクラブはしていくのか。新聞記事も含め(特に都版の記事・・・ここがまた知事に一段と甘い)注目していきたいと思う。
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by phtk7161 | 2008-03-12 07:30
  週末2人のアスリートの姿をテレビで観戦した。一人はボクシングの内藤大助。もう一人はマラソンの高橋尚子。内藤はドローで防衛に成功。高橋は27位におわった。しかし結果はどうあれ、中身を見れば二人とも本物のプロフェッショナルだ。
 
 内藤のボクシングスタイルはスマートではない。今度の世界戦では攻撃の形変えたように見えるが、もともとそのスタイルは泥臭い。そういう点ではポンサクレックのほうがいかにも世界チャンピオン(だった選手)というボクシングだ。内藤のボクシングは例えれば具志堅と2度戦ったハイメリオス、輪島(彼もかなりの変則だった)や工藤と戦ったエディガソ、その二人を足して2で割ったようなものに近い。

 形だけ見ればスマートに見えない内藤のボクシング。その実力を低く見る人もいるかもしれない。しかしあれはりっぱに世界チャンピオンといえるボクシングのひとつの形である。いうなればそれは生命力の強さを感じさせるボクシングといえる。

 ポンサクレックは試合中とてもイラついたと思う。内藤はバッティングを起こしやすい打ち方で、顔を背けパンチだす。かなり変則的だ。じつはこれが相手にとってはかなりやりにくい。きれいなボクシングをするボクサーほど苦戦する。「そんな程度のボクシングで」と思う向きもあるかもしれない。だがそういう泥臭いボクシングをするには強靭な体力と強い精神力を必要とする。誰にでもできるボクシングではないのだ。内藤はそれができるボクサーだということだ。

 ベテランといえるボクサーの年齢になり、勝ちを見据えて石にかじりついてもそういうボクシングで防衛しようとする。その肉体と精神はまさにトッププロのボクサーだ。

           ☆            ☆            ☆

 マラソン高橋の結果は惨敗だった。途中で集団から送れ半ばですでにオリンピックどころか入賞すら絶望的だった。自らの肉体が思うように動かないその気持ちは当人しかもちろん分りえない。泣きたかっただろうとも思う。しかしそれでも彼女は最後まで走りきった。

 過去マラソンではトップクラスの選手がリタイアした場面を幾度となく目撃してきた。彼女も足治療をしたことを理由として、リタイアする終わり方もある。しかしそれを彼女はしなかった。沿道の声援に応え自分を応援してくれている(見に来ている)観衆のためにも走りきった。それもまた、立派なプロランナーとしてのトップアスリートのひとつの形である。

 高橋は小出監督から離れて以降、独自の調整でやってきた。結果が伴えばいいが、今回のような結果になれば、いろいろな批判もでててくる。無責任な意見も多かろう。「晩節を汚すな」的声もきこえてくるかもしれない。

  「華麗さ」「強さ」というものに最大の価値を求めるアスリート。見る側もそれに(見る)価値をおく人もいよう。それもまたひとつの見方である。しかしもともと才能あるトップアスリートの真価は、その全盛期だけにあるわけではない。肉体が下降時期に入っても、なお技術やその競技に対する考え方(そのスポーツの本質に対する)をかえ(工夫し)、なお競技を続けることもりっぱなトップアスリートのひとつの形である。

 たとえばロン・ヒルというランナー。彼もまたどん底から這い上がったマラソン選手だった。彼は走る目的を単なる「順位」から「喜び」にかえ走り続けた。そして復活した。しかし復活できるかどうかその点に意味があるのではない。復活ができようができまいが、ひとつの(スポーツ)哲学を自らが納得するまで求め続け、そのために現役続けることに意味があるのである。それはまさに人間(選手)の「個人の尊厳」につながることといっていいだろう。

 今回本番前のインタビューで彼女もまた「楽しむ」という表現をしていた。そういう点では彼女もまた、彼女なりのマラソン「哲学」を求める次の旅に出ているのかもしれない。

 内藤・高橋二人のトップアスリートがこの先どれくらい競技を続けるかは分からない。内藤はおそらく防衛に失敗すれば現役をやめるだろうし、高橋もまた別の道に価値を見つければやめるかもしれない。しかしそれまでは競技を続ける彼・彼女の、一見「泥臭く」「ダサい」ように見えるその姿を少しでも見続けたいと思う。それは見る側にとっても決して無意味ではない。もともと華麗なだけの人生を送れる人間など一人もいないのだ。肉体的意味での全盛期を超えたアスリートの姿から、学べることは確実にある。
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by phtk7161 | 2008-03-10 04:30
  アメリカの大統領予備選挙をここまで見て、いよいよこの興行もやり方をかえるべきではないかいう思いをつよくしている。もちろんアメリカ合衆国の政治遂行者のトップの選び方に関することであるから、本来それはアメリカ国民自身がきめることで他国の人間がとやかくいうことではない。それは分かっているが、なにせアメリカは世界最大の経済・軍事大国であり、その政治動向は世界に大きな影響を与える。したがってアメリカのトップを決定するシステム(選挙のやり方)の問題にやはり無関心ではいられない。

  日本で有識者といわれる人物達が、予備選でことこまかく政策論を議論しあうことを高く評価していた。しかしこれは正しくない。それぞれの候補者に選挙参謀が存在し、有権者に対する戦略を練りそれを候補者に実行させる。そこで行われていることは、本当の意味での政策論争ではなく芝居にすぎない。

