社会問題を考える


by phtk7161
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<   2009年 06月 ( 7 )   > この月の画像一覧

東国原知事の自民党候補での衆院選出馬が取りだたされている。本人も意欲まんまんのようで、ここまでの流れを見る限り、知事辞職の可能性は高いといえる。

彼の場合、知事選はもともとだめもとでの立候補。それが夢にも思わぬうれしい誤算で当選。メディアの扱いにもうまくのって県政改革もうまくアピール。それが政治家としての自信につながり、そんなときに今回自民の選挙責任者の古賀幹事長から三顧の礼でのお出迎えときたもんだ。これでは調子にのるなというほうが無理だ。

でももし本当に立候補したなら、単に今の政治の流れや周りの環境が彼には冷静にみえていないというだけのこと。それは結局、彼がテレビ的な枠の中だけでしか政治というものをとらえていなかったことの証である。

世間には今回の彼の言動を、「なかなかの策士」とか「あたらしい政治の流れをつくる」と捉える向きもある。でもそういった声は、選挙を「劇」遊びととらえる小泉政治の形から抜け出せていない人のいうせりふ。それはあいもかわらず4年前の選挙結果が引き起こした顛末を、真剣に考えることのできない人のたわごとにすぎない。

それにしても、知事選のとき自民の自も匂わせなかった人間が当選するやいなや「自民党」宣言。彼に投票した人の中には「非自民」の有権者も相当数いたはずだが、国政での大臣のイス(総務大臣ということだが)も見えた今、そんなの関係ねえということか。知事としての任期も一期目の途中だし、いかにもこの転進は早すぎる。第一これではあまりに県民をなめすぎであろう。真面目に考えれば、やっぱり首をかしげたくなる。もうあらたな「政治劇場ごっこ」には飽き飽きだ。

「東国原知事の衆院選立候補」この新たな「ネタ」に、メディアはおおはしゃぎでとびつくだろう。でもそれは結局4年前の「小泉劇場」のぶり返しでしかない。この4年間の有権者の「学習効果」をみるにはいいテストなのかもしれないが、やっぱり時は有効につかうべきだ。もう生活感から離れたイメージ選挙で、時を無駄に使うべきではない。2度も「劇」遊びをやる必要はなかろう。今回こそ政策論を踏まえたうえで、正面から「政権交代」の是非を問うまともな選挙であって欲しい。
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by phtk7161 | 2009-06-30 08:57
触れるのも馬鹿馬鹿しいが笑ってもいられない問題も含んでいるので、今回はNHKに対する8400人訴訟について書こうと思う。

今回の訴訟、はっきりしているのはそれは全くもって頭空っぽの連中による集団訴訟にほかならない。慰謝料一人一万円だということだが、債務不履行でやるにしてもあるいは不法行為でやるにしても法的な「因果関係」や「損害」自体ないことは明らかであるし、それ以前に「訴えの利益」の存在すらあるのかどうか。

ようするに今回のできごと「暇人の」「暇人による」「暇人のための」道楽訴訟である。こんなもののために裁判所をわずらわせること自体、彼らの行為は社会的害悪といっていい。

こういう馬鹿な連中は、NHKに対して何かとにかくいやがらせがしたい。訴訟はそのための「道具」というわけである。それは、質的には総会屋や右翼団体による集団嫌がらせとなんら変わらない。自分の気に入らないことがあれば、とにかく嫌がらせをして「無理」を通させる。これに関して、読んでいて笑ったのが産経新聞の署名記事。

<その多くがNHKに懐疑的だったり批判的な内容で、それらは次々と広がっていく。なかには粗暴な言葉遣いや中傷、邪推もあるが、共感できる指摘や豊かな学識に基づく適切な考察、核心をついた推理も少なくない。>産経新聞(安藤慶太)より抜粋。

メディアとして公的権力監視の社会的責任をとうに捨てている産経新が、NHKの「公共責任」を批判したのにも大笑いだが、それよりもっと笑えたのが、この産経の社説でさえNHKに対しての批判内容に「粗暴な言葉使い」や「中傷、邪推」があることを認めていることである。

