社会問題を考える


by phtk7161
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ここにきて鳩山代表が守りにいっているのか、消極的な姿勢がめだつ。小沢問題でみせたようないい意味での「腹をくくる」ところがみられない。いい例が橋下大阪知事のマニフェス批判に対する弁解的な姿勢だ。自民が東国原に頼ったのと同じ轍を踏もうとしているようにもみえてしまう。橋下知事がまるでマニフェストの正解を知る試験の採点者で、鳩山代表が受験者のような構図になっている。これではだめだ。橋下知事=正解なわけではない。

たとえば橋下知事は道州制を正解のごとく主張している。しかし道州制が導入された場合、道州同士の格差が著しく生じるおそれもあり、また同じ道州内でも市長村格差が一段とすすんでしまう可能性もある。おそらく過疎地は絶望的な扱いをされてしまうだろう。

このところ地方分権がすべての問題を解決してくれるかのような、まるでこれを錦の旗のごとく掲げる主張がされている。しかし事はそういう単純ではない。地方分権にはプラス面もあるがマイナス面もある。ことに道州制を肯定するならなおのこと問題である。これを熱心に主張する者の背後にはアメリカの自治州的な考えが見て取れるが、カリフォルニア州が今どんな状況だか考えてみるといい。ばら色の構図だけが待っているわけではない。

少なくとも「生活が一番」と「道州制導入」が肯定的なつながりになるとはいいきれない。かえって「生活が一番」に反する可能性すらある。道州制が実施されれば大都市の利便性は強まるだろうが、中小的都市はむしろより不便になる可能性も強い。両者の生活格差に拍車がかかることも十分あるだろう。その場合その是正には困難をきわめる。さらにいえば知事権限の拡大から、地方政治の独裁性が高まる危険性もある。

私も学生のころ道州制は肯定的にみていた。しかしそれは結局「力」に自信をもつ者の立場から見た発想であり、幅広く人間のいろんな立場の人間がいることを念頭においたものではない。それはある意味、世の中を知らない怖いもの知らずの「坊や」的な考えをする者が陥りがちな発想ともいえる。

たとえ道州制の肯否は除いて広い意味での地方分権にかぎってみても、地方分権が物事を解決するオールマイティなものでないことは確かだ。地方分権は結局程度の問題に帰着する。それなのにこのところメディアを騒がす市長や知事政治家をみると、どうもこれを材料に物事を単純に○×して自らを正義のヒーロー的に売り出す人物がめだつ。政治がそういうレベルにある限りは本当の民主政治はまだまだ先のことといえる。

民主党はそういう安易な風に乗って戦うべきではない。橋下知事には過去の発言からみてもあやまった主張も多い。決して常に正解だけを出せる人間ではないしまたそんな人間もいない。彼がメディアに肯定的にとりあげられるのは、そのタレント的資質からストーリー仕立ての政治演出をしやすいからにすぎない。

橋下人気をこわがり、機嫌を損ねずにと彼の意向に迎合してそれがよい政治につながるといえるのか。もう一度民主党は誰のために政治をやろうとし何のために政権を獲得しようとしているのか、その原点にかえるべきだ。橋下知事のために政治をやり政権獲得をやろうとしているわけではないだろう。彼とぶつかることを必要以上に恐れる必要はない。オロオロしたりするほうが、かえって大きなマイナスである。いいたいやつ(知事)には言いたいだけ言わせて、デーンとかまえておけばよい。

民主党に今大事なことは自らのマニフェストに自信をもち、あとは国民にその是非をあなたの頭で考えてくれと主張したえうえで、あらたな政権党をつくりだす制度的有用性を強く主張していくことである。あとは腹をくくって戦うだけだ。鳩山代表にはもう一度、腹をくくって戦う姿勢を取り戻してほしいと思う。
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by phtk7161 | 2009-07-31 03:38
解散も決まりいよいよ選挙である。小泉以降の政治は物事を○×的にシンプル化してドラマ化してきた。そこではメディア・・・ことにテレビ・・・による演出的な扱いが大きな力をもったのは事実である。

しかし最近になってさすがに有権者のほうも学習したせいか、安易なメディアの演出にはのらなくなってきている。東国原騒動もメディアのほうは躍起になって彼を売り出そうとしていたが、知事を一期も全うせずまた総裁候補扱いの要求には「何か違うぞ」と思った人も多かったであろう。

