社会問題を考える


by phtk7161
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<   2008年 07月 ( 11 )   > この月の画像一覧

いつもこのブログでは理が大事と述べている。しかし物事を判断するとき、理だけが全てではないのはもちろんだ。時に直感というのも大事である。

人はそれまでの経験や本来の人間としての生来性から、ある物事を感覚的に・・・時に瞬時に・・・判断する能力を持っている。これが直感と呼ばれるものだ。年配の方に多いけれど、食物の消費の限度を印刷された日付に頼ることなく、一口味わった感覚で瞬時に判断できることなどそうだ。

食物の不足した時代を経てこられて、その体験のなかで体内的に培われた能力がそれを可能にしているのだと思う。まさに直感で判断しているのである。そのまえでは、理論的に導かれた期限の日付など何万語使って説明されても説得力などない。

もっとも直感といわれるものでも、それが単なる気分的判断にすぎない場合もある。小泉前首相の政策における感覚がそうで、これなど「理」抜きの、本人の好みによる単なる○×判断にすぎなかった。裁判に対する批判にも、時に法的感覚に裏づけされた直感からではなく、単なる感情や好みレベルで判断されているにすぎないものも多い。

これらが正しい直感と言えないことは、今の荒廃した社会の姿が・・・例えば格差問題が・・・証明している。物事を二者択一的に感情だけで判断することで、殺伐とした社会をつくりだすことにってしまう。こういう感覚は、直感とはいえない。

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前置きが長くなったが、昨今騒がれているとなっている豊洲の土壌汚染問題。問題とされる豊洲の予定地では基準値をはるかに超える多くの有害物質の存在が明らかになった。しかし石原都政(与党含む)は、強硬姿勢でこの問題を突破しようとしている。自らが選んだ学者に土壌を調査させ、お約束的に有効な対策案を提示させる。都の学者側からは膨大なデーターや文字を連ねた如何にもの報告書が提出された。

しかし、こういう報告書など何の説得力もない。ベンゼンなどは基準値の4万倍を超える数値が検出されている。この事実ひとつとっても、この場所が如何に市場に適さないか直感で判断できる。この場所は、通常の土地としても人の健康にとってはかなり劣悪な場所・・・都の平均的な土地レベルよりはるかに下位の場所・・・といえるだろう。ましてや市場は食を扱う場所なのだ。移転先として論外なのはいうまでもない。

多くの都民にこの問題の正当性を判断させれば、ベンゼンの事実自体でまず大方が直感的に市場の移転先には不適当と判断するだろう。そういうごくあたり前の結論ですむべき事案である。

築地の補修は大変で築地も問題を抱えている・・・アスベストの問題・・・のは確かだ。なかなか他に跡地も見つけにくいだろう。そうであってもこれは絶対容認すべきではない。予定通り移転して何十年(何年かもしれない)かたって、人の健康に深刻な害がでることになったときにはもう取り返しがつかない。

今の時点でこれだけの事実が分かっていて、それでもいろいろ理屈をつけ予定通り強行することは、明らかに未来の人間に対する傷害(あるいは場合によっては殺人)である。現時点で罪に問えなくても、これは明らかに犯罪にほかならない。

それでもこの問題を行政側がむりやり突破しようとするのは、今の(行政側の関係者)が被害が出る頃には、もうとっくに関係のない立場になっているからだ。つまり彼らにとって、この問題は所詮他人事なのである。オリンピックに絡んで土地の利用計画の利権が絡む今の東京では、人の生命より自分の権力とカネが大事ということなのだ。

将来においてこの問題の歴史を振り返ったとき、「どうしてこんな当たり前のこと(豊洲への移転中止)ができなかったのか。馬鹿じゃない。」といわれるだろう。「どうみても、王様は裸じゃん」。そう豊洲は、明らかに裸なのだ。それなのに都側の学者と行政(与党)は服をきているという。愚かすぎる。

この問題の直接的な決着は、結局は知事のリコール・・・でもこれはなかなか困難だろう・・・か、東京の衆議院選あるいは都議選の結果で決めるしかない。都民が、裸を裸と思うのなら反対の意思を示す・・・賛成する議員をおとす・・・ことだ。仮にその時に計画を中止することで、いかに費用がかかろうがそれは問題ではない。将来の弊害を考えれば、それでも安いといえる。オリンピックに、人の生命に勝る価値などありはしないのだ。
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by phtk7161 | 2008-07-30 00:23
11月のアメリカ大統領選挙まで3ヶ月あまり。いまのところ、オバマ氏のリードが伝えられている。マケイン氏は70代で、オバマ氏は40代。「若い=政治にプラス」とは限らないが、もともとマケイン氏かなり地味なキャラクター。政策よりキャラクターや外形的印象を選択の大きなポイントとする今のアメリカの有権者レベルなら・・・もっともこれは万国共通で違うのは独裁国家くらいだ・・・これで当たり前なのかもしれない。

しかし、候補者としてのオバマ氏には私は大いに不満がる。なぜか。それは、よく指摘されていることだが彼の口からなかなか実務的な具体的政策が語られないことだ。当たり前だが、大統領選挙は映画の主役を決めるオーディションではない。華があることよりも・・・もっとも私に彼にそれがさほどあるとは思わない、もちろんマケイン氏よりあるだろうが・・・政治には、どういう政策実現していくかのほうがはるかに重要である。

大統領選挙の民主党オーデションを、彼はケネディの再来的演出と「YES WE CAN」のフレーズで見事勝利した。ピアノのオーデションでいえば、いかにもピアニストらしい洗練された外見と「みんなに希望を与えるような演奏をしたい」という答えで、1次審査を合格したようなものだ。

しかし本選になっても、肝心の演奏の腕をなかなか披露してくれない。「本当にうまく弾けるのか?」それが一番肝心なことなのだ。「君の気持ちは・・・YES WE CANは・・・わかったオバマ君。そろそろ実際に弾いてみてくれ・・・具体的政策を語ってみてくれ」私が審査員なら彼にそういうだろう。

