社会問題を考える


by phtk7161
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<   2010年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧

日歯連事件や鳩山首相事件の審査会は、法制度と市民感覚のはざ間で苦しみながらもそれなりの結論を出したと思う。

しかし今回の審査会のレベルはそれとは違い、感情優先と見られても仕方がないものになっている。

< 5 政治資金規正法の趣旨・目的は、政治資金の流れを広く国民に公開し、その是非についての判断を国民に任せ、これによって民主政治の健全な発展に寄与することにある。
 (1)「秘書に任せていた」と言えば、政治家本人の責任は問われなくて良いのか。
 (2)近時、「政治家とカネ」にまつわる政治不信が高まっている状況下にもあり、市民目線からは許し難い。
 6 上記1ないし3のような直接的証拠と状況証拠があって、被疑者の共謀共同正犯の成立が強く推認され、上記5の政治資金規正法の趣旨・目的・世情等に照らして、本件事案については、被疑者を起訴して公開の場(裁判所)で真実の事実関係と責任の所在を明らかにすべきである。これこそが善良な市民としての感覚である。よって、上記趣旨の通り議決する。>


< >内が、議決内容の後半部分のあらすじである。前半部分については事実認定の根拠について書いてある。

<>内(1)の「秘書に任せたといえば政治家本人の責任はとわれなくていいのか」という部分は特に感情的だ。

「秘書に任せて・・・」はなるほど確かにそれでいいはずはない。しかしそうなってしまうのは、政治資金規正法に「不備」があるからである。それを「それでいいのか」「いいはずがない」だから「裁判にかけろ」では、理由(法制度的な)になっていない。

刑事裁判は犯罪要件を満たす証拠が有罪を立件できるレベルにあると思われて、はじめて行なえる。立証は難しいけれど「あいつは悪いやつ」、だからとにかく裁判に引きずり出せというのは、裁判がどういう場所かを履き違えている。それをやれば個人の人権なんてひとたまりもない。

「やってないんなら、結局無罪になるだろう。それでいいではないか」は、裁判の負担の大きさを知らない「お気楽」く人間のいうことである。裁判自体で、人は心理的・経済的に相当なダメージを受ける。だからギャンブル的なレベルで(イチかバチカ、あるいは見せしめで)起訴していいはずがない。

          ☆          ☆          ☆   

今回の審査会の質は、(1)「政治か本人の責任は、問われなくていいのか」(2)「市民目線からは許しがたい」(3)「これこそが善良なる市民としての感覚」という言葉で容易に察しがつく。これらの言葉を見る限り、謀議の事実認定に感情的部分が相当はいっていると言わざるを得ない。

法の不備があるなら、その不備を是正するよう勧告するのが本来のあり方(実際先の審査会はそうしている)であって、「いいわけないから」「裁判にかけるべき」というのは感情論以外のないものでもない。

そういった意味では、「法の趣旨・目的・世情に照らして」という彼らの文句はただの飾り文句にしかみえずむなしく響く。

(1)~(3)の言葉を見る限り、審査員は立件の対象になっていない「裏献金疑惑」の存在を起訴肯定の念頭においていいるのは明らかだ。完全に審査の範囲を逸脱してしまっている。これでは、検察審査会制度本来のありかたをゆがめてしまう。「魔女裁判」的審査会と言われても仕方ないであろう。

肯定のよりどころをあまりに「支配関係」だけに求めすぎていないか。支配関係がが肯定されれば、明らかになっている事実だけで本当に「共謀」ありとしていいのか。あるいは、これまでの日付(虚偽記載)の事案がどう刑事処理されてきたか。共謀共同正犯の適用をはたしてこのケース(日付の虚偽記載=形式犯的もの)にまで拡張していいのか(あるいはこれまで同種の事案にこれが適用されたケースはあるのか)。そうした観点も審査会できちんと論議されたのか。


