社会問題を考える


by phtk7161
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 衆議院の山口補選は民主党の平岡氏が勝利した。与党は岩国市長選と同様利益誘導をにおわす「アメとムチ」の戦法で戦ったが、そのやり方は通じなかった。今回のように「高齢者医療制度」「ガソリン税」「年金」などまともに政策がその争点になると、人気者を使った応援や一部だけの利益還元しかない「アメ」を使った選挙手法では選挙に勝てないということだ。

 高齢者医療制度はもともと小泉政権下で進められた。まだ痛みがきていなかった有権者達は、当時小泉改革をこぞって支持し与党を前回衆院選で大勝に導いた。今度の補選では、前回衆院選で小泉改革を支持していた人でも、今回は平岡氏に投票した人がかなりいると思う。そういう意味では、今回の選挙結果は今の福田内閣というよりも、むしろ小泉内閣に向けられた答えともいえる。

 小泉内閣は財政改革を旗印に、公的制度の見直しに着手した。しかし彼がやろうとしたことの本質は、制度の改革ではなく「破壊」である。端的にいえば「福祉国家」を捨て、単純な勝ち負け・数字のみの「新自由主義国家(=アメリカ社会)」にすることだ。これに賛同する人物は大抵「弱きものは去れ」的なせりふを、好んで口にする。

  しかしたとえば靴屋さんの子供が安い授業料で、大学までいけたのは何故か。あるいは健康保険制度のもとで、多くの国民が諸外国に比較しある程度の医療制度をこれまで受けてこられたのは何故か。それは日本が、まがりなりにも福祉国家だったからである。

 確かに無駄は見直さなければならない。特殊法人の問題やバラまき的な公共事業など見直すことは大切であろう。しかしだからといって、民営化ですべてが解決できるわけではない。数字が全てではないのだ。そもそも国の政治と、会社の経営を同じ発想でやることは自体が間違っている。

  経済的にはマイナスでも、やらなければならない政策はある。数字だけをおいかけ、国民の日々の生活を考えず改革をきどってそれが何になるのか。本当の意味での有効な「セーフティ」づくりは必要なのだ。それを放棄してきたのがまさに小泉政権だった。そのつけが、今でてきているということだ。
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by phtk7161 | 2008-04-29 14:32
 最初に言っておきたいのは、光市母子殺害事件で遺族が死刑を望むのことは当然であり、またそのために遺族がありとあらゆる形で「死刑」を主張することも「遺族」として当然の権利であるということだ。ただ遺族がそうであるとしても、彼を支持する世論のなかで、理によらず感情だけで支持する「世論」に対してだけは・・・じつはこれは本当の意味での世論ではない・・・次のことだけは言っておきたい。

 もともと被害者の数や事件の中身で遺族感情に差はない。殺されたものが一人であろうが十人であろうが、残されたものの怒りと悲しみには差はないのである。遺族のだれしも、犯人を殺してやりたいとおもっているのだ。それは過失犯に対してさえそうなのである。しかしそれで、全てを死刑にするわけにはいかない。だから、客観的基準が必要なのである。

 よく「血の通わない判決」というけれど、感情に振り回された「血の通っただけの判決」なら死刑の「大安売り」になってしまうだろう。だから「世論」「世論」「感情」「感情」とそれをくりかえし、それだけで裁判を動かしていくわけにはいかない。「理」が必要である。そこを軽薄な意味での「世論」は誤解している。司法権が「多数」に動かされず・・・もちろん全くではないが・・・「少数」者の人権の砦とされるのも、そこが純理的にものを考える機関とされているからである。

 死刑の基準は感情のみを決め手としてやるわけにいかない。基準として行為の残虐性、更生の可能性、被害者の数値的なもの(人数)などが必要となるのである。そして弁護側はその基準に合わないことを立証する事により彼を弁護しようとしたのである。それを世論は「冒涜」行為という。

 なるほど弁護団の主張はかなり無理がある。それは私もそう思う。しかし彼らは、決して遺族を「冒涜」するつもりでそういう主張をしているわけではない。被告人である少年の利益を「守る」ために、違法にならない範囲でそうしているのである。そしてそれが弁護人(士)としての役割(職業)である。

 遺族感情を傷つけることをおそれ依頼人の利益を「守らない」のであればそれはもはや弁護人ではない。橋元弁護士(現大阪府知事)は明らかにこの点を軽視していた。その意味で「懲戒」を煽った行為は、プロの法律家として批判されて当然なのだ。