今のままの小さい政府でいくのか。それとも多少は大きな政府の概念をとりいれるのか。もし小さな政府であれば、経済的弱者へのセーフティはどう図っていくのか。それとも本来自由競争とはそういうもので、そういう配慮自体必要なことでないと考えるのか。困ったことに、リサイタルを前にしても八方美人の期待の候補者はなかなか演奏をしてみせてくれない。

「大統領になりさえすれば政策などどうでもいい。目標は大統領になることそのもの。政治がやりたいわけではない。そのための選挙だ。」まさかそう考えてるわけではあるまい。果たしてアメリカ国民は、演奏のないままのリサイタルで満足するのか。「私が大統領になることが、アメリカの政策そのもの」それがもし通るのなら、そんなものはもはや政治とはいえない。
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by phtk7161 | 2008-07-29 00:20
テレビ東京の女性記者とみずほコーポレートの頭取の不倫問題。個人的にいえば、よくありがちな話なので、私にとってはことの事実自体はどうでもいいようなことなのだが、記事の中で少し興味をひかれた点があった。それは、女性記者が身近には「あの写真は合成だ」といっているという点である。

おそらくこの話は・・・彼女の弁明は・・・彼女が苦し紛れで言っている可能性のほうが強い。ただ仮の話だが、彼女の言っていることがもし真実ならどうなるであろうか。合成写真を使って記事を作ったなら、これは完全に民事上(場合によっては刑事も)の不法行為が成立しよう。合成写真を記事の載せたこと自体で、たとえ不倫が事実だったとしても・・・少なくとも民事上は・・・りっぱに名誉毀損は成立する。「公の利害」に関することであっても、虚偽の手段を用いての報道を法は決して保護しない。

それだけではない。雑誌のメディアとしての信用の失墜は免れず、大きな社会問題になってもおかしくないだろう。真実を伝えるためのメディアが故意に虚偽の事実を作り出すこと自体、絶対あってはならないことなのだ。それはメディアにとっての生命線ともいえる。合成が事実なら、その雑誌は即廃刊であたりまえだといえる。

彼女の弁明は今のところ身近に対してのもので、公式に公の場で述べたわけではないから、今の時点では苦し紛れの言い訳・・・ウソ・・・だとしても、そう問題はないだろう。ただ公の場でいったとなると、これまた雑誌の信用にかかわってくるから、ことは平穏ではすまなくなる。雑誌社のほうから彼女への名誉毀損もありうる・・・ただ理論的にはできるとしても、雑誌社もいろいろあるだろうから実際そうする可能性は低い。

苦し紛れの弁明であっても「写真は合成」という具体的な事実であれば、話した場所によっては(「公然」の場合)法的問題も大きく関わってくることは知っておいたほうがいい。メディア伝えるべき真実とは、本来はそれほど重いものなのだ。「面白いから」「興味をひくだろうから」で「合成写真を使いました」ということが、冗談半分で通る世界では決してない。また一方でそれは・・・写真が「合成」でなく「本物」と知っているのなら・・・そう軽々しく口にすべきことではない。

女性記者の弁明についての記事。軽いノリで書かれているようにも読めるが、本来ならこれは、どのメディアにとっても、自らにも関わってくる問題として、もっと深く掘り下げなければならない問題点をふくんでいるのである。それを揶揄的内容の記事のレベルにとどめてしまうところが、今の週刊誌(雑誌)のメディアとしての質・・・真実を伝えること(=メディアとしての社会的信頼)に対するプライド・・・の低下を表しているといえよう。そしてこれは、報道に携わっていたはずのかの女性記者にももちろんいえることである。
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by phtk7161 | 2008-07-27 04:50
本当にいやな事件が多い。政治状況もなんだかなという感じ。オバマの政治家としてのメッキもはげつつある今日この頃、このブログは社会問題を書くことをテーマにしているから、本来なら今回もそういったテーマをとりあげて書くべきだと思う。

しかし、こう通り魔的ないやな事件が続くと・・・今の日本のすさんだ現状をみせつけられているようで・・・さすがにブログを書くのもめげそうになる。そこで今回は気分転換の意味も含めて、本来の分野とは関係ないテーマで書いてみようと思う。テーマを見て興味のない方は、もちろんスルーしてください。

というわけで何を書くかというと、ボクシング。好きなスポーツなので、今回これをテーマに書いてみたい。個人的な思い込みによる内容になってますが、この点についてはどうぞご勘弁ください。

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みなさんは、どういうボクサーがお好きだろうか。やはり人気があるのは、KOキング的なパンチのある選手だと思う。これは野球で言えばホームランをボカスカ打つ選手のようなものだ。だから時にジム関係者やプロモーターは、人気選手をつくりだすために、目をつけた選手にかませ犬的選手ばかりをあてがい、KO記録を伸ばしていくという手法を取る。

しかしこれも程度問題で、あまりに露骨すぎると例の亀田兄弟みたいにしらけてしまう。やはり対戦相手としては、ロイヤル小林や赤井が戦った相手レベルは維持してほしい。そうでないと何の裏づけもなく無駄にKOの数字がふえただけにすぎない。そんな数字に何の価値もありはしないのだ。

外国のボクサーでKO的な意味で記憶に残る選手としては、カーロスサラテ、アルフォンソサモラ、トーマスハーンズ、ホセクエバス、ウィフレッドゴメス、アルゲリョ、フォアマン、ロベルトデュラン、そしてシュガーレイレナードこういったところか。

おなじKOキング的ボクサーでも、タイプは2種類に分かれる。フォアマンは重いパンチで「ズシッ・ズシッ」というタイプだし、サラテやレナードはピンポイント的に急所を「スコーン」というタイプだ。スピードタイプというべきか。もっとも階級の違いも当然影響する。重いクラスになるほど、文字通り重いパンチで肉弾戦のケースが多くなるのは当然といえば当然かもしれない。

ところで人気ボクサーの条件であるが、やはり女性ファンまでひきつけるには、残念ながらパンチがあってKOを積み重ねるだけでは足りない。別の魅力も必要となる。

たとえばビジュアル。日本人ボクサーでいえば、シンデレラボーイと呼ばれた西条正三はとにかくカッコよかった。外国でのノンタイトル戦の勝利から世界戦のチャンスを掴み、タイトル奪取に成功した(同じく外国で)経歴もそれに華を添えていた。端正なマスクはとてもボクサーにはみえなかった。顔立ちは今でも数ある日本人ボクサーの中でNO1といえるのではないか(あくまで個人的見解だが)。もちろんビジュアル的な人気も、世界チャンピオンになる実力があったからこそなのはいうまでもない。