つまりは自分達の仲間にそういう人物が少なからずいることを認めているわけである。ネットを含めたお祭り好きの馬鹿がこういう遊び・・・今回は訴訟遊びまでやってしまった・・・に参加しているわけだ。

以前にもふれたが、こういう連中でも自分たちのフィールドで遊んでいるうちはまだいい。しかし今回みたいに集団で通じ合っての嫌がらせ抗議電話や法的利益として何の意味もない訴訟をするに至っては、ただ笑って済ましているわけにもいかないと思う。

このままこういう連中の「オイタ」度が過ぎることになれば、真剣に民事上(不法行為)・刑事上の責任追求(「業務妨害」や「脅迫」の)まで考える必要がある(たとえば上野動物園のパンダに対する抗議電話など多人数間で意思を通じさせてのものであれば「不法行為」「業務妨害」のレベルにちかい。)

もちろん民事や刑事の責任追及は、表現の自由の萎縮を招く危険もあるから、その適用は慎重でなければならない。しかし一方で、こういう法的意識の浅薄な連中の遊びをこのまま放置しておくと、やがてはカルト的洗脳の進んだ人間による社会的危険行為を招くことになる。

現に少し前おきた数度のNHKへの「銃弾送りつけ」や「爆弾騒動」も思想的には今回の訴訟の連中と共通しているところが多い。全体主義の萌芽はこういうところから発生するのである。そう考えるとこのまま放置していいというわけにもいかないだろう。

今回訴訟を起こした連中にも「、表現の自由」の権利や「訴訟を起こす」権利はもちろんある。しかし、同時にそれは他の人間(相手)にもあるのだということを彼らは考えない。昨今の彼らは特に自らの思想にとらわれすぎ、その普遍化のためには誰彼かわまず「カルト」化した行動も辞さなくなっている。抗議電話しかり。今回の訴訟しかり。それはまさに「権利の濫用」そのものである。

そしてこういう動きは政治とも無縁ではない。たとえば政権投げ出し政治家安倍晋三のたてた公共放送に関する議連も今回のことと無縁でないだろう。「国民生活」の目線にはめもくれず、こういう「国家主義的」遊びばかりに没頭する馬鹿な政治家をみると本当に歳費の無駄だと思う。

安倍晋三にしても中川昭一にしても国家国家と叫びながら、自らの失態が招いた国益的な責任からは逃げまくる。いっていることとやっていることに全く筋が通っていない。結局は腹を切る(議員辞職する)度胸のない「弱虫」ほど威勢のいい「国家・国家」をいいたがるということなのか。

もしそういう「弱虫」政治家が今回の連中の背中を押しているとしたら、その罪は重い。さすがにそうでないことを願っているが、NHKへの圧力で話題に上った彼らのことだ。わざわざ議連をたてたくらいだから、全く無関係ともいえないだろう。

あらためて述べるが、表現の自由や訴訟の権利は誰にでもある。しかしそれは、オールマイティではない。他の人(相手)にも表現の自由はあるし、訴訟もそれを起こすに見合う法的「価値」が必要である。それは踏まえなければならない。社会的権利を遊び道具のおもちゃにしてはいけないのである。

自らの思想実現のために、他人(法人も含め)の権利も省みず嫌がらせを目的とした行為を行なえば、それは権利の濫用であり、不法行為であり、他害性がより強ければ場合によっては刑事犯罪にもなる。

そのことを踏まえたうえで今回訴訟を起こした8400人には、自らの行為が遊びの領域を超え社会的許容の「限界点」をこえつつある・・・民事的損害賠償責任や場合によってはお縄に一歩一歩近づきつつある・・・ことへの厳しい認識が必要といえるだろう。
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by phtk7161 | 2009-06-26 02:16
以前医療過誤訴訟のときにもこのブログで書いたことだが医療における人の死が絡む問題については、掲示板などの短いコメントでその賛否はやるべきではない。専門的問題・家族を失った者の精神的問題など難しい問題を含むから、数行でその是非を論じることはできない。