 それを理解できない人間は、結局世の中にはいろんな立場があるということを意識する思考ができないからである。こういうひとは自分がまさか被告人にはならないと思っているだろう。あるいは被告人の立場がどういうものか想像もしないであろう。

 可視性の低い環境で孤独な状況。そういうなかで弁護人は、実効性のある防御行為をしてくれる唯一の「味方」である。その味方が被害者の感情に気を使い、弁護活動を萎縮させる(守ることに徹しない)なら刑事裁判制度はどうなるか。絶望的である。そのことは「世論」も理解しなければならない。

 そういう点で言えば、今回少年の弁護人に対する「懲戒請求」を起こした人達は軽薄この上ない人物である。前述した思考にたてない人物といえる。ただの「お騒がせ屋」にすぎない。それは自らの存在理由を確認するために、日々集団になって批判する人物を探し回る、ただの軽薄な「祭り」好きの人物に過ぎないのだ。それは決して「世論」ではない。

 くだんの青山学院の准教授も、前述の意味での軽薄的「世論」に今回の判決が振り回されたような感じを受けて、それに対する批判を書きたかったのでないか。人権感覚が足りずその表現内容はあやまったものだが、これまで述べたような意味で彼女の趣旨にはそれなりに賛同できる部分も私にはある。
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by phtk7161 | 2008-04-26 21:17
 青山学院の准教授が書いたブログが問題となっている。記事を見る限り表現は確かに論外でひどい。しかし記事の取り上げた内容を見る限り、表現はともかく彼女の書きたかった趣旨の全てを私は否定はしない。それなりに共鳴する部分もある。そこで改めて光市の母子殺人事件について、問題となる点を書くことにする。

 光市の事件については私自身すでに何度もこのブログで書いた。私の立場はこうである。もし世論の感情に流されての死刑判決なら支持できない。しかし事件時まで起きた出来事のみで、それまでの死刑の基準(永山基準)に照らし相当と判断するのなら、死刑も認めうる。そういう見解である。

 事件から今回の裁判までのながれをみると、事件後少年が友人に書いた手紙の内容が、検察官の裁判での戦略それにのった一部週刊誌によって明らかにされて以降、少年に対する世論の憎悪は確実に増幅された。これは事実だ。少年の育った不遇の環境が彼の有利な情状であるとするなら、手紙の件は明らかに不利な情状である。

 確かに事件の後の不利な情状となる手紙の提出も、現行法では検察官が裁判の戦略としてなしうる点に問題はない。しかしである。やはりこの手紙にまつわる戦略には釈然としない。第一にこの友人に当てた手紙の内容が、果たして少年の等身大の心情を示す真実的なものといえるかということである。

 この友人は、お世辞にも品行的に問題ない環境で行動していた少年だとはいえないようだ。そういう相手に劣悪な環境に育った少年が手紙を書く場合、必要以上に悪ぶって書くことは当然考えられる。そしてその内容を、少年はまさか一般に公開されるとは思っていなかったであろう。とするなら、この検察官の手紙の裁判での使い方は、やはりアンフェアーである。

 一審と二審は無期懲役だった。理由は少年の年齢と彼の育った不遇な環境がその判決につながったといっていいだろう。手紙は二審途中で明かされたといえるが、二審では結局手紙の内容は死刑の根拠にはならなかったことになる。しかしその後は、裁判に確かに影響を与えた。週刊誌などのメディアを通じて、少年のこの愚かな行為(手紙の内容)が怒りの増幅を招き、これが死刑を求める「世論」につながることとなった。

 この「世論」はきわめて「感情」的で一面的な見方でしかなかったといえる。その感情は一時期少年を有利にするありとあらゆるものへ、敵対的怒りとなってに向けられていた。それはまさに人民裁判の始まりだったといえよう。

 私が一番問題としたいのは、事件前の出来事ならともかく、事件後の本人の行為を使って(本人は手紙がまさか裁判で使われるとは知らない)、それを死刑を導くための証拠的なものに使ったことだ。いかえればこうもいえる。事件時までの行為で死刑に足りない部分を、検察官は手紙を使ってそれを達成しようとしたのだ。これは、危険な行為である。それは何故か。

 たとえば、どうしても死刑にしたい人物がいるとしよう。今のままでは死刑にならない。しかしその人間の悪ぶる性格を利用して、今回のような手紙を書かせてそれを入手する。手紙の相手がたきつけたりすれば、そういう手紙を書くのはひとたまりもないだろう。そしてそれが死刑の決め手につながってしまうこもありうるといえる。

