社会問題を考える


by phtk7161
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今年も早いもので大晦日。毎年メディアが「激動の一年」的表現をするのはお約束だが、本当の意味で今年そして来年はもっとそうなるといっていいのかもしれない。

衆院選与党大勝後の新自由主義的流れは、参議院選での与党大敗後は、リベラル型福祉国家像への見直しへと変わりはじめた。アメリカでもサブプライムに端を発した金融危機の現実が、いきすぎた格差社会の是正をアメリカ国民の間に促した。今市場万能主義は修正をよぎなくされている。

社会が進歩的といえるためには「どんな人間にでも尊厳がある」そのことを認める社会でなければならない。「尊厳」が守られるには経済の面においても自己責任の名の下に人と人とで何十倍何百倍(時には何千倍)の収入差がある社会はやはりおかしいのであって、格差にも限度が必要である。

仮に「自由市場」尊び・・・私もそれは否定しない・・・それがよりよき社会の何よりの価値であるとしても、それ以前にまずどんな人間にも衣食住についての安心がもてる社会でなければならない。政治はそのために存在する。数字だけがどんなにあがっていこうが、それができない社会はまやかしの自由をもつ社会にすぎない。

産業革命は文明に大きな変化をもたらし、大量生産を可能にし大量消費社会を生み出した。文明の機器は確かに手作業の数千倍・数万倍ものものを作ることを可能にしたのだ。その数字だけで考えれば、まず人が「餓える」ことなどありえない社会になるはずである。しかし現実には今でも多くの餓死する人間が存在する。機械が発達し医療も発達し、昔なら一生かけて旅する距離もほんの数時間で行くことさえ可能な世の中なのにである。

その原因は何より人間の行き過ぎた数への「欲望」にある。物質的な量(数字)を無限大に欲しがり、必要以上に人と差をつけたがる。数字はひとつの目安にすぎない。よく「機械に支配される」という表現がつかわれるが、実際はそうではない。実際は「数字」に支配されたそのことが問題なのである。

GNPの数字がどんなによくても、財政の数字がどんなによくても、視聴率の数字がどんなによくても、そのことで人間の精神的・肉体的「健全」さが奪われてはそんな数字には何の意味もない。財政赤字を止めたところで、そのために人がばたばた死んだりモノのように扱われてしまっては、そのことには・・・数字だけをよくすることには・・・何の価値もない。

数字はひとつの目安に過ぎない。絶対ではない。もし社会があらたな進歩的をとげるためにはそのことを今あらためて認識しておく必要がある。来年は数字だけでごまかすことのない「生の人間」をみつめた「現場百編」の政治を実現してほしい。そのことが平和にもつながっていく。

今年一年本ブログをお読みいただきどうもありがとうございました。来年が世界にとって希望を持てる平和な社会であることを願い、今年のブログの挨拶とかえさせていただきます。みなさんどうぞよいお年をお迎えください。
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by phtk7161 | 2008-12-31 22:11
その昔映画が無声だったころ、場面にあわせて抑揚を交え解説的なしゃべりをする活動弁士職業という職業が存在した。しかしトーキーによる音声付の映画の普及がすすみ、やがてこの職業は消えていくことになる。

ところでこれまで、世の中の活字・映像・音声のメディア媒体の中心は、長い間新聞・週刊誌・テレビ・ラジオがその主体だったとえる。しかし今ネット・携帯電話の普及によりその存在が脅かされている。新聞・週刊誌の読者が減り、ネット広告の拡大にともないテレビ・ラジオの広告収入も激減している。

ネットの経済性はその機能に比してより合理的である。一定の金額を払えば携帯でも多くのサイトを無料でみることができ、ニュースもその中で簡単にみることができる。またそこに娯楽性も見出せるから、電車のなかでも画面の小さささえ気にしなければ新聞・週刊誌はては漫画さえも必要ないということになる。

新聞を毎月一誌・毎週週刊誌を一誌を買えば5000~6000円前後はかかる。それを負担してまで読もうとする今人がどれだけいるか。私は新聞はとっているが、週刊誌はとんと買わなくなった。テレビやラジオにしても、ネットや携帯に見入る人が増えるにしたがって本来の広告力を失いつつある。

