社会問題を考える


by phtk7161
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「マンナンライフ」のこんにゃくゼリーをめぐる事故の問題。会社側は政府から求められた製品(表示)の改良に時間がかかり対応できないとして、製造の中止を決めた。この問題をめぐって、いま論争がおきている。

よせられた意見の多くが、製造中止はいきすぎだとするもの。「餅だって同じくらい危険ではないのか。でも餅は製造を中止しろということになっていないでないか。」。反対の理由としてたとえばそういう理由があげられている。

上記の理由は、一面確かに説得力をもつ。「餅も同じような(同じ危険をもつ)もの」その点は私も同感である。しかこの問題について「こんにゃくゼリー」と「餅」とでは決定的な違いがある。それは「周知性」すなわち世間で(社会で)、そのことの危険性がどれだけ知られているか・・・社会的に認識されている(た)か・・・という点である。

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餅をのどにつまらせる事故は、ずっと以前から長年知られきたことである。昔からそれこそ今でもテレビや新聞で毎年のようにこの種の事故は伝えられてきている。それは特に注意していなくても(特に意識せずとも)、私たちの社会でおきている事故として人の記憶にインプットされている。

餅をのどにつまらせる事故が起きた場合、多くの被害者が自分被害にあわないと思っていたとしても、事故の危険についてはずでに事前に知っている場合が多いであろう。また咀嚼の弱い子供や幼児の場合には彼らはそうでないとしても、多くの保護者の認識はそうであろう。

また仮に被害者や保護者がそれを知らなかったとしても、「餅をのどにつまらせる」危険は社会では、社会に参加する以上人に通常求められている知識(注意)となる。なぜならそれを求める必要はない(周知性など関係ない)ということになると、社会(生活)はもはや成り立たなくなってしまう(例えば物をつくれない、販売できないことになる)からである。これはある意味で、人が社会に参加するうえでの一種の約束事といっていい。

餅については、すでにその危険の周知性は社会にある。したがって餅を生産している会社は通常よりもつまりやすい餅を生産した場合を除き、この種の事故に責任を負う必要はないということになる。

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では今回問題になった「こんにゃくゼリー」の場合はどうか。たとえば私は、新聞・テレビで世間の平均といえる程度のニュースは見ている。しかしこのこんにゃくゼリーの事故は最近になるまで知らなかった。

死亡事故は95年から現在まで17件おきている(国民センター調べ)。しかし餅と同じようにこんにゃくゼリーをめぐる事故についてメディアなどで以前から伝えられてきたかというと、そうとはいえない。すなわち、「のどにつまらせる危険」についての「周知性」は餅の場合ほどなかったといえる。

仮に「こんにゃ」く」自体は弾力性があって、そう簡単には、溶けにくく、あるいは(安全な程度まで)細かく咀嚼しやすいとはいえない点については「周知性」があるとしても、消費者は「ゼリー」という表示の方に主に目を向けやすいとすれば、やはり「こんにゃくゼリー」の危険性は社会的になかなか「周知」されているとまではいえないであろう。

事故の多くは、弾力性のある「こんにゃく」を食べた(食べさせた)つもりではなく、気持ちとしては弾力性のない「ゼリー」を食べ(食べさせた)たつもりだったのではないか。この認識は被害にあっていない人の多くも同じであるように思う。そういう点からすれば、行政が危険の周知性がまだ徹底されてないと考え、改良あるいはそれ(周知)を徹底させる措置をメーカー側に促したことは、国民の生命の安全を守る上でむしろ当然であるといえる。

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今回この件が大きな論争になったのは、改良・危険の周知のための対策にメーカー側が時間・費用の点で対応できず「生産中止」となったからである。もともと規模はそう大きくない会社であり、その反面取引の規模は大きいことがその原因のようである。

しかし社会に製品を送り出す以上、危険性をメーカー側が知った時点で安全対策をとる(あるいは社会的に危険の周知を徹底させる)のは、企業の社会的責任である。そこに会社の規模は関係ない。もし、一定程度の危険性が指摘されかつその危険について周知性がない商品を、会社の規模が小さいからその危険に対応できなくても仕方がないとするなら、これもまた社会はたちいかなくなってしまう。