 もちろん今回の手紙はそういう手法で入手されたわけではないであろう。しかしそれでも、手紙の内容が手紙の相手と少年の劣悪な性格からすれば悪ぶって書いたとの疑念は尚残る。あるいは、手紙の内容が真実だったとしても、事件後書いた手紙で死刑の基準がクリアされ、あるいはそのことで一方的な「世論」が増幅された結果、厳罰化が進み死刑の基準が変えられることとなっていいものかどうか。

 事件後の行為を「死刑」に関わる事件で不利な情状として使う・・・ことに今回のようにそれに影響をうけた「世論」も絡む形で・・・ことの是非はもっと検証されるべき問題だと私は思う。
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by phtk7161 | 2008-04-26 21:14
 ゴールデンウィークに入り、休みの方も多いと思う。学校に入学した学生達も、あらたな友人関係を築きだす時期である。そういう新しい友人と、この連休を利用しレジャーで楽しく過ごす子供達もいるだろう。

 多感な年齢のこの時期子供達は友人ともときに喧嘩をし、また仲良くなって絆を深めあう。そうやって、人は子供の時期から・・・学校での友人関係を介し・・・人間関係を学んでいく。少なくともそれが我々の時代の学生時代の普遍的な形であったと思う。

 しかし昨今、中高生(時には小学生)の間でのネットを使った、掲示板や裏サイトの利用が問題となっている。現実の学校社会にそこで書かれたことを持ち込むことにより、他人(身近な学校関係者)の人権を破壊・・・対象が子供の場合はもはや侵害という程度を超えている・・・するという行為がおこなわれているようだ。

 空間(ネット)で起きたことが原因でいったん人間関係がこじれれば、その修復は容易ではない。当然昔のように友人関係の絆がさらに深まることなどない。こうしたネットに起因する子供の世界の実情は、今後の社会を考えるときかなり深刻な問題である。

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 掲示板や裏サイトあるいはそれこそブログに至るまで、ネットを利用しての人権侵害行為はありとあらゆるものがある。ネットによる人権侵害の問題は子供の世界に限らない。それはもともと大人の世界にあった(そして今もある)愚かな現象である。いわゆる「2ちゃんねる」の類などそうで、その空間に多くの誹謗中傷行為を行う人間が集った。その集団をある種の「精神的病理集団世界」と呼んでもいいだろう。もっともそういう世界であっても、その影響がその虚構的空間だけに限られ、それが外的世界(現実の世界)に持ち込まれなければさして問題はない。

 しかし現実には「2ちゃんねる」にかかれたことが、社会に大きな(マイナスの)影響を与えているのは事実である。メディアでさえそこから材料を拾い、なかにはその空間(2ちゃんねる的な掲示板)と同じ感覚で記事(週刊誌に多い)を書くチンピラライターもいると聞く。そういうヨタ記事の類が、どれほど多くの人を傷つけてきたことか。近年の場合それが権力者にだけでなく、事件の被害者であるはずの市民に向けられることもあり、余計その社会的病理現象は深刻といえよう。

 これが子供の社会に持ち込まれた場合の深刻さは、なおのこと深い。自我が確立しきっていない分、攻撃するほうもされる方も、そのダメージは重大である。攻撃するほうはその過激さが際限ないものになり、その異常性が深刻になっていく。攻撃されるほうの精神的ダメージの深さは、いうまでもないだろう。「容貌」「性格」「家柄」「人種」「家族」「友人関係」「成績」ありとあらゆるものが、そのバッシングの対象となる。いじめの形がネットを利用することにより、より凶悪化しその攻撃性が精神的リンチの形にまで増幅していること現れである。

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 表現の自由はむろん大事だ。しかしもともと子供の人権はパターナリスティックな面を持つ。その未成熟性を考慮するとき、子供のネットの表現に対してはもっと直接的な規制も許されるはずだ。より一層の対策が望まれる。

 さらにいえば、この問題の場合もっと重要な点はネットにおける裏サイとや掲示板の社会的認知の問題である。社会的にこの種の類のものに、その存在へのきつい「ダメだし」的な認知が必要である。私ならそこに他人の人権を低減化させるような書き込みする人間は、間違いなく精神的病理者や犯罪者的人間であるとまで子供にはいいきって教える。近づくべきでないと(というか、すでに子供にはそう教えている)。

