社会問題を考える


by phtk7161
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<   2008年 08月 ( 13 )   > この月の画像一覧

司法改革推進に携わるものが好んで使う表現がある。「法曹は経済的に恵まれすぎている」今の現実ではたしてそうだろうか。もはや弁護士も一部を除きとりたてて裕福なわけではない。法を扱う者がカネを得ていけないといいたいのかもしれないが・・・事実それに近いことをいった推進者もいる・・・人は霞を食べて生きていけるわけではない。美的言葉もいきすぎれば「貧すれば鈍する」の結果を招いてしまう。

「医者という職業は自分の生活を維持するためにやってはいけない。金のためではなく人の命を救うために職業につくべきだ」。美しい言葉だ。でも日々の生活に苦しんできちんと職業を全うできるだろうか。今の医療の現実を見れば分かるはずだ。あまりに労力に見合わなすぎる医療分野からは撤退する医師も増えている。

アメリカの司法の社会が乱訴社会になり、訴訟が純粋な事件性からはなれてしまうのも、法曹が多すぎることと無縁ではない。日本でもそうだが大企業につくアメリカの弁護士の収入の大きさを見てみれば分かる。厳しい法曹競争を生き残るあまり人権意識など捨て「金」「金」「金」がすべてなのが、りっぱな法曹であるはずの彼らの姿である。「金のない(あるいは金にならない)クライアントは人権を持つ人にはあらず」これがアメリカ司法の等身大の本音である。

これが果たして「法の支配」にふさわしい市民社会といえるだろうか。アメリカの大好きな司法制度改革推進者に問いたいのは、彼らのお手本である国のこういう現実にはどうこたえるのかということである。

日本の弁護士も今のままであれば、間違いなく自分の糧のために依頼者に乱訴をすすめ、あるいは違法に手を染める(例えば暴力団などに完全に飼われてしまう)弁護士も増えてくるだろうと思う。

今はまだ生活のための糧を通常の弁護業務で稼ぎつつ、弱者のためには手弁当で頑張っているいる弁護士がいる。しかし今回の改正(たとえば馬鹿げた数の弁護士の増員)は、そういう弁護士から生活のための糧を奪ってしまう。そうなると手弁当での活動どころではない。そうなれば日本の司法社会は今より開かれるどころか、むしろギスギスした社会、カネでしか権利が買えなくなる社会になってしまう。裁判員制にしても、すでに何度かブログで述べたように様々な問題点がある。

今度の司法改革の最大の過ちは、度を越した改革とそのスピードにある。それはアメリカの意向を受け、それが自らに大きプラスになる人間が中心になっておこなわれたものだ。派遣業法の改正も「国際化」の名の下、国民不在のまま市場万能改革によって進められてきた。その結果が今の現状である。今司法改革も同じように、国民不在の下ですすめられようとしている。

個別具体的な「人」というものを前提にして考えていけば、今の改革は司法の破壊でありとても「法の支配」など成し遂げられない。彼らは結局、改革のなかで抽象的なイメージでしか「人」というものをとらえていない。こういうことをすれば、こういう立場の人はどうする(なる)のか。それを具体的に考えていないのだ。これでどうして「個人の尊厳」など図れるのか。

計画書の「文字」に書かれた通りに人は動くわけではない。派遣業法改正もだから誤ったのだ。まるで「霞」を食っていきているような法曹モデル、日々の生活に追われることなく健全な「市民」しか存在しないモデル・・・たとえば今度の裁判員制度などそうだろう・・・による司法制度改革などハリボテである。もっと生身の人間を見据えて、制度の改正はやっていかなければならない。そうでない限り「法の支配」につながる本当の司法制度改革など決して実現できないのである。
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by phtk7161 | 2008-08-27 07:55
新聞で司法制度改革を促す人物(弁護士)のインタビュー記事を読んだ。「公正・透明な社会」「法の支配」の実現のために法制度整備・国民参加・法曹の養成の確立など聞こえのいい表現が並ぶ。ようはもっと身近に人権意識を高めてもらい、法的システムを利用できるよう確立させたいということなのであろう。もし「建前」の通りいけばよいことだらけだ。「建前」の通り・・・であれば。

私は彼らが自賛する今度の司法改革には大いに疑問を持っている。どうしてか。この改革を推進する側の、モデルとなるのが間違いなくアメリカだからである。今回の改革の実体は日本における司法のアメリカ化であるということだ。

推進する側の意見を聞いていつも苦笑いしてしまうのが、彼らがアメリカの司法制度につゆぞ疑問を持っていないことだ。「アメリカは司法制度が高度に発達している」「法の支配が貫徹されている」「だからこれを見習わなければならない」といわんばかりである。

だから日本の司法改革なのに、これがお手本とばかりにメディアにアメリカの裁判官を登場させたりなどする。そして彼はアメリカの司法制度の欠点を隠して利点ばかりをとうとう話す。

アメリカの司法制度がどういうものかご存知だろうか。日本よりすぐれ点ももちろんある。しかし端的に言って欠点のほうが多い。司法の決着が多くの場合「資本量」の決着となり、そこに実質的「法の支配」の観念などみられない。