ネットの普及はそのハード的機能性や経済的合理性の面ではその魅力は確かに大きい。今後もネットのメディア世界における力の増大は避けがたいといえる。しかしそこにはこれまでメディアが本来的に・・・職業的に・・・果たしてきた存在価値を無にしてしまう危険も存在している。

たとえばジャ-ナリズム(特に新聞)の存在意義は、なにをおいても権力への監視機能を果たすことをおいて他にないが、今のままネットに同化した形がすすめば新聞のもつ本来的な権力監視機能は相当に弱まるであろう。

事件記者とまでいかなくとも、新聞記者が現場百編の現場主義であるべきことにはかわりがない。この原則が生の真実というものにつながる。決してただ机に座っての電話インタビューや他の媒体で使ったものを利用しての2番煎じのような記事では真実などみえてこない。それは本当の記事ではない。

確かに現場百編は経済的にみれば、一見無駄のようで、投資にみあった価値は生み出さないようにもみえる。しかし真実の追究・・・権力監視・・・という面では、その社会的対価は十分にあるし、他の手法ではそれはできない。

もちろん今の新聞が特に大手がその独占的地位にあぐらをかき仲良しクラブになった結果、自ら記者魂を弱めてしまった点があるのも事実である。その安泰的地位が、真実追求・権力監視の機能を徐々に低下させてしまった。しかしそれでも記事に対して一定の責任を担うという(たとえば署名記事や名誉毀損での訴訟対象に社がなること)点では、今なおその職業的存在価値は大きいものがある。

ネットの経済性に目を奪われるあまり新聞がネットに同化することになれば、現場百編は「無駄なもの」と切り捨てられ、てやがてはその本来的職業価値を捨て去ってしまうことになりかねない。そうなれば、それはもはや新聞ではない。権力的・経済的強者に沿った記事がやがては紙面をおどらせることになる。

今後も私は新聞をとりつづける。実際に紙面を手にして紙面全体を総合的にみなければ、その新聞のもつ本当の対権力への監視的力・・・本当の正体・・・というものはみえてこない。ネットでは紙面全体を見渡すことはできない(一見できるように見えてもそれは錯覚である)。

それはネットのみでニュース配信行なう会社も同じことで、現場百編のないデスク中心(電話によるインタビュー取材・持込中心の記事)のやり方では、とても権力監視機能は果たせない。芸能中心の娯楽記事がそのニュースの主体となってしまうだろう。その彼らに体を張って権力と喧嘩することなど望むことはできない。

もしいつの日か新聞記者がかつての活動弁士のようになってしまう日がくるとするなら、そのときまでに市民が成熟した人格を備えていない限り世の中はあらたな危機をむかえるといっていいだろう。バーチャルが真実と叫ばれるような時代だけは避けなければならない。そのためにもまだまだ活動弁士は必要な時代である。それにかわろうとするネット中心のニュースの世界には、実はトーキー(真実)の機能・・・ジャーナリズムとしての権力監視の機能・・は備わっていない。それはすなわちジャーナリズムではないということである。
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by phtk7161 | 2008-12-24 08:05
ブログをはじめてこの2年間常々思うことは、どうもいまのままでのブログや掲示板(もちろんこちらのほうが論外にひどいが)のありようなら、ネットの社会的健全性にはやはり限界があって、政治や社会的問題については、まともな存在としては相手にされないほうがいいのはないかということである。

どうしてそう思うかといえば、特に次のような問題にある。

たとえば、掲示板やブログで知り合った者が政治的社会的問題を追求する目的である場所に示威(抗議的)行動のために集まったたとする。この場合その人数が多数であっても道路に関する届けをし、きちんと要件を満たせば通常のデモ行進と同じであり何ら問題はない。

問題となるのはファックスや電話などで示威行動をしようとする連中の場合である。この場合、行為をした側は、一人一人がそう思いそれをたまたま声にした結果、多数のファクスや電話ということになった、そういうのかもしれない(それは言い訳に過ぎないと思うが)。