ネットでニュースを読む時に、私は時々ヤフーのホームページを利用している。ヤフーは今や大手企業だが、ニュースの下にコメント(全てのニュースが対象ではないが)を掲示されていることには、常々疑問をもっていた。知り合いに「一々こんなところのコメントなど相手にしてはいけない」といわれるけれども、それでも大手企業のヤフーがコメントの管理をやっている以上、その社会的責任を省みるとき、ニュースに加えるコメントでも掲示内容の適否は厳しく判断されるべきだと思う。

臓器移植法改正に関連したニュース(A案に反対する遺族に関連したニュース)についての以下のコメントは、その内容の微妙さ(デリケートさもあり)決して載せるべきではない。

<いくら法律で決まっても、嫌だと思ったら提供に応じなければいい。
なにも無理やり子供をかっさらって行く法律ではない。
納得している人どうしで移植を行えばいいのであって、嫌だと思う人間が脇からゴチャゴチャ言って足を引っ張るのはやめて欲しい。
私は医療にたずさわる人間として、大きな一歩だと思う。>・・・「脳死を一律に死にしないで」(時事通信)のニュースに関するヤフー掲示板より引用

A案に反対する人は何も臓器提供の有無だけで反対しているわけではない。ある人間が脳死状態をもって死とされることによって、自分では「生きている」と考える人間が「死んだ」として扱われ、そのことで脳死状態にある人間とその家族が医療に関して「軽く扱われていく(相手にされなくなる)かもしれない」という点に危惧を覚えていることもある。上記のコメントはこの点をまったく理解していない。

特に「ゴチャゴチャ言って足を引っ張るのはやめて欲しい」とはどういうことか。確かに現場で特に移植を待つ人間を身近でみていれば、ぜひともA案を通したいと思うその気持ちはわかる。だから賛成の理由だけを述べるのならかまわない。

しかし自らの立場に反対する人を批判するのであれば、その内容は脳死状態側の人の「生」の立場も踏まえたものでなければならない。医療関係に携わる人間ということだが、それが本当なら双方の立場に配慮できるそれが臓器移植に関わる人間の最低のラインではないかと思う。文面を見る限り、彼には移植法改正を語る資格はない。

掲示板ではそれを含めてまで表現できないというのなら、もともとコメントすべきではない。もっともこれに対してはヤフーにも問題がある。こういう問題は掲示板にはなじまない。そもそも掲示板の対象にすべきではないだろう。

臓器移植の法案が世論に受け入れられるかどうか、それは「嫌だと思う人間が脇からゴチャゴチャ言って足を引っ張るのはやめて欲しい。」こういうコメントを医療関係者(もし本当にそうであるならだが)が述べないことが重要である。ヤフーが臓器移植問題に関連して掲示板でのコメントを可能にしたのはどうかと思われる。こういう自分と反対側の立場を批判するコメントは、そこの浅いレベルでいたずらに対立を煽る可能性がある。大手企業としての社会的責任点からやめるべきであると思う。
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by phtk7161 | 2009-06-19 05:09
臓器移植法改正A案が衆議院を通過した。A案は、臓器提供にかかわらず「脳死」を人の死としまた生前の本人の提供拒否がなければ家族の同意のみで移植を認めており、従来の法案よりかなり移植提供拡の可能範囲が拡大されている。

臓器移植法のける問題の難さは、提供する人間の「死の可能性」と提供される人間の「生の可能性」その双方に人間の尊厳(生命の尊厳)の問題が関わってくるところにある。つまりどちらの命も「尊い(大切だ)」という点である。これには「その人の生命はその人自身で決定すべきである」という最も根本的な自己決定の問題もからんでいる。

A案賛成・反対双方の意見はそれぞれの立場からみればそれぞれ十分な理由がある。端的に言えば双方の中心的理由は賛成派が物理的・現実的理由、反対派は観念的・精神的理由・・・ただし観念的・精神的といってもこの場合のそれは人間の根幹に関わるところの相当に深いレベルである・・・ということになるであろうか。

