社会問題を考える


by phtk7161
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世の中人が関わるものにおいて、公的・私的という面で純度100パーセントのものは存在しない。組織であっても多かれ少なかれ公的・私的の両面をもつ。たとえば、財務省はまぎれもなく公的組織であるが、内輪でやる彼らの忘年会はまぎれもなく私的行為である。

逆にいえば民間の会社であっても、公的面をもつ。たとえば人種や性別を理由に取引を拒むことは、合理的理由がないかぎり私的存在を理由として・・・建前上は・・・やってはいけない。もっとも実際にはやっているところもあるだろう。しかしその拒否の理由は正面では別のもっともらしいものをあげているはずである(たとえば、経済的に信頼性が弱いなど)。そうでなく、もし正面から人種や性別を理由としてとりあげればかなりきびしい批判をあびることになる。

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今度の裁判員制度。どの裁判員も純度の高い公的役割を担わされることになる。そこではどんな理由があるにせよ、遊び感覚でやることは許されない。その真剣度において裁判官と裁判員との間には寸分の違いもない。たとえ自分が希望せず選ばれやることになったのだとしてもそうである。人を裁く役割とはそういうものだ。

仮に「もうめんどくさいから適当で」という意見を裁判所の控え室で発したなら、それは職務怠慢以外の何ものでもない。時に公務員の不祥事に対して批判が殺到するが、ここにも当然同質の批判が殺到しなければならない。公的職務が継続的か一時的かで、職務怠慢への批判が免ぜられる理由にはならない。

健全であるはずの一般人(世論)が、一般人という点で同じ仲間であるからと裁判員に対しては「そうだよプロじゃないもんな」などと、裁判員のいいかげんさを許容し批判に手心を加えるのであれば、所詮「世論」など健全じゃないといういうことである。それを厳しすぎると思うのなら、今からでも遅くはない。裁判員制度に対し「反対」の意思を示すことだ。

もっともあなたが「せっかくできた裁判員制度。いまさら反対しなくても」と思うのなら、裁判員に対しても厳しい目をむけ、自らが裁判員に選ばれたなら自分なりに出来る限り法(特に刑法・憲法)や裁判の役割を学び、裁判に臨まなけれならない。もしかしたらあなたの一言で、その人が死に(死刑)あるいは狭い空間での拘束期間が決まるかもしれないのだ。

「おれが刑務所に入るわけではないからと」適当に考えたその1年・2年の違いが被告人の人生を決定する。たとえ1日であっても、その人(被告人)にとってはその1日は長い。被害者(親族・遺族)の立場も逆の意味で同じである。だから裁判員であるその数日間は、様々な角度から悩み考え抜い末、その意思を討論で表明しなければならない。それが公的役割ということだ。

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それにしてもやはり今度の裁判員制度には、問題点が多すぎる。たとえば憲法は行為における自己の意思決定を保障(尊重)する。たとえば公的面での役割を担うとき、そこに何らかの形で個人の意思は介在する。公的職に関しての服従であれば、職の選択(たとえば警察官になった)の時点で個人の意思決定が反映されている。これは町内会長になるということでもそうで、たとえ周りから強制されているとしても・・・結局はしぶしぶという形であっても・・・OKの意思を示したということになる。

ところが、裁判員に選ばれるということに関してそこに個人の意思は存在しない。やりたい人がやる登録制でもなく、勝手に決められてしまう。そのうえ合理的理由もなしに断れば罰則をうける。国民の最も大事な権利である選挙でさえ棄権(もちろん罰則はない)は認められているにである。それとの比較でもかなりの?である。

一方で合理的理由での拒否が認められるのなら、裁判員の構成に一定の偏りが出来る懸念(職種の偏りなど)も否定できない。事実認定に法的解釈がからんだ場合の問題も解決しないままだ。裁判官が教えるとしても、そこで長く法的講義などするわけにはいかない。第一裁判は「実戦を通じて(数日で)法を学ぼうの」カルチャーセンターの講座ではない。それ以外にもまだ数々の問題が存在している。