 実際大人の世界でも「人種差別」や「死ね」的表現をしてしまう人間は、まずある種の精神的病理者である。どういう(政治)思想の立場に立とうが、この種の表現をしてしまう人間は、そもそも思想を論ずる入り口にも立っていない。こういう人物の書き込みなど落書きと同じなのだ。「無視する」事が一番である。またそういう環境にならなければ、ネットの世界での「思想の市場」の進化は絶望的である。

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 そういう点からすると、子供達の掲示板や裏サイトの問題も、結局は大人の社会の問題と帰ってくる。未成熟な子供達が、多感な時期に大人的好奇心を満たすために、そこに多くの危険が潜んでいることを理解しないまま「2ちゃんねる」的なものをのぞき、大人の世界を知ったつもりになってしまう。そのなかで、たとえば彼らは人種差別的な表現を、まるで流行語のように捉えるようになってしまうのだ。知った場所が、実はただの精神的病理者の集まりの場だとも知らずに。そういう彼らが大人になり、ますますネットの世界はゆがんだ空間と化してしまう。

 ネットの世界における表現が、いつまでも自らのストレスのはけ口を目的として行われ、侮蔑的で差別的なものである限り、そしてそれが野放しにされる限り、まずネットの世界での精神的進化は望めない。むしろ退化しかないといっていい。今後ネット世界の行く末は、空間の場(掲示板・ブログ・サイトなど)における表現の健全性にかかっているといえるだろう。
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by phtk7161 | 2008-04-26 09:49
ここのところ死刑の執行が相次いでいる。はじめに断っておくが、私自身は死刑という制度を否定しない。(理性に基づく)国民感情の多数が、この刑を否定する意向になれば廃止するのもやぶさかではないが、現状ではおそらく死刑廃止は多数意見でないであろう。したがって、今死刑制度が存続していること自体に意義をとなえるつもりもない。光市の事件も、事件の性質的には無期懲役・死刑のいずれも考えられると思っている。

しかしだからといって、どうもここのところ死刑の「安売り」的な動きは支持できない。前法大臣が死刑の執行に署名しなかったことが、現鳩山法相が次々署名することの一因になっているのかもしれないが、死刑の判決や執行にしても、このところの世論の厳罰化をうけてか安易すぎるような気がしてならないのである。

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もともと刑罰の趣旨には大きく分けて二つの考えがある。ひとつは教育刑。これは犯罪者の矯正をめざし社会復帰の教育的観点から、刑を科すという考えだ。そしてもうひとつは、応報刑。これは犯した犯罪に対する報い(罰)としてそれ相応の刑罰を科すべきとする考え方である。どちらの立場も死刑制度はとりうる。応報刑はもちろんだけれども、教育刑にしても、犯罪をおかしたものがもはや教育不能と考えれば、死刑もとりうることになる。

裁判所の立場はともかくとして、世論の多くは明らかに応報の観点から死刑制度を容認していると思う。「こういうけしからん奴は、その報いとして殺してしまえ」的なものがそれだ。しかし応報もあまりいきすぎると、文明社会とはいえない。それは暴力に根ざした「原始的社会」である。

死刑は文字通り国家が人間の生命を奪う刑罰である。その刑の言い渡し・実施はより慎重さが求められる。光市の母子殺害にしても、安易なメディア(特にこの事件の場合週刊誌をもとにした)の一方的情報・それに影響を受けた世論(特にネットでの煽り)により、死刑が決定されてはならない。

遺族が死刑を望むことは当然の感情である(全員ではないであろうが)。遺族感情とはそういうものだからだ。その意味で、今の刑罰制度はなお応報の観点をもっている。しかしその感情のみで刑事制度が動いていくなら、それは危険である。もともとどの遺族にとっても、被害者がひとりであろうが二人であろうが、その感情には差はない。多くの場合どの遺族も、死刑を望むであろう。だからといってその感情に従い、簡単に死刑を課すことが刑事制度のあり方として妥当でないことはいうまでもない。

したがって、遺族でない第三者が意見を述べるなら、やはり一定の客観的立場は必要である。被告人の有利・不利それぞれの事実・情状を客観的にきちんと把握してから意見は述べるべきである。被告人の育った環境・当該犯罪行為の悪質さ・それまでの刑罰の相場(永山基準)などをきちんと踏まえたうえで意見を述べるべきである。そうでない意見はただの軽薄なヒステリックな「煽り行為」であり、あるいは経済的利益を目的(売らんかな)として事件を利用する下衆な行為にすぎない。それは本当の意味の「世論」ではない。少なくとも裁判に関してはそうである。