したがって今回の問題を考えるうえでのポイントは、事故の一定レベルの危険についてメーカー側(マンナンライフ)が知った後、どういう安全策をとり、あるいは事故の危険性について社会への周知のためにどういう対応策をしたか。そこである。

事故を一定程度知った後これまでに、会社側が製品の改良にどの程度工夫をしたのか、あるいはテレビや新聞などで、その危険の社会への周知ためにどの程度努力をしていたのか。企業の資力に関係なく客観的にみて評価できる対応(事実的な面で)をしていたのなら、擁護の声も当然だと思うし、逆にそれが甘かったのであれば、製造中止の結末もやむをえない。

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念のためにいっておくと、今回行政は「絶対的に製造を中止しろ」といったわけではない。安全のための対策あるいは危険の周知性について、今の状態ではその対応がまだ十分ではない。それを徹底しなさいといったのである。

そのうえで、もし迅速にそれができないのであれば、結果として「製造中止もやむをえない」としているのである。そして、会社側は特に改良の点で時間的・費用的にそれができないとして「製造中止」をするしかないということになった。その点は踏まえておかなければならない。

たとえばひとつの解決策として、もしこのまま同じ製造の続行を認めるとするなら、その条件として、今後費用をかけ会社が一定期間危険性についての「周知」のための広告を、今予定している以上にテレビ・新聞で徹底的にやるとすることもひとつの案であろう。

「こんにゃくゼリー」の場合「餅」と比較して、今現在その危険性の社会的認識(周知)のレベルには差がある。そうである以上単に「餅も同じ」「こんにゃくゼリーは人気がある」ことだけで問題を捉え、だから「製造中止はやりすぎだ」と考えることは適切でないと私は思う。
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by phtk7161 | 2008-10-20 01:46
以下の文は以前このブログ(2007年5月3日)で記したエピソードである。

「中学時代に野球をやっていた。私のいた中学は野球が強く、県でも何度か優勝した実績を持つ学校だった。この野球部は、練習はもちろんのこと先輩後輩の上下関係も厳しく、しごきを受ける毎日。ケツバットは当たり前で、一人の先輩に付き人のようにつくのが決まりだった。雨が降った日には室内練習の後、説教という名のいたぶり。おまけに盆と正月、テスト期間の数日を除いては、休みもない。最近でも高校野球レベルでの先輩からの暴力事件が記事になるが、それとかわらぬレベルを中学時代にやってたわけだ。

 この野球部は、下級生が途中でクラブをやめるときは最後の練習というなのしごきを受けなければならなかった。1周350mほどのグランドをうさぎ跳びで何周もさせ、懸垂100回、腕立て1000回(できるわけない)、人を肩車してのスクワット100回と、中学生の体力ではまず不可能な内容だ。当然、やめる生徒が泣きながら体が動かなくなるまで続けるわけで、まわりで見ている下級生の部員のほうが、やめることに恐怖を覚える内容だった。やくざがなかなか足抜けを許さないようなものだ。それでも、入部当初の同級生の半分近くがやめていった。」

広島・江田島市で海上自衛隊の特殊部隊「特別警備隊」の養成課程の男性隊員が多人数相手の格闘訓練後に死亡した事件。この事件の質は上記のエピソードの延長戦上にある・・・もちろんことのレベルは断然違うけれども・・・ものといってよい。配属願いをだした人物に対し、それを足抜け行為だとして「はなむけ」の名目でしごきにかける。それは集団暴行にほかならない。その意味合いは、特別警護隊を離れることの抑制と士気高揚の意味合いがあるのでああろう。

今回の行為はその内容からしてもとても自衛隊の業務行為とはいえない。刑法における正当行為でもない。だから今回の行為の「違法性」は阻却されないことになる。このことは被害者本人に行為の消極的承諾があったようにみえてもかわらない。客観的に見て今回の行為は、彼の置かれている立場を考慮すれば、明らかに社会的妥当性を逸脱した行為である。結局暴行が故意で行なわれている以上、今回の行為は間違いなく傷害致死罪(結果的加重犯であるから)に当たることになる。