  民主政治が本当の意味での進化をとげるためには、やはり政策論に行き着かざるを得ない。もちろん全ての政策に主権者が精通していることはありえない。しかし候補者の掲げる主要ないくつかの政策をきちんと理解し、これと候補者の政治のスタイル・・・(例えば対象となる分野に対する「小さな政府」か「大きな政府」のいずれによるかの基本スタイルなど)・・・を掛け合わせ、代表者を選出することは十分できる。この選出スタイルが選挙に際し実行されれば、衆愚政治がおきることはない。

  今回の予備選挙ことに民主党の予備選を見る限り、決して政策論で候補者の支持が決められてはいない。イメージ戦略だけが、むなしく飛び交っているに過ぎない。莫大なお金を集め、一挙一頭足に気を使い、相手を時に罵倒し時に褒め称え演出どおり動く。こういう安物の芝居をやっているだけだ。これが今の予備選の正体だ。そしてもちろんその芝居の舞台はメディアである。そうやって候補者の中身はだんだん落ちていく。よい政治家でも、戦いの後はただのくたびれた政治遂行者となってしまうのだ。

          ☆             ☆            ☆ 

  断言してもいい。オバマの掲げる政策を彼を支持する有権者はどの程度知っているか。おそらく彼の基本的な政策が何かも知らないであろう。知っているのは彼の「YES,WE CAN」のひとことだ。「何か新しいことをやってくれそうな気がする」その抽象的イメージだけで、彼は前評判の不利な予想をくつがえ、しヒラリーを凌駕してきた。でも具体的に何か新しいことなら、ヒラリーの公的健康保険制度の主張が本当はまさに現実可能なそれである。

  討論会や演説を聞いていて思うことは、ヒラリーは好感をもたれるには攻撃的すぎる。それは全米で優秀な弁護士ベスト100に名を連ねていた、彼女の職業スタイルが影響を与えているようにも思う。相手を論でへこまし言い負かしてこそ何ぼの職業、それがアメリカの弁護士である。しかし選挙は違う。相手をへこますのは勝手だが、その相手の後ろの客席には有権者の目があることを忘れてはいけない。その点がヒラリーの誤算である。残念なことだが有権者は候補者に論理的正しさは求めていないのだ。そんなことより選挙がお祭り気分の有権者は、詐欺師まがいの候補者でもいいから自分に「夢を与えてくれる(みさせてくれる)」候補者を求めているのである。そう意味ではオバマは見事にその期待にこたえているといえる。

         ☆             ☆             ☆ 

  このままいけば、オバマがヒラリーをしのいで彼女より多数の代議員を獲得し、民主党の代表に選ばれる可能性は強い。その場合私は大統領選では共和党の候補(おそらくマケインだろう)が勝つと思う。以前のどこかの調査でヒラリーでは共和党の候補に負けるという予想があったが、それは違う。僅差であろうが、ヒラリーが民主党の候補なら最終的にはマケインに勝利することができる。どこかの社のどこかの調査結果はヒラリーを本選にださせないための画策としか思えない。

  女性を大統領にすることには、さほど抵抗感今のアメリカ国民の間にはない。しかし等身大のアメリカを見る限り、残念なことだが黒人大統領を受け入れるほどの寛容さはいまだアメリカの白人社会にはない。オバマが民主党の候補者になれば、白人社会はオバマ大統領の誕生になんとしてもストップをかけようとするだろう。嫌な(あってはならない)ことだが大統領選は、その根本において人種間の問題にすりかえられてしまうことになる。共和党としてはオバマのほうが、ヒラリーより明らかにくみやすい相手なのである。オバマが民主党の候補なら共和党の候補の勝ちだろう。

  結果としてもしそうななれば、その原因は無駄に莫大なエネルギーを使う予備選のやりかたにある。このやり方はゆがみが多すぎる。資金量とメディアを使いイメージ重視の戦略ばかりだ。政策は時に討論でこと細かく述べることもあるが、結局はそれも中身より外形からのイメージのほうが(話し方のスタイルなど)優先で、なかなか国民の目は政策論にまで向かない(ただし中絶などの一部の宗教的原因に起因する問題は除いて)。これが現実の大統領選の姿だ。そしてこのイメージ選挙はもはや飽和状態にまできているといっていい。イメージさえ良ければ、時にむちゃくちゃな政策さえ通りかねないのが、現代の民主政治の危険な姿である。そしてこれはわが国にとっても他人事ではない。

  ヒラリーの話かたには、私も好感をもてない。しかし彼女のかねてからの公的健康保険の導入という「政策!」は強く支持できる。それは個人の尊厳(生命)を守るための有力な手段である。道端で暮らす人間を「能力なきゆえ」の「自業自得」でかたずける社会に「個人の尊厳は」存在していないのだ。そして個人の尊厳は政策で守られる。決して政治遂行者のイメージのよさだけで実現できるものではない。そこに有権者は気付いていない。またオバマも今だこういう問題に正面から具体的政策で答えていない。ただただ夢を語るだけである。もちろんメディアは大喜びだ。残念なことだが、それが今のアメリカ民主党予備選でおこなわれていることの大半である。
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by phtk7161 | 2008-03-04 02:34