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最近の「人民裁判」の風潮が続けば、いずれは一人だけの殺人でも死刑が当然ということになるかもしれない。その昔カントは応報刑を主張した。今の世論の感情も算数的な1-1=0的なものになりつつあるのではないか。刑事制度のありかたを算数的にとらえることは、刑事制度の崩壊を意味する。この種の世論が幅をきかすなら社会は明らかに文明的に退化してしまうであろう。人の生命に関する刑事制度「死刑制度」のあり方の是非を論ずるなら、少なくともその点は意識しておかなければならないと思う。
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by phtk7161 | 2008-04-25 01:51
予想されたとおり、元少年に対し死刑判決が言い渡された。ネットやメディアの問題点については今朝のブログで書いたとおり、もうここでは「祭り」の愚かさについては書かない。書いておきたいのは、次の点である。それは、事件後の元少年が友人に送った手紙の内容とそれを考慮にいれて死刑判決を下すことの是非である。

確かに事件後の事実でもそれを反省の態度あるいは情状として酌量することはできる。しかし今回のように、無期懲役から死刑まで跳ね上がったことの理由がはたしてそれであってよいのか。今日の高裁判決はまだ目にしていないので、今日の判決についてはこの件についてはなんともいえない。しかし破棄差し戻しした最高裁判決は、この事実を明らかに酌量している。検察と一部週刊誌が取り上げたこの事実が、少なからずに最高裁の差し戻し判決に影響を及ぼし、ある意味ではこのことが今日の「死刑」判決につながったことは間違いないといえるだろう。

私にはそれが裁判のあり方としてたとえ許容されることとしても、死刑判決を導くためのものとしての理由として使われるのには、どうにも抵抗を覚える。今回の高裁判決が死刑になったその根拠(理由)が、犯罪時までの事実に絞られこの手紙の件(事実)を考慮しないものであることを願うばかりである。

何度もくりかえすが、事件の質としては無期懲役・死刑いずれも考えられるものである。だから、死刑判決が言い渡されても、その理由が犯罪時の事実までの事に限られるならことさら不当だとは思わない。しかし、事件後のことである事実(手紙の内容)がそれにつながったとするなら、このありかたは問題である。少年自身、手紙の内容が公表されることは予期していなかったであろう。これで果たしてよいのか。大いに疑問を抱かざるを得ない。

今後、今回の「祭り」のできごととはべつに、こういう事実を酌量しての最高裁の判決姿勢(死刑判決への道筋)がはたしてよいのかどうか、この点についても今後は議論がなされるべきだと思う。
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by phtk7161 | 2008-04-22 13:04
光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決が、今日言い渡される。判決が読み上げられるまで、実際の量刑は分からない。量刑の予想など人の生命が関わることだし、事前にすべきでもないかもしれない。しかしやはり今の段階で、どうしても述べておきたい。それは今回の裁判をとりまく状況が「祭り」だったからである。「祭り」ならその結論はもう決まっている。

判決における主文は後回しになるだろう。つまり被告人は死刑である。この事件、控訴審までの無期懲役の量刑が、最高裁により破棄差し戻となった。差し戻しがあった以上、最高裁は当然に死刑を許容している。今回の控訴審判決は、その流れのなかでなされるものだ。

事件の内容からすれば、被告人の量刑は無期懲役・死刑のいずれも考えられる。また最高裁差し戻された以上、死刑は予想できておかしくない。しかしそのこととは別に、この判決(予想される)には疑念を覚える。なぜなら、今回の判決には人民裁判ともいうべき「祭り的恐ろしさ」が隠れているからである。

光市の事件でのメディアやネットの動きは異常だった。少年を有利にする事実関係を主張する(弁護する)こと自体許されないという風潮をメディアとネットは作り上げたといえる。犯人に対する「憎しみ」の感情だけが先行し、その感情が司法の場にも影響を与え、弁護人までその「にくしみ」を向けた。

裁判制度(司法)の性質を理解しない、理性のない馬鹿げた人間がこの「祭り」に参加した。その中には後に知事となった愚かな人間もいた。彼らは自分達は「正義」をやったつもりでいるだろう。しかし彼らのやったことは、裁判制度そのものを否定するに等しい。

裁判では、時間をかけ多くの資料により事実関係を様々な角度から検証する。ことに今回のような性質の事件ではなおさらそうである。それは冤罪を防ぐため、あるいはなるべく客観的な真実を明らかにするためだ。どんな凶悪な被告人でも、人間としてその人間の「人生(時に生命)」のかかった裁判なのだ。「大体で」「適当で」すましていいはずがない。またそれですむのならそれはもはや「人民(感情)裁判」である。