自民党のみならず、いいかげん今のメディア(テレビや新聞)のほうも政治に対するスタンス・・・話題つくりやドラマつくり・・・を変えないと凋落は近い。政治が現実生活影響することを根底に置かないと他の媒体手段に取って代わられるのもこのままでは時間の問題である。そういった点では、今度の選挙はメディアが信頼をとりもどすためのまたとない機会でもある。安易な話題づくりに走らない正確な情報提供のスタンスをとってほしい。時にはたいくつな面白みのないテレビ・新聞報道も、まともな政治をとりもどすためには有効なものだ。

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今度の選挙は文字通り政権選択選挙となるわけだが、この「政権選択選挙」は安易なイメージ的表現とは違い「実」をもつ。それはある意味「制度づくり」の選挙といっていい。どんな「制度づくり」かといえば、それは政権を担える政党を複数作り、政治の独裁化や硬直化を防ぎよりよい政策をうみだすためのシステムづくりといえるだろう。

私はこのことを「街のスーパー」的論理で人には説明するようにしている。街にスーパーが1軒しかないと値段もサービスもなかなか進展しない。何もしないでも客がくるからである。しかし2店目がたつと、そうはいかない。値段を下げサービスも向上させていかないと、客をとられてしまう。2店目の出現が結局は消費者(国民)の利益につながることになる。

もっとも政治の場合、あまり店がありすぎるこれまた問題で、いきすぎた値引き合戦や足の引っ張り合いで逆に消費者にはマナイスになってしまうから、政治の世界ではせいぜい3店が限界である。有権者にとって政権を担える規模の党は2~3党あたりが理想なのだ。これまで1軒の店による独占・・・新進党のケースは自民党の分裂によってできたもので国民主体の政権政党づくりではない・・・を日本という「街」の国民はゆるしてきた。それが長年にわたる自民党一党による(連立も含め)長期政権だった。

それでも自民党自体に派閥がありリベラルからタカ派まで自由主義から福祉国家まで幅広く人材を抱え、それなりに調和的政策をやってきた頃はまだましだった。しかしあまりに長期に政権をまかせたことで、結果としてそのことが行政国家現象を招きキャリアに丸投げしすぎる政治をうみだしてしまった。さらに小泉政治以降は市場主義絶対のもとでその長所だった「調和」の機能さえ壊してしまい、その結果意見を集約する機能まで喪失することとなった。これではこの党にもはや「政権担当」能力があるとはとてもいえない。

最近ではこのスーパー・・・自民党・・・の店員(議員)たちは、経営への情熱もどこへやら今や自らだけはリストラ・・・落選・・・されまいと相も変らぬ薄っぺらい「改革」演出や、ライバル店の評判落としに必死である。そこには腹を決めて正面から戦い、たとえ一度は首を切られても、また自らの信念で店に戻ってくる覚悟もない。情けない限りだ。本当にどうしてこの政党はここまで落ちぶれてしまったのか。世襲の跡取り「アホボン」や中身よりテレビを気にする「カッコマン(ウーマン)」がそろいすぎだ。とにかく今の自民はあまりにそこが浅すぎると思う。ここは一度下野して人材を一新していくのも自民再生のためである。

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今のキャリアへの丸投げ政治をあらためまた調和機能をもつ政治をなしえるためには、サービス合戦をするためのライバルとなる政権担当政党をつくりださなければならない。もちろんあたらしい店がオープンしたところでこの店もそうたいしたことはないかもしれない。駄目なところも大いにあるだろう。サービスも口先だけで終わるかもしれない。

「それでも」である。あたらしい店がオープンしなければはじまらない。オープンすれば壊れかけた古い老舗は確実に新装開店を目指しあるいは分解した小型の店同士で新しい店をつくる努力をはじめるだろう。そうなればそれに負けじとライバル店もまた努力するだろう。この競争は決して国民生活にとってマイナスではない。その制度を作り出すこと、それが今度の選挙のもつ意味なのである。
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by phtk7161 | 2009-07-21 03:16
人には人それぞれの考えがある。ただその考えも、物事の内容をある程度知った(理解した)うえでなければ、表面の情報に踊らされた薄っぺらい考えになってしまう。

鳩山民主党代表をめぐる政治献金の虚偽記載の問題についてもそうで、政治資金規正法違反に関する行為をどれもこれも一緒くたんにしてとらえ、メディアに「金に問題がある」と指摘されればすぐに「こいつは金に汚い政治家。だから政治家失格」とする反応はあまりに短絡的だと思う。

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政治資金規正法違反の問題については、私はその行為の具体的な態様でその違法の度合も違うと考えている。