A案の賛成者は「海外での移植しかなかなか出来ない現実はその国の人の移植を遅らせることになり、それは結局日本人のエゴと受け取られ日本の評価にとってもマイナスである」「外国では脳死が人の死として一般的である」などの点を理由としてあげる。そしてA案により国内での提供臓器の絶対量を増やし提供の迅速な流れを作り国内移植を容易にすることで「助かる命を助けたい」とする。

これに対して反対者は「何をもって死とするかの評価はその国の文化や風土的なことも関わる」「臓器提供の同意について、家族の精神状態(家族を失ったショック)からみて同意の有無を脳死からの短い時間で冷静に判断することは困難である」「脳死が死として一般化されればそのまま治療を続けたとして、医師が真摯に対応してくれるか不安がある」「A案になると臓器の提供に対しての無言の圧力(プレッシャー)が高まるなどを理由としてあげる。そして人の死の判断が緩和されることで、移植側の現実的要望の高まりで脳死となった人間の「生命の尊さ」が軽んじられる危険を懸念する。

どちらも相当に説得的だ。私に移植を受けたい立場の家族がいれば当然「何とか助けたい」としてA案に賛成するだろうし、脳死状態の家族(特に子供の場合)がいればそう簡単に移植側の事情で「もう死んだとされてたまるか」という気持で反対するだろう。だから、私にはこの問題をどうすべきか今の時点では判断できない。

ただ今の時点でも、仮に外の影響(移植を待つ家族や医者や世論まで含め)をうけずに、冷静に・・・かなり困難なことではあるが・・・死についての考えを自らの信念で判断しその結果臓器移植に同意するのであれば、それはかまわないだろうと思う。ただA案が通り移植の数が増えたとしても、国内移植における運用面のありかた如何では、また更なる問題点(医療機関側の量的対応可能性、あるいは極端な場合ブローカー存在の危険性など)もでてくる。そう考えるとA案が可決し国内での臓器移植の現実的運用が可能になったとしても、その先には解決されるべき問題点がまだまだ山積しているのも確かだといえよう。
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by phtk7161 | 2009-06-19 04:22
郵便割引にからむ文書偽造事件。障害者団体を装って低料金の割引を利用し、企業のダイレクトメールなどに利用していた「凛の会」の首謀者が最も重い刑事責任を追うのは当然として、私は今回逮捕された官僚にはそれほどの「害悪」を感じない。もちろん偽造を認識していたのであればその責任はまぬがれないが、行政サイドの立場を考えると今回逮捕された役人にはいささか同情を禁じえない。

優れた官僚とは、「与えられた任務を忠実にこなすそういう人物だ」というのも一つの見方だと思う。任務の中身はともかく・・・実はそこが一番の問題なのだが・・・とにかく一端任務を(課題)与えられたらそれをきちんと忠実になしとげていく、そういう人物が行政実務に不可欠なのも事実だろう。キャリア・ノンキャリアに関係なく、今回逮捕された村木局長も上村係長もそういう人物だったように思う。

官庁における縦系列において、上からの命令はよほどのことがないと逆らえない。逆らえば、職を辞したりそこまでいかなくても将来の出世はあきらめなければならなくなってしまう。今回の事件で彼らを批判するのは簡単だが、少なくとも縦の組織体系をもつ職種を経験した人であれば、彼らの立場は理解できるはずだ。違法行為をしてまで出世を目指すのはいけないのは確かにそうなのだが、現実はそう単純にはいかない。

行政組織における今回のような「政治案件」の依頼は他の官庁にもいろいろある。民間企業だっておそらく同じ質の仕事・・・政治的力により特別な考慮を必要とする仕事・・・は結構やっていることと思う。頼むほうが無茶なことを言えば、場合によってはその要望を実現するために違法行為をするしかない場合もあるだろう。