被害者の失われた生命はもちろん尊重されなければならない。しかし「故意の冒涜」でない限り、被告人の有利な事実を優先して弁護するこれが弁護人制度というものであり、一方で「(故意の)誤った事実の主張」でない限り、被告人にとって不利な事実を徹底的に主張する、これが検察官制度というものである。

「祭り」に参加した人間のどれほどが、裁判がどのようにして進められそしてその目的はなんなのかを知っているだろうか。文字や映像で(時に歪曲して)目にした縮減された事実にだけ感情を揺さぶられ、内心を通り越してあげくは外的行為(懲戒請求)まで及ぶ。それはもはや社会的「病理」である。

最高裁のだした差し戻し理由、いわゆる「永山基準」の検討は一見それらしい理由にもみえる。しかしその最高裁でさえ、それとは別にある種の「仕掛け」にのった感がなくもない。事実、差し戻し審以降ほどではなくても、当時にすでに「祭り」の前兆は十分にあったといえるだろう。

裁判員制度が実施されることが避けられなくなった現在、この制度に今度のような「祭り」に参加した人間も参入する。彼らがこの制度に参加したときどういうことになるのか。今度は自らの感情による「正義」に合わない(理性的)意見を述べる裁判員に対し・・・今回の弁護人に対するように・・・彼らは「憎しみ」の感情をその裁判員に向けるのではないか。

一方でそういう感情だけで判断する人間ほど、凶悪暴力集団の犯罪に対しては「怖さ」の感情ばかりが優先し、及び腰の意見(軽い量刑)しか述べないのではないか。そういう気がしてならない。所詮感情による「正義」とはその程度のものである。

今回の判決。性質的には前述した通り「死刑」であっておかしくない事件である。しかしここまでの裁判を取り巻いた状況は、明らかにまともではない。今後このような状況下での裁判が続くなら、いかに「法と良心」にのみ拘束されるといっても、裁判官もやはり「祭り」の影響は無視できないだろう。そこに大きな危惧を覚える。

(死刑)判決は「(死刑)祭」が開かれている状況ではなく、理性的判断ができる状況のなかで下されるべきである。そういう点で、今度の光市事件でのメディアやネットのおこしたことは、裁判制度の否定、さらには被害者の存在でさえ「祭り」のためのものとしてしまう冒涜行為ともいえるだろう。
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by phtk7161 | 2008-04-22 07:56
 田母神航空幕僚長が名古屋高裁での違憲判決を受けての会見で「関係ねえという状況だ。」といったとか。ここ(制服組高官)もかというのが、率直な感想である。4月7日のブログに書いたばかりだが、「うけ」をねらおうとしてか、ここのところ自らの立場や言葉を発する場所での客観的状況を考えず、不謹慎な言葉を使う人物が多い。

 けっこうな年齢の人間でも、テレビの影響は小さいときから受けている。確かにコミュニケーションを円滑にする材料を得る手段として、テレビはうってつけである。今回の幕僚長も本人としては「うまく言った」つもりなんだろう。しかし今回のお粗末表現、上司のOLに対するくだらない親父ギャグですまされるものでないことはもちろんである。彼の立場・公式な会見であることを考えれば、幕僚長をクビになってもおかしくない。

 もともと今回の意違憲判決は、自衛隊に対して向けられたものではない。自衛隊の活動についての政府の対応(行政行為)に対してむけられたものだ。だから会見でも、幕僚長は「我々は政府の命令に従い粛々(しゅくしゅく)と任務を遂行するだけです。」こう会見すればすむだけの話である。事実これまでのこの種の会見では、そういう表現が多いはずである。また、それが立場上当然のことだ。

          ☆           ☆           ☆

 どうしてこういうなめきった表現が、彼の口からでたのか。簡単である。彼らはシビリアンコントロールをへとも思っていないからである。もっと端的に言ってしまえば、一部の制服組の高官はこう思っているはずだ。「俺たちの上司は総理大臣(福田)ではない。アメリカ国防総省である。アメリカ国防総省がBACKに居る限り、俺たちは日本では聖域的存在。だから日本の憲法などどうということはない(つまり関係ねえ)。アメリカ国防総省の命令(形式は日本政府への要望)こそが、俺たちの憲法(9条)である。」こんなところだろう。

 制服組のこういう態度は、今回の幕僚長に限らない。イラク派遣でのヒゲの佐藤で有名になったあの佐藤参議院議員もそうである。「サマワでもし他の国の軍が攻撃を受けたとき、日本の自衛隊も一緒になって応戦するつもりだった。」こう述べた。なるほど確かに男気のある勇気ある行動だ。しかしこれほど軽薄な上官もいない。

