社会問題を考える


by phtk7161
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「いずれにしても、結局北の問題はアメリカがカギをにぎっていることにはかわりはない。日本がいくら拉致問題を強調したところで、北に関する関連国の中では日本は主体的立場にはたてない。それどころか、むしろ日本は「拉致問題」があるため、とにかく「核」をあきらめさせることを最優先課題としている中韓米露からは、日本が「拉致」を全面的におしだせばだすほど、核問題の解決を遠ざけるものとして、やっかいもの扱いされる危険すらある。ここにジレンマがある。そしてこれが、外交というものの冷徹な現実である。」

「中間選挙でアメリカの民主党が力をつけた以上、北をめぐるアジア政策にもなんらかの変化はでてくるだろう。小泉安倍政権のなかで、日本はブッシュ共和党べったりの政策をとってきた。靖国で不必要にもめ、中国、韓国と北の問題解決への協調路線をなかなかとれなかった。そして、アメリカ民主党とのまともなパイプもほとんどない(安倍首相など幹事長時代の訪米時、ネオコン主催の会で講演したくらいだから)。これから北の問題も含め、日本の外交は厳しい試練を味わうことになると思う。○×発想ばかりで、いく筋もの流れの可能性を頭にいれて、外交活動をしてこなかったつけである。」

上記の文はアメリカ中間選挙直後、このブログで記した内容である。その頃から同じように考えられていた方も多いと思う。今回明らかになった北朝鮮へのテロ国家指定解除・敵国通商法の除外の決定は、外交というものの冷徹な現実をまともに考えれば、予想されたことといえる。

中間選挙の敗北後、いまやレーダッグ化したブッシュ政権にとって、イラク(あるいはアフガンも)政策が失敗した現状では、退任前に目に見えるに形でとにかく何らかの外交的成果残したい。それをうけての今回の決定である。

拉致被害者は、北朝鮮への憎しみの感情は消えることはない。今回の決定に対して怒りがこみ上げてこよう。それは被害者家族として当然のことだ。

しかし政治家はそれだけではいけない。何らかの「結果」を出さない限り、そういう政治家はただの「お騒がせ屋」にすぎない。最初の拉致被害者が帰ってきて、その後長い月日が経過している。その間、わが国に戻ってきた被害者は「ただの一人」もいない。安倍元首相をはじめとするタカ派政治家が北を批判するのは結構だが、ただそれだけであとは具体的進展(成果)もなく時がすぎるままに任せ、一方ではこの問題を利用するだけ利用して、自分達の(タカ派)政策を進展させたがるそんな政治家に何の価値があろうか。

安倍前政権時に、私がこの内閣の外交は絶望的だと認識した事件がある。それは中国の在駐した大使館員が中国当局の美人局的な罠にはまり自殺してしまった事件である。安倍政権はこの事実を公に明らかにした。当人の名誉もさることながら、あきれるのはこんなことで「中国はひどい」と主張して、それに何の意味があるのかということである。

何度も言うが外交は冷徹な世界であり、道理など通らない世界である。こんな策略など日常茶飯事の世界である。こういう事件を被害者ずらして公にしているようでは、中国にダメージをあたえるというより、むしろ日本がいかに「甘ちゃんか」を世界に公表しているようなもので、世界になめられるだけである。そっちのダメージのほうがはるかに大きい。

安倍元首相とその仲間達にとって、この事件を公表すれば国内で中国批判が強くなり自らの政策(ようはタカ派政策)にとって都合がいいと考えていたのであろう。しかし外交上はマイナスのほうがはるかにおおきかったといえる。外交はなめられてはおしまいである。どこの国が、こんな批判に同調しよう(するわけがない)。

タカ派ぼっちゃんたちの困った点は、発言の強気に比して中身が全くともなわないということだ。いうだけいってそれだけということである。つまりはノスタルジーだけなのだ。おりしも安倍元首相の私的諮問会が集団的自衛権を容認する憲法解釈を提言したという。「で、それが何」それが私の素直な感想である。自衛隊をアメリカべったりの形で強力化して、中国に対抗しアジアでの国の威光を取り戻そうという時代遅れの発想に固執しているそんな提言など、何の意味もない。集団的自衛権ができるようにしたところで、アメリカ国防総省の一極東支部として使い捨てされるのがおちである。