今回のケースは、やりかたよっては違法行為をしなくても・・・偽造という手段をつかわなくても・・・便宜をはかれる可能性はあったかもしれないが、しかし仮にそうであっても少なくとも省内の規則に反することは避けれられなかったはずだ。どちらにしても非難の対象となるような便宜をはかることにかわりはない。

縦の組織に入る限り今の彼(女)らの立場では今回のケースは、上からの命令を断って将来の出世を棒に振るか、それとも法・規則(省内手続き)に反する何らかの違反(場合により違法)行為を犯すことを甘んじて受け入れるかのいずれしかなかったことになる。これはかなりきつい。

ましてや、村木局長は当時「障害者自立支援法」の作成に携わっていたということだから・・・ちなみに私はこの法律の内容は評価していないが、それはともかく・・・彼女はまずはその任務をなんとか果たそうとしていたはずだ。そのために今回の「政治案件」である要望を無下にすることができなかったのであろう。「その要望にはこたえられない」とすれば、法案成立に妨害がいるかもしれない。そう考えたとしても何らの不思議もない。

組織に入る以上与えられた仕事をこなしできれば出世したい。これはある意味当然である。そのためにダーティなことに手を染めるか染めないか、そういう選択をせまられる。そう考えると今回の事件を考える時、一番非難されるべき人間は、彼(女)らではないと思う。無茶な要望をだした「凛の会」の責任者。通常の場合に比べ金額の異常な割安さに気づきながらそれに飛びついた企業。そのために口を利いた政治家・・・ただし無茶な要求であること認識していた場合だが。こちらのほうがより罪が重い。

もっとも松木局長・上村係長という個別の人間の責任は強く非難できないとしても、組織としての厚生労働省をはじめ、官庁全般の持つ政治案件に対しての対応のありかたの「体質」はまた別である。この面での組織としての責任は、前述した依頼側の連中とかわらないほど重い。彼(女)らをのっぴきならぬ立場にたたせたのは、ほかならぬその「体質」だからである。

そういう点から言えば、今回の便宜者側の違法行為の責任は法人としての厚生労働省そのものともいえる。行政組織と政治側の要望との関係(官庁と政治案件の関係)のありかたをどうすべきか、この問題も今後解決しなければならない重要な政治課題のひとつといえるだろう。
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by phtk7161 | 2009-06-17 03:24
DNA鑑定への信憑をめぐって、受刑者である菅家利和さんが再審請求中に釈放された足利事件をめぐる問題。この出来事にはいろいろ考えさせられる点が多い。

捜査における科学判定の正確性というハード面はもちろんだが、取り調べ・訴追する側(警察官・検察官)あるいは裁判において認定する側(裁判官)の人間の心理面というソフト面も重要な問題点を含んでいる。

私自身はDNAの正確性をめぐる問題については今更驚かない。自分のブログでも指摘してきたように、初期のDNA鑑定方にはこれまで数々の問題点がすでに指摘されていた。それはなにも正確度(一致)の問題に限らない。

たとえばいく通りかのDNA鑑定方法があるなかで、検察側は事件の立件に都合のいいものだけ(一致したものだけ)しか裁判で証拠として提出しない(したがって他の鑑定方法で一致しなかった場合その事実は提出されない・・・被告側がその事実を把握していなければ証拠開示もなかなか困難である)。そういう問題なども存在していた。

もっとも社会の匿名化が進むなかで、科学捜査はの果たす役割は大きいものがある。初期の鑑定法に正確性の問題があったとしても、それを一概には非難できない。鑑定における進化の過程(確率の高さ)にはどうしてもそういう時代・・・レベルの低い時代・・・があることは避けられない。

もしその過程を認めない(容認しない)とするなら、科学捜査は発展しないままに真実を遠ざけ、むしろかえって自白偏重を招く危険すらある。したがって私自身は、初期のDNA鑑定法の存在自体を正確度の低さをもって強く非難するつもりは全くない。

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それよりもむしろ私が非難したいのは、その正確性を判断する側のソフト面(人の内面)の問題である。それはすなわち「お前さえがたがた言わなければ(素直に認めれば)万事まるくおさまるんだ(みんなめでたしなんだ)」という心理の問題である。

