社会問題を考える


by phtk7161
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テレビをつけたら日テレの「行列のできる法律相談所」という番組をやっていた。ふだん見ない番組だが、内容は法律を看板に掲げていても実質はお笑い番組になっているようだ。だから番組でのことを真面目に考えるのは野暮かもしれないが、見ていて最近の司法のありかたとリンクして少し気になることがあった。それを書いてみたい

フリーマーケットと公務員の兼職禁止に関わる事例で、これはまず兼職には当たらないと私は考えた。だから4対0で、これは当然当たらないだろうという結論になると思っていた。しかし実際は4人の弁護士のうち3人はあたらないとしたが、1人の弁護士があたるという結論。また会場にいた一般の人(1人)の意見はあたるという結論だった。

私が気になったのは、「あたる」「あたらない」というその結論よりもその結論をみちびくその思考法である。「兼職」にあたるか否かそのためにはそれを成立させる要件を考え、次に具体的行為の中身がその要件に当てはまるかどうかで結論をだしていかなければならない。「兼職」にあたるという側は「金額の多寡」を要件該当の中心にすえていたが、やはり具体的な行為の行為の質的「職」性の見極めが重要と思われる。3人の弁護士はその方向から意見をのべていた。

「高い金額」の収入があれば「兼職」にあたるとするなら、その考え方は結果から要件をきめているのに近い。一般の人が「金額が多すぎる」から兼職にあたるとするのはともかく、法律のプロが結果から要件を導くようではこれはどうかと思う。もっとも兼職にあたるとする弁護士は、番組の構成上反対の結論をあえていったのかもしれないが、それでもこのところ法律家でも要件の吟味が甘いような感じがしていたので、この弁護士の思考法が気になってしまった。

法律家の要件というものに対する吟味が、どうも甘くなっているのではないか。最近そう感じていたのは「重過失」事件の裁判で若い裁判官が被告人に向かって「殺したんでしょ」と言ったという記事を読んでいたからだ。本来重過失罪と殺人罪は(構成)要件が異なる。傷害事件を暴行事件と認定できる「大は小」を兼ねるような関係にない。もし検察官が殺人を主張する場合には、当然訴因の変更が必要となる。

裁判の経過の詳細は分からないのでなんともいえないが、仮に検察官が殺人的な行為といえるほどの「重過失」性があるという立証のしかたをしていたとしても、やはり本来の要件は「重過失」の要件の有無なのであるから、認定する裁判官が「殺人」の心証を口にして表明してしまうことはやってはならない。もしやってしまえば、当事者主義を無視する大岡裁きと同じである。それをやってしまったということは、事件に対する一般的心情に傾くあまり、この裁判官の要件についての重要性の認識が甘くなっていたからだと思う。

人の生命が失われる事件で犯罪を憎む気持ちは法曹ももっていて当然である。ただそれと人を「裁く」ということを一緒にしてはいけない。人を裁くにはルールがある。被告人の行為が前もって明記してある「犯罪」の要件を満たす行為をしたかどうかということで裁かなければならない。たとえ結果がどんなに悲惨なものであっても、結果(例えば人が亡くなったという結果)に引きずられ、犯罪の要件をないものとして(度を越えて緩和して)裁いてはそれはもはや法治国家ではない。

以前にも書いたが多くの人は自分を裁くサイドからだけで裁判(刑事手続も含め)というものを考えがちである。しかし要件などないものとして、結果のみで犯罪にあたるとされたら人はうかうか日常生活は送れなくなる。おおげさではなく、それは恐怖社会・魔女狩りの社会の到来を意味する。

昔中学でなっらた数学に三角形の合同条件というのがあった。2つの三角形の合同を証明する場合、合同条件に当てはまらないのに、2つの三角形がなんとなくぴったり同じに見えるから両者は合同だとしてはいけない。それはルールである。ある意味で人を裁くこともそれと同じ面を持つ。

もちろん人間社会の現実の動きであるから、図形の証明と同じにはできない。またしていいはずもない。しかし犯罪の要件を立証の困難性から緩和するにしても、その要件のもつ質的輪郭には最低該当しなければならない。

それは図形でいえば与えられた条件(明らかになっている条件)からは合同とはいえなくても、それなら他の方法で角度や線分が同じであるといえる程度の証拠・・・たとえば実際に分度器ではかったら同じ角度だった、実際に定規ではかったら同じ長さだった。数学世界ではだめだが、現実の人間社会ではそれは同じだと認定していいのである・・・により証明していくことは必要なのだ。決して「なんとなく同じに見える」で人を裁いてはいけないのである。

裁判員制度も始まる。被害者の被告人への質問(裁判への参加)も認められた。車の過失致死事件において、遺族側から「殺人と同じだ」という意見もでた。遺族の心情的には当然だろうと思う。それでも、裁判では当然ながら「過失」は「過失」なのであって、人の「死」という結果に引きずられてはやはり裁判制度は崩れてしまう。