日本にできるもっとも有効な外交の形はいい意味での知恵をつかった「狸」外交に徹することでる。駆け引きをしつつ、根底では「平和」への強い理念をおしだしそれをゆるがすことのないかたちでやっていくことである。小泉政権以後は、この国ではこの「狸」的な知恵を全く使ってこなかった。安倍政権時まで勇ましさだけが優先し、アメリカオンリーあるいはノスタルジーだけの中身のない(成果のない)外交だったといえる。

そういう「狸」外交のためには、幾筋もの外交ルートは常に確保していなければならない。○×的に二者択一の外交など決してあってはならないのである。馬鹿げたタカ派的世論は、そういう最低限のパイプすらつぶそうとする。愚の骨頂である。どんな状況でも・・・それぞれが相反する政策になっても・・・最低限のルートは絶対必要なのだ。それを小泉・安倍政権は○×か、正しいか間違いか、そういう択一思考でやってきた。そのつけが今回出てしまったということである。
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by phtk7161 | 2008-06-25 08:20
飛騨牛の偽装事件、みんなまたかという感じだろう。事件概要はミートホープとほとんど同じ。品質の下級の肉を上級のものとして売ったり、期限切れの肉を混ぜてあらたな品をつくり期限内として売り出していた。それより私がもっとあきれたしまうのは、経営者がその責任を従業員になすりつけようとするその姿勢だ。これはミートホープだけでなく吉兆でもそうだった。こういう行動は経営うんぬんの以前の人間としての人格上の問題といえる。

どうして先の経営者はこういう行動をとってしまうのか。それは自らの(個人的)会社を守りたいという気持ちからだけのものではない。それ以前に、従業員の存在を普段から「オレが雇ってやっているモノ」とみているからである。すなわち従業員を尊厳をもつ一人の人間としてみなしていない。もっと本音で言えばこういうであろう。「おれはあいつらに金をくれてやっているんだ」と。

もちろんこういう考えが論外なのはいうまでもない。雇用関係は契約であり、互いに債権債務を背負っている。一方は「労働」という対価を提供し一方は「賃金」という対価を提供する。それは人間として互いの尊厳(人格)をみとめあったうえでの、ギヴ&テイクの関係である。それが雇用という契約の本質なのだ。

ところが一連の経営者は、この感覚があまるでない。「賃金」を払っていることで、従業員を僕(しもべ)としてみなしてしまう。ここに、彼らの愚かさがある。「困った問題がおきたらあいつを言い含めて(あいつの責任にして)切ればいい」すべてがこの調子なのだ。

そういう人間である以上、世間はこの種の経営者に同情などするわけがない。また取引先も、その会社の製品への「信頼」の低下、あるいは他人に責任を転嫁したという経営者の「人格的マイナスイメージ」が続くから取引を打ち切きってしまう。だから結局廃業という結論になるのは当たり前といえる。

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もっとも問題発覚後の従業員への責任転嫁という人格面の問題は彼らの自業自得といえるとしても、製品の偽装の問題については経営者の個人の「ずるさ」だけに原因があるのではない。それはそういう業界全体の「体質」的な問題と無縁ではないといえる。

どこの会社も生き馬の目をぬく業界のなかで生き残るために、それぞれの会社が様々な経営努力をしている。その経営努力には文字通りの「努力(工夫)」に値するものあれば、ただの「インチキ」という場合もある。そしてその垂分線を決するものは、一応「法律」ということになる。

肉の偽装にしても建物の偽装(例えば耐震偽装)にしても、それがインチキのレベルになるのは結局はその行為が法律に反しているからである。ところがその法律に反しているはずの行為が、業界の「常識」として長い間放置されてきた。彼らにすれば、生真面目に法律をまもってやっていたらやっていけない、そういう「本音」もあろう。だからこの種のインチキについて彼らばかり攻めても意味がない。

多くのスーパーやもしかしたらデパートでさえ、ある製品について本来は「外国産」のものを「国内産」として売り出したことがなかったとはいえないだろう。また消費期限を書き換えたこともなかったとはいえないだろう。あるいは多くの建築会社で「手抜き」がなかったともいえないだろう。そういうことから考えれば、それは結局はものを扱うる「商い」全体に共通する問題であり、日本全体の「商い」体質そのもの問題ともいえる。