当事者の国民不在のまま、数々の問題点の議論もなく決定された今度の裁判員制度。やるならやるで、国民参加の話し合いでもっと時間をかける必要があったと思う。ただただ「やるぞ」の既成事実だけが積み重ねられてきた気がする。結局それは歴史を作りたい人間による、自己満足(名誉欲)以外の何ものでもなかったといえるだろう。
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by phtk7161 | 2009-05-29 06:00
電話のエピソードがありながらも、それでも今回私が彼を支持できない理由。それは今回の民主党の党首選の実質が、小泉刺客郵政選挙とまさしく同じ構図になっているからである。

金権政治を打破する正義の政治家「岡田克也」VS金権政治にまみれた悪の小沢とセットの「鳩山由紀夫」、あるいは、新しい政治を呼び込む「岡田克也」VS古い政治をひきずる「鳩山由紀夫」、党首選がそういう幼稚な演出の構図になってしまっている。

こうなってしまっている大きな責任が、メディアにあることはもちろんだが、しかしそういう安易な流れにのってしまう人・・・岡田氏を支持する民主党の議員やそういう議員を積極的に支持たがる人・・・もメディアと同じくらい大きな責任があるといえるだろう。

本当の意味で私たちの立憲民主主義をおびやかす、一番大きな敵はだれか。それは麻生自民党ではないし、小泉自民党でもない。それは戦後の長い歴史のなかで、権力の中枢において時に狡猾かつ時に物理的力を使い、日本を実質的に支配してきた少数の者や組織(制度)・・・たとえば官僚のなかの官僚やアメリカの軍産複合体において日本に影響力を及ぼして組織・・・なのである。

これまでこの敵に日本の内閣が本当の意味でこの敵を知り、対抗したことはただの一度もない。それは、長い間の自民党政権にかぎらず、一時の新進党政権の時代もそうである。できなかったのは、これまでの内閣がそれを知ろうとするつもりもなく(あえて喧嘩する必要もないから)、また知りたくてもその姿の概要をある程度具体的な形で知ることもできなかったからなのである。それは長い間の政治におけるタブーともいえた。

しかし小沢元代表はこの政治タブーをやぶろうとしていた。なぜ彼がそうしようと思ったのか、その真意(動機も含め)は私にもわからない。真面目に法を学んだ過去からの彼なりの立憲民主主義的信念か、権力欲のためか、それとも彼の政治闘争の本能から来るものなのか。

しかしいずれにしても小沢一郎という政治家が、この本当の敵と本気で対峙しようとしていた(そして今もしている)のは事実である。そしてその真意がどうあれ、今彼のやろうとしていることが実現できれば、それは本当の意味で日本の立憲民主主とって大きな飛躍である。その結果は、少なくとも私たちに本当の敵の姿の一端やその行為の真の内容を垣間見せてくれることになる。

それはたとえば財政における埋蔵金の存在(金額の実体)の問題もそうであろうし、安全保障(集団的自衛権をめぐる)における日米関係の実体もそうであろう。これまで、そうだと思わされてきた問題の内容が、根本的にくつがえる可能性があるのだ。そしてそのことが実現できる可能性は、今は残念ながら小沢氏中心の民主党政権でなければなしえないことである。

今まだ岡田氏にはこの敵と戦う実力はない。また彼を自ら積極的に支持する層・・・ことに前原・野田グループ・・・はこの敵と戦うつもりはない。彼らが中心となって政権をとっても、表の斬新さとは裏腹にこれまでの内閣と同じように、この敵に裏で見えない形であやつられていくだけである。検察とも戦えなくて、本当の敵と戦えるはずがない。日本の立憲民主主義は、やがて安全保障面から崩壊してくことになる。そしてこれまで通り相も変らぬ官僚支配はつづく。