おそらく今後防衛省サイドから遺族に対して、「補償金」提示や「国家の防衛機能維持のために、穏便に済ますことに協力してくれ」などいろいろなアプローチ(圧力)があるであろう。しかし事件の実質は、相撲界でおきたリンチ事件と同じなのだ。少なくとも教官2人と14人目の相手は起訴されなければ、とても法治国家とはいえない。「防衛」を理由にもし起訴すら免れるのなら、シビリアンコントロールは機能していないのと同じである。シビリアンコントロールの実質は、民主的コントロールであり「自衛隊(軍隊)の存在を法的範疇において聖域化しない」ところにある。

今回「はなむけ」行為を行った者に(教官2人と15人の隊員)、被害者を死に至らしめる意図などもちろんなかったであろう。しかしそれはあの大相撲の加害者にもいえることなのだ。だれも「死」に至るとは思っていなかった。しかし「死」に至らしめることになった。その結果の責任は取らなければならない。正当でない行為により、一人の人間の生命が失われたのである。そこに聖域などあるはずがない。ましてや今回の事件は戦場での行為ではないし、正当な訓練でもないのだ。そこにあるのはただの集団暴行である。

今後事件をめぐり、防衛省、警務隊、防衛大臣、ひいては内閣(首相)の質が問われることになる。仮に警務隊が送検しなかった場合、検察がどうでるか。検察も捜査権をもつ(独自に捜査できる)。そうなった場合には、検察の質も問われることになるであろう。

この事件では、事件の取り扱いをめぐってのメディア対応も気になる。ニュースで事件を伝えてはいるが、どうも何か遠慮がちにもみえてならない。特にキャスターやコメンテーターはこれはもう分かりやすい。彼らは大相撲のリンチ事件についてはコメントはできるが、この事件ではコメントできない(しない)のだ。自主規制か局の要請か。まさに「強い(怖い)組織」とは喧嘩をしないという、メディア(特にテレビメディア)の対応である(情けない)。

自衛隊が如何に高度に「物理的な戦闘機能」を備えた組織であるとしても、それを恐れて沈黙してはならないし、如何に国防にとって重要な組織であるとしても、そのことと犯罪行為は関係ない。この事件でも犯罪処理の普遍性は貫かなければならない。それを貫けるかどうかはまさに立憲民主主義におけるシビリアンコントロールに関わる問題であり、それに従った処理をすることが、自衛隊内部の常軌をはずれた集団行為から、個々の自衛隊員の生命を守ることになるのである。
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by phtk7161 | 2008-10-15 01:36
ロス疑惑の三浦社長が自殺した。今回のアメリカ捜査側の共謀罪の逮捕についての見解は以前コチラの記事に(2月25日のブログに)記したとおり。20数年もたっていて本当に公判を維持できるのか・・・それだけの証拠を用意しているのか・・・注目していたが、その段階入る前に最悪の結果となってしまった。excite社会ニュースコチラ

今回日本の法律では常識外のことができた背景には、時効制度の違いだけでなく「共謀罪」の存在が大きい。共謀罪は実行の着手を必要とせず、共謀の事実だけあればよい。

この場合、たとえば共犯者が共謀したと証言しだけで・・・しかも司法取引に応じた場合であればその証言者は起訴を免除されることもできる・・・被疑者を逮捕しその証言に裁判官が合理的な疑いをだかなければその被告人は有罪となってしまう。今回捜査側が用意していた証拠が司法取引によって得た人的証拠かどうかそれはわからない。しかしそうである可能性は強かったと私は思っている。

今回の出来事からいえることは、アメリカ式の捜査が法律上通るのなら、人の生活は容易に脅かされるということである。「いつまでも、時効にかからない。」「共謀罪の存在。」「司法取引あり」この3点セットがあれば・・・なおここでは一事不再理にあたるかどうかの点についてはのべない・・・簡単に「有罪いっちょあがり」となってしまうのだ。また仮に有罪にならなかったとしても、その判決前の段階で、三浦容疑者のように年配になってからの長期間の勾留という苦痛を味わされることになる。