いくつかの典型例でいえば、違法度がもっと強いと思うのが政治資金として届けないで(つまりは記載しないで)裏で金をもらっているケース。この場合もしこれに職務権限などの要件がからめば言うまでもなく賄賂罪となるが、そうでなくても(政治資金としてもらったつもりでも)その情報を世間に全く公表していないのであるからこれはもっとも悪質である。

次に違法度が強いのは、政治資金として記載はしたがその中身が実際とは異なっていて、かつその資金は他人からでているケース。小沢代表の場合がこれにあたる。この場合、とにかく誰からか政治資金として金をもらっていることは記載して世間に示してる。つまり少なくとも政治資金が何がしかの団体や個人から入っていることは公表しているのである。

このケースは最初の場合に比べ、金の問題に対してのとっかかりの事実は虚偽といえども表出させている・・・政治家の資金量面の一端はきちんと見せている・・・だけ、最初の場合と比較してまだましである。ただこの場合も職務権限などの要件を満たせば、最初の場合と同じように賄賂罪が成立することになる。

以上のふたつは、その延長線上では・・・要件を満たした場合・・ある意味賄賂罪が生じうる行為といえる。

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これに対して以下のケースは内容を異にする。すなわち政治資金として記載したが実はその金は自分の金であって実際に寄付などなかったケースである。本来党への貸し付ける方法でやるべきものを、ミエをはって政治資金が多くあったとして自作自演のウソの記載した場合がこれに当たる。この場合、金のでどこは自分であるから賄賂罪などなりようがない。

もともと政治資金規正法は政治資金に関する資金面での透明性と公正性の確保をその趣旨としてるのだろうが、やはり一番の重要点はどんな形であれとにかく政治家が人様から金をもらうことの危うさである。

つまり特定の寄付者への政治家のコネやひいきが、政治資金によって生じることは本来あってはならず、そのためにうそ偽りなく寄付者をはっきりとした形で届けさせる。それがこの法律の一番の趣旨・・・もちろん、そのほかにも選挙に規定する資金面での公正なルールの維持をより実質的に補足していくなどの点もあろうが・・・と考えられる。

そう考えていくと、私は本人の資金を使っての虚偽記載は政治資金規正法違反のなかでもその違法性の度合いはさほど強いとは思わない。もちろん他人の名義を承諾なく勝手に使った点の違法性の問題はまた別であるが、少なくとも金に関して賄賂に絡む問題には発展しようもなく、その点で「金の汚さ」的ものは問題にならない。

承諾のない他人名義の使用の点については、その害悪性をどうみるかそれは国民各自の判断にまかせるしかない。それを絶対許せないという人もいるであろうし、あまりいいことではないが政治生命をかえるほどのものではない・・・代表を辞任する程度のものではない・・・と思う人もいるであろう。

ただいずれのケース・・・上記三つのケース・・・にしても、政治家本人がそれを知っていた(ないしは意識していた)こと、これが前提であることは絶対である。そういえてはじめて政治資金規正法違反が生じるのである。それに至らない限りは(検察が立証できない限り)、道義的問題が生じるに過ぎない。

 今回の鳩山代表の問題について、金の面からみた点ではで私は確かにいいことではないがそう強く批判するほどのものでないと考えている。目くじらをたてるほどのことではない。名義使用の面すなわち承諾なしの他人名義使用の点については、そのことを鳩山代表自信が知っていたのであれば違法性は強いという見かたがあっても・・・その人によるだろうが・・・やむをえないだろうし、知らなかったのであれば秘書の管理の点についてたんなる道義的問題にとどまる。

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以上私なりの考え方を書いてきたが、もちろんこの考えに対して異論をもたれるかたもいられよう。ただ異論をもたれるかたでも、その考えはそれぞれの行為の態様の違いをある程度おさえた(理解した)うえでのものであることは必要である。

政治において、金にきれいであることはもちろん重要なことである。しかし所詮人間のやることである。一般社会が金にきれいとはいえない現実を踏まえれば、政治の世界だけそうであるべきとすることは無茶な理屈である。政治も一般社会の延長線上にあることにはかわりはない。だから政治に関して金の問題の存在があることはおさえたうえで、あとはその態様の違いで行為の責任を考えていくのが妥当である。

それをふまえないで、「とにかく金に問題がある」とメディアがとりあげればすぐにそれを鵜呑みにして、その行為の態様をみないでどれもこれも一緒くたんに「政治家失格」としてしまうのではあまりに浅薄すぎる。今回の問題で鳩山代表を批判するとしても、それぞれの政治資金規正法違反の行為の態様の違いを踏まえたうえでのものでなければ意味がない。