繰りかえすけれど、今回の民主党の党首選はまさに小泉郵政選挙の構図と化している。善と悪。○か×か。その思考をきらっているはずの民主党支持者が、金権政治と叫び安易な構図を歓迎し、党が一枚岩となって戦うことを崩して本当の敵を利している。これは罪だ。第一そうした形はまさに「岡田克也」という人間が嫌った形のはずである。

今回の民主党選を政治献金の問題に帰着させるなら・・・メディアはそうしている・・・これから先政権をとったところで、本当の敵とは戦えない。岡田氏が党首になろうとするのであれば、本当の敵と戦える実力を示す必要がある。タブーとされた問題の指摘と、そのための体制づくり(幅広い意見の違いを集約し政策をまとめ上げる力)、狡猾な敵とやりあえる泥臭さをみせることも必要である。しかし残念ながら、今の彼にこれができる実力はない。

官僚の中の官僚の、本当の狡猾さやっかいさをまだ岡田氏は知らない。仮に岡田氏が彼らと戦うつもりがあったとしても、今の岡田氏にはその術がないだろう。「白い手袋」だけでは本当の敵とは戦えないことを、今回岡田氏を支持する議員とその支持者は知らなければならない。

今回の民主当選で岡田氏を○×式の安易な構図で称えてしまうことは、良質の政治資質をもった政治家「岡田克哉」つぶし・・・仮に今回党首になったとしてもそうである・・・以外の何者でもない。前原・野田グループのとった今回の党首選での動きは、岡田克也・民主党つぶしといえるだろう。彼の本当の出番は決して今ではないのである。出番を誤らせこの良質のカードを失ったことは民主党にとって大きな損失である。今頃本当の敵はほくそんえんでいることだろう。
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by phtk7161 | 2009-05-16 07:58
私は、今まで一度だけ議員事務所(たぶん議員会館内の事務所だったと思う)というところに、ある議員への励ましの電話をかけたことがある。

もともと政治に関して、私は議員の事務所に電話をかけるような行為はやるべきではないと思っている。

こういう行為は場合によっては迷惑行為となることもあるし、自らの政治意思を伝達する方法は他にも多々存在する・・・たとえばブログもそうであろう。また自らの政治意思は本来選挙で示すものといえる。さらには電話をかけたところで電話の内容が確実に議員に伝わるという保証はない。むしろ伝わらない事のほうが多いであろう。

そういった理由から、それまで議員事務所に電話をかける行為などやることはなかった。

しかしその日・・・前回衆議院選において小泉自民党に野党が惨敗し与党が3分の2を占めるという結果が出た翌日・・・それでも私は自らのタブーをやぶって電話してしまった。そのかけた先の議員の事務所。それがまさに「岡田克也」事務所だった。

私が、なぜそうしたか。それは岡田氏がその前日の辞任会見で、衆院選での結果に対し最後に「国民の側も自らの結果には責任を取らなければならない」と述べたからである。それはすなわち、福祉国家を否定し郵政民営化に象徴された自由主義路線への選択がどういう結果をもたらすかという実体を理解しないまま、刺客ごっこで与党を選択した国民に対しサイを投げ返す言葉だった。

政治の一番の責任者は国民自身である。だから政治における最低の事柄・・・大きな政府・小さな政府・福祉国家(ただし自由主義を前提とした)・自由主義国家とはどういうことなのか・・・は国民自身で知る努力をしなければならない。それが過去幾多の多くの血を流してようやく獲得したもの(選挙権)を行使する者(主権者)の義務だといえる。

岡田克也という政治家は、その義務・・・主権者が自らきちんと自らの選択の意味を理解し投票するという基本行為・・・を主権者が放棄した結果に対し、冷静な言葉で国民に向け警鐘をならした。そこに私は彼の政治としての最大の資質の長所・・・もちろん私なりのだが・・・をみいだした。だからその彼にこのままつぶれていってほしくない。その気持ちが、電話という行為につながった。

電話に出られた事務所の関係者に対し「今回はこういう結果になりましたが、選挙で主張された政治姿勢は決して間違ってはいない。選挙結果の影響が生活にでてくれば、いずれまたチャンスは必ず来ます。だからそれを信じて、頑張って欲しい」そう短く話して、私は電話をきった。これから先、おそらく私が議員事務所にこういう電話することは2度とないであろう。