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私達がきちんと認識しておかなければならないことは、この国はとっくの昔に「信頼(約束)」よりも「お金(儲かる)」優先の社会になっているのだという事実である。漫画やドラマでいかに「お客様に喜んでもらうことが一番」「伝統に培われてきた信頼」のストリーが描かれようとも、現実は「カネ」「カネ」「カネ」の社会なのだ。少なくとも「高度成長期」から「バブル期」を経て、今の小泉政権以降の「新自由主義」をめざす政治構造においては、それはもはや不動のものになりつつある。

その証(あかし)が経団連がだした「福祉をさらに削れ」という、人の「命」より「カネ」優先の本音の提言である。それが「派遣」という人買い社会の中で、個人の「尊厳」などなきものにして人を「数字」扱いすることに至福の喜びを見出す人間の考え方なのだ。そしてその行き着く先は、まさにアメリカ模倣の社会である。

このまま今後も新自由主義の流れが進めば、わが国の「商い」の質は今回のような「偽装」という「インチキ」の程度ではすまない。「虚業」そのものになってしまう・・・例えばザブプライムローン問題もそうである。本当に憂うべきなのは今回の偽装問題などより、そういう「実」のない投機的なものが実体経済にまで近づきつつある今の経済のありかたである。少なくともとっくにアメリカ社会はそれが当然に飛び交う社会になってしまっている。

偽装の場合動物の「肉」は「肉」だが、投機的バクチ経済社会においては「肉」がじつは「ハリボテ」であったりする。それでもうまくやれば、カネを手にできる。それもあきれるほど莫大な額をである。ただそれが手にできるのは、ほんの一握り(おそらく世界の人口の0・1%以下であろう)。それもゲームに参加することすらできない多くの人間を犠牲にしてである。それがこの「虚業」の正体である。この問題のほうが、製品ひとつとつの「商い」の質の問題よりも「経済」そのもの質に関わっているだけに、私達にとっては本当はもっと憂うべき問題なのだ。
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by phtk7161 | 2008-06-24 02:17
宮崎勤死刑因の死刑が執行された。事件から20年あまりたっての執行である。執行の是非については、様々な見方があると思う。ただおそらくではあるが、世論の大方は肯定しているかもしれない。なんといっても、複数の幼女を性的な目的で人形のように見立て生命を奪った事件である。世論の感情がそう(肯定の方向に)なっても無理はない。ただ以下の点についてだけは、述べておきたい。

それは、責任能力のあり方の問題である。作家の佐木隆三氏が宮崎勤について、「彼は責任能力がないことを詐病している」と述べていたが、私の見方は違う。やはり責任能力には問題があったと思う。もっとも裁判所は、彼に責任能力ありとした。ただこの裁判所のだした責任能力についての解釈も、先に「死刑」ありきの結論があってからこそのものだったといえるのではないか。

この裁判では3通りの鑑定のなかで、そのうちの2通りが彼の「責任能力」には問題があるという結論をとっている。もちろんだからといって、それでも彼に死刑が科せられておかしくはない。どの鑑定を採用するかあるいはしないかは、裁判所の自由であるからである。ただ、法的に厳密に考えればやはり彼の責任能力に「問題がない」することは無理がある。それでも、そういう結論にせざるを得なかったのは、事件の被害の経緯・内容があまりにもひどく、そこからくる一般の「応報」感情を裁判所も無視できる状況にはなかったといえるからだ。

そういう一般の「感情」が、健全な「感情」といえるかどうかそれは分からない。ただ、今後もこの種の感情が裁判に何らかの影響を与えることは確かであろう。従来の法的観点から「罰せられない」とされていることを、感情を考慮し「罰す」としてよいのか。鳩山法相は「法治国家」の立場から、刑を執行したと述べていたが、責任能力についての問題もその「法治国家」の観点から考えてしかるべきである。

世論の感情で、それまでの法的理論を簡単に崩していものかどうか。簡単に崩せるとすれば、それもまた法治国家として、大いに問題があろう。感情的に「殺せ」「殺せ」ばかりが連呼される社会、そういう社会が健全さを欠き危険なものであることもまた確かである。

もし、事件の行為内容・被害共に悪質で甚大な事件について、今回のように責任能力を肯定するため事実をすりかえたり、あるいは強引に責任能力の定義にあてはめようとすることは、世論の(死刑迎合の)感情がどうであろうがこれは論外である。