ビジュアルではなくても、雄弁・・・おしゃべり・・・というパフォーマンスで人気を博したボクサーも居る。いうまでもない、あのモハメッドアリ(=カシアスクレイ)である。彼のおしゃべりは単なるそれに過ぎない場合もあるが、時に政治的なメッセージも含んでいた。徴兵拒否をして散々メディアに叩かれたが、復帰後の戦いで結局は世論に打ち勝つことになる。復帰戦のジョーフレイジャー戦こそダウンを奪われ判定負けを喫したが、その後のフォアマン戦でのKO勝利により見事にチャンピオンに返り咲いた。彼のリングでの戦いは、彼の生き様そのものだった。

復帰前のアリはスピードタイプのボクサーでだったが、復帰後のアリはどちらかといえば泥臭いタイプ・・・駆け引き・・・のスタイルだったといえる。もちろんパンチ力もないわけではなかったが、決してKOを量産するタイプのボクサーではなかったといえるだろう。しかしもちろん強かった。その実力とおしゃべり的なパフォーマンス・・・政治的意味も含めた・・・があわさって、ボクシング史上というより社会歴史上という意味でも名を残す名ボクサーであることは間違いない。

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で、あなたの一番かっこいいと思うボクサーは誰と問われれば、私はやはりシュガーレイレナードをあげたい。アマチュア時代から注目され、金メダリストにもなった華麗な実績・・・ちなみにアリもそうだった。プロの入ったときから、すでに別格の扱いだった。順調に世界チャンピオンへの階段をかけあがり、まさにスパースター。マスクも端正で、そのボクシングスタイルはスピードにあふれていた。その存在は、人が夢として自分がこういうチャンピオンになりたいと思うモデルといえた。

私が彼の実力を思い知らされたのは、なんと言ってもトーマスハーンズ戦(初戦)である。この試合私は正直ハーンズのほうが有利だと思っていた。所詮カッコよさが売りのボクサー。トーマスの長いリーチからの矢のようなパンチをそうかわせるわけがない。いずれはリングに沈むだろう。そう思っていた。事実どちらかといえば、出だしはハーンズ有利だった。ただこの恐ろしいまでのハーンズのパンチをかいくぐり、一瞬の隙を狙ってレナードのパンチが見事ヒットする。その後の怒涛の攻撃。そしてKOされたのは、あのハーンズのほうだった。

ハーンズの強さは、それまでの彼の戦を見れば分かる。驚くほど長いリーチからのそのパンチ力は2つ3つ上のクラスの破壊力持っているのだ。そのうえ恐ろしいまでのスピード。あのデュランででさえ一発でマットに沈んだのだ。だから彼自身がすでにとてつもなく無敵のボクサーであった。彼を相手にまぐれで勝つことはまず無理な話である。しかしそのハーンズがKOされた。その事実の前では、私はレナードの実力に脱帽するしかなかった。彼はかっこよさだけでなく実力もまた超スーパースターであったといえる。

もっともレナードの実力は、このときがまさに絶頂期だった気がする。その後はスパースターらしからぬ試合もけっこうあった。しかし実力、ビジュアルなどあらゆる面から総合的に見て判断するなら、トーマス戦勝利時のレナードほどかっこいいボクサーはいない。アリ・フォアマン戦やアモレスと大場・チャチャイ戦も確かにスリリングでエキサイティングな試合であったが、やはりそれは本来のボクシングの持つ肉弾戦的泥臭さをもっていた。

しかしトーマスハンズとレナード戦は、それとはまた別世界のボクシングがなされれていたような気がする。それはまさに超スパースター同士の試合だったからこそ、なしえたものなのだろう。そこはボクシング本来の肉弾戦的泥臭さの消えた、次元の違うスピードのパンチが交差する華麗な別世界だった。そしてこの試合の勝者となったからこそ、シュガーレイレナードには世界中で一番「本当に強くかっこいいボクサー」としての称号を与えられるべきだと思うのだ。
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by phtk7161 | 2008-07-25 00:35
通り魔による殺傷事件がまたもや起きた。それぞれの事件を細かくみていけば、違う点も多い。しかし事件の本質をみるとき、犯人に共通した点もみうけられる。たとえば理想と現実のギャップに対する不満、あるいは孤独感、さらには感情コントロールの未熟さなどそうであろう。そしてこれらの共通した特徴は、彼らが今もって幼児性から脱し切れていないことを示すものといえる。

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人は成長に伴って親との距離間(自我の目覚め)、さらには社会との距離間もかえていく。前者でいえば親の干渉を避け一個の主体的人格としての行動をとりたがることがそうだし・・・たとえば反抗期も時にそのひとつの表れといえる・・・後者でいえば、学生時代やんちゃをやっていた人間が社会人になるとそれなりの行動をとるのがそうだ。

そうやって人は、距離を調整し一個の主体的人格者として社会との折り合いをつけていく。そしてこれらは人が成長していくうえでの重要なファクターでもある。ところが昨今、この距離感をうまく取れない人間がふえている。

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距離を測るとはどういうことか。それは自分なりの・・・主体性(それを意識しているかどうかに関係なく)・・・感情面での生き方の術(フォーム)を身ににつけていくということに他ならない

人は多かれ少なかれ誰でも夢を持つ。具体的な場合であれば「○○(学校)にはいりたい」「あるいは○○(職業)になりたい」というのがそうだし、抽象的であれば「金持ちになりたい」「女性(男性)にもてたい」ということなどがそうであろう。こういう夢がかなうことは、もちろんそう多くあるわけではない。夢と現実のギャップの中、不満を持ちながらも社会の中で人はそれなりに社会の中で暮らしていかなければならない。