以前も書いたがこれを読んで「これのどこがおかしいの」と思われるかもしれない。でもよく考えてもらいたい。別の国の裁判所が、ある事件から20年も30年もたった後、しかも本国の裁判で一度結論が出て刑に服した事件を、またお前とこの事件について共謀したことを認めたやつがいるといってさらに輪切りにして再度裁こうとする。あなたが同じ立場なら平気だろうか。確かに三浦容疑者の場合は立件されている。しかしある犯罪事件があり20年30年だれも立件されていない場合は、絶対大丈夫といいきれるか。

殺人罪ならまず多くの場合何らかの物的証拠がなければ捜査側は簡単に立件はしない。しかし共謀罪なら共犯とされる人間の供述(証言で)だけで物証がなくても立件されかねない。20年30年たって自分は刑事手続きを免れることになっている人間の「あなたと共謀した」という供述(証言)がでて、それが周囲の状況の雰囲気(たとえばメディアの取り上げ方)次第では正しいという前提でことが運ばれる。

20年30年まえの共謀されたとする時間のアリバイなど証明できる人間などほとんどいない。さあ、絶対やっていない(無実の)あなたは大丈夫だろうか。今回の出来事は三浦容疑者が本当に犯人だったかどうかそのこととは別に、普遍的な人権上の問題として、考えていかなければならないことなのである。

日本には時効の制度があり、共謀罪もないし、司法取引もない。もしこれをアメリカのようにすれば、なるほど事件の犯人はつかまえやすくなるだろう。暴力団の親分もつかまえられるかもしれない・・・もっとも実際は子分はそう簡単に口をわらない。なぜなら口を割れば命を失う危険が高いからだ。そうであるならやっていなくてもあるいは事実と違っていても服役したほうがましとなるからである・・・しかしその反面、今の何倍も多くの無実の人間を有罪にすることになってしまう。

「それでもいいじゃないか。悪い奴をつかまえることができるのだから。」という人は、まず自分がそういうめにあわないと思っている人である。そういうことの苦痛が想像できない人である。権力の怖さをしらない人である。権力は絶対間違ったことなどしないとおもっている人である。自分が被害にあわなければ(無実の罪で有罪になるようなことがなければ)関係ないと思っている人である。

信じたくもないが、今回の三浦容疑者の逮捕はある捜査官の退官に報いる意味で行なわれたという話もある。もしこれが本当だとすれば、仮に三浦容疑者が犯人かどうかの真実とは関係なく、絶対許されてはならないことである。如何に事件への強い関与が疑われていた(る)からといって、「3点セット」で人の権利をもてあそんではいけない。

今回の三浦容疑者の自殺で、この事件は幕を下ろすことになる。ロス市警も、共謀罪を立件できるとした証拠を明かさないまますむことになった。でも私は彼らの用意した証拠をぜひ知りたいと思う。それが人的証拠なら、どこの誰なのか。それは司法取引で得られたものなのかそうでないのか。リックジャクソン捜査官は「強い自信があると」いった。

その事件の容疑者となった一人の人間が死んだ。会見でテレビドラマ張りにかっこつけた捜査官はどう思ったか。無理は承知で思う。彼らには、その証拠を明かす義務があると。20数年たってもそんなに説得力のある証拠なのかと。

日本よりも何十倍も強いドラマ癖をもつ国アメリカ。華さ。強さ。すべてにおいてアグレッシブなアメリカ。しかしサブプライムの問題にしても、今回の問題しても、「大きいことはいいこだ」「目立つことは美徳だ」もいよいよ究極的飽和状態を迎えている。これからはいくらかでも国として「静」の面をとりいれて欲しいと思う。

今回三浦逮捕容疑者の逮捕は、今回の捜査を容認する日本法曹関係者・学者がどうほざこうとも、到底認められるべきことではない。アメリカのもつ「3点セット」は人の平穏な生活をまもるどころかそれを簡単に破壊してしまうあまりに危険なものなのである。日本にこれらを取り入れることは論外といえるであろう。
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by phtk7161 | 2008-10-11 22:27
ポールソン財務長官がようやく金融機関への公的資金注入を示唆した。今回の経済危機(その指標のひとつとなる株価の暴落)の主な要因が米国のサブプライムローンに端を発していることは否定しがたい事実である。