裁判の争点がときに本質からはずれ、人種間の問題とすりかえられる。陪審制での弁論も時にメディアもまきこんでばかげたパフフォーマンス合戦。有名事件を扱い名を売り、本を出版し、テレビに出演、あげくに芸能人と浮名を流す。

こういう優れた(推進はの彼らはそういうだろう)法曹が当たり前のようにいるのがアメリカの司法界なのだ。懲罰的賠償金があるものだから時に「大金稼ぎ」のための「訴訟」も起こる。弁護士がたきつけて不必要な訴訟を起こす国それもアメリカのまぎれもない訴訟社会の実体である。そこでは正義の法たる正式法による決着などのぞむべくもない。

      ☆            ☆            ☆

この10数年明らかにアメリカ社会の人権意識はかなり低下した。ひところのアメリカは対立する利害を考量して問題を捉える意識を持っていた時代もある。しかし近年そういう風潮ではなくなった。その原因はテロ問題や移民増加の問題だけでない。結局のところアメリカ社会に「法の支配」の意識が根付いていなかったからである。その原因は、まぎれもなくアメリカ社会の法システムにあるといっていだろう。

アメリカにコンプライアンスの意識が根付いたか。NOである。不正経理の「エンロン」の事件も結局はうやむやのままとなった。一般的な契約感覚でも、最近のサブプライムローン問題をみれば、契約書に書かれたシステムの危うささえも感知できる能力がアメリカ社会にはなかったといえる。

金利の変動に伴うリスクさほど難しいわけではない。契約書の基本的部分の中身さえアメリカ市民は理解できていなかった。本当に法の支配が徹底している国民ならば、こんな契約など「うますぎる話」だとして誰が相手しよう。しかしそれにころっとひっかかってしまうのが「法の支配」がすすんでいるはずのアメリカ国民の現実でなのある。

新聞に登場した弁護士もアメリカの大学で客員の研究員の経歴を持つ。彼も結局は「アメリカの司法=正解」は当然の前提として意見をのべているのでないか。中身の検証こそ大事なのに「アメリカではこういうシステムになっている」「アメリカではこの場合・・・これが当たり前である」そういう感覚で、「アメリカが○○であること」それ自体を物事を正しいとする理由としてはいないかということだ。

これは彼だけの問題ではない。法曹・法的教育者(法学教授など)・政治家・実業界、残念ながら物事の中身を考えず「アメリカで○○であること」自体を平気で物事の正解の理由付けに使ってしまう軽薄人間が、彼らの中に少なからずいるのである。そしてこういう彼らによって、このところの日本の司法改革はすすめられてきたのである。
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by phtk7161 | 2008-08-27 07:07
今回までオリンピック競技について記します。ご容赦を。

今大会一番うれしかったのは、何といっても陸上の400mリレーの銅メダルである。朝原・末次亮選手についてはちょうど一年前のブログ(2007年8月27日)で記した通りで、そのすごさはいまさら言うまでもない。両選手とも近年の陸上界を牽引してきた。

今回の銅メダルは、この両選手の世界で戦ってきた経験が生かされた結果だと思う。塚原・高平若い選手もいい形でこれに応えてくれた。両ベテラン(末次選手には失礼かもしれないが、あえて)の存在は、若い両選手に精神的に落ち着きをもたらした。これが大きい。

メダルの有力国(アメリカなど)のバトンの失敗があったからこの結果になった。運がよかった。そういう意見もあるかもしれない。でもそれは違う。北京大会での時点で日本が世界で3番目に速かった。それがオリンピックの事実の全てだ。みんなが同じルールで戦っている。そこに有利も不利もない。

バトンのつなぎもリレーでは重要なポイントだ。失敗した国は、ここ一番肝心なときにそれがきちっとできる能力がなかった。しかし日本はそれをきちんとやれる技術とそしてスピード、その総合能力がメダルを取れなかった国より北京の時点で高かった。だからこの結果となった。それだけのことである。

塚原選手の前半のスピード(ことに70mくらいまで)はなかなかのものだ。昔の飯島選手タイプといえるだろう。高平選手のコーナーリングは世界でもかなりのレベルといえるだろう。

そして忘れてならないのは補欠に回った斉藤仁志選手の存在。今の彼なら末次選手にひけをとらない。レース前に誰かに何かあっても十分対応できる体制が取れる形になっていた。これも目に見えない大きなプラス面だったといえる。そういう意味では、今回の銅メダル、彼も含めた5人で勝ち取ったメダルといえるだろう。

朝原選手が言っていた通り、今回のメダルは長い経験を経てえられたものである。陸上の高野監督が現役時代400mで世界のファイナリストに入り、かなり遠くでなかなかみえなかった世界の背中がようやく見えるようになった。そしてその高野監督もまた、それまでの選手の経験から多くのことを学び、結果につなげた。そうまさに「ローマは一日にしてならず」なのだ。

それは大リーグで活躍する今のイチローなどの日本人選手の活躍までに、その本道を作った野茂英雄という存在、あるいは小さい道筋かもしれないが野茂よりかなり前にそれを開拓して見せたマッシー村上の存在の重要さと同じであるといえるだろう。

オリンピック競技の好みは人それぞれだ。私の場合は、陸上ことに100m・200・400mと400m・1600mリレーが好きである。ハイスピードで走るという競技のシンプルさ。一番速くゴールしたものが勝利者という勝敗のシンプルさ。体重・身長関係ない。フォームも関係ない(ある意味自由形一本)。