 考えてみてほしい。もしそれがテロ組織相手の応戦であったとしたら、その後は、テロ組織は日本も直接的な敵だとして、日本がテロの標的となってしまうかもしれない。上官はそこまで考えて対応しなければならないのである。「男気」ですむ問題ではない。やる以上(直接的武力行使による他国軍の援護)は政府の許可のもと、事前に日本国民にもその種の覚悟(テロの危険)がいるのである。民意と議会から信任を受けた政府の許可がなければならないのだ。それがシビリアンコントロールというものである。佐藤議員の先の発言は国会でも質問された。しかし議場に居た彼は、それに対して席で薄笑いをうかべていた。つまりはそういうことである。

         ☆           ☆           ☆

 今は戦前のように軍が政治に介入できる時代ではない。防衛庁も特別な組織でなく行政の一部の組織にすぎない。そこを、彼らは肝に銘じるべきである。またそうでなければ、シビリアンコントロールは徹底できない。今回の発言をみていると、戦後60年あまり経過して、微々たる気配ながらそろそろ「例の虫」が制服組の一部で騒ぎだしているような気がしてならない。この虫が騒ぐ連中ほど、実はことがおきても自らは危険なめにあわないですむ立場のものが多いような気がする。今回の幕僚長などその典型例であろう。まただからこそ、今回のような馬鹿げたお気楽な軽薄発言をしてしまうのだろう。

 どこかのブログにあったが、こういう上官のもとで任務を果たさなければならない自衛隊員は本当に気の毒だと思う。幕僚長は隊員の生命を預かる身なはずだ。言葉は「体」を表す。防衛庁は田母神氏ではなく、もっと人格的に優れた人物を幕僚長に当てたほうがよい。
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by phtk7161 | 2008-04-20 04:43
名古屋高裁がイラクでの自衛隊の行っている米兵の輸送は違憲であるとの判決をだした。差し止め請求と損害賠償は具体的権利性などを理由として棄却されたが、この判決の意義は大きい。

自衛隊のイラクでの輸送活動については、統治行為理由としてあるいは具体的権利性だけに触れ憲法判断を回避することもできる。それをあえてせず、憲法判断にまで名古屋高裁は踏み込んだのである。それは、憲法を無視し今の特措法にさえ反した行為を容認する日本の政府の対応に対し、法治国家の観点から司法権としての警鐘をならしたものだといえる。

今回の判決は、これまで行われてきたPKO派遣での活動とイラクにおける自衛隊によるアメリカ兵の輸送活動とを区別して捉えている。海外への自衛隊の派遣に関しては、それ自体絶対認められないという考え方もある。しかし国際情勢は日々変化する。自衛権と国際貢献(ただし国連レベルを基軸として)の実体に着目しそのなかで憲法9条の意義を見出していくことも必要である。またそのほうが、実体を見据えた上で譲れない一線(自衛権や国連レベルでの国際貢献)を確定し、現行憲法を守っていくうえでは現実的ともいえる。今度の判決は、そのケジメを見事につけたものだ。

憲法の平和主義・国際協調の理念は、イラク戦争は全く当てはまらない。国際社会の理解なしに、大量破壊兵器もなく・・・したがってアメリカのいう自衛権の前提条件すらないということになる・・・行われた侵略戦争。これがイラク戦争の本当の姿だ。この戦争に他国の兵の輸送という形で関わっていくということは、まさに武力の行使に加担するということである。

そういう活動をこのまま司法も消極的に見逃し続けてしまえば・・・それがたとえ司法消極主義(憲法判断回避や統治行為論などで)の形によるものであっても・・・いずれは自衛隊要員による直接的な武力による戦争への加担さえ、容易におこりうるといえよう。

           ☆           ☆            ☆

今回の判決に対しては、今後保守派の専門家(政治家・法律家・軍事評論家・政治評論家)などから厳しい批判が予想される。いわく、裁判所は憲法判断にあえて踏み込み司法の本質(役割)をわきまえていない、軍事に関わる国際社会の常識を無視している、日米同盟の重要さを理解していないetc。批判はこういったものだろう。

しかし司法にここまで判断せざるを得ない状況を作ったのは、彼らの責任だ。彼らのように法を無視し、小泉がアメカにいわれるまま、というよりむしろ進んで軍事貢献の大サービスした結果がこれなのだ。アフガンはともかく、イラク攻撃のどこに「国際社会の常識」などあったのか。