米国内ならず世界にそのマイナスの影響が広がっている現在、さすがに米政府も、もはや国民向け自己責任的「小さい政府」の面子にこだわっている場合ではないと思い始めたのであろう。しかしその効果もなく、昨日のNYダウは大幅に下がっている。このままでは、世界(実体)経済への深刻な影響は避けられないことになる。

今回アメリカの金融問題がここまで危機的になった原因は、簡単にいえば市場万能主義を唱えるアメリカ政府が、その市場が何により動くものかを本質的に分かっていなかった、つまり「市場心理」というものを軽く見たからである。

リーマンのは破状は、米政府の「おおよそどの金融機関であっても救うものではない」というメッセージを意味した。あくまで自己責任的「小さな政府」が基本であることを主張したのである。まずこれが市場にパニックを引き起こした。

それまで市場は、公的側面を持つとはいえ米政府が住宅系金融会社に一応の救済策を見せたことに、一応の安心感をもっていた。それが「まさか」のリーマンの見限りである。「本気か!」「紙くずになる」「やばい!」こうなって不思議はない。そのため株価が暴落したのである。

そして第二段は、安定化法案の下院での否決である。「金持ちばかり優遇するな」「自己責任で当然」の有権者の声に議員は従った。確かに国内の有権者(マネーゲームに縁のなかった人たち)の心情にはかなったであろう。しかし市場心理はそれを当然とは思わない。それはそうだ。議会が「救済など認めない」といえば、また「紙くず」「やばい!」となってしまう。

もちろん最初の否決は、下院としては次なる可決へ向けての有権者向けの儀式をやったつもりなのかもしれない。しかし「市場心理」にそれを達観する余裕などない。もともと一瞬の「売り」「買い」で巨額の損得が出る世界。スピードなるものにはことに敏感に反応する。あっというまにさらなる「大暴落」ということになってしまった。この第二段の原因は第一段以上の完全なるアメリカの失策といえる。ここまで事態が深刻になったのは、一回目の議会の否決が大きい。

あれほど攻撃的に「遅い、遅い」と規制緩和を要求していた国が、守りになればモロさを見せる。規制緩和なんぞより、はるかにスピードのある対応が必要な時なのに、まだ「小さい政府」的イデオロギーに遠慮してしまうこの様は、今のアメリカの政治能力の低さを示しているものといえよう。

今わが国がとるべきことは単にアメリカを様子見しつづけることではなく、問題の解決のために国際レベルでの強い経済協調の提言とそのための政策を積極的に進め、また同時に極端な経済危機(恐慌)が起きた場合に備え、そのセキュリティ面での迅速な準備と万全の金融保護対応できているメッセージを国民にだすことである。

恐慌になるかならないかは、実体の数字よりも人間の「心理」が重要である。その心理に最も効果的なことは、なんといってもことに対する迅速な政策的反応(スピーディさ)といえる。そのことを踏まえて今世界各国の政府は今迅速に機動的行動をする必要がある。経済において、人間の「心理」をなめてはいけない。数字よりも「精神(安心感)」が重要なのである。
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by phtk7161 | 2008-10-10 09:47
前回中山発言について記したが、1週間もたたないうちに衆院選不出馬と相成った。とはいえ国政への未練たらたらのようで「時代の要請があれば」と再度の出馬にもふれている。ようは今のままでは立場肩身がせまく衆院選でも苦戦の予想、なら政治生命維持のため当面の「緊急避難」といったところなのだろう。

それにしてもまた首をかしげたくなるのが不出馬会見でのべた「大臣になれば発言がマスコミにもより注目されると思っていた。日教組について触れみたらのってきたのでしめしめと思い、日教組について発言した」との発言。この発言を聞けば、どうみてもやはり確信犯である。