民主的な「多数感覚」を司法に反映させるとしても、そこにはおのずと限界がある。司法は「少数感覚」も必要とするからである。そういう意味では司法の世界においては民主的「多数感覚」は万能ではない。それだけでは、個人の尊厳(人権)は決して守れない。冤罪をださないためにも、それは重要なことである。

そうしたことからいえば、容易に起訴できる(証拠も十分ある)のに、何らかの政治的・圧力的理由で検察が起訴しない、こういう場合こそが検察審査会がもっとも機能する場合であろう。証拠の不十分さで検察が躊躇している場合には、よほどのことがない限り・・・審査会の起訴理由が検察の不起訴理由を超える論理的説得力を持たない限り・・・起訴は肯定されるべきではない。私には今回の審査会の決議が内容を見る限り、そのレベルにあるとは思われない。

「そこのけ、そこのけ、善良な市民感覚のお通りだ。それで(司法の世界でも)何でもOK」私には今回の内容をみると、そういった審査会の認識の甘さが垣間見えてならない。司法的な感覚が今回の審査会からはなかなか見えてこないのである。
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by phtk7161 | 2010-04-30 21:50
 前回記審査会の議決内容についてはすでに記したが、今回はもう少し細かく見たうえでの感想を書きたいと思う。

水谷からの政治資金疑惑についての立証は全くできていない。したがって(土地に関する金銭の)虚偽記載についての小沢氏の関与の有無が、今回の審査会の判断すべき内容となる。日付についての虚偽記載は、これまで単なる形式犯で済まされてきたことは事実だ。訴追によりこのケースが処罰されることはなかったといっていいだろう。

不透明な資金の授受の有無については処罰できないから、その分のこともこれに含めて(感情的とも思える表現を見る限りそう思わざるを得ない)処罰しようとするのは、司法のありかたとして許されるものでhない。これは前提としてきちっと押さえておかなければならない。

        ☆          ☆          ☆       

さて、虚偽記載について小沢幹事長の責任を共謀共同正犯の形で追及しようというのが、訴追側(乃至は審査会)の姿勢である。(<>内の部分。)

<更に、共謀に関する諸判例に照らしても、絶大な指揮命令権限を有する被疑者の地位とA、B、Cらの立場や上記の状況証拠を総合考慮すれば、被疑者に共謀共同正犯が成立するとの認定が可能である。>

もともと戦後の判例でこの理論がみとめられたものとしては練馬事件が有名である。典型的例としてとしては、暴力団の親分・子分関係がよくあげられる。適用される犯罪例としては、殺人だけでなく傷害・窃盗などでも認められる。

現在の学説では肯定が当たり前(おそらく否定説はあるとしてもごく少数であろう)となっているが、もともとは反対意見のほうが強かった。なぜならこの理論により、犯罪を「実行」しないものに「(共同)正犯」を適用するには共犯の概念から相当に抵抗があり必要以上に処罰対象の拡張につながることをおそれたからでもある。もしこの理論が、どんな犯罪にでも適用されるなら、人権侵害の危険は相当に強くなる。

形式犯たる政治資金規正法(ことに日付の虚偽記載)で、この理論を使ってまでやることがバランスからみてはたして妥当なのか。肯定されるなら、支配的立場にいるものは容易に立証しやすい微罪を対象にして容易に罰する(大げさに騒いで)ことができることになる。

今回の審査会がいうところの「支配関係」なら、多くのところにこの関係は存在する。政治家と秘書はもちろんのこと、あるいは会社の上司(たとえば人事に強い影響をあたえることができる立場)と部下(言われたことには逆らえない立場にあるもの)の関係に至るまで、ようはとにかく全く逆らえない人間関係にあるものは、これに少しでも疑わしい何らかの証拠を加えれば、共謀(犯意)の存在など簡単に肯定されてしまう。少なくとも「(善良な)市民感覚」からいえばそうだ。

このレベルで共謀共同正犯の共謀を認定し、さらにその適用を「形式犯」にまで拡張するならこれはもう相当に危ない。証拠上では裁けない犯罪を、潜脱的に含めて容易に立件できる形式犯のなかで裁く(微罪の相場以上にできるだけ刑を重くして)ことも簡単にできてしまうことになる。

そうした危険の視点が、今回の審査会の決議内容からは全くみえてこないのである。それだけ「何としても共謀を認定したい」、その感情ばかりが今回の審査会の空気を支配していたということだろう。共謀共同正犯理論をまるでオールマイティの法理のように安易にとらえてはいなかったか。そのあたりもこともかなり問題のように思う。
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by phtk7161 | 2010-04-30 21:07
今日(もっとも日付はかわってしまいましたが)は気が向いたのでもう一本書かせてもらいます(たまにはこんな日もあります)。

ご存知のように今日(正確には昨日)小沢政治献金問題で「起訴相当」の議決がだされた。審査会メンバーそれぞれ考えてだしたうえでの結論なのだろう。しかしかし内容を見ていて「それでいいのか」と思う点があった。

それは「これが善良な市民感覚である」という表現を使っていたことである。検察審査会の議決内容は「公式的」に残る。メンバー誰しもそれが分かっていて、あえて「善良な」という表現を使っている。

いうまでもなく検察審査会は事件について「法的」に考えたうえで起訴すべきかどうかを決めるというものだ。そこに「善良」などという表現はそぐわない。訴訟法にもとづいて「証拠」と照らしあわせて「起訴」すべきかどうかそれを「市民」感覚から判断する。それが検察審査会の役割であろう。

何が「善良」かどうかそれは誰にも分からない。「法曹的感覚」だけでない「市民感覚」「一般的(市民的)法感情」というものは存在しても、「善良な市民感覚」なんてありはしない。

誰にも「善良な市民感覚」がどういうものなのか決して分からないし、またそれが分かるという人間によってだされる判断ほど怖いものはない。それにより出された結論は、単なる思い上がりの感情によりだされた結論に過ぎない。

彼らの言う「善良な市民感覚」によって判断されれば、たとえば「無罪推定の原則」は「善良」でなく「法の不備」とすらされかねないだろう。彼らに言わせれば、何が「善良」で何が「善良」でないかは分かるということになるからである。

法の世界の結論はそういう感覚でだすべきものではない。証拠による相対的結論・・・しかも刑事事件裁判では合理的疑いを超える程度の立証が必要・・・でだされる。そこに絶対的ものである「善良」さなどいる余地もない。

かつて「甲山事件」というものがあった。マンホール内で子供の死体が見つかった事件である。当時施設に勤めていた職員が逮捕され、目撃証言(施設にいる子供による)の信憑性が争われた。この事件は検察審査会により不起訴不当とされ、起訴後20数年たって結局被告人は「無罪」となった。これも「善良な市民感覚によって」もたらされた出来事だったのか。

もし今回のように検察審査会が「善良な市民感覚」で判断できると考えているとするなら、そういった検察審査会には現実の「法」などっ簡単にけっとばす危険もあることを認識しておかなければならない。

市民が司法に参加していくうえで、道義的・政治的責任(あるいは社会的制裁)と法的責任(法的制裁)をきちっと区別できるかは重要である。

人を裁くことに関わるのなら、謙虚に自らの(判断者としての自分自身の)危うさを理解したうえで、両極から「証拠」を吟味しそのうえで相対的に判断することが求められる。そこに「善良」などという思い上がった感覚は決して入ってはならない。そこで持つべきものは、市民としてルール(法)のなかで「起訴」の妥当性をどう判断していくかただそれだけである。

起訴相当とする議決のなかで「善良な市民感覚」という表現がなされたことについては、刑事制度に加わる市民の感覚は「まだまだ」であるという感想を残念ながらもたざるをえない。民主的な「多数」感覚と司法的な「少数」感覚。その違いを司法に参加する市民一人一人が意識すること。それがまさに司法の今後の民主制(まさに検察審査会もその一翼を担っている)の一番の鍵であると思う。
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by phtk7161 | 2010-04-28 01:00
前回メディアのアメリカ(国防総省とかくべきか)よりの姿勢・・・記事における意図的表現・・・について書いたが、いい機会なのでその具体例をひとつ。

26日の共同通信の記事で、<記者団が「キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)に、くい打ち桟橋(QIP)方式で代替施設の政府内で検討するのか」と質問したのに対し、「一つ一つに『イエス、ノー』でコメントしない。ご容赦ください」と鳩山首相は答えた。>との記事がのっていた。

共同通信はこれを見出しで「修正案否定せず」と表現した。しかし「イエス・ノーでコメントしない」ということは、すなわちこの件についても回答しないというのが正解。それは「否定せず・肯定せず」ということではなくて、ノーコメント=話さない(否定か肯定とかとは別次元)ということである。これを共同通信は「否定せず=修正案容認の可能性あり」としたわけだ。

「首相はYES・NOでコメントせず」等身大の表現でそう書くのが当然だし、それで何の不都合もない。現にこの件をある新聞は「答えず」と見出しにしている(まあ当たり前だけれど)。しかし共同通信(記事の書き手)は評価を加えて、見出しでは修正案容認を匂わす表現を使った。

見出しは読者に強いインパクトを与えるものだ。細かい内容以上に見出しは新聞にとって重要な箇所といえる。そこで曲解させるような表現しては、書き手に何らかの(鳩山政権をマイナスに向かわせるような)意図ありとされても仕方がないだろう。

記事で一番重要なのは事実(そのままの事実)。首相自身のコメントを記すならば、それは等身大のコメントの表現が一番ベストで、コメントの評価は読者にまかせればいい。それが事実を伝えるということである。
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by phtk7161 | 2010-04-27 23:13
政府・民主党にとって楽でない出来事が多い今日この頃である。しかしそれでも政権交代ができてほんとに良かったなあと実感できるこの頃でもある。政権交代の効果は確実に日本におけるメディアの本音を明らかにさせはじめている。

沖縄普天間問題でのメディアの対応は、もはや異常といえるほど露骨でヒステリックで社会的指名担うもののそれをなしていない。首相の言葉の捉え方にしても、それでよく文字を扱う仕事をしてるなというほどに趣旨とはまるで違った捉え方で記事にしている。もし記者が本気でそう捉えたのだとしたら、これはもう国語力ゼロということでとても人様にカネをだして読んでもらえる類のものではない。

メディアがやってはいけないこと。事実を隠し記事にしないというのはもちろんだが、それ以上に正反対の内容(反対の趣旨を書く)を書くというのはもっともやってはいけない。○の事実を伝えない(触れない)ことよりも○なのに×とすることのほうがはるかに罪が重いのだ。

メディアのほとんどが今どこもこれを駆使して鳩山政権を攻撃している。特に異様なのが読売(グループ)を筆頭に日経・時事通信(産経についてはいまさら触れる必要もないだろう)。もっとも毎日・朝日や共同通信あるいは比較的リベラルといわれる東京新聞ですらもこのところそれに近いことを書いている。

何を怖がっているのかあの手この手でアメリカ政府を全力でアシスト。貢献度の高さはあのワシントンポストですら真っ青である。まるでアメリカからの「ただいま鳩山政権叩きお願いキャンペーン中、今ならポイント十倍」の文句に列を成すお客さんのようだ。広告主の背後にアメリカ万歳の存在があるからか。

今回の政権交代により、この国の多くのメディアが如何にアメリカに従属してきたかがよくわかる。日本のメディアといいながら、如何に政治に関してはアメリカのためのメディアであったかということがよく分かるのだ。

沖縄の基地の集中について、それを長年問題化してきたメディアが、それまでの報道姿勢と180度転換するような記事・・・基地は沖縄におくしかないんだというような記事・・・を連発してどうする。馬鹿じゃないかと思う。これまで気取るだけですんだ問題が、よりリアルな問題となりついに本音がでたということか。

もはやこの国には政治に関して(特に外交に関して)は読む価値のあるメディアはない。だから私たちは、メディアはメディアの都合でニュースを伝えるものだということを認識し・・もっともいまさらといわれそうだが・・・政治に関して評価の加わるニュースは聞き流して、事実だけ見据えて・・・ただしその事実すら疑ってかからなければならない場合もある・・・自分の頭で考えるしかない。

評価の加わる記事なんて暇つぶしにネットで読めば十分。カネを払ってまでやることはない。よっぽどカネを捨てたい人以外、メディアに経済的にプラスになることはしないことだ。一度そうやってメディアに関わる人間を徹底的に路頭に迷わせないと、いつまでもメディアは国民目線をもてないままである(差し支えない範囲で単にそれを気取っているだけである)。

彼らがカネを払う価値のある記事とは何か、それに気づくまではそうするしかない。購読料より広告が彼らの経済的主軸だが、結局読者がかなり減ればその広告も減ってしまう。

メディアが今の体たらくなら、たとえば新聞なら再販制度ももう廃止すべきだろう。私はこれまで再販制度の維持については強い理解を示してきたが、今のメディアにはそこまでして守る価値はない。

もし新しい政権交代が必要な分野は今どこかととわれれば、それはメディアという業界をおいて他にないと答えるだろう。カネを払う価値のある新しいメディアの登場が必要である。そんなわけでこのところの沖縄問題をめぐるメディアの対応を見て、やっぱり政権の交代の価値はあったじゃないかとあらためて思うのである。
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by phtk7161 | 2010-04-26 01:36
普天間移設基地問題で、鳩山首相が批判にさらされている。県外移設先として名前があがった徳之島でも、大規模な反対集会が開かれたようだ。徳之島の移設反対の意思表示は当然のこと。平穏な暮らしが、軍事基地で脅かされたくない。誰にとっても当たり前のことである。ただそれと同じ気持ちをこれまで長い間沖縄県民も抱いてきた。その事実は重い。

もし徳之島の住民の人に、「沖縄に基地が存続することを、沖縄県民は我慢すべきだとあなたは思いますか?」と質問したらどうだろう。おそらく大半の人が「そうは思わない」と答えるはずだ。それだけ、まじめに考えれば、基地の存在は当事者にとって大変な問題なのである。

50年続いた自民党政権は、長い間この問題を沖縄に押し付けることで済ませてきた。数々の犯罪も起きている。それはある意味沖縄が「日本の安全保障の犠牲者」になってきたことを意味する。基地の苦痛を沖縄だけに集中させていいものかどうか。そんな鳩山首相の県外移設の熱意は、本当に強い批判にさらされなければならないことなのだろうか。

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「沖縄さえだまって基地を引き受けてればいいんんだ。そうすれば丸く収まる。だから当初の計画通りにだまって従え」。そう思っているのは、アメリカ国防省へへ~い(土下座)の政治家(防衛族議員)や外務省・防衛省・大手メディア(ただし幹部)の連中である。こいつらは、沖縄の苦痛をへとも思っちゃいない。沖縄なんぞのことよりアメリカに如何に嫌われないか。そのほうが大事な連中である。

少し前になるが、駐米大使の国務省呼び出し事件。これについてある新聞の関係者に、「しかしその後の国務省の会見では、呼びだした事実はないといっている。駐米大使が呼び出されたと会見したことを大きく記事にしたのなら、どちらが正しいかは分からないがそれを否定する事実も記事にすべきではないか」といった。これに対し「確かに、そのとおりだと思います。このことも記事にしなければおかしい。そうしたい」という答えがかえってきた。しかし結局否定会見のことは記事にされることはなかった。上から許可がでなかったのだと思う。

あるいは最近のばかげたワシントンポストの載せた侮蔑的