もちろん選手にとっては、ミクロの技術を追求する競技なのだが、見る側にとって道具を使わずスピードと外形的シンプルさがあふれているこの競技は、私を何よりも楽しく興奮させてくれる。オリンピックでメダルに縁のなかったこれらの競技でついにメダルを獲得した。それはまさに歴史を塗り替える出来事である。

朝原選手は、正直この北京ではメダルは取れると思っていなかったと思う。それがここにきてのメダル獲得。だから人生は分からない。「努力と工夫を重ねてやっていれば、そのうちいいこともある」。そういう(オリンピック)ドラマもたまにはなければつまらない。それをみせてくれた400mリレーの銅メダル物語は、何よりすばらしいドラマだったといえるだろう。
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by phtk7161 | 2008-08-26 06:02
オリンピックが終わって、中国もいよいよこれからが政治的に大変な時期をむかえることになる。各競技については私はそれほど熱心にみていたわけでもない。活躍したそれぞれの選手個人(もしくは団体)に対しては敬意をはらうが、ただそれに国家がからむとどうもうっとしくなる。だいたいメダルで本当の国力や国家の成熟性などはかれるものではないし、愛国心も質の悪い形で出ると、これはもういけない。辟易としてしまう。

野球は叩かれるだろうな。でも結果がでてから批判されればその批判は的を得ているように見えるが、実際のところ勝負どころで裏めっただけのことだ。

準決勝での岩瀬が李に浴びたホームランも「なぜ岩瀬を使った」との批判もあるが、左には左のセオリー、それに彼の球自体はさほど悪かったわけではない。あの打席岩瀬は李をツーストライクまで追い込んだ。追い込まれてからの李の読みは、次は「内」に気持ち7分「外」3分。バッテリーはその裏をかいて外外を攻め続けていた。それはいい攻めだったといえる。

ただ李にはそれをカットしてファールにできる技術があった。それまで不調が伝えられていた李だが、あの打席では不調ではなかったといえる。何度かカットされて、ついに内に投げたその球を、李が見事に読みきりホームランしたそれがあの打席である。つまり「李は大したもの」そういうことである。

岩瀬が悪かったわけではないし、起用した監督も悪かったわけではない。李を討ち取れれば勝機ももちろんあった。それがそうならなかった。それが「勝負」。いつもの野球の形である。

もちろん全体からいえば、準備不足・外国との練習試合(日本と違うストライクゾーンをもつ審判に慣れておく)など反省すべき点もある。でももし一番の敗因を挙げるとするなら、ここ一番の外国選手の勝負強さ(実力)を星野監督がいくらか甘く見ていたその点だろう。実力は上位どのチームも紙一重。なのに星野ジャパンの戦い方は、いくらか「上」から目線でのやりかただった。実力5分同士なのに、潜在能力は日本が「上」のやりかたで戦っていた。

それが間違っていることは、キューバのレベルを見ても分かる。キューバの投手はかつての剛球スタイルから、もっと細かい投球スタイルにきりかえている。タイミングをはずしバッターに引っ掛けさせる、それはかなりのレベルだ。日本のプロでやれば、先発なら当然ローテー入りで中継ぎ・即抑えならその一番手になれるだろう。潜在能力からいえば、やはり今回はキューバチームが一番だったと私は思う。そのチームが金をとれなかったのだから、だから日本チームを必要以上に批判してもしょうがない。

メディアにだって責任がある。彼らも日本チームの実力を「上」的にあつかっていた。金をとれると。甘い・甘い。初戦のキューバ戦で分かってよかったはずだ。これは何色かのメダルがとれればましだと。それがいつのまにか「金」「金」「金」となった。むしろ、今の実力ではメダルも危ない。「5分」ないしは「下から」目線で戦え。そういう報道のほうがメダルにつながっただろう。

もっとも、野球という競技自体もっと世界に広まっていかなければ、今の形ならオリンピックでやってもしかたがない。経済的にある程度の力を持つ国だけそれもヨーロッパもまともに入らない形でやって、それで金を金をとさわいでもしょうがないだろうと思う。今のままならただ単に今のプロ野球(大リーグ含め)を楽しむだけで十分である。

次はいつ公式競技になるかはわからない。プロだけでなく、それでもオリンピックでも野球で金をというのなら、オリンピックで「勝つ」そのことよりもそれ以前に野球そのものの国際的な広がりを考えるほうがさきである。そうであってはじめて、そもそもオリンピックで野球をやる意味があるというものだ。
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by phtk7161 | 2008-08-25 09:41
福島県立大野病院の医療過誤事件で被告の加藤医師に無罪判決がだされた。事件は医療に関わる事件であり、私には事件の評価をするだけの医学的知識が殆どない。また訴訟に関わった者でなければ知ることのできない事実も多く、たとえば裁判時に明らかになった事実の不知だけでも人の判断には違いがでることもある。したがって今回の判決についての評価をここで述べることはできない。