そうではなくもっと正面からそれまでの責任能力の理論的側面・・・例えばそれこそ心神喪失者における「行為の違法性を弁識する能力または弁識にしたがって行動する能力」という定義そのものからあるいはその具体的内容について・・・をどう変えるべきなのか(それともやはりかえないべきなのか)が重要なことといえる。法的な「理論」と一般の「感情」との緊張関係は今後も厳密に検討しなければならない課題といえよう。
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by phtk7161 | 2008-06-18 14:21
秋葉原の殺人事件については、すでに多くのブログでとりあげられている。私もいくつかのブログに目を通したが、それなりに事件の要因や加害者の人的質について分析されていた。しかし事件の凄惨さを考えるとこの事件についてどう書くべきか、難しい点もある。それでも、私なりに考えるところを書いてみようと思う。

事件の要因に、凶器(銃刀について)の規制の問題、犯人の人格的ゆがみ・・・度を越えたひがみや自己愛の強さ・・・あるいは経済的困窮(格差社会)・ネットの問題などいろいろあげられている。それぞれが事件の要因になりえるのは確かであろうが、それらはあくまで間接的な要因にすぎない。根本的な一番の要因は、やはり「人の生命」の重さに対しての「無知性」に行き着く。

世の中には生きている限りいろいろ嫌なことがある。その過程で人格がゆがんでくることも十分ありえる。というより人間がものを考え感情をもつ存在である以上、人格というものは多かれ少なかれゆがんでいくことはむしろ当然である。ただどんなにゆがんだとしても、一方で自己を含む生命の尊厳に対する理解もまた、本来人間が培ってきたものである。なぜならもし人類がこれを培ってこなかったとするなら、人類が今の形で存在することはなかったはずなのだ。

少しでも気に食わないことがあれば、簡単に人を殺してしまう・・・もちろん歴史上そういう非人間的な人物もいたが・・・そういう人間が多ければ人類は他の動物社会とさほど変わらなかったであろう。そうならなかったのは、人類がどこかで「人の生命に」に対する価値を共通の価値基準・・・まさに人間の「知性」として・・・として取り込んできたからにほかならない。

今回の事件は、今の我々の社会がそういう人の生命の重さに対する知性を失いつつあることを示している。先にあげたような今回の事件のさまざまな要因も、結局はこの生命に重さに対する知性を弱体化させてしまっている要因にすぎない。たとえばこれまでもこのブログで散々取り上げたが、今のネットの存在は、生命に対しての誹謗中傷表現を野放図に許容(放置)している・・・「死ね」「逝ってよし」等の表現・・・点で明らかに生命の重さへの知性を持たせる場所ではなく、むしろ破壊させる場所となっているのは明らかであろう。

今回の犯人にとってもネットの世界は結局、人間であるための・・・生命の重さを「知」として理解する・・・場所ではなく、この「知」を破壊する場所であった。つまり彼にとってネットの存在は、今回の犯行に弾みをつけるための場所にすぎなかったといえる。

したがって今回の事件について先のような様々な要因を分析していくことはもちろん重要であるが、もっとも肝心なことはやはり、人の生命の重さに対する「知性」をどう社会の中で(再)構築していくか、それが最も重要であろう。人の生命の重さという「価値」が、社会の中での当然の基本的「哲学」として・・・政治・経済・教育それこそ様々な分野で・・位置づけされない限り、この種の事件の根底での問題解決は難しいといえる。

あらゆる分野でこの種の知性が退化しつつある現代社会において、この生命に対する「知性」の鈍化は人類に対する危機でもある。例えば誤解を承知であえて極言すれば、政治分野における福祉理念を捨て去る今の新自由主義というものはまさにこの「知性」が退化した考えに過ぎない。

多くの人間が食糧危機に苦しんでいる一方で、経済分野において投資(機)・・・バクチ・・・に狂騒する人間達が自らの富の莫大なる蓄積に「大喜び」するゆがんだ今の経済システム。あるいはネットの進化(パソコン・携帯などの)・・・私に言わせれば精神的退化だが・・・によりめまぐるしくスピード化される社会の中で、「ものを考える」という人間本来の機能が失われ、一時の感情のみが不安定に増幅される社会である限り、人の生命に対する「知」は、このままでは確実に退化していくであろう。そしてこの問題のほうが「地球温暖化」の問題よりはるかに、今の人類にとって深刻な問題なのである。
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by phtk7161 | 2008-06-12 06:37
大きな政府であれ小さな政府であれ、どんな国家像であっても胸をはれる立憲国家としてありたいならば、個人の尊厳は保障されなければならない。憲法14条その平等権もそのためのものである。