しかしたとえば、ブログや掲示板などで、法人(会社)・個人(家)に対しファックスや電話で抗議行為をするようけしかけ、かつそれによりその行為を行なうであろう人が多々あらわれることを予見しえる場合には、ことはそれではすまない。この場合には、民事上の不法行為や業務妨害(罪)の対象にもなりうる。もちろんこれは表現の自由もからんでいるからかなり難しい問題でもあるが、しかしその可能性は強い。

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例として光市の事件での被告弁護人対する懲戒請求の問題でいえば、被告弁護人の行為はもともと懲戒の対象となりうるものではない。そのことは明らかである。これが懲戒対象となるなら、弁護人制度は崩壊してしまう。これは、まともな法律家ならだれでもそう考える。だから橋元大阪府知事は民事上で敗訴したし、この結果は司法がまともである限り今後の高裁・最高裁ともかわらないといえる。

この懲戒請求行為の件で、多くの人間が請求を容易できるようにと請求用紙の雛形をつくりだした人物がいたという。

弁護士の懲戒請求には要件がある。その要件を本人がきちんと検討し法的レベルでそれなりの抗弁を用意してこの行為をしたというのであれば争いの余地はあろうが、それもせず「とにかく気に食わない」からと、この件のために雛形を作成し懲戒請求をけしかけたのであれば、業務妨害の教唆・幇助(こちらの可能性が大きい)、民事上の不法行為責任を免れない可能性は強い。懲戒請求の要件も満たしていないのに、雛形を作成してけしかけることは単なる業務への妨害行為とかわらないのである。そしてもちろん、これにのった多くの懲戒請求たちにも同じ責任(民事・刑事の)が生じうる。

これは中国への抗議行動に関しても同じことが言える。

上野動物園で中国の件に絡みパンダ関して多くの電話がかかった。またチベットの抗議活動について寺社に対しやはり多くの電話がかかった。チベット問題についてはチベット側に正当性があるのは当然だが、だからといってその政治思想に絡み本来的でない(派生し関係での)法人・個人に対し、多数のファクス・電話による圧力的な活動をすることは、その法人・個人の本来の業務活動を妨げる意味の行為でしかない。こういう行動をブログや掲示板でけしかけた者も、懲戒請求のレベルの件ほど強くないにしても、刑事上・民事上の責任を負う危険をはらむ行為であることは彼らも(もちろん実際に圧力行為した者もそうである)認識しておかなければならない。
  
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不特定・多数のものによる物理的妨害現象をより容易にしてしまうのが、ネットのブログ・掲示板での政治・社会問題への関与の実情である。今現在は匿名性におけるその立証の困難さゆえ、法的責任が追及されたケースはそう多くはない。光市の事件で橋元知事が訴えの対象とされたのも、民事責任についての立証の可能性をにらんだすえのことである。

ネットに影響された電話・ファックスなどの抗議的な行動により日常生活や業務に支障を来たし、法的責任を追及したい組織や個人は本当はかなりいるはずである。しかし立証の困難さ・さらなるいやがらせを懸念してなかなか追及にふみきれないのが実情であろう。そうした点を踏まえ、今後はこうした行為に対しどう対処していくか、こうした者への責任追及をどう可能にしていくかが、ネットでの政治や社会問題への関わりの鍵となる。

今のままこの問題を放置したままなら、一般社会においてもいずれはネットは精神的に粗雑な人間の集まりの場所=ネットとしてみなされ、政治や社会的問題についてその有効性は否定されてしまうであろうし、さらにもっと大きく問題化してからの権力者側の網のかけかた次第では、それは表現の自由全般への危機にもなっていく。

そのためにも、ネット(ブログや掲示板)における表現の責任の明確性の問題について、各表現者はきちんとそのことを認識しておく必要がある。それができない限りブログや掲示板についてはその存在価値など認めず、単なる暇な人間の集まりの場所として社会的に認識されるほうがはるかにましだといえると思う。
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by phtk7161 | 2008-12-16 18:17
このブログをはじめて2年少しになる。もともとブログをはじめた動機は人から薦められたことがきかけだが、それだけでなく最近の政治状況や世の中の空気に対して何かしら表現したいという意思もあった。