そのために人は社会との調整の方を学んでいく。たとえば本音を話せる相手をもつこともそうであろう。そういう相手がいなければ、経済的社会とは別に他にも独自の場所・・・趣味的なものこれには遊びだけでなく学問的なもの(例えば哲学もそうであろう)もはいる・・・をもつこともそうだ。あるいは理想は持ちつつも現状ではそれが困難な場合、それを緩和した形で持ち続けることもそうであろう。そうやって人は自らの舵の機能を阻害する要因を取り除いていき、現実の社会との距離の調整をしていくのである。

その距離の調整ができずに、現実への不満の形を人を殺傷することで埋めようとした人間が、まさに秋葉原や八王子の犯人である。そこには、成長過程で距離感の調整をできないまま育った人間像がある。

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もちろん子供に対する家庭教育は、それぞれの子供の性格や家庭環境に違いもあるから、具体的な形で一概にこうすべきであると決め付けることはできない。ただ抽象的な形なら、ある程度いえることがある。

それは子供の成長過程に伴って、保護者(親)は子供の人格の一個性を意識しなければならないということである。それはまた、子供に自らの頭で社会との距離感をどうとるか考えさせるということでもある。そのためには過度の干渉が禁物なのはいうまでもない。社会との距離調整ができないまま子供を社会に出すこと、それは彼に舵を取る機能のない(最低限の感情コントロールのできないまま)まま航行(一般社会に参加)させるのと同じである。

秋葉原と八王子の犯人は、この調整能力をもてないまま社会にでてしまったといえる。外見的にはそう見えなくても、心の面での社会との調整能力をもてないままここまできてしまったということだ。それはまさに幼児性に他ならない。幼児が感情にまかせて泣き叫ぶように彼らも感情にまかせるままの行動をとった。そういうことである。

自らの存在を社会に・・・・あるいは特定の誰かにという場合もあろう・・・確認させるために事件を起こした通り魔によるこれらの事件。犯人である彼らにとって、自分の存在を社会に通してくれるもの、それはマスコミである。そのマスコミに自らの存在をとりあげさせるための手段、それがすなわち通り魔である。その思考はまさに、他者の存在価値を意識しない幼児そのものの思考である。彼ら(犯人)は単に泣き叫んでいたにすぎない。舵を操る術をしらないまま育った人間の姿がそこにはある。
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by phtk7161 | 2008-07-24 05:52
案の定ある程度予想はしていたが、どうもメディアも政治家も大分県教育委員会汚職事件について、ことの本質にまでは切りもこみそうもない。もともと民間では、社員の採用関してコネもあたりまえであるから、この手のことについてメディアも全く無縁といえはない。また政治家(国家議員・地方議員)にいたっては公的分野でのコネ・不正にもろに加担する立場であるから、こういう問題追求への姿勢はなおさら消極的になってしまう。

そもそも今回の問題はどういう視点から捉え考えていくべきであろうか。これはさほど難しいことではない。すなわち公務員が・・・たてまえとはいえ・・・全体の奉仕者と位置づけられ、その報酬の原資が税金である以上、結局は公務員全般の採用試験について、それが公平性に耐えうるレベルになっているかどうかで判断していけばいいだけである。

民間が採用に関しコネが露骨でも許されるのは、会社が社員に払う報酬の源が一応は公的お金ではないからである。刑法の贈収賄の成立が公か民かの分野で分かれてくるのも、そういうことと無縁ではない。また憲法14条(法の下の平等)は、第一義的には公との関係おける国民間の公平な扱いを規定している。

そう考えていくと行政には、公的な職員の採用試験全般について受験者を等しく扱うことが当然に要求されているということになる。つまり「公」の観点こそ・・・だからこそ各種国家試験にも厳格な公平性が要求されるのである・・・この種の問題の重要な点であるといえよう。

今回の事件の発覚後の流れをみると、メディア・政治家のこの問題に対する追求姿勢は、この問題を教員試験に限定しすぎていて、問題の本質から避げている。「教育」に関わる分野だから、採用試験の「不正」が許されないわけではない。「公」の職種に関する問題だからこそ許されないのである。

現在この種の採用試験のありかたは問題だらけだ。透明性に十分配慮し、試験についての情報を積極的に公開している都道府県はほとんどない。もっと筆記・面接についての配点基準のありかたや両者のバランス・・・実際、面接の基準が比重を多く占めればこれはもう不正などやり放題であろう・・・についてきちんと情報を公開し、受験者本人には本人が望めば試験での客観的な位置づけ(成績)を知らせるべきであろう。

これに対し採用試験についての行政側(人事)の回答は、無責任なものが多い。たとえばある自治体は、あまり試験の内容を広く公開してしまうと受験生が受験テクニックにはしり、それは妥当でないから広く情報の公開はできないという。しかしこれはおかしい。そういうわけの分からない彼らのいう弊害より・・・実際それはへ理屈にすぎない・・・むしろ秘密裏にすることから来る採用試験の不正の危険・・・採用人事の私物化的動き・・・のほうが、あらかに大きな現実的な弊害であるといっていいいはずである。

こういう自治体の回答の仕方ひとつとっても、今の公的職に関する試験(特に地方時自体の役所の職員・・・県庁・市役所・町役場・村役場の採用もちろん教職員も)において、如何に多くの自治体でこの手の「インチキ」が行われているかが分かる。不正が存在することは断言できる。もしやましところなく試験が行われているならなら、それはむしろ自らの自治体の誇るべきことがらとして・・・本当はそれで当たり前なのであるが・・・試験運営の内容を堂々と積極的に公表できるはずである。

今回の事件に関し、採用試験に不正に合格した教員を辞めさせるという話も伝えられた。授業をうける生徒の立場も考慮すればこれでいいか疑問はなしとしないが、それもまた決着のひとつのありかたであろう。

ただ彼らがそういうペナルティを受ける一方で、同じ形で採用された自治体の役所の職員・・・こちらのほうが政治家の口利きはもっと露骨である・・・は「無傷」のままであることは、明らかにおかしい。この問題はお金を使ったかどうかがポイントではない。アンフェアなやり方・・・有力者・政治家のコネ・・・を使って「公」の職に採用されたかが問題なのである。

自治体の役所の採用についての政治家の口利きは、政治家にとってある種の「職務」にもはやなっている。政治家・地元の有力者は、そうやって公平な条件下であれば採用されたはずの人をおとし、一方で本来採用されるはずのない人間に、公的「職」・・・その給与はもちろん税金・・・を世話してきた(そして今も)のである

