社会問題を考える


by phtk7161
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衆議院選挙の投票日も間近に迫った。各種世論調査で民主党の優勢が伝えられており、政権交代は間違いないだろう。

もし選挙にテーマというものがあるなら、今回のテーマは「政権交代」の可否ということになろう。私なりの言葉で言えばすでにこれまで述べてきたように政党間での適度な競争原理による・・・私は政権党を担う党の存在は3党程度がベストだと思う・・・立憲民主制の向上をめざす手法(制度)を国民が取るのかどうか、その一歩として国民が民主党に政権を担わせあらたな政権党をつくりだすのかどうかということである。これはいわば「寡占的政権党制度(政治)」からの脱却である。

「政権交代」のテーマはどうやらクリアしつつあるが、このところの政治のありかたにはもうひとつの決別すべきテーマが存在する。それは政治における(政策の)○×思考からの脱却である。そしてこちらのほうはどうもまだまだクリアできそうにない。

たとえば官か民かによる択一的思考・・・たとえば郵政民営化支持者が○で反対者は×・・・のもとで有権者は小泉政権を大勝させた。小泉政権のもっとも大きな過ちは政策提示の仕方において政治ありようを○×的に国民に提示したことである。この罪はイラク戦争におけるブッシュ政権同様重い。

本来政治の本質はバランスにある。

ある問題における両極の考えの調和をどうはかっていくか。そのためにどういうおとしどころをめざすのか。それはその分野のもつ根底の目的にかなっているか。これらのことが政治のバランスには重要なポイントとなる。

たとえば財政再建と福祉の充実この両立の難しい問題はどちらか一方だけを択一的にはとれない。財政が数字的によくなっても人がばたばた死んだり路頭にまようようでは意味がないし、逆に極端な財政無視の福祉のあり方はいずれは破綻を招き、結果としてやはり国民生活をまもれなくなる。

国民に安定した生活を保障するためには、両者のバランスをどうはたらかせるか。両者の絶対的にゆずれない根底のもの(理念)は何なのか。問題のなかから一見哲学的にみえるこの根底のもの(理念)を見極め、バランスをはかりそれを国民に具体的政策とともに提示しそれを実行していく、これこそ政治の役割である。

小泉以降の政治は完全にこれを捨て去っていた。それを作った原因は小泉政権だけではない。政治遂行者と国民との間の情報をとりもつメディアの情報提供のありようも多くは○×式に堕していたといえる。そして今なお政治の思考のありかたついてこの傾向は改まっていない。

すでに書いたことだが地方分権の問題も伝え方も、中央と地方の程度問題の壁を越え地方分権○の提起に堕してしまっている。たとえば多くのメディアは地方分権に関するひとつの政策のありようにすぎない道州制も○のものとして提示している。郵政民営化の問題から彼らは何も学んでいない。

官僚制打破の突破口として道州制を提示しているが、もし今のままの道州制なら単に大が小になったに過ぎない。役人の本質がそこで変わるわけがない。今の官僚制の問題は、官としての本質論を避けて通れないはずである。あるいは教育と医療の道州間での格差の問題もそうで、これも「格差があって当然」のものとするつもりであろうか。

「教育と医療は国民にばかげた格差があってはいけない」こういう考えもいっぽうにあるはずなのに、あえてこれには触れずに道州制肯定説が提示されている(たとえばある新聞の社説のレベルはそうである)。あらたなおもちゃをみつけてのまた「正義の味方政治」ごっこ(遊び)である。

メディアの権力監視としての批判精神の重要性はともかく(これは必要である)、少なくとも政策論の伝達についてはメディアは○×的提示の仕方ではなく広い視野にたって、具体的に細かくプラス面とマイナス面の問題を情報として提示していくそれがメディアの役割である。それができないメディアはもう今の時代不要である。メディアは正解をだすことが役割ではないし、また国民もそれを求めてはいけない。

政治における○×思考の脱却はもちろん私たち国民にも求められる。この脱却が立憲民主制の充実をより確かなものとする。「寡占的政権党制度(政治)」における政治の脱却が目の前となった今、次にめざす政治はこの○×思考の脱却をおいてほかにない。
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by phtk7161 | 2009-08-25 05:49
初の裁判員制度実施された。裁判員に選ばれた方はみなさん本当に大変だったと思う。真摯に役目を遂行されたその姿勢は、高く評価されなければならない。ただそれはそれとして、私なりに今回の裁判で気になった点をあげておきたい。

判決は懲役15年であったが、これはこれまでのこの種の殺人相場あるいは求刑の八掛け相場からいえば明らかに重い。一挙に相場があがったことになる。この相場でいけば、無期懲役・死刑判決も確実に増加するといえる。もちろん被害の甚大さからいえば、これまでが軽すぎたそういう考え方もあろう。それはそれで、国民一般の感情からいえば無理からぬ考え方かもしれない。しかし裁判員になった以上「一般国民の感情にかなう=正解」だけではないことに注意しなければならない。

ある裁判員のコメントに「遺族の気持ちを考えると。少しでも早く結論をだすことが、国ができるせめてものことだ。記憶が鮮明なうちにやったほうがいい。4日間は適切だったと思う。」というのがあった。今回の裁判は殺人行為自体は争われてはいない。またこの裁判員の方も、当然被告側のことも考慮されたたうえでのコメントなのだとは思う。

しかし今回の裁判においても一番重要なことは「真実」の追究をおいて他にない。裁判の迅速さも「被告人の利益」にかなうものでなければならない。遺族側の「迅速さ」は、「真実」や「被告人の利益」に優先されるものではないのである。もし遺族側のための裁判の迅速さが、「真実」や「被告人の利益」に優先するなら、これはわが国の刑法のあり方を根底から変えることになる。私自身は科刑の基本的バランスのからみて、今回の判決はやはり遺族側(被害者側)の心情に傾きすぎているように思う。

今回の裁判で、はたして裁判所は裁判員の方に対し、科刑のありかたについて応報刑の立場と教育刑的立場という考え方があることをきちんと説明したのであろうか。裁判員に量刑までさせるのであれば、裁判員としてそれは当然備えておかなければならないことである。

応報刑的考えは、日常犯罪者の立場にたつことがない多くの一般国民の間ではなじみやすいであろう。しかし教育刑的考えも、犯罪を予防する見地から長い歴史のなかで生み出されたものである。どちらか一方をある程度は重視するとしても、一方をまったく無視することは決してあってはならない。両者のバランス配分をいかにするかも重要な科刑の役割である。科刑は決して被害者の「敵討ち」のためにのみあるわけではない。

今回の傾向がすすめば科刑のありかたは応報刑の立場のみのありかたになってしまうのではないか。法廷での事実認定者の間をそういう感情のみがしめることが、果たして私たちの社会にとってよいことなのかどうか。そういう考察が裁判員をやられるかたには必要なことだと思う。

また今回の裁判は裁判員制度において一番問題となる事例でないことも押さえておかなければならない。一番問題となるのはやはり犯罪事実を否認している事件である。今回の裁判はこれに該当していない。

その点ではこの種の事件こそ、メディアがもっとも国民に対し伝えなければならない裁判(裁判員制度による)といえる。この種の裁判で、裁判員がどう考えどう判断していくのか。まさにそこでこそ、今回の裁判員制度が本当に私たちにとってプラスとなる裁判制度なのかどうかが問われることになるといえよう。
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by phtk7161 | 2009-08-09 05:16