このブログをはじめた頃は、自民公明の与党が衆議院で大勝3分の2を確保し参議院も与党が多数を占め、また総理大臣にはタカ派の安倍晋三氏が小泉首相の後をつぎ、在野では京大の中西教授などが戦争のためのタカ派的政策を、政府サイドでは竹中教授(元大臣)が規制緩和による「小さな政府」的を政策を進める、そういう政治状況だった。

今の状況は自分がブログをはじめたところで変わるものでもない。第一はじめたばかりの私のブログなど読む人などそう多くはいない。もちろんそれは分かっていたが、それでも外に開かれた文章を書くことによって、物事に対する考えを自分なりにまとめ表明してみたい。ブログというものはそれに適した性格をもっている。そう考えたうえでこのブログをはじめた。

ノート的な日記帳のように内にこもらせずその内容を外へ開く以上、社会的(もちろんそうおおげさなものではないが)な視点も据えたうえで自分なりの考えをまとめる。これが私のブログを書く原点であることには今もかわりはない。

もちろんこのブログの原点は私なりのものであって、人により目的が違うのは当然である。あることに関して人と人との輪をつくりその声を広げていく、そういう人たちもいるであろう。ただ、ブログを書く目的がどういうものであれ、踏まえておかなければいけない点は、その内容は不特定多数の人間が目にする(可能性が)ものである以上、書いた内容に関する社会的責任は避けてはとおれないということである。つまりそれは、法に違反するものであれば当然その法的責任はとらなければならないということでもある。
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by phtk7161 | 2008-12-16 18:10
インドでおきた同時テロは、イスラム過激派組織「ラシュカレイトバ」の犯行との見方が有力になっている。ニュースでこの種の事件が伝えられるたびに思うことは、アメリカで起きた9・11と同じ悲劇は世界中でおきているということだ。

もちろん死傷者の規模においては、アメリカの同時多発テロと今回のテロとは同じとは言えない。しかし罪のない人間が、政治信条にかこつける者(人・組織)の行為によって命を奪われていく点ではその本質は同じである。この悲劇は、インドだけでなくパレスチナやイスラエルではもちろんのこと、内戦をくりかえすアフリカの国など9・11以前からそして今に至るまで日常化して起きていることだ。

机にすわってニュースを目にする私たちは、時にその事実を目にすることがあるけれども、事件の質に目をむけ感情をいれる・・・驚き・怒り・悲しみを覚える・・・ことはない。ただ「ああそうか」と思うだけである。

9・11は規模において未曾有のものだったから、あるいはアメリカだったから事件に対し多くの人が感情をいれた。しかし私たちが考えていかなければならないのは、テロの規模ばかりに目を奪われずにテロ事件の本質・・・原因・構造・・・を知りその解決法を見つけていくことである。

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今回のようなテロの要因にはさまざまなものがある。貧困・人種・宗教・領土・行政とテロ組織の関係・テロ組織の中心者の組織内部での自己の地位の保全・武器産業の暗躍(カショギ的ブローカーも含めた)などあげていけばきりがない。

しかし事件を起こす直接的な構造の本質、それは政治と物理的暴力をもつ組織(合法・非合法を問わない)のリンクそれにつきる。この両者の合体が強ければ強いほど暴力組織の政治への介入がすすめばすすむほど、事件は頻繁に引き起こされることになる。それはすなわち、平穏な日常生活の剥奪を意味する。

シビリアンコトンロールの問題も突き詰めていけば、この問題とつながっていく。今回の事件もパキスタン側の諜報組織と「ラシュカレイトバ」との関係がとりだたされている(パキスタン側は否定しているが)。

地理的構造で日本とは異なる(というか海に囲まれた国家のほうがむしろ特殊である)国家では、隣国への移入は比較的容易・・・環境的に暴力的攻撃をしかけやすい・・・であり、そこに宗教や領土問題が絡むと、絶対化された主観的動機による暴力的土壌をうみやすい。そうなると政治遂行者にとっても「暴力組織」の存在を無視できず、あるいは反対にそれを利用してしまうことになってしまう。この構造がある限り、テロ的問題の解決は相当に困難である。

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それでも私たちはこの問題と戦っていかなければならない。シビリアンコントロールを世界的に普遍化し、国際政治の舞台でも「理」の原理・・・討論・・・が絶対であることを植えつけていなかければならない。