今後広く「公」の観点から、この問題を追及するメディアが出てくるか。また「公」の職に関する試験を公平に行うための立法の措置・・・これはもちろん政治家の仕事である・・・がなされるのか。真の意味の「改革」とはこういう「改革」をいう。それもできないまま「改革」をうたい実力主義を叫ぶ者の考える社会など、それは単なる餅画(がべえ)の社会にすぎない。今のままなら彼らには、今回の事件に関わった人間を非難する資格など間違ってもないのである。
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by phtk7161 | 2008-07-18 01:37
手前で掲載した村岡氏の判決についての記事は、再掲載の形をとった。しかしそれとは別に・・・・せっかく来て頂いてるのだから、やはり何かあらたに記すべきと思い・・・一日で2つめの記事となるが「新国立劇場」の問題について書くことにした。よかったらこちらもお読みください。

新国立劇場でおきた問題とは、演劇部門の芸術監督交代劇をめぐる騒動である。この交代のやりかたが批判をよんでいる。批判の原因は、一期での交代(3年)は唐突であるうえ・・・前任者は6年ほど・・・あらたな人選の選考の過程も不透明であり、理事内には反対意見もあったにもかかわらず一連の決定が理事長一任の形でなされたことである。

私は内部の人間でないから、この紛争そのものの原因(政治的な面)や理がどちらにあるかははっきりは分からない。それでも今回の騒動の背景には、その根底にもっと本質的な問題があるように思う。

新国立劇場は第二の国立劇場・・・その冠名は「オペラシティ」・・・として誕生した。日本における国際的な文化の素養を養うことを目的として誕生したものといっていいいだろう。当然日本だけでなく外国からの招致・・・たとえばオペラの上演・・・も目的としている。でも見方をかえれば、ある意味「鹿鳴館」的なものがみえてくるようにも思う。役人を中心にこの種の企画を練れば、所詮そんなところだろう。

本質的な問題というのは次の点である。すなわちここにも、役人の天下り的な形が見え隠れしている。オペラについては、そのおおもとの役所はずばり「文部科学省」。構図はこうだ。新国立劇場の運営は法律(振興法)にもとづき、文部省から「独立行政法人日本芸術文化振興会」にまかされる。そしてこの独立行政法人から、「財団法人新国立劇場運営財団」に業務が委託されることになる。

独立法人とはいえ、法人発足時の出資金(運営交付金)は税金である。その税金で作られた独立行政法人が具体的事業を別の組織(とはいっても一連的になっているケースも多いであろう)に委託する。そしてそのどちらにも、文部科学省の役人が入り込んでいるというわけである。

新国立劇場運営財団の理事長(責任者のトップ)は、小泉内閣時に文部科学大臣を務めた遠山敦子氏である。彼女ももともと文部省の出身である。また実際の実務に強く関わるこの財団の常務理事(3人)の一人も、やはり文部省出身の霜鳥氏だ。

またこの財団の多くの理事や監事などの役員には、今の格差問題を作り出した「市場原理」万能主義をとる小泉改革に沿った形の(支持している)人物が多い。たとえば、常務理事の角田氏は経団連の人だし、残りの岡部氏ももともとはトヨタの広報の人である。つまりどうみても常務理事の3人ともが小泉改革的人物で構成されているのである。この財団に出資している企業が、トヨタやロームであるからこういうこともさもありなんということか。

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こういう人的つながりの関係は、別の面でもいろんな形で波及している。たとえば新国立劇場運営財団の監事をつとめる前田氏(江東区教育委員)は、やはり遠山氏が理事長をつとめる松下教育研究財団で非常勤の理事となっている。つまりこういう財団では文部省出身の人物がそのトップに座り、理事には別の財団でもつながりのある人物が起用されているということだ。

こういう形が組織にとってマイナスであることはいうまでもない。ある縄張りをもつ役所が多くの財団にかかわりを持つ中で、トップとその仲間達をいろんな場所で起用する。別の組織でも関係する仲間であるから、多くの場合同じ考えをもつことが多いであろう。そのため結局は「イエス・マン」ばかりの組織になってしまい、だんだん独善的になっていく。その根底に「この財団は○○省のものなんだ。他の奴は形だけ居ればいい。口を挟むな(さからうな)」こういう考えがあることはいうまでもない。

反論する人間がでる場合に備えて、理事の多数は自らの仲間で構成される。だからおかしな事柄に対し、率直に意見を言える人物はどうしてもこういう財団では少数になってしまう。財団が少数のこういう人物を起用するのは、財団が民主的に造られ運営されているようなイメージ作りをするためだけにすぎない。本当は、もともと民主的に運営する気などさらさらないのである。

こういう構図は小泉改革のなかで、よりスピードアップして行われるようになった。たとえば諮問会議もそうである。予定された結論と反対の意見をもつ人物はごく少数(極端な場合はゼロである)しか起用されない。このどこが民主的なのか。彼らは実際民間の代表者でない。政府の意向をうけた民間の表紙的な人物にすぎないのだ。

そうやって、余裕で日々の生活に困らない人間が、自己満足にすぎない趣味的な政策を実現するために集まり、会議という名の形式的な儀式を行って医療改革や司法制度改革も進められてきた。それを「改革」だと彼らはいう。しかし実体は決して「改革」ではない。一方的な「破壊」である。その「破壊」の端緒をつくる役割を担うのが、まさに諮問会議なのである。こんな馬鹿げたことは、もうやめるべきだ。同じ仲間を使いまわし、あちこちにいくつもの会議をつくっても意味などないのだ。多角的に意見を集約できない会議など、時間カネとも無駄である。

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今回の新国立劇場の問題の根底にも、どうもそういう点があるような気がしてならない。文部省(あるいはその仲間達)がここは「オレの財団」ということを確立するためあるいは権力をみせつけるために、反対する意見を封じる形で理事長一任にしたとしか思えないのだ。

もちろん遠山氏側にも言い分はあろう。そうであるなら、芸術監督の交代とあらたな人物の選考過程についてなぜその人物のほうがいいと思うのか、どうしてそういう選考方がよいと思ったのか、堂々とその理由を明らかにすればいい。そうしないのであれば、選考過程に透明性がないといわれてもしかたないであろう。