ただ医療過誤訴訟は、今後もいろいろな形でおきてくると思う。これは今の制度ではやむをえない。自らの大切な人をなくした人にとって、その大切な人がどうして死に至ったのか。その理由が真から納得できない限り引き下がりたくない気持ちは当然である。もちろん一方で医師の立場にすれば自らの職業としての判断で医療行為を行なったのに「なぜ私が罰せられるのか?」「これでは医師などやってられない」そういう気持ちにもなろう。

99・9パーセントの多くの医師は積極的に人を死に至らしめたい(安楽死的なものは別として)と思っているわけではないし、容易にそれを引き起こすような状況もつくろうとしているわけではない。告発する側・される側も、本来は互いに生命を尊ぶ気持ちにかわりはないのである。しかしことが起こってしまうと、両者の立場が「人の生命」に関して両極端に分かれてしまいより難しい問題となってしまう。

ただ今の時点でもこれだけは言えると思う。それは刑事裁判・民事裁判の前に一定の基準での(なくなった人の)関係者に対する説明義務の制度と、それに関する事実の保存の制度の充実の重要性。それと同時に医師の注意義務の客観的基準というものも簡単ではないが(それぞれの医療行為の質によって難易度がことなることは百も承知しているがそれでも)やはり医療界で構築していかなければならないということである。

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もちろんもっとも重要なことは、いうまでもなく医療事故そのものを未然に防ぐ体制と医学の進歩である。しかし人が行なう行為である以上、事故は起きるし事故とはいえないレベルであっても人が死に至ってしまうことはある。これも残念ながら避けられない事実である。そのことは認識しておかなければならない。

そういう点からすると、今回の医療をめぐる事件の問題は人への愛情と訴訟行為(あるいは告訴)のあり方という点も提起しているような気がする。愛情が強ければ強いほど、起きた現実を受け入れることができず、その結果刑事告訴や民事訴訟を起こすということににつながることもあろう。それもまた人間社会の出来事である以上、やむをえない。

理由もなく感情のみで(権利としてではなく、相手への憎しみだけで)起こすような極端なケースはともかく、原則としては訴訟を権利として行使することは認められるべきである。昨今の医療の厳しい状況に配慮するあまり、この手の訴訟(告訴も)を起こしにくくする社会状況つくることは本末転倒といえる。それよりもこれに対応する医師側の権利を守るためのシステムの充実をめざすことこそ、医療をめぐる事件の問題解決の本道としなければならない。

ドラマ「白い巨塔」が提起した医学界における問題も事実だし、経済的にもさほど豊かでもない・・・これは事実である、すでに医者は一部を除いて仕事に見合う報酬を得ているとはいえないであろう・・・条件の中で職業的使命感から医療に尽くしている医師の存在もまた事実である。だからひとくくりにして今回のような問題を判断することはやってはいけない。事件の内容によって、それぞれの判断をしていくしかない。

そういう意味では、(なくなった人の)関係者側・医師側、どちらについても事件の詳細を知らない限り(知ろうとしてできるだけ調べない限り)安易に行為の是非を評価してはいけないのである。これは検察官についての評価もそうである。専門性が高い事件だけに、今回の裁判での証拠の評価と訴訟遂行のありかたをより検討しない限りやはり軽々に検察官を非難することはできない。検察が医療事件に消極的になってしまえば、やはり社会的なマイナスは大きいといえよう。

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今回の事件については、かなり積極的に専門的知識を理解し事件の証拠とその訴訟遂行についてある程度の全容をおさえない限り、我々は粛々とただ判決を見守っていくしかないのである。それはすわわち医療事件というものが、それでけ他の事件に比してより難しい性質の事件であるということだ。

ある大手のサイトにニュースになった事件についてニュースによって掲示板を乗せコメントを書かせるようにしているところがあるが、あれはいったい何のなのであろうか。今回のような事件は決して数行(多くても10~20行)の表現で評価をだせる事件ではない。どちらかに○×的評価をくだす書き込みなど「百害あって一利なし」である。いろいろな会員やとにかくアクセス数を増やしたいが為の掲示板の形なのであろうが、結局は2チャンネル化になってしまうだけなのではないか。

少なくとも今回の判決のニュースついての掲示は、サイトの管理者としてもっと慎重であってよい。どちらか一方(あるいは検察を含め)への肩入れ的な書き込みなど軽々すぎよう。この問題はもっときちんといろいろな利害の中で、考えていかなければならない。それを阻害する形のありかたは、やはり控えるべきだと思う。それが携帯にも携わる企業の社会的責任というべきものである。
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by phtk7161 | 2008-08-21 04:14
今回の北京オリンピックについての批判は多い。確かに指摘されていることそれ自体は、もっともなことだと思う。ただそそれは、近年のオリンピックの姿そのものともいえる。

オリンピックにおけるショーマンシップ的な商業主義はロサンゼルスのころからより顕著になった。オリンピックが見世物的な興行となり、経済的な側面も重要視されるようになる。そこでは莫大な金額が動けば動くほど大会は成功であり、その本音の前では「(世界のあらゆる国が)参加することに意義がある」というオリンピック本来の存在意義(建前)は放逐されてしまった。まさに資本主義的オリンピックの誕生である。この資本主義的オリンピックの形をモロに追求したのが、今回の北京のオリンピックにほかならない。