そのためには、一つの国家だけの大勝をよしとする国家観を捨て去り、あらゆる国家に人格を成熟させる教育・・・自らにも相手にも個人の尊厳のあることを理解させる教育・・・の環境づくりを可能にする経済力をもたせることが重要となる。

人生は運命だが・・・どこの国家に生まれるかも運命だが・・・しかし質において人間のくじ引き的な人生のありかたを変えていくのも人類の叡智である。自由主義を前提とする福祉国家の理念も歴史の経験則から得た人類の叡智といえる。国家の枠を超えた世界的な福祉国家観のありようは、世界的な貧困の問題の解決にもつながっていく。そのことがひいては「政治」から「暴力」の関与を排除した形での国家のありかたを可能にする。

世界的に危機的な経済状況の中でひとつ得るものがあったとすれば、それはアメリカにおいて福祉国家の萌芽がみえてきたことである。もちろんそれは正面的にではないが、少なくとも馬鹿げた一人勝ちをの形を修正し広く普遍的な層の向上を目指していくという点では、質的に置いてまさしく福祉国家といえる(いやそれは小さな政府の緩和を意味するだけだという人もいようが、両者の理念で重要なのは、できるだけ多くの人間に平穏な生活がおくれることを可能にすることである。)。

ブッシュはテロ問題を「力」のみで解決しようとした。しかしイラクで大きな過ちを犯し失敗した。今オバマを大統領とする新しいアメリカは、「力」のみの解決の限界を学び福祉国家の理念(萌芽)を取り入れようとしている。

もしアメリカ国民がしこれにより他者へのいたわりをいくらかでも学びだせば・・・馬鹿げた一人勝ちの愚かなことを学びだせば・・・・そしてそれを国際的な舞台でも取り入れるようになれば、ひょっとすると今回のようなテロの問題も別の角度からみることで、解決への糸口が開かれるかもしれない。

たとえ経済的に弱体してもそこはアメリカ合衆国。この国が世界に与える影響は大きい。新しいアメリカがよい風を世界に送り出せば、世界平和は少しずつだが進歩に向かって確実に進みだすはずだ。世界的なテロ問題の解決のためにも、アメリカにはぜひそうしてほしいと私は願っている。
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by phtk7161 | 2008-12-09 08:31
自民党の笹川総務会長が麻生内閣の小渕少子化相の起用について、「子どもを産んだからだ。もし結婚して子どもがいなかったら、『少子化(対策)といっても、方法を分かっているのか』と言われる」と発言したとのこと。またかというところだが、まあとにかく政治家のこの手の失言はいまや日常茶飯事となっている。

もっとも実はこんな失言は昔からあって、ただ当時は記事にならず済まされていたのも事実である。それだけ人権感覚について、政治家が甘やかされてきた時代が長かったということだろう。

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どうしてこんな失言を彼らがしていまうのか。ひとつ目の原因は至極簡単なことで、立法機関に属する立場なのに法的感覚・人権意識がものすご~く低いからである。言われる側の対象となる人物の気持ちをかんがえることができないただの愚か者ということだ。

確かに一般でも、子供が欲しくてもなかなかできない女性(婚姻している場合は特に)に対し、粗雑な人物がその状況をわかっていながら、時に笹川的感覚の発言をしてしまうことはある。しかし一般人と政治家の発言は同じではない、。一般人の場合はその発言は論評の対象にもならず、ただ周りから「デリカシーにかける、ただのアホ」という認識をもたれるにすぎない。

しかし政治家は違う。ことに自民党の三役といえば重要閣僚と同じ立場に立つ。立場上笹川氏の「公人」性はより強い。彼の発言(ことに公の場での・・・広く情報が伝達されやすい場所を含む)は、政治遂行側の政策的認識のひとつと捉えられることになる。だからその発言があやまっていれば、当然責任を取らなければならない。そういう意識が彼らにはまるでないのである。

ところで今回の笹川発言の内容の正当性だが、子供を生んだ経験をもつ女性だけが少子化担当相につくのがふさわしい(あるいは向いている)とするなら、それは大笑いの馬鹿げた論理である。