法的にどういう形であれ、この財団の誕生のお金のもと・・・財団の後ろ盾である独立法人成立のための出資金・・・は間違いなく税金である。したがって組織の人事についても、財団は社会に対する「説明責任」と「情報の公開」をきちんとやらなければならない義務がある。これは財団の公益性から、あるいは理事長という職からいっても当然の責務である。それをしないまま独断の形でおしきるなら、それはオペラが文部科学省とその仲間達の所有物であることを証明しているようなものなのだ。
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by phtk7161 | 2008-07-16 04:17
  村岡元官房長長官の上告が棄却され、日歯連事件での有罪判決が確定した。私はこの裁判は問題点が多いと思っている。そこで来訪されていただく人には失礼なかたちは思うが、控訴審時に記した2007年5月に記した当ブログの全文を以下にあらためて掲載することにした。興味のある方はお読みいただきたい。

       
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 村岡元官房長官の判決は、一審の無罪から一転有罪となった。二審の裁判における検察側の証拠はほぼ一審と同じもので、今回の判決は裁判官による同じ材料を基にしたうえでの認定の違いによる結論ということになる。 つまり同じ証拠であっても、裁判官(人間の)の違いによって「合理的な疑いを超える程度」の立証を検察官がしたかどうかの心証が異なるというわけだ。まあ裁判といっても、機械ではなく人間のやることだからそうであってもおかしくはない(自由心証主義であるから)。でも、ことは人の一生を左右する力を持つ裁判に関することだ。果たして、今回の判決は妥当といえるのか。

 今回の判決をめぐる問題の本質は、裁判官(所)ではなく、むしろ検察官(組織)にあると私は思っている。今の検察の何が問題か。今にはじまったことではないが、ただことに最近の検察の印象は一言で言えば、かなりあらっぽいということだ。それは物理的な意味のあらっぽさではなく、むしろ有罪を立証するための論理的構成の意味でのあらっぽさである。緻密な論理仕立ての世界から、勢い(時には、やっちまえ的な感情を根底とする)に任せた世界へどんどん流れているような気がしている。もっというなら、ある種の政治的力・・・たとえば裁判所とのつながり・・・に頼りすぎているということである。

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 今回の村岡元官房長の事件にしても、そういう面がみられる。有罪のポイントとなる要は平成総研の滝川事務務局長の供述証拠である。一審は彼の供述の信用性に合理的疑いをもった。当時の自民党事務局長が滝川事務局長から献金扱いにの相談を受け、一部迂回献金があった事実は濃厚である(この点は、裁判所も認めている)。

 それを受けて一審は、今回の事件を村岡&滝川組が事件の核心(政治資金規正違反の核となる部分)ではなく、むしろ他の政治家や組織(自民党本体)が今回の政治資金規正法違反事件の核心だとしてもおかしくないと考えた。その結果村岡被告が事件の中心人物であるとすることについて合理的疑いをこえるとまではいかない(=無罪)としたのである。

 ところが二審は、いやそれは(自民党事務局長をめぐる動き)は単なる付属的な出来事で、事件本体とは関わりがない。あくまで村岡&滝川組が事件の画策の中心であることに、合理的疑いを抱かせることはないとしているのである。

 実は当時の事務局長(元宿氏)は今事務総長となっている。つまりこの事件で彼は政界から身を引いたわけではない。今でも党の事務方としてそれなりの地位にいるといっていいであろう。この点からみても、私は一審の認定した、検察側が用いたストーリー以外の他のストーリーの存在の蓋然性に、かなりの無理があるとまではいえないと思うし、また仮に一審の認定したストーリーが違っていたとしても、だからといって、少なくとも検察側のストーリーが他のストーリーの存在を容易に連想させないほど、ゆるぎのない説得力をもっているとは思えない。

 私は裁判の事実認定において、最も大事なことは経験則(その世界の習性的もの)・・・もちろん経験則がすべてではないが・・・だとおもっている。事件全体からかいまみえる、政治がらみの社会における人間関係の経験則からすれば、私には今回の判決は妥当とは思えない。
 
 日歯連をめぐる問題の中心人物は、橋本派の議員であることは間違いない。しかし、当時の力関係からして村岡氏が今回の献金をめぐる中心人物だったとすることには、かなりの無理があろう。もちろん、広い意味では彼も政治資金規正法違反の端っこで、事務的手続をめぐる動きにおいて政治資金規正法違反の要件に該当する行為はあったかもしれない。しかしあったとしても、それはかなりの端くれ行為で今回の判決ほどの可罰性を要する行為とは思えないし、しかもその行為の本質(持つ意味)を本人はほとんど意識すらしていないと思われる。

 それは遺失物横領のようなものに例えれば(たとえとしてはかなり強引で無理があることは承知しているが、事件をよりわかりやすくするためにあえて別の犯罪で単純化してみる)、落ちているお金をみつけ自分たちのものにしようと考えた人間たちが、その金を拾うこと自体(政治資金規正法違反であれば、事務上の無記載行為)は下っ端の人間(自分達の意のままに動く)にまかせ、一端は自分達のグループ(あるいは、そのグループの属する組織全体)のものにした。しかしそれがばれてしまった。そういう事件があったとしよう。

 この事件において、検察は実際に拾った人間と、お金が落ちていた現場にはいなかったが、拾った人間から「このお金どうしましょう」と聞かれ、「とりあえず持っとけば」といった(検察側のストーリーにのればそういうことになる)人間を主犯としているよなものだ(もっとも村岡氏側は相談された事実、お金の処理をめぐる相談の会合があったこと自体否定している)。事件全体の決着のつけかたとしては、どうみても無理があろう。

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 今回の判決からみえるものは、検察側の日歯連事件をめぐる筋書きの荒さと(論理性を含め)事件の支流(村岡氏の件は支流ですらないのかもしれない)を本流としてしまった、政治決着的やりかたである。今回の判決は、それにそのままのっかってしまっている。