経済面でも福祉面でも待ったなし今の日本の現状では、国交相として他にやるべき述べるべきことは山ほどあったはずだ。それをつまらない私心的な国粋発言で混乱を引き起こす(少なくとも宮崎の県議団の前でした発言は、それがさらに混乱を引き起こすことは容易に予想できたはずである。)。さらに不出馬会見時に至ってまで、自らの発言の確信犯性に駄目を押す「・・・しめしめと思い・・・」発言。「いったいこのオッサン頭の中どうなってるの」と思えてしまう。

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ところで中山議員の後がまについて、東国原知事の名前があがっている。当然ながら自民党は彼の知名度がのどから手がでるほど欲しい。菅のラブコール発言も当然といえる。衆院選で苦戦をしのぐ策として、おそらくまた小泉の時のようなメディアを利用する作戦に出るつもりだと思う。

小泉では「現実」の前ではもう通用しない。しかし東国原ならまた新たな「自民再生」の形を演出できる。東国原が自民の議員になれば「また何かをやってくれるのではないか」・・実際はやれないが・・・そういう期待を国民に抱かせようという作戦である。ようするに前回衆院選と同じパターン「何かをやってくれそうな気がする」作戦である。そしてそれは本質的にはメディアを利用した小泉手法のくりかえしでもある。

「やれない」といったのには理由がある。もともと大統領制に近い立場の日本の知事はトップダウンで自らの政策を執行できる力を持つ。時に議会と対決することはあるが、再選挙をすれば自らの最終的な首切り有無は住民にゆだねられることになる。つまり住民の支持がある限りあれば(知事)一人でも思い切った政策をとれる。

しかし国政に関わる一衆議院議員となれば話は違ってくる。政党の中でそれなりの地位を獲得しなければ強い発言権はない。数の論理の中で埋没しがちである。如何に選挙区の選挙民の支持をえたところでそれだけである。議員のなかで自らを支持する多数のグループをつくれなければどうしようもない。また総理大臣でない限り、知事のように議会の解散もできない。

もちろんその知名度の高さゆえ並の一回生より発言権はあるだろう。もしかしたらすでに衆院選出馬とひきかえに・・・自民が選挙後も与党であるなら・・・選挙後すぐの内閣改造で大臣のポスト(国交相か農相か自治相あたりか)を約束されるかもしれない。しかし仮にそうなったとしても、自民党の有力議員に打ち勝って自らの考えどおりに事うごかすのはそう簡単ではない。結局は数の中に埋没していくのは目に見えている。

メディアも選挙中その後もしばらくは、大きな話題性ができ大喜びであろう。しかしその後は一議員のかれを知事時代のようには取り上げにくくなるはずである。知事という自治体トップの政治家が、さも農協の職員さんのような形で地元の「特産品のマンゴー」をアピールするその形にメディアはとびつくのである。この構図は全国レベルでの衆議院議員や大臣ではできにくい。

そういう意味では自民にとって東国原の存在はあくまで選挙のための「便利グッズ」にすぎない。選挙が終われば時の経過とともに、彼の存在価値は知事時代より確実に薄れていくはずである。

知事東国原の人気が宮崎では抜群だとしても、全国レベルで同じ高い人気とはいえない。あくまで「(宮崎)県民」と「庶民性の構図を好むメディア」の支持あっての東国原なのである。そこを誤解してはいけない。全国的人気とメディアその両方を今の同じレベルで抑えていかなければ、知事時代のようには動けないのだ。それは容易なことではない。

ひとつ確信できることがあるとするなら、もし彼が自らの権力のためでなく民のための政治に誠実で賢明であるなら今回の衆院選には立候補せず、最低でも一期は知事職を全うするはずである。そうでなくしたたかに政治屋と駆け引きをしてより強い権力への上昇志向を優先する人物なら立候補するであろう。その場合彼が自分の人気を過信し、ある種の勘違いをし始めているということでもある。

できれば知事職と国会議員職との違いを認識し、知事という「政治職」に対し誠実な人物であってほしいがさてどうなるか。東国原知事の衆院選出馬の有無は政治家東国原の本性を見極めるいい機会でもあるといえよう。
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by phtk7161 | 2008-10-05 23:29