きらびやかなで派手な演出。金を生みだすめの話題やスターの存在。話題はメディアに格好の材料を与え、スターの存在はメディとともにその選手のスポンサー企業にも、広告効果と富を提供してくれる。これがまさに資本主義的オリンピックの典型ともいえる。この手のオリンピックの成功は、強烈なショー的色彩とハード(例えば建物)それにメディアが喜ぶ話題性、これにつきる。

中国もそう考えた。そしてそうできることが、先進国の証のはずだった。そう思わせたのは、まさにロス以降の資本主義国の行ったオリンピックの姿にほかならない。そういう点言えば今度のオリンピックは、まさに資本主義的オリンピックの飽和そのものである。

中国の先進国(一流国)願望。しかし残念ながら、商業主義的オリンピックを手本にしたときから、その願望は達成できなくなったともいえる。オリンピックが終わっても決して中国は先進国(一流国)にはなれない。

物質的豊かさだけでなく、個々の人の尊厳を認め他国との調和とバランスが図れない限りその国は決して先進国(一流国)とはいえない。オリンピックの開催の意義も本来その延長線にある。そしてこれは、先進国をきどる多くのサミット参加国にもいえることだ。その点では今の世界に先進国などほとんどない。アメリカ・ロシアも物質的大国であっても、決して先進国ではないのである。

今回の北京オリンピックに関連して、中国を冷笑する国(国民)も多いであろう。しかしその批判は自らにも返ってくる。前述した通り、こういうオリンピックのあり様にしたのはまさに「金が全て」の資本主義国家の面々なのである。

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ハードが全ての資本主義的思考の問題点は、もちろんオリンピックだけのことではない。今の経済構造でいえば、「株式」の存在意義を本来の「遊休資本の結集」という建て前から、マネーゲーム的な資本独占のための手段とかえてしまったこともそうである。ホールディグスという持ち株会社の存在、それによる買収。これなどまさにいい例だ。これもまた今の資本主義の誤った姿なのである。

純粋・地道に物を生産することよりも、資本(株式量)に物をいわせてそれをぶん取る。そういう世界である。そこではコストを追及するあまり人の存在は「駒」となり「人」ではない。精神(たとえば人情)よりモノ・モノ・モノである。同じようにオリンピックも、個々の「人(国民)」の存在を切り捨て、ハードに走ってしまっている。そこではスターの存在も、裏返してみれば興行成功のための単なる商品にすぎない。

「株式」と「オリンピック」。どちらもその存在は、本来の意義からははずれてしまっている。最大の原因は、個々の「人(人格)」という概念を捨象してしまったことだ。ハード(物質)だけでないソフト(精神)面の重要性。今回の北京オリンピックを機に、そろそろそれに気づいていい頃である。それが頭からっぽの馬鹿げた資本主義(新自由主義)を是正し、あるべき進歩的な資本主義(=自由主義を前提とした新たな福祉国家)の実現にもつながっていく。
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by phtk7161 | 2008-08-20 01:52
オリンピックが行われている中国で、開催中にもかかわらずテロ的行為が後を絶たない。世界の目が向けられているこの時期、中国政府は特に自治問題を含め内政の安定を世界にアピールしたいはずである。当然当局の締め付けはかなりのものであるはずだが、にもかかわらずこうしたテロ的行為が後を絶たないということは、これまで力で抑圧されてきた国民の政府に対する不満・憎悪が、もう我慢の限界を超えているということなのだろう。

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自治的な問題といえば、グルジアのオセチア自治州をめぐってグルジアとロシアの戦闘もおきた。この問題と中国の自治の問題は別かといえば、そうともいいきれない。各地で頻発する自治をめぐる問題には、ある共通する要因があるといえる。

東西冷戦期には、自治的地域の対決姿勢もまた相手エリアに向けられていた。資本主義陣営・社会主義陣営の構図の中では、それぞれの東西のリーダーの存在すなわちアメリカとソビエトが厳然たる力(軍事的・経済的)をもっており、その事実の前では望みは内包していても人種国家の独立など困難な状況だっといえる。

しかし東西冷戦が終わりこの構図が崩れると、独立国家の希望も現実味を帯びてくる。地域の対決姿勢はいよいよ自らの地を領有している国家に向けられることになる。つまり「戦争」「紛争」の原因が「東西のイデオロギー的対立」から「人種的国家の独立をめぐる対立」へと変わってきたわけである。その点でいえば、中国の自治の問題とグルジアの問題も根底は同じといえる。

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両者の違いはウイグルがいまだ独立を認められていないのに対して、グルジアはCISとしてすでに独立をなし得ているが、そこに自国内のオセアチアでの独立をめぐってロシアが絡んできており、グルジアの独立(オセアチアを含めた)が脅かされているということである。

中国の場合は、ウィグルにせよ他地域にせよ、どこかでひとつの地域の独立(国家)を認めることになれば、その影響は他地域へも波及してしまい大きな混乱を招くことになる。それは中国にとって、広大な国家を維持していくうえでなんとしても避けたいことといえる。

これに対しグルジアの場合は、パイプラインに関するエネルギー的問題に加え、資源パワーにより(経済)力を取り戻したロシアが、独立した地域に対して往年の支配力を取り戻そうとするところにもあるといえる。