私が最も恐れることは、今後裁判において検察官が裁判員への「心情」(心証ではなく)形成のほうに力を注いで、それを有罪の立証にすりかえようとするのではないかということである。要件立証の困難さを裁判員の「心情」に頼ることでカヴァーしようとすることは、絶対やってはならない。「客観的にみて要件該当する」そのことで有罪としなければならない。そうでければ裁判制度の崩壊してしまうだろう。今一度、私たちは要件のもつ裁判での重みを認識する必要がある。それは人を「裁く」ことに関わる人間(弁護人・検察官・裁判官・裁判員)の使命でもある。
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by phtk7161 | 2009-01-26 04:58
更新の期間が長く空きましてすいませんでした。

突然ですが、あなたは人の評価をどういうところで決めているだろうか。なぜこういう問いかけをしたかというと、人と人との主張が同じ内容に見えても、それぞれの人物の内面が全く違えばその主張の質は全く違ってくるからである。

私の場合、人間の評価は次のようなところで決めている。それはその人物がある考えを主張する場合どこかで「人」を「人」ではなく「モノ」扱いして主張していないかどうか。いいかえれば個々の人をイメージ・・・意識・無意識に関わらず・・・できて主張しているかどうかということである。さらには、自分の損得だけでものごとを言っているかいないか。自らの立場の保全を最優先して理不尽に強者に媚びているかどうか。これも私の人物評価の重要な基準となる。

たとえば私がネオコンを毛嫌いするのは、その政策だけにあるのではない。それ以上にネオコンのもつ思想の根底が許し方ものだからである。人間を人間としてみず、モノあるいは時として有機物的な存在とすら認めないようなその傲慢さが許せないのである。彼らは人種を完全に選民的に区別している。それは現代の自然法では、あってはならない考え方である。

つい最近たまたまボルトン前アメリカ国連大使の話を目にする機会があった。ボルトン氏はネオコンの権化のような人物だが、その彼がパレスチナを3つに分けて管理せよという。その考えは個々の人間をイメージしていない。あいかわらず机の上のゲームごっこで、物理的力の強いものは弱いものに従って当たり前、パレスチナ人の気持ちなど「関係ねえ」といわんばかりのいいい様である。

ネオコンの核であるボルトンが何を主張しようが、それは非人間的発想を持つ者の主張であるからその主張は主張に値しない。たとえば彼がその容姿をどう髭でどうごまかそうが、彼の容姿が所詮はとっちゃん坊やであることにはかわりなく、そういう自らのコンプレックスを人間をモノ扱する殺し合いゲームでごまかしていくことは許されない。ネオコンといわれる人間は、自らのコンプレックス・・・なにもそれは容姿に限らない・・・をごまかした人間のあつまりにすぎにない。ネオコンは何かを主張する前に、まず人間にもどるべきなのである。

理不尽に媚びた人間も評価に値しない。たとえば横綱審議委員である脚本家の内館さん。あの朝青龍に厳しい意見を述べる方である。なるほど朝青龍に対する意見は全面的には賛成しないがもっともだと思う点もある。だから、その点はかまわない。しかし私が彼女の意見は聞くに値しないと思うのは、彼女があのリンチ事件ではほとんど厳しい主張をしなかった・・・というかほぼ沈黙状態だった・・・からだ。

横審は横綱について以外は述べるところではないという建前で逃げるつもりかどうかしらないが、横審でも海老沢元NHK会長は、かなり早い段階から協会に対し厳しい意見を述べていた。当然だろうと思う。人の生命が失われた事件なのだ。人の命を尊ぶことは国技的礼節の問題以上の重要な問題である。しかしその問題について、彼女は沈黙を守った。これはどういうことなのか。簡単である。朝青龍は批判しても自分の損にはならないが、協会を批判すれば自らの立場に損となる。そう考えているからである。

こういう人間は権力者にとって扱いやすい。内館氏は、東京都教育委員会の委員でもある。こういう名誉職が大好きな人なのかもしれないが、ここでも彼女は同じような面を見せている。三鷹高校の校長が「教職員の意見もっとを円滑に反映していくためにはいまのあり方は再考したほうがよいと」いう意見を教育委員会に対して述べた。

これに対し東京都教育会は、これは委員会への「批判」だとして三鷹高校の校長を処分しようとしている。委員会側で校長批判の口火をきったのは元警察官僚の花島氏。そして内館氏は、これに賛同した意見を積極的に述べている。

教育現場から遠いところにいる彼らが、生の現場も知らずに「YES MAN」でないからとその人間に対してすぐに牙をむく。権力サイドにとっては・・・もっとも花島氏はもともとこのサイドなのだ・・・こういう人は使いやすい人間の典型である。だから私は彼女(内館氏)の意見はまともに聞けない。自らの立場の損得の計算ばかりしている人の主張など、信頼に値しないからである。