少子化担当大臣に求められるのは婚姻や出産経験の有無ではなく、きちんと少子化の問題点を理解し、それを解決する・・・たとえば子供をつくりやすくする環境をつくる(勤労条件のありかたなどもそのひとつ・・・政策能力があるかどうかである。もし笹川氏の論理が通れば極端な話例えば産婦人科医について、女性の体の機能を実感できないから男性医師は適切でないといっているのと同じである。それほどウルトラ馬鹿げた発言であるといってよい。

失言をしてしまう二つ目の原因は、それは彼らが政治家として役人に対抗できる政策能力を如何にもつかということより演説的話で如何にうけるか・・・親しみのある先生だと思ってもらえるか・・・そのことのほうが、より重要だと思っているからである。多分今回も聴衆者に同じ感覚をもつ親しみやすい政治家(人間)だと思ってもらえると思い発言したのであろう。

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政治家も人間であるから時に失言もあるさ。そういう考えもあるかもしれないが、今はそうもいってもいられない。昨今のきびしい政治状況である。政治家には学校的お勉強の能力を求められる必要はないけれど、問題状況の把握力と法的な論理性(知性)さらにバランスのとれた感情(たとえば相手への思いやり)をもっていることは必要である。笹川氏にはこれらが明らかに欠けている。政治の要職につくのがこういう人物ばかりだとすると、「たまには失言も・・・」などと悠長なこともいってもいられない。

もし笹川氏の発言を、彼の身近にいる人間が・・・たとえば普段から親しい政治家や後援会にいる人たち・・・軽くするスルーしてしまうようなら彼らは笹川氏と同じ体質をもっているといっていいい。そしてそうやってスルーしていくうちに、彼らはアメリカ合衆国で黒人大統領が誕生する時代からは確実に取り残されていく。生活空間をいつまでも笹川エリアにおいたままでのその存在は、かつて「黒人や女性なんかに政治ができるか。黒人や女性は政治家に向きやしない。ましてや大統領なんてありえない」そう叫んでいたアメリカ南部の保守的な人物たちと同じである。

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この手の政治家の失言をそうすれば減らせるか。これはもう選挙で落選させるのが一番である。これほどの特効薬はない。失言政治家はメディアからの非難には耐えられても、落選だけは耐えられない。失言がきっかけで落選を経験すれば・・・ただし復活当選もなしである・・・その後議員に返り咲いても失言は面白いように激減する。これは私自身が身近で目にしたことでもあるから間違いない。だから、その議員の選挙区の有権者がまさにこういう議員を矯正できる・・・失言をさせないようにする・・・力があるのである。

それにしても、自民党は明らかにセコイレベルのお山の大将が多くなりすぎた。おそらく今まで育ったきた空間は、世の中を狭い狭い範囲でしか見ることのできない人間ばかりがいるところだったのだろう。そう考えると、笹川氏だけでなく麻生総理たちも含め彼らがなんだかすごく可哀想になる。

世界でもとっくに女性の首相が誕生する時代に、彼らは少子化問題に対して発言のような感覚をもったまま今後も人生をすごしていくのであろうか。そういう人間が政治に携わる限り日本に未来はない。そのためにも・・・彼らをもう少しまともな政治家にしていくためにも・・・選挙区の有権者が彼に「失言が原因の落選」を体験させてあげることが本当は大切ことなのである。それは笹川氏にとっても大切なこと・・・よりよい政治家になってもらうために・・・なのである。
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by phtk7161 | 2008-12-07 03:01
厚生省元次官と家族に対する殺傷事件は、ここまでまで明らかになった情報をみる限り背後関係はないと見ていいと思う。そなると結局今回の事件は、本人の精神的特質及び外的(経済)状況が相まって起こされたものということになる。

もっとも精神的特質に起因するとしても、それが生来的なものであっても外的環境次第でそれをださずにすむケースもあるし、逆に生来的には特に問題がなくても外的環境によって精神的に変わってしまう場合もある。

ただどういう人間であれ幼児期から青年期に至る過程において、他人との折り合いあるいは現実(社会)との折り合いを学び学ばせることは非常に重要である。今回の容疑者にしても秋葉原の通り魔事件での容疑者にしても、どうも幼児期から学生時代にかけてこの種のことを学習する機会が不足していような気がしてならない。