すでに支配している場所を手放したくない中国と、一端手放した場所に対する支配(力)をまた取り戻したいロシア。自国の潜在的力の量と改革の速度のペースを見誤ってしまい、あらゆる点で無理をしてしる中国の問題のほうが、より難題であることは確かだ。例えばグルジアについては、ロシアは自分のペースでやれる。しかし、現状を維持しなければならない中国は自分のペースではやれない。

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今中国が抱える問題の多くの原因は、現胡錦涛主席よりも江澤民主席(あるいはそれ以前)の時代の「改革」によるものといえる。悲願のオリンピック開催、上海などでみられたバブル的経済状況、マイナス面を完全に無視して(改革を)進め派手に花火を打ち上げた分、その後始末は大変である。

日本でもやはりマイナス面を完全に無視して、「改革」(その中身は中国とはもちろん違うが)の花火が派手に打ち上げられた。その後始末に現首相が追われる。福田首相と胡錦涛主席、後始末を任されたものの悲哀を考えるとき、両者の気持ちには、意外と通じ合う面も十分にあるのかもしれない。
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by phtk7161 | 2008-08-11 06:24
今回からまた本来の社会・政治的テーマにもどる。

先日、松本サリン事件の被害者河野澄子さんが亡くなられた。夫はこの事件の容疑者にもされた河野義行さん。澄子さんは事件の第一通報者でもあり、本来なら河野さん一家は、もっと肯定的に評価されてもよいはずであった。第一の通報の時期は、その後の被害の規模に密接に関係してくるからである。通報が遅くなれば、もっと被害は拡大する。

ところが現実には河野さん一家は事件の有力容疑者とされた。このときのことを考えると、私はいまでも苦い思い出がよみがえる。あのとき世間は事件の大きさに驚くと同時に、完全にミステリー的な犯罪ドラマに興じていた。もちろんそのことに一番熱狂していたのが当時のメディアである。捜査サイドの意向を受けたような内容が、テレビの画面で報道され新聞・雑誌の記事を飾った。

河野さんの家に農薬があり、河野さんが薬品類に知識があることや息子さんが理科が好きだということ。こういった実際中身はないが如何にもの話が報道されたものだ。挙句の果てには、事件(犯罪の実行)をにおわせた男を乗せたという運転手があらわれ、運転手はその男が河野さん似ていると話しているいう報道もされた。こうした報道の影響で、世間は間違いなく河野さんが「犯人」であるという「推理」(ごっこ)の結論に至る。犯罪一家の家系図と題して記事を載せ、容赦なく一家を叩いた週刊誌もあった。

もっともわずかではあるが、当時の一部メディアの報道に「まともな」面もあった。それは毒ガスが有機リン系の「サリン」であり、この物質は河野さんの家に存在していた農薬では造れないとする報道である(反対に造れるとする報道もあったが、世間一般からみてもこの報道は説得力にかけていた)。この報道により少なくとも法的知識をもとに事件を考察できる人なら、河野さんの身柄の取り扱いには疑問をもった人もそれなりにいたはずである。

ただやっかいなのは、こういう真実の解明につながる論理的な事実(証拠)の存在も、一端ドラマ(楽しむための推理事件ごっこ)を楽しみ始めた祭り好きの人間にとっては、せっかくの祭りを退屈にし、ドラマの楽しみを邪魔するものでしかないということである。そしてこの事件が悲劇的だったのは、本来現実の世界で捜査しているはずの松本の警察署及び長野県警がそれとかわらぬ考えをもっていたことだ。

事件はその後、上九一色村にあるオウム真理教の施設付近の土壌からサリン的物質の存在が検出され、松本の事件について教団の関与が有力になっていく。その後地下鉄サリンが起こり教団への強制捜査がおこなわれ、河野さんに対する松本の事件への疑いは完全に晴らされた。しかし当然のことだが、河野さん(一家)が奪われた「平穏な日常生活」の利益は、もはやとりかえしのつかないところまできてしまっていたといえる。そしてそうさせたのは、まさしく捜査機関(行政)・メディアそして・(私たち)世論である。

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この事件は私たちに教えてくれたはずである。ごっこを楽しみたい人間のもつ感情から作り出される「メディア」「世論」のお祭りが、いかに理論的に裏付けられた要素を無視して、人の人権を踏みにじっていくか。いかに捜査機関が自分達にとって都合のよいストーリーで、事件というものを解明したがるかを。

これを防ぐ方はたったひとつである。それは、いかに都合が悪くても「真実」の解明につながる理論的事実からは目をそむけてはいけないということである。その事実は、せっかく作り上げた耳触りのよい事件(ごっこ的)解明のスートーリーを退屈なものにし、時には話の存在自体こわしてしまかもしれない。しかし祭りは祭り。人権を破壊してまでやる価値などない。ましてや捜査機関は、祭りを楽しむ世界とは完全に別世界であることを肝に銘じておかなければならないのである。

河野さんが奥さんが亡くなられた後で、こういうコメントもだされている。「妻がいるから頑張ってこれた。あの時妻が亡くなっていたら、警察の取調べには耐えられなかっただろう」。それが容疑者にされた人間・取調べをうける人間の心境というものなのだ。

刑事権関して述べられた意見(ブログなど)で、時に私を絶望的にさせるものがある。それは「自分が犯人でないなら、絶対自供などするはずない」とする意見である。「私には、やってないのにやったなどと絶対言ったりしない自信がある」とでもいうのだろうか。