現実に即してしてあえていうなら、上述した三つのケースのうち最初の二つに該当する政治家はゴマンといるはずである。それをいちいち行為の中身の違いもみず叩いていたのでは、これはもうきりがないことになる。それでもやはり一緒くたんにして叩くべきとするなら、片っ端から与野党問わずとりあげて叩く必要があろう(もっともその場合、政治家はほとんどいなくなってしまうだろうが。)

政治家を批判する場合、その行為の本質を大まかにでもある程度はとらえておくことはその前提として重要である。そのうえで各自が自らの頭でその是非を考えること、これが民主政治の発展にもつながっていく。本当に政治を変えたいとするなら、そうしなければならない。それをしないでメディアなどの情報に安易にのって批判することは、政治を単に○×的なものに貶める行為にすぎない。どうもここのところの民主党の代表たたきをみると、メディアを含めてそういう風潮があまりに強すぎるように思う。
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by phtk7161 | 2009-07-08 05:05
あの田母神氏がこともあろうに広島で「原爆の日」に合わせて核武装の講演を行なうという。この話バックには選民思想にまみれた時代錯誤集団「日本会議」の広島支部がついていて、ここが主催するらしい。

「原爆の日」は、原爆で亡くなった方への哀悼を示すとともに、世界で最初の核の「被爆国」である日本がその事実を内外に向けて訴える日である。それは広島・長崎で起きた核の使用が2度と起こらないよう、国家としての核廃絶の決意を再確認する日ともいえる。

35万ともいわれる人の命が一瞬にして失われた悲劇、これが「人類に対する犯罪」であることは疑いようもない。どのような理由であろうと「核」を戦争で使用することは二度とあってはならないのだ。核が存在する限り核使用の危険は続く。核による人類最大の罪(使用あるいはその危険)を根絶するためには核廃絶をおいて他にない。シンプルながらこれほどはっきり分かりきった論理もない。

原爆で多くの人が亡くなり、今なお原爆症で苦しんでいる多くの人たちがいる。その生命の尊さを考えるとき、その人々・・・生存の有無に関わらず被害者として・・・のみならず、「原爆の日」は私たち自身にとっても特別の意味を持つ。それは政治思想がどうとか表現の自由がどうとかという次元の問題ではない。それは政治思想以前の「人間性」の問題である。そしてその区別もつかない人間は「馬鹿」である。

今回彼らがやろうとしている行為は、まるでぐれたガキがよくやる人への迷惑行為とおなじである。グレたガキは、人を嫌がれば嫌がるほど喜んで嫌がらせ行為をやる。彼らはまさにこのレベルのことをやろうとしている。そして忘れてならないのがこういう馬鹿ガキが自衛隊で制服組のトップであったという事実。さらにはこんなガキのための退職金に多額の税金が使われたという事実である。国家として、これほど情けない話はない。

わざわざ「原爆の日」を選んで、多くの人が不快になることが分かっていながら核肯定の講演をするその人間性。間違いなく田母神氏には人としての大切な何かが欠落している。そしてそれは、彼を積極的に後押しする元最高裁裁判所長官を会長とする「日本会議」という腐った組織の人間たちも同じことである。

私は日本会議の馬鹿馬鹿しさについていまさら論評しようとは思わない。所詮「人は差別されて当然」とする思想を根底に持つような時代錯誤の権威主義人間は、自分が差別される立場(彼らがのいうところの凡人)にならない限り決して目が覚めないものなのだろう。それでも・・・自らの政治思想がどうであれで・・・人として最低の「人間性」はもっていなければならない。

彼らはいったい何が面白くてこうした行為の後押をするのであろうか。今度のこととの直接的な関係はともかく、その発想のありかたを見る限りどうにも中山成彬・森喜朗・安倍晋三・中川昭一的政治家の姿がみえてしょうがない。今回の出来事は、具体的な個々の人間より抽象的な国家を大事にする者達が、いかに最低の人間性すら持ち合わせていないかをはからずも露呈させることとなった。

もしこの先、この組織(日本会議)の知性がこのまま低下していくなら、そこにはもうカルトの世界しか待っていない。そうした点から言えば、今回のことは「日本会議」という組織が人として「まとも」なものか・・最低の人間性を持ち合わせているか・・・を問う出来事ともいえるだろう。
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by phtk7161 | 2009-07-04 01:39