 検察官に求められるものは、政治的処理ではない。法的処理である。刑事事件は人の人生に民事以上に重大な影響を及ぼす。したがってそこでは、処罰の必要性(本当に必要かどうか)や、事件に関わった人間の処罰の均衡性などを考慮したうえで、公訴権は行使されなければならない。それが時の政治的背景や時流にまかせるまま、論理を軽視し「とりあえずやっちまえ」では、治国家としての検察官の信頼は低下してしまうだけであろう。

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 今回の判決などから、最近の検察の公訴権の行使の動きをみると、近時の検察官(組織)には、法的「理」による「冷静さ」が低下している気がしてならない。最初に述べたように、事件によっては、刑事司法の原理原則的「(論)理」を無視して、かなりあっらっぽい処理をしているように思える。
 
 例えば、板橋の高校の君が代をめぐる元教師(この高校のOB教師)に対する威力業務妨害の事件なども、果たして起訴される必要があったのか。この事件は、警察すらそもそも逮捕するつもりのなかったものを、一都議による議会の質問で、この元教師の身柄拘留が行われたと言われている。

 事件の内容を見る限り、明らかに業務(学校側の卒業式)の実質的妨害(処罰を必要とするほどの)はない。ようするに、政治側の意図(ある都議とその仲間達の意向)を受けた捜査が行われたと言っても過言ではない。そして、そこに検察までのっかり、あげくに裁判所までのっかってしまっている。

 事件の背景(告発の動機などもふくめ)や可罰の必要性を考慮したとき、この事件で検察官や裁判官は、愚かな一都議の行った、元教師の逮捕を求める煽り行為にのって、安易に身柄拘束(これは警察がやったことだが・・・しかし裁判所はそもそも逮捕令状を許可すべきだったのか)したり起訴さらには有罪判決をくだすべきではなかった。

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 おりしも最近「人質司法」をめぐる問題もとりあげられている。これは、痴漢などをめぐる事件(迷惑防止条例違反事件など)で行為の事実を認めないものに対し、勾留を延長することにより(仮釈放を認めない)あたかも自白の有無と身柄の拘束がセットのようになってしまっている問題である。

 この問題のむごいところは、被告人に対して言い渡される刑罰以上に、それまでに身柄拘束された期間のほうが長期にわたっていて、その結果、判決の量刑よりもそれまでの過程で受けた処遇(長期の身柄勾留)の方が、被告人にとって何倍も過酷な状況になっているということである。

 痴漢は確かに卑劣である。許すべきものではない。しかしそのことと、「無罪推定の原則」をひっくり返してまで、身柄拘束(否認しているものに対する)や処罰の必要性が優先されるべきかは別問題である。被害者の供述のみで捜査における身柄拘束が容易におこなわれ、あるいは有罪となってしまう現状は、是正される必要があろう。

 検察官、裁判官、いずれも大変な職務である。職務の内容と忙しさからすれば、彼らの収入も決して高いとはいえない(私は世間が言うほど、彼らの給与が高いとは思わない)。そういえるのは、彼らが人の人生の運命を左右する決定的な権力を他の職業以上に持つ職業であり、それにふさわしい、高度な法的知識や人権への意識が常に求められるものだからである。

 彼らは、やみくもに人の身体を拘束すること(を認めること)や罰することを、職務として求められているわけではない。世間や時の権力に向こううけするような「感情」ではなく、高度の法的専門家としての法に基づく冷静な「理」にかなった職務の遂行が、彼らにはより求められているのである。今の現状をみると、その部分がゆるみつつあるような気がしてならない。
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by phtk7161 | 2008-07-16 00:08
大分県教育委員会の汚職が摘発された。事件の内容を見る限り確かに悪質である。1000点満点で100点差までも操作していていたのだから、これはもう「試験」とはいえない。試験は単なる「儀式」であったことになる。関係者には厳罰が下って当然と思う。

ただいっておきたいのは、この種の「コネ」「不正」はこれまで限りなくあったし、今でもあるということだ。私自身この種の「コネ」「不正」使う人間を、これまで幾度か目の当たりにしてきた。具体的にいちいち話すわけにはいかないけれど、教職員・地方の役所・国家公務員の採用について、この種のことについてあげていけばきりがない。

公的職業についた友人も、「使いたくないけど、議員や有力者を使わないとなかなかすぐには採用されない。だから親を使ってコネを使わざるを得ない」と自嘲気味に話していた。また受験や進級に関しても潔く「不合格」「留年」をうけいれるものがいる一方で、身内のコネを使い不正にそれをクリアするものもいた。知ってる馬鹿の一人は、そのことをさも自慢げに話すのであるから、これはもう何をかいわんやである。

最近ではそういう露骨な不正はだいぶましになっているのかもしれないと思っていたが、今回の事件をみると昔と実体はさほどかわっていないといえる。決定権に影響力をもつものが馬鹿親の(身内)依頼に応え、相手に貸しを作り自らの利益の確保を図る。馬鹿議員の口利き構図で言えば、依頼対象の陳情を聞き票につなげるという形が典型である。

この種の「コネ」や「不正」許されないのは、それが国家的法益に反するからだけではない。法律的に言えば確かに贈収賄における職務の公正・信頼あるいは清廉性・不可買収性から許されないことが理由となるのだろうが、そんな理屈よりもっとシンプルにいえばその行為がまさに「アンフェアー」だからである。

そのアンフェアーな行為が、本来正当に採用を勝ち取その職務につけるはずの人間を不合格とし、結果その人間に別の人生を歩ませる。カネを受け取ろうが受け取るまいが、「コネ」「不正」に手を貸し特定の人間を優遇した事実が存する限り、その行為は明らかに煽りを受けた人間の(本来合格となるはずの人間)の人生を変えてしまうのである。

それは贈収賄が成立するか否かの問題ではない。それは人権上の(憲法14条や13条)の問題である。公平であるべき事柄・・・たとえば今回のような公的な採用試験もそうである・・・について、ある人間が平等に扱われずその人間の尊厳が守られていない(客観的基準をクリアしたはずなのにそれが正当に評価されない)。だからこそ問題なのである。