こういう人物達が、時に一見まともにみえるようなことをいっていても、元々の考えの根底があやういう以上その主張には危険が潜む。素直には受け取り難い。それは逆に言えば、人の尊厳を大事にする人物、権力と向きあえる人物なら、一見きつい主張でもその許容範囲は広がるということでもある。
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by phtk7161 | 2009-01-16 08:42
あけましておめでとうございます。今年も本ブログよろしくお願いいたします。

昨年からのイスラエルによるガザ(ハマス)への攻撃は、なかなか収まる気配をみせない。今回の攻撃は、停戦協定を無視したハマスのロケット弾攻撃に対する措置のためというのがイスラエル側の主張である。それは点で見ればもっともな主張のようにもみえる。しかし昨年以降長期にわたりイスラエルによるハマス支配地域への兵糧攻めがあり、そのため多くのパレスチナ人の生活が困窮しているという事実もある。

イスラエルとパレスチナ、とくにアッパス側とも対立しているハマスは、ある意味で常戦状況にある。そう考えればイスラエルがハマスに対し、攻撃を行なうことは当然のようにも思える。しかしそれはあくまでこの紛争を点で・・・ひとつひとつの出来事・・・見た場合のことであり、線で見ればやはりパレスチナに主張の正当性があるとこは否定できない。

パレスチナ紛争をつくった原因のもとは、イギリスの2枚舌とイスラエル側の一方的建国宣言それを強く後押ししたアメリカの姿勢にある。線のスタートは、まぎれもなくこの2つの、特にアメリカの「無理を通せば道理がひっこむ」そのやり方にあるのだ。そのやり方は、本質的にはイラク攻撃・・・できごとの中身は異なるがそういう本質において・・・と相通ずるといってよい。イスラエル国民も一面では確かに被害者(詐欺にかかったという意味で)といえるが、しかしパレスチナ国民と相対的にみればやはり明らかにパレスチナ国民のほうが一番の被害者である。その事実は否定できない。

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アメリカのイラク戦略の失敗により、一見ネオコンは後退したようにもみえる。しかしことパレスチナ紛争についていえばまだこの連中の暴力万能主義は消えうせていない。極端ないいかたになるが紛争を解決するためには、パレスチナ人を抹殺してもかまわないといいかねないのが、イスラエルとそれを支持するアメリカのネオコンである。かつてユダヤ人の人々がホロコーストでナチスによって同じような存在にあつかわれた。それと同じことを今度は加害者となってやろとしているのがネオコンの連中なのである。

今回の攻撃は、イスラエルのオルメルト首相・リブニ外相が政権を維持するためのものだといわれている。その見方は私も否定しないが、しかし私はそれとは別の要因も加えておきたい。それはイスラエル軍の存在である。今度の攻撃は政治側ではなく軍部側がその主体であると思う。おそらくイスラエル軍はハマス攻撃の好機をうかがっていたはずである。そのシナリオに現政権がのっかったのが、今度の攻撃ではないのか。シビアンコントロールのきかない悲劇がそこにある。

さらにいえばこのタイミングで攻撃が行なわれたことと、最近の金融危機おそらく無縁ではない。世界的金融危機はハマスへを援助する国や組織の資金援助のパイをかなり小さくしたと思われる。その好機・・・イスラエルにとっての・・・をイスラエル(軍)がついたというのが今回の真相のようにも思う。

勘違いしてほしくないのは、イスラエル側を強く非難する私でも決してハマスは支持しないということである。イスラエルの一般国民を巻き添えにするそのやり方は決して許してはならない。このひとつとってもハマスにはパレスチナの政治に関わる資格はない。それはイスラエル側にもいえることであって、パレスチナの一般国民を巻き添えにするそのやり方はイスラエルの軍も同じである。結局この紛争を解決するためには、ハマスとイスラエル軍この両者をこの問題に関わらせないことである。こういう暴力馬鹿・・・イスラエル・アメリカのネオコンも含め・・・の存在がこの紛争の解決を困難にしているのである。

よくパレスチナによるイスラエル攻撃についてテロという表現が使われる。しかしそれは実は正確な表現ではない。なぜならパレスチナにはイスラエルと同じ質の軍というものが存在しないからである。軍による攻撃はテロではないが、そうでない組織による攻撃はテロであるというのは、戦争好き学者どうほざこうがそれはただの言葉遊びに過ぎない。ハマスの攻撃とイスラエル軍による攻撃とで、罪のない人々を巻き添えにするそのやり方に違いはない。

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イスラエル軍やハマスのような組織を国際的枠組みの中でどう押さえつけていくか・・・きちんとコントロールしていくか・・・それがまさしくパレスチナ紛争解決の鍵となる。そのためにもパレスチナ問題の解決は、世界平和につながる問題であることを私たちは改めて今一度きちんと認識しておかなければないと思う。
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by phtk7161 | 2009-01-03 23:59