あれから4年近い月日がたち、今またその岡田克哉が再登板のチャンスを迎えている。

そして、ここまで読まれた方は上述した電話のエピソードから、私が今回の党首選で当然岡田氏を支持していると思われるだろう。しかし結論からいえば、今回は私は彼を支持していないである。
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by phtk7161 | 2009-05-16 07:55
小沢代表が党首を辞任した。小沢問題(献金についての)は前々回書くのは終わりにすると書いたが、小沢辞任となれば話は別だ。あらかじめおことわりしておきますが、今回はかなりの怒りのために、通常より固有名詞をあげかついつもよりやや過激な表現・・・もちろん名誉毀損のことは考慮しております・・・を使っております。その点ご容赦ください。

まずとりあえずいっておきたいこと。それは、おめでとう産経・読売新聞、フジ・日テレ報道部、あと前原元誠司・小宮山洋子・横光一彦議員。樋渡検事総長&東京地検特捜部。彼ら彼女らは今頃は満面の笑みで祝杯をあげていることだろう。そういえば帰宅してテレビをつけたら滝川クリステルの横でフジの和田解説員が、今まで見たこともないほどの笑顔で小沢辞任についての解説をやっていた。この彼の笑顔が今回のできごとのすべてを象徴的に物語っていると思う。

それにしても産経新聞の連日の小沢バッシングは常軌を逸していた。全てのメディアの小批判記事のなかで、その占有率は7割をこえると思う。さすが国粋報道機関である。フジ・産経はある意味で本当の国営放送(新聞)・・・タス通信、新華社通信、朝鮮日報のような・・・なのである。

あと日テレの女性記者の「離党・辞任」質問もすごい。形式犯で離党・辞任なら、これからはほとんどの議員がいなくなったしまう。○か×か。×と思えたら、何をいってもいい。犯罪者なら即死刑的単純思考の悲劇がそこにある。これでジャーナリズムといえるのか。まるでパパラッチ。これまたさすが日テレ・読売テレビ。既得権益御用ジャーナリズムの面目躍如ということだろう。

憲法を改正し日本がアメリカ51番目の州・・・選挙権のない・・・であることを願う彼らにとって、小沢辞任は万歳のできごとなのだ。やったねやったねの祝杯パーティである。

小沢辞任は民主党にとって大打撃である。「白い手袋=清廉潔白な候補者」的単純思考の前原・小宮山・横光議員とその仲間達にとっては「選挙=政治」だろうが、政権を握ってそこから本当の政治のはじまりである。仮に政権党になったとして果たして政策的意見の集約をだれができるだろうか。幅広い保守派・リベラル派が存在する今の民主党において、その双方に相当程度の意思の疎通ができ裏方的泥臭い実務もこなしていく。代表としてそれをこなせる人物が今民主党にいるかというとはっきり「否」である。

たとえばはやく議員になりたいために政治予備校松下政経塾にはいった経歴の議員などは、ここが目立ち時とばかりに重しがとれたように好き勝手言い始める。彼ら・・・おそらく前原・野田グループ・・・は「集団的自衛権で日本も積極的軍事参加で国際貢献を」と叫びだすだろう。もちろんその実体は、アメリカの捨て駒の存在のための自衛隊の確立、それ以外の何者でもない。アメリカのいうがまま、なすがまま、そこに日本の主権など見出しようもないのにだ。

前原誠司議員とその仲間達にお願いしたい、。君らの防衛政策・・・集団的自衛権・・・をやりたいのなら、君たちにとって自民党ほどふさわしい党はない。土下座してもいから・・・私は本当にそうしたい・・・お願いだから自民党にいってほしい。私はそう叫びたい心境である。向こうでは出世できないからと、トロイの木馬となり与党をアシストするのはやめてほしい。今回の小沢辞任関し、前原誠司議員ほどそのために・・・辞任させるために・・・汗をかいた議員はいない。本人はどうおもっているかしれないが、見事に検察とともに与党のためにアシストしたといえるだろう。