法が自白の法則をもうけているのは、犯人でなくとも犯人だと言ってしまうケースがあることを当然の前提にしている。それは人類が長い間の歴史的経験則から学んだ、教訓ともいえるものである。だからこそ、自白にはそれを裏付ける補強証拠が必要であり、被告人を「自白」のみでは有罪としないようにしたのである。

裁判制度が実施されれば、いろんな国民が参加することになる。司法の民主化はけっこうだが、しかしたとえば耳触りのよいストーリーのもとでは理論的事実を無視してしまう祭り好きの人間や、上述した「やってないものが自白などするはずがない」と平気で主張してしまうような人間が参加することが、果たして健全な司法の民主化といえるのか。

捜査機関やメディアあるいは世論も含め、河野さんを容疑者に仕立て上げた松本サリンのへの反省も「のどもと過ぎれば熱さ・・・」になっている現在、裁判員制度を実施するには社会環境的な質の面においても問題ないとはとてもいえまい。どの裁判もそうだが特に刑事裁判には、人の人権・人の運命がかかっているのである。参加するなら、お祭りからは脱しなければならない。それができていない今の現状を見る限り、私は裁判員制度はやめるべきだと思っている。
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by phtk7161 | 2008-08-08 08:31
以前も書いたことだが、本来このブログは社会問題や政治をメインとして始めたブログである。赤塚不二夫さんの訃報ももちろん社会問題といえなくもないが、しかし本筋とはいえないことは確かだ。だから次回のブログでは本筋のテーマで書こうと思っていた。

しかしタモリさんのオールナイトニッポンも絡む話は、いわば私の青春時代(うわあ照れくさい)の出来事でもあり、赤塚さんがなくなった今、その話を書く機会もそうそうない。そこでタモリのオールナイトニッポンで赤塚さんに関連した話で、記憶に残っているもうひとつのエピソードについて書こうと思う。今回まで赤塚さんをテーマに書きます。ご容赦を。

            ☆             ☆             ☆

それは、タモリ(前回と同じように以下「さん」省略)が人気ボードビリアンになってからの話である。その日の番組(オールナイトニッポン)で彼はつい少し前、夏休みをかねて仲間(もちろん赤塚さん)と旅行した話を始めた。場所は伊豆。タモリのジャガーに赤塚さんとタモリ夫妻が同乗することになった。

赤塚さんにもパートナーがいて女性であったが、どうもこの人が奥さんだったかははっきりしない。タモリもその辺は曖昧に言っていたと思う。赤塚さんには2人の奥さん(元マネージャーさんがその一人だったかもしれない)がいたようだから(もちろん重婚ではなく再婚の形で)、この女性もどちらかの女性だったのだろう。

とにかく当時のマネジャーさんを伴って、赤塚さんとタモリ夫妻とでタモリの運転で高速を利用して行くことになったわけだ。前にはタモリ夫妻、タモリの奥さんはむすっとした感じで座っており、後ろの赤塚さんの連れは音楽を聴きながら「イェイ・イェイ」と派手なカッコと変な乗りで動いている。すれ違う車の運転手は、高級者に極端に雰囲気の違う女性が乗っているもんだからみんな不思議な顔をしていたらしい。

途中でジャガー(愛着ある車で長い間使っている)から煙が噴出するトラブルが起こりながらも、後続の車がそのことをいちはやく教えてくれたおかげで事なきをえ、ようやく目的地の旅館にたどりついた。

この旅館は、古いがひなびた雰囲気がなんともいえずいい感じだったようで毎年利用している場所だった。あまり客もこないらしく、その意味でも著名人の2人にはもってこいの場所だったのだろう。プールもあって客も少なく、おまけにサングラスもかけてないからタモリだとは分からない。プールにスイカを沈めてひやしながらデッキでのんびりすごす。

スイカは、品のよい中学生ぐらいの男の子に(もちろん赤の他人)「ぼく、すまないけど(潜って)スイカを取ってきてくれないかな」と頼んでとってきてもらった。そのプールには、そのこの母親もいて、その母親はタモリの言葉に「うちの大事な息子を使って、失礼な!」という感じだったらしい。でもそこはタモリ、笑顔で「ホントいいお子さんですね」と一言。母親のほうもええとこのお坊ちゃんの母親らしく「いいえ、おほほほ・・・」てな感じになって機嫌も収まった。

プールを出て、みんなで入浴する。女湯は塀を隔てて隣にある。今は自分達の連れ合いしか女湯にしないから、覗こうかということになった(問題ある行動だが、もう時効だと思うしご容赦を・・・現在では絶対に厳禁です)。ようはたまにはやんちゃをやって、若気の頃に帰ろうと言う心境だったのだろう。そのときタモリが言っていたせりふ。「他人の連れ合いより、最初にまず自分の連れ合い(奥さん)を確認するんだよな。不思議だなあ。」本当だろうか?私には経験がないから分からないが。

入浴をしてお酒と食事。酒飲んでまたお風呂に入って(みなさんこれは体によくないですからご注意ください)から麻雀。麻雀しながら酒飲んでまたお風呂。こうやって夜中まで過ごす。そのうち赤塚さんの具合がおかしくなった。湯冷めして体調をくずしたらしい。熱を測ると38を越えている。