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ところで今回の摘発については、その背後で政治的思惑があることもとりだたされている。私が知る例でいえば、選挙をおえたばかりのある長について、役所の採用に絡み不正行為の怪文書が出て政治問題に発展しドロドロの状況となったことがある。この件が笑えなかったのは、その事件があかるみになった原因が、これまた「コネ」「不正」を使いながら落とされた側からの暴露であったことである。この件のようにこの種の事件の摘発が選挙に絡んで行われるケースも珍しくない。

今回の事件についても、その背後でいろいろな憶測がとびかっている。例えば「日教組つぶし」もそのひとつだ。もともと大分県教育委員会と日教組は、他県に比してわりに近い関係にあった。その点を絡め、政治的にも今回の事件を追求しようとする動きである。

そうしたことからすれば、当然今回の事件について保守(国家)主義的者は喜んで「日教組が・・・」と批判するのだろう。しかし私に言わせれば、この手のことの場合むしろ保守的人物が絡んだ不正のほうが多いといえる。少なくとも以前から保守的議員による役所採用関係の不正は圧倒的である。「現なま」をあるいはいずれはそれにつながる「利益」を手にした地方議員(もちろん国会議員もだが)がどれほどいることか。そうやって彼らもこれまで、正当に採用されるべきはずの人間の人生を変えてきたのである。

大分の教育委員会の関係者は徹底的に叩かれるべきだ。激しく追及して欲しい。そしてそれと同じように、この際「現なま」の絡みにかかわらず「コネ」「不正」による役所採用(特に地方の)の実体も厳しく追求すべきである。公的(関連の)職務について、その試験の「公正さ」のありかたについて徹底的に見直すことである。そうでないと今回の事件も、結局は「政治がらみ」の摘発にすぎなかったということになる。

具体的には、採用試験に関しては口利きを禁止し、合否に関しダブル(トリプル)のチェックを入れ100パーセントの透明性(その時自治体とは関係ない独立行政委員会的な第三者的監視委員会的なものを設けて)をはかる。そして不正に関わったものには、執行猶予のつかない最低期間の懲役刑(4年)を科すことである。そうやってはじめて「フェアー」な試験といえる。それが(地方の)議員さん達にできるだろうか。採用に関しすねに傷を持つ議員さんも少なくないだろう。

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ここまで読んできて「お前そんな偉そうなことをいえるのか」と思う人もいよう。所詮「お前にコネがなかったやっかみだろう」と。しかし親のコネはあった。卒業時の就職に関し使おうと思えば使えた。ただ根がひねくれているせいもあるが、もともとこういうやり方は体質が受けつけない。どうみても「アンフェアー」で「ずるく」けったクソがわるいのである。それは当たり前のことだ。

だから兄弟全員この種のコネは決して使わなかった。親は大いに不満だったようだ。でもおかげで、兄弟ともに堂々と人生を生きていられる。知人や身内を通じて誰かに職のことで借りを作り(コネを頼み)その人間に対し・・・こういうやつは大抵しょうもなく威張ったやつが多い・・・特別かしこまることもない。試験的もので他人と競うことに関して「パパ(ママ)なんとかして」「おとうちゃん(おかあちゃん)なんとか助けて」なんて、いい成人すぎの人間がそんなこといってられるか。そういうことである。

馬鹿親の頼みを聞いてコネ人間ばかりいれ、結果凋落した企業もある。「現なま」の有無は関係ないとすれば、これまで試験的なものに際しアンフェアーな形で本来の合格者を蹴落とした人間(民間も含めればなおさらである)は、この世の中にゴマンといる。そういう点は今回の事件を批判するうえで、みんなで認識しておかなければならないことであると思う。それを認識しこういった風潮をなくすことが、またあらたな社会の進歩にもつながっていくのである。
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by phtk7161 | 2008-07-11 01:42
洞爺湖サミットが閉幕した。昨今のサミットのごたぶんにもれず今回のサミットもいろいろ批判されている。その批判の多くはもっともなものだと思う。そういう点では昨今サミットの存在意義が、発足当初に比して低下していることは事実である。今回のサミットでも、地球温暖化や食糧危機などについて、宣言にまとめたとはいえ有力な解決策が見出せた内容になっているとは言いがたい。

とはいえ、それでもサミットの存在意義が全くなくなったわけではない。国連とはまた別に、一定の影響力をもつ異なる利益・価値観を持つ国が、世界レベルの重要な問題や共有していくべき価値観を見出していく場を持つことはやはり必要といえる。

福田首相が言ったように、スタートラインの意味しかなくとも、そのスタートすらなければ問題の解決などできないわけで、そういう点ではまだサミットはその存在意義をなくしてはいない。最低限国同士の顔つなぎでも、それがあってこしたことはないといえる。以前にも記したが、最低限のパイプでも・・・あるいはその微々たるきっかけにすぎなくても・・・全くないよりははるかにましである。

さてサミットを終えた福田首相であるが、今後の政局はどうなっていくか。正直いってなかなか読みにくい。ただそれでもはっきりしていることがひとつある。それは福田首相の政権へのこだわり度である。おそらく今後は、これまでのように首相のイスに座り続けることにさほど固執しないと思う。

もともとは安倍政権誕生で、もあきらめた首相のイスである。それが思わぬ流れでそのイスにつき、今回議長国としてサミットのホスト役まで務めることができた。ホスト役はあの小泉首相でさえできなかったことである・・・もちろんこれは首相の能力には全く関係なく、順番的もので単なる運にすぎない。それでもやはり役柄としては光栄である。

彼の場合父親のこともあるから・・・父親はホスト役のサミットを前に総裁選でまさかの敗北を帰してこの役は務められなかった・・・なおさらであろう。だからサミットまではなんとか首相はつづけたかったはずだ。そして今回その大役を終えた。そうである以上、彼は首相としての地位にこれまでほどは執着しないだろう。

その気持ちの余裕がマイナスと出て早々の政権放棄となるか、それともプラスと出て予想外の政権延長につながるか・・・衆議院の任期満了かその近くまで・・・それはわからない。ただ民主党もこの心境の変化を軽視すると、政局において思わぬ苦戦を強いられることもありうる。そのあたりをどう民主党が読んで行動をとるか。そのあたりも、今後の政局のポイントといえると思う。
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by phtk7161 | 2008-07-10 01:13