まして「実力なきものは去れ」的社会大好きな竹中教授などが考えている新自由主義の国家像であるならば、なおさら人生スタート時の平等は求められて当然のことであり、自身に帰責性のないことで生まれながらの不利益を負わせていいはずがない。昨日の婚外子に関しての国籍法の違憲判決も・・・判決の内容はともかくとして・・・結局根本はそういうところにある。

昨日の最高裁判決は、15人中9人の多数意見により違憲判決が出された。相変わらずだなと思ったのが、違憲判決に反対した(つまり合憲)裁判官の出身が行政官僚や検察官だったことだ・・・もっとも検察官出身2人のうちの一人は立法不作為の点は違憲としている(ただししそれでも現国籍法については合憲の立場である)。

積極的に合憲の立場を打ち出した元行政官と検察官の3人は、現在でも家族のあり方には大きな変化はないという。しかしこの見方はあまりに狭すぎる。どうみても昨今、特に外国人の定住者をめぐってのその生活状況のありかたは、日本社会に大きな変化をもたらしているといえるだろう。

今回の問題は、父親が日本人で母親が外国人である場合、出生後認知された子供が日本国籍が認められるには、両親の婚姻が要件とされている点にある。胎児時に認知されていれば、日本国籍を取得できるのに、出世後の認知の場合両親が法律上の婚姻をしていないと認められないとするのはおかしい(=法の下の平等に反する)のではないか。この疑問にこたえたのが、今回の判決だった。

もちろん反対(合憲との立場)した裁判官にも、それなりの理由があろう。婚姻を基軸にそれと(日本)社会との関係の濃密さをはかり、これを国籍要件に反映させる。それがなにより安定した社会のありかたにつながっていくと彼らは考える。なるほど、たしかにそうかもしれない。

しかしそれは所詮、国籍を管理する側の理屈である。親の側にある意味ペナルティー的なものを課すことで、できるだけ日本人と外国人との間の子供の出生のあり方を、秩序あるものにするという側面だけにとらわれすぎている。それよりむしろ大事なのは、出生し一個の人格を備えた個人(子供)の尊厳をどうはかるべきかということであろう。

社会の不安定さという漠然とした危惧より、現に生じている人間の人生における明らかな不利益(国籍が認められないことによる)をどうすべきか。両親の軽率な行動・・・もちろんそういうケースばかりではないが、そういうケースがあることも否定はできない・・・をどう評価するかはともかく、少なくとも生まれてきた子供自身には、生まれてきたことになんの責任もないのである。そうであるなら、一人の人間として生まれた以上その子供の尊厳は守られなければならない。人生のスタート時から、いわれなきハンデなど背負わしてはならないのである。

もっとも今回の違憲判決で、この種の問題が全て解決できたわけではない。日本国籍の要件として、母親が日本国籍でない場合、父親が日本人であっても「認知」のない限りは、その子供に日本国籍は認められないのである。少し下世話な言い方をすれば一時の快楽のために精子をまき散らし、その後は逃げ回るばかりで・・・認知を拒否する・・・何の責任もとらないボンクラな日本人の男が存在する限り、この種の悲劇は続くといえる。

金銭のためあるいは甘言につられ、ボンクラと関係をもった母親を軽率と非難するのはたやすいことだけれど、現実を見る限りは、その女性以上に一定の外国人に対し見下したような行動をとる・・・貧しさに突け込み金で女性を買い、あるいは甘言で関係を持つ・・・一部の日本人にその責任の多くがあることは間違いない。もちろんこの場合にも生まれてくる子供には何の責任もない。

そういう点でいえば、今回の判決も認知を要件とする点はこれまでと同じであるといえる。ただ今後も、「認知」を国籍要件(父親が日本人の場合に)として不要とするような法律の制定や判決はでてこないであろう。なぜなら「認知」が不要となれば、日本国籍の申請は莫大な数となり、日本の社会が大きな混乱をきたすきたすからである。そう考えると国籍取得に関し、これからも「認知」を要件とすることはやむをえないといえる。