この心理とはなにも今度のような捜査をめぐる問題だけに存在するものではない。それは一般世間でも往往にして見受けられる。私たちの社会ではある物事を決める時、多数のほうにある種の「ノリ」が存在する。そしてあるグループ内での物事の決定において、ある人がこの「ノリ」を否定するとその人は少数者に回ることになる。

ある「ノリ」でもうことが決まりそうなのに、その人が「ノラナイ」から決まらない。あるいはきまっても、その人の「ノリの悪さ」で雰囲気が悪くなった(しらける)。「なんてうっとしい奴」こうなるわけだ。だから多数(業界の常識)とうまくやっていくには「ノル」ことが重要なこととなる。

誰だってこの手のことで日常において多数側にいるとき、そうでない人間に対して「なんてノリの悪い奴」「お前さえのってくれれば、まるくおさまるのに」と思うことはままある(もちろんその逆の立場になる時もあろう)。

それでも単なる好みにとどまる問題(たとえば何が食べたいか。どこに行きたいか)ならば、多数の「ノリ」の心理でそれを押し通しても、それが他者に法的害を与えない限り、社会では多くの人とうまくやっていくためにはむしろ好ましいものとされる。。

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しかし理科学的真実については、多数の「ノリ」の心理で決められるものではない。そこで「ノリ」の心理だけがはたらくことは、事実をゆがめ真実を遠ざけてしまう。たとえば地動説を批判した天動説が16世紀までいかに多数説であったとしても、それは真実ではない。地動説を否定することは、結局当時の宗教的「権威」をまもるための「ノリ」でしかなかったといえる。

裁判はゲームであると割り切る意見もあるが、民事はともかくことに刑事裁判おいては「真実の解明」がやはりもっとも重要視される事柄である。そこではまるくおさめるための「ノリ」は決して働いてはならない。

足利事件のもっとも大きな問題点は、捜査機関側の警察官・検察官そしてことに判決をくだす裁判官にこの種の「ノリ」が働いてしまったことにある。犯人を逮捕し・訴追し・裁いたという司法の社会的「権威」を守るため、司法界の「ノリ」を優先させ、真実のための重要なファクターである理化学面の問題・・・DNAの鑑定の真実性の問題・・・を軽視してしまったのである。

そういう点からみるとやはり、DNA鑑定に対して多くの疑問が渦巻いていたにもかかわらず上告を棄却した、2000年の最高裁判決がもっとも非難されるべきことと私は思う。

当時の最高裁の裁判官のどこかに、「被告人さえ刑を甘受すれば面倒もおきず万事うまくおさまる」という多数のための「ノリ」の心理の存在があったといえないか。科学捜査における当時のDNA鑑定自体の権威を損なわせないため(=科学捜査の権威まもるため)に、真実性(当時の鑑定法の正確性)の問題よりも捜査機関側に配慮する業界的「ノリ」を優先させた点で、このときの最高裁は本来の職責を放棄したに等しい。これでは非難されてもしかたがない。

ところで今度の裁判員制度も今回の問題ともちろん無縁ではない。当然裁判員は真実を求めることに「忠実」でなければならない。決してその場の多数の生み出す「ノリ」にのまれ、みんなとうまくやっていくことを優先して自らの職務(真実を解明する努力)を放棄してはならない。「ノリ」からはずれた少数意見になることをおそれてはならない。

結果として自らの意見が、たとえ裁判員同士の雰囲気そこねることになっても(もちろん意見を述べる姿勢には品位が必要なのはいうまでもない)それは重要なことである。それは刑事訴訟法における自白における補強証拠うんぬん以前の問題である。そういう点では、足利事件で裁判所に向けられる批判は裁判員にとって決して他人事ではないのである。
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by phtk7161 | 2009-06-12 02:23
西川日本郵政社長の続投にからむ鳩山総務大臣と民営推進派とのバトル。ここまで見る限り、鳩山総務大臣のほうが不利な状況のようにもみえる。しかし総務大臣の持つ「認可権」は、法的に見ればかなり強力な武器であることは間違いない。これとあの言いたい放題鳩山邦夫の性格をかけあわせれば、そうやすやすと西川続投は決まらないだろう。麻生首相も両サイドの板ばさみで「社長続投阻止」も「総務大臣罷免」もなかなか決断できない。