みんなで「部屋に帰ってもう休んでなよ」といったが、さみしがりやの赤塚はそれでも麻雀をやるといってきかない。真夏なのに、服を着込み布団を羽織って百人一首にでてくる「せみまろ」のようになりながら、それでも麻雀を続ける。自分ひとり仲間はずれのようなになるのが嫌だったようで、いかにも赤塚さんらしい。

じゃ薬をと探したが、あいにく正露丸しかなかった。ないよりましと、赤塚さんそれを飲むことにしたがそこはタモリと赤塚さん。「飲みたいか。飲みたければ・・・パッパパパッパ正露丸といってみろ」と遊びでネタを振る。それで赤塚さん、弱々しいトーンながらも「パッパパパッパ~ッ正露っ~丸~ん」と返す。そうやって馬鹿げた遊びの夜は更けて行った。

ちなみに赤塚さん、仕事があってその日の早朝には伊豆をたって東京に帰ったらしい。タモリは放送で「大丈夫だったかな。あの後まだあっていないんだよね」「死んではいないと思うが。赤塚不二夫タモリとの麻雀が原因で亡くなったでは困る」「不二夫ちゃん。生きていたら(元気だったら)連絡ください」と放送で話していた。。

正露丸の話しには当時の私には「なんぶなんでもやりすぎだろう」と思えたが、彼らの関係ではそれは許される冗談で通ったのだろう。このエピソードでも赤塚さんとタモリとの関係は深かったことが分かる。仕事に関係なく、「素」の自分をだせる相手だった。そういう人物にお互いで合えたことは、前回でも述べたが本当に「幸運」だったといえるだろう。

以上何の落ちもなく・・・すいません・・・なんてことない話だが、どういうわけか赤塚さんの訃報を聞いて、この赤塚さんとタモリのエピソードを思い出した。ちょうどその頃私も受験生でブルーな時期。心から楽しめることもあまりなく、こういう話を聞いてどこか気分を紛らわしていたのだと思う。

そういう意味ではこのエピソード、赤塚さんとタモリにとってはどういうことのない極々小さな出来事でも、私にとっては青春時代の思い出につながる話である。漫画とは別にそういうエピソードを提供してくれるところもまた、赤塚不二夫の魅力といえると思う。
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by phtk7161 | 2008-08-07 07:57
赤塚さんとあのタモリさんとの関係は深い。私が受験生だった頃、タモリ(タモリさんいついては以下「さん」を略します)の深夜放送(オールナイトニッポン)をよく聞いていたが、このときの彼の話の中に赤塚さんの話が時々でてきていた。

例えば、福岡だったかどこかで赤塚さん達が宴会的なものをやっていた席に、別の部屋で宴会をやっていたタモリが突如乱入してギャグ(何のギャグだか忘れたが)をやった。それが大うけして赤塚さんに気に入られ、東京まで来ることになった話。これが本当の話かどうかは分からない。しかし、いかにもの話だった。

タモリが話していた赤塚さんにまつわるエピソードで、今でも私の印象に残っている話がある。東京にでてきたタモリはしばらくの間(そこそこ長い期間だと思う)赤塚さんのマンションに居候していた。そこは当然赤塚さんのマンションだし、彼の住居である。ところが、普段忙しい赤塚さんはあまりそこにいない。たまに帰ってくるだけ。普段はタモリの一人住まいのようになっている。

だから赤塚さんはたまに帰ってくると、まるで他人の家に来たようなことになりタモリに対して「お邪魔してすみません」「すぐに帰ります」的なことを(素で)いって、こそこそ必要な荷物をとりだして(たぶん仕事場に)帰っていく。タモリもタモリで赤塚さんに対して「何しにきた」という感じで、当時は当然に自分の部屋の感覚でいたらしい。放送の中で彼は「ほんとに、今考えると(俺の態度は)ひどいよね」「よく何にも(文句を)言われなかったものだと思う」と話していた。

赤塚さんはタモリの大ファンだった。彼が芸能界で売れようが売れまいが関係なく、彼のギャグやキャラクターが好きだった。ウマが合ったのだと思う。それはタモリにとっても、赤塚さんにとっも幸運なことであった。一人で居ることが苦手なさみしがりやの赤塚さんにとって、タモリはそれを癒してくれる貴重な存在であったのだと思う。人生おいてなかなかそういう出会いを持つ人は少ないだろう。

タモリとのエピソードにもみられる彼のおおらかな寛容さ、それは結局彼が「人間」というものを「好き」だという証でもある。そのことが多くの人を「笑わせる」作品を生み出す才能につながった。

漫画の作品も多様化している今の時代。漫画でも赤塚さんの時代に比べ、「夢」や「笑い」より「憎しみ」や「死」を扱うものが多くなった。もちろんそれがいけないとはいいきれない。漫画も時代により変容する。それで当たり前である。内容的に評価される作品も多いであろう。

それでも、それが人の心の内面の「すさみ」や友人・親子(家族)・政治・宗教あらゆる面での「寛容さ」の喪失を表していることは否定できない。それはすなわち、今の時代の質が赤塚作品の持つ「寛容な」性格からは、遠く離れた時代になってしまっているということでもある。
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by phtk7161 | 2008-08-06 07:23