彼は「検察と争ってはいけない」といった。しかし検察の正義も絶対的なものではない。時には間違いも犯す。近時あきらかになった昔のDNA鑑定の問題もそうであろう。「とにかく検察には逆らうな」で、果たして立法機関の使命を果たしえるのか。西松建設に関して数千万の疑惑が取りだたされている二階大臣に関して、いまだ逮捕者はでないままである。もちろんその他与党議員も手付かずのまま。これでバランス取れた捜査とえるのか。

複数の検察OBからの批判もでている今回の捜査は、明らかにアンフェアな捜査以外の何者でもない。民主党の議員はそこを厳しく追及すべきだった。民主党の全議員立場を超え、結束の固さをみせつけ一枚岩となって戦うべきだったのだ。それこそが、既得権益にどぷり浸る連中をおびやかすことにつながったのである。しかし「検察怖いよ~」とこのていたらく。これで、あたらしい政治などどう実現できるというのか。こんな党なら、政権党などならないほうがいい。

権力にどっぷりつかり既得権益を長年にぎってきた・・・政官財&メディアなど様々な分野で・・者達が今回のことでおもっていたことはこうだ。「小沢が党首の民主党政権は、俺たちの利権を守るためには絶対実現しては困る。しかしそれ以外のものが代表なら、たとえ民主党が政権をとってもどうということはない。所詮お子ちゃまが相手。小沢以外なら何とでもなる」。こういうことなのだ。そしてそれは残念だが、あたっている。偽メールに簡単にひっかかる党首など、海千山千の既得権益の連中に伍して戦うことなど出来ない。本人は気づかないままに、結局は彼らにいいようにあやつられてしまう。

物事には表も裏もある。表のだけの政治・・・白い手袋・・・などありえない。日本の国民は大都市だけにいるわけではない。都会とは異なり、産業の数が少なくパートの仕事さえままならぬ地方もあるのだ。政治をすべて大都市感覚だけでやるなら、真面目な話地方は消滅してしまうしかない。そのためには誰かが経済をうごかさなければならない。そこに100パーセントクリーンさを求めるなら、仕事などいつまでたってもないままである。白い手袋ばかりしかみない都会人・・・国民・議員・・・のおごりはそこにある。

人は生きていかなければならない。霞を食べてはいきていけないのである。それが小泉改革の結果あきらかになったことなのだ。それを小沢代表は先の参議院選で指摘した。もちろん小沢代表のほうも改めるべき点は多々あろう。その点は当然修正していかなければならない。しかしそれらは、辞任という結論に至る事柄では決してない。

私にとっては、現実的生活思考をもたず&外交においてはアメリカにものをいえない党首が民主党の党首になるなら、今の与党に変わり民主党が政権をとることの価値はほとんどない。別に政権などとらなくてけっこうである。都議選でも民主党にはいれない。浅はかな世論・・・結局あいもかわらずの主権者だった・・・を気にして「白い手袋」的発想しかできず、評論家もどきに党首は責めるが捜査バランスを欠いた検察には怖くて対峙はできない議員など、支持してどうなるものか。

小沢おろしに動いた政治家&国民の方々、あらためて小沢代表辞任おめでとう。せいぜい政治ごっこに専念するといい。「白い手袋」全てで頑張ることだ。そしてあいもかわらぬ主権者・・・国民・・・たち。さらば日本の立憲民主政治。それが私の結論である。
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by phtk7161 | 2009-05-12 02:53
新型インフルエンザの発生は当然ながら社会的な大問題である。新型インフルエンザは、ある程度の人が免疫力をもちワクチンも存在しているこれまでのインフルエンザウィルスと違い、人が免疫力をもたずワクチンもないウィルスによるものだから相当な警戒を要する。