しかしそれでもである。子ども自身の権利から見ればそれでいいのか。疑問は残る。そういう点でいえば、一定の進展があったといえる今回の判決も、問題の本質的解決にはまだまだ遠いものなのである。そしてその問題の責任は、司法にあるのではない。立法府・行政府それ以上に、快楽ばかり追い求めるような無責任なボンクラ男の存在を許している、我々日本の社会にあることを肝に銘じなければならない。そういう点では、「海外での売春は日本のODA」といった現大阪知事の昔の発言など、愚か者のたわごとにすぎないのである。
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by phtk7161 | 2008-06-05 19:22
四川省での地震の関してのシャロンストーンの失言が非難を浴びている。当然であろうと思う。災害である今回の地震と、政治的(人権)問題であるチベットとのこととは何ら関係ない。被災された人たちと、チベット問題とは何ら関係ないのだ。そこを根底で彼女は理解していなかった。

ある政治的考えを支持するのは、人として自由であり当然の権利だ。しかしそのことに拘泥するあまり、人としてそれ以前のことである基本的な事柄を理解していないなら・・・あるいは捨て去ってというべきか・・・そういう人間は、そもそも思想の市場に入る資格がないといえる。人の生命は、まず何より尊ばれなければならない。職業としてあるいは刑罰として、時に生命が脅かされることはある。しかしそういった理由のない限りは、人の生命はまず何より尊ばれなければならないのだ。

災害がおきたことに、被災者に責任がないことは当たり前である。だから災害においては、その政治的立場を超え、人類として当然救援の手を差しのべなければならない。災害と全く関係のない政治的問題を、災害と関連付けた発言をすることはウルトラ馬鹿のやることなのだ。

こういうことは、シャロンストーンの発言に限らない。少し前ある番組で、元関取の竜虎氏が相撲界でのリンチ死亡事件に関し、やった側の力士に関して「彼らも被害者である」という発言をした。おそらく竜虎氏は、親方の命ずるままに犯罪行為(暴行・傷害)をおこない相撲界から追放されるかもしれない彼らの立場に同情して、こうした発言をしたのであろう。

しかし竜虎氏は、そのことの前にもっと基本的な重要な事柄を理解していない。尊い一人の人間の生命が(親方と)彼らの行為により奪われているのだ。それが一番の問題であり、その生命の尊さは、加害者に絶対的に優先する厳然たる価値基準である。角界の昔のからの常識に拘泥するあまり、彼はその点を分かっていない。

もっともさすがにこのときは、同席していた元裁判官のコメンテーター(現弁護士)が幸いにもすぐに「竜虎さんそれは違う。人の生命が失われているのです。加害行為を行った彼らを被害者と表現するのは妥当でない。」と反論した。言われた竜虎氏は、さすがにむっとしていたがそれに反論はしなかった。

あるいは、グリンピースの調査捕鯨における鯨肉の横流しの問題。これも同じような問題点を持つといえる。なるほど、調査捕鯨に関しておきているグリンピースの指摘した問題点は正しいであろう。鯨肉の横流しなどあっていいはずがない。しかしだからといって、その問題の告発に際し窃盗行為を行うことは、論外である。

ある犯罪を告発するなら、窃盗という違法行為を堂々やっていいのだという理屈が通るようになれば、どういうことになるのか。犯罪告発に関連して、住居侵入や・・・証拠写真をとるために・・・名誉毀損のような犯罪が、状況によっては罪を免れることはありうるとしても、どうみても今回のケースでの窃盗行為が、罪を免れる・・・違法性が阻却される・・・わけがない。これまた、自らの信条に拘泥するあまり、それよりもっと以前のことである基本的ことを彼らが理解していない証拠である。

「人の生命は何より尊いものである」「人のものを勝手に盗んではいけない・・・グリンピースがどう言おうが、少なくとも鯨の肉を保管していた運送業者の会社の占有(当然合法である)を侵害したことは間違いないのである」これらのことは、彼らの支持している信条以前にもっておくべき基本的な社会共有の価値基準である。それを踏まえないまま彼らが自らの信条をどう主張してみても、その主張は決して支持されることはない。
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by phtk7161 | 2008-06-01 12:49