私的な見解であるけれど、このままこじれれば鳩山総務大臣の辞任と社長の不再任という双方痛みわけの結論もありうると思う。自らの首をかけての「西川続投阻止」は鳩山邦夫のプライドを満たすのに十分な結末のようにも思える(選挙前でもあるし・・・ある意味セールスポイントになる)。

考えてみれば、竹中・小泉&財界の期待を担って登場した西川社長。もともと毀誉褒貶にはことかかない人物である。経済界での実力・実績は確かだろうが、裏返せば海千山千の実業界にどっぷりということで、総数量さえあがれば一部の人間だけの富の独占も(収入に著しい格差があっても)かまわない御仁なわけだ。福祉国家的面を放逐し新自由主義を進めてきたものにとって、これほど便利な人物はいなかったであろう。

今回の問題で竹中・小泉・財界の誤算は、郵便局が民営化され「日本郵政」という会社になったとしても、その原資が財的「公的」性をもつことを軽視していたことだ。

「民営化されれば過去は関係なく民営会社と同じ。だから、会社の意思で自由に取引できるはずだ。それに何か文句ある?」。こういった論理の延長線上に、今回の「簡保の宿」の売却があったといえる。つまり日本郵政が「それでいい」といえば「それでいい」。「国民は関係ない。民間企業だもの」というのが、民営化推進者である彼らなりの論理だったわけである。

しかし郵貯をはじめ今回の簡保の宿など、日本郵政の財の原資はまぎれもなく国民の財産。もともと民間の企業であったところの原資とはその中身が違う。当然いい加減な売却など許されるわけがない。売却にはそれに耐えうる説明責任が伴う。

今回の簡保の売却では、取引にからみ登記されたばかりの不動産会社の存在、あるいは日本郵政内部での主幹事的な外資会社(投資・証券)の存在が目を引く。国民の財産に絡んで、大きな利益を外資にもたらしていたとすればやはり問題だろう。もし日本郵政の財が回りまわって一部の民営化推進派と外資だけに利益をもたらす構造になっていたとすれば、これはもう許されるべきことではない。そういう点では、鳩山邦夫の「西川やめろ」の言い分にはそれ相当の理由があるといえる。

もっとも、「私の友人の友人がアルカイダ」発言。死刑に関しての「ベルトコンベアー」発言。はてはSMAPの草薙つよし氏に対する「最低の人間」発言など、公人としての発言の最低性には「超」がつく鳩山邦夫。彼が自分で思っているほど、彼のことを「正義の味方」とみることはできない。

こういうバトルになると、日ごろの発言に伴う人格評価がものをいう。これまでの発言から、彼が世間の平均より人格的にはある種の「駄目人間」であることは確かである。ま、人の好き好きはそれぞれ。人によれば、彼の発言を愛嬌とみる人もいよう。でも彼の公的立場を考える限り、発言は決して「愛嬌」ですむことではない。

それでも・・・どんなしょうもない人間であっても・・・人間10のうち1つや2つはいいところがある。邦夫の内心的趣旨(本音)はともかく、外形的に見ればその1つが「郵政」に関してはでたということだろうか。

見方によれば、今度の騒動も総務省(旧郵政省)内部の民営化反対派(反竹中・小泉・西川派)の「意」をうけてのこととみれなくもないが、ま趣旨がどうであれ西川続投に波紋をなげかけた今度の問題。これまでの、彼のこれまでの発言のどれより(というよりその多くは論外の発言だが)もかなり「まとも」な発言であることは確かだ。さてこの結末。両者痛みわけ(双方やめる・・・総務相辞任と新社長登場)になるかどうか。とりあえずその成り行きを注目していきたい。
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by phtk7161 | 2009-06-04 13:54