学校教育ではまず学問的知識の習得が最重要視される。これは社会の成熟・発展のためには当然のことといえる。なぜなら例外もあるけれど、全体でみれば社会で暮らす多くの人に一定レベルの知識の習得を可能にしていくことが、結局は社会の底上げにつながっていくことになるからである。少なくともそこでの社会が、独裁国家的な全体主義の社会でなく現代の人権思想をもとにする社会を意味するなら、そうである。

ただその前提として、社会に参加していく限り学問的知識とは別に当然習得すべき要素が存在する。それがすなわち他人との折り合い現実(社会)との折り合いの学習である。

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学問的(むしろテスト勉強的というべきか)知識なら、ある問題に対し絶対的な正解というものが存在する。たとえば数学であれば正しい答えは必ず存在する(もちろん正確にいえばそうとはいえないが、ここでは一般論的意味で)。2x=8はx=4が正しい答えであって、多数決ではx=1が多かったとしてもそれが正解になることはない。そこでは絶対的(一義的)に正解が導かれることになる。

これに対し他人や社会との関係では、絶対的な正解は存在しない。相対的に正解らしきものが存在するだけである。あるいはそれさえない場合も多い。この学習ができてないまま、他人との関係でも学問的知識の習得の場合と同じようにやろうとすると、当然そこに何らかの摩擦が生じることになる。「これが絶対正解だ。なのになぜあいつ(あるいは社会)はなぜそれが分からないんだ(言うことを聞かないんだ)。あいつ(社会)が悪い。」そういうことふうになってしまう。

テストの世界であれば、その対応としては絶対的正解を積み重ねていくことで十分である。しかし他人や社会との関係では、相手の要素(性格・気持ちなど)対社会における現実の状況も踏まえたうえでの対応が必要となる。

相手(他人・社会)とうまい妥協点をみつけて、話し合いで解決することはできないのか。相手や社会に不満がある場合でも、そういう前提にたって内心ではともかく、外的には自分の気持ちを修正し、社会的規範に逸脱しないことを踏まえたうえで行動していかなければいけない。そういうことも人が他人や社会と付き合って(参加して)いくために、成長していく過程で学問的知識の習得と同じように学んでいかなければならないことなのである。

テスト的知識に偏重することは、この折り合い学習の側面を駆逐してしまう。もっともこの知識偏重の要因は、教師の側というより・・・もちろんまったくないとはいわないが・・・むしろ保護者や文部省あるいは社会(採用に関する企業)の偏差値的学歴志向にあったことは否定できない。そもそも人との折り合いは、本来は家庭(近所付き合い・仲間との付き合い)を通じの学習効果も大きいのであって、学校だけが主体となって学ばせることができる種類のものではない。

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今回の事件の被疑者にしても秋葉原の事件の被告人にしても思えるのは、彼らはテスト的知識の習得にはある程度長けていても、他人や社会との折り合いの学習については全くできていなかったということである。

テスト的知識の習得が長けていれば、人間関係における学習の未成熟さについては家庭でも学校でも見逃されてきた・・許されてきた・・・のではないか。その結果どこかでひとつの絶対的な正解を・・・ありもしないものを・・・他人との折り合いや社会との関係でも学問的知識の習得の場合と同じように求め、それにより孤立し経済的苦境も加わって耐えられなくなり爆発したのかもしれない。

今重要なことは、「学問的知識の習得はほっといては身につかないが、他人との折り合いや社会との付き合いは、何もしなくてもそのうち自然と身につく」そういう認識を改めることである。

他人との折り合には、それを学習するための機会が不可欠である。一見何もしないでそれができてているようにみえても、実は成長過程での友達との遊びやクラブ活動あるいはアルバイトなどの機会を通じてそれを学んできているのである。そういう点では、学問的知識の習得とは別に、保護者や学校あるいは社会が如何にそのことを子供に学ばせるか。そういう意識を持つことも昨今の事件を見ていると必要な感じがしている。
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by phtk7161 | 2008-12-01 06:17