イラク攻撃時には野蛮なブッシュ政権にNOをいうことはなかなか難しかった。だからしぶしぶ兵を派遣せざるをえなかった国もある(韓国などそうだ)。しかし日本は法(憲法)の存在があった。これを強調しイラク戦争に、現地で自衛隊員が関わる形を拒否することは可能であった。少なくとも今回のような兵の輸送は絶対行わずにすんだ。

それができていないのは、保守派の彼らが法を捨て不必要にアメリカのご機嫌をとりに走ったからである。そういう点で、この動きはアメリカ化(新自由主義)を積極的に進める、今の日本の保守派の政治家の動きと無関係ではない。それだけ法治国家の理念を軽視し、やみくもにアメリカに追随じてきた彼らの責任は大きい。9・11以降、日本でも法治国家にもとづく自由主義を標榜しているはずの彼ら自らが、その「法」を無視し自らに対峙する者に対し「自由」を剥奪する「野蛮」政治を推進してきた。

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彼らが、アメリカともに軍事攻撃に加わりたいうというのならそうすればいい。平和主義を放棄し(アメリカのイラク攻撃は平和主義にかなうものではない)、徴兵制(擬似的なものも含む)を設けあるいは集団的自衛権にもとずき、国連を無視してアメリカがやる戦争に何でも加担していくことだ。さぞかし平和な世界になることだろう。ただし、憲法を変えればの話である。

日本国憲法ではそれは絶対的NOだ。それが今回の判決の出した答えである。政府が法を完全に無視し、司法権もその政府の行動に対して判断を回避し続けたブッシュ政権期の日本。ばかげたイラク戦争とは日本にとってどういうものだったのか。その答えが、今でつつあるのかもしれない。
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by phtk7161 | 2008-04-18 19:04
 ここのところ、しょうもない「特攻」大好き政治家稲田・有村議員の絡んだ話ばかりが続いたので、たまには元気の出る話を。
 
 ブログでも以前述べたが、子供の頃野球少年だった。学生時代野球部で過ごした時期もある。しょうもない体連的なしごきも、その頃体験した。
 
 でも野球というスポーツは、やはり楽しくすばらしい。特に私の年代前後から上の世代にとって、「野球選手」というのはあこがれの職業だった。しかし、もちろんだれもがプロ野球の選手になれるわけではない。ましてや才能ある人間の集まってくるプロ野球の世界は、それだけ選手としての生き残りも厳しい。

 阪神の選手だった藪投手。エースとしても活躍し、一線級のピッチャーである。ただスーパースターというより、どちらかといえば10勝10敗的なタイプだった。その後アメリカにわたりメジャーに在籍したが、目だった成績は残せなかった。チームを解雇され、ここ1~2年はプロの野球選手として活躍する場さえなく野球浪人に近い立場だった。

 彼は今39歳、ほぼ40といえる年齢での2年近いブランクは選手生命にとってまず致命的である。それでも彼は現役にこだわり去年トライアルテストを受け合格、その後キャンプでのチーム内での競争にも見事生き残り、メジャーの選手としてまた復帰することとなった。

 その藪がおととい勝ち星をあげたのである。うれしいニュースである。以前たまたまテレビで彼の映像を目にする機会があった。ひとりで黙々とトレーニング。食事内容も一線で活躍する選手とは程遠く、ひとりぐらしの学生やサラリーマンの食事とたいしてかわらない。そういう中でよく希望を捨てず頑張ったと思う。それだけ野球というスポーツを彼は愛しているのだろう。

 過去の栄光に浸り、どこの球団にも相手にされないのに、いい年していつまでメジャーめざしているんだ。現実をみろ。そういう声もあったかもしれない。しかし今回の1勝はそういう声を打ち消すものだ。少なくとも、彼は今大リーグで勝ち星を挙げる実力があることを事実として証明してみせたのだ。

 藪はメジャー復帰をあきらめずトレーニングを続け、そして勝ち星を挙げた。国家のためでもなく、他人のためでのない。自己決定により、自分(と家族)のために自己の価値を実現してみせたということである。

 残念ながら、故障していた選手が戻ってくることにより、藪はマイナーにいくことになったようだが、なにまだシーズンは始まったばかり。メジャー復帰のチャンスはまた必ずある。それを期待し、海を越えて彼にエールを送り続けたいと思う。がんばれ、藪恵壹 !
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by phtk7161 | 2008-04-17 09:39