しかし新型ウィルスの恐怖におびえ人が活動を停止すれば、社会(経済面をはじめとして)は機能しなくなり、別の面で危機的状況におちいっていまうことになる。したがって、新型インフルエンザ対策では、生命保護と社会活動とのバランス・・・自由と制限とのバランス・・・をいかにはかるかが重要な鍵となる。

この問題で一番重要なことは、行政やメディアによる的確な情報の公開とそれにもとづいた有効な対策及びウィルスの拡散を防ぐための個人・個人の身近な協力的姿勢、たとえば、うがいや手洗い、マスク、湿度(60パーセント程度)の確保である。これらのことは誰でも比較的容易にできることであり、その実行は自らの感染の予防及び他人への感染の予防につながることになる。

新型ウィルス(あるいは既存のインフルエンザでも)にかかることは、誰にでもおきうる。かかった人が責められることがらではない。これは当然の前提としておさえておかなければならない。ただかかったことを自覚しながら安易に行動した場合には・・・たとえば人の多く入る場所にマスクをせずでかけるなど・・・・これは非難されても仕方がない。

これまで・・・特に「働き蜂」に代表される時代・・・の世の中では病をおして仕事をすることが美徳とされていた。無理をおしてなす行為が一種の責任感的・根性主義的な行為として評価されてきたのである。しかしその結果、本来なら防げたはずの他人への感染が進んでいたのも事実である。もしこの感覚が、新型ウィルス発生の危険がある時代にもなされるとしたら、これは極端な言い方をすれば一種の犯罪的行為ともいえる。

したがって、これからは病と仕事(学業含む)との問題についても、視点を自分(法人も含め)を中心とした責任感・根性論ではなく、もっと客観的視点・・・他人の尊厳や社会的位置づけ・・・から考え行動していくことが必要である。かかったと思ったら・・・新型にかぎらずインフルエンザ全般において・・・自らが休息することが、結局は会社や学校をはじめとする社会全般にプラスになるのだという意識変化も必要である。それが結局は新型ウィルスからそれぞれの身を守ることにもつながっていく。

20代後半時私は毎年よくかぜをひいた。そうしたとき、たまたまテレビで見た番組で、うがい・手洗い・マスク・加湿の確保をすすめる予防の番組をみてそれを実行してみたところ、不思議なくらいそれ以降は殆どかぜをひかなくなった。ひいても軽い症状ですむようになっている。もう長い間インフルエンザの季節にはこれらの行為をつづけている。ちなみにワクチンの摂取はしていない(ワクチンの効用を否定しているわけでない。たまたましていないだけである。むしろ効用はあると思っている)。

専門家や行政とは違い、一般の人(法人を含む)ができることには限りがある。しかしその限りがあることでも・・・うがい・手洗い・マスク・加湿は間違いなく体内へのウィルスを取り込む量を少なくしてくれる・・・それを実行することは、それなりに有効な予防につながるといえる。見た目はシンプルで地味ながらもその有効性は侮れないものである

だから・・・私自身実感したインフルエンザ予防の行為の高い有効性からも・・・こうした行為(もちろん時に応じたワクチンの摂取もふくめ)を軽く視ず、できるだけ多くの人に実行して欲しいと思う。それが結局は新型ウィルスから社会を予防することにつながっていく。ようは自らの感染予防・他人への感染予防のために、通常の社会的活動はしながらも自分で容易にやれることはやっておく、それが大切なことなのである。それでも万が一症状が出た場合には、行政の定めた基準にしたがって専門の施設にかかかる。それが新型インフルエンザに対して、私たちのとるべき基本的姿勢だと思う。

未知のものだからといって、新型ウィルスを必要以上におそれることはない。ウィルスの予防全般には通じる基本的ことがらがある。それがうがい・手洗い・マスク・加湿と万全の体調でない場合の十分な休息であり、こうしたシンプルで地道な予防行為をなめずにきちっと実行すること、それが専門家でも行政でもない私たちに今できる最大の予防法なのである。
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by phtk7161 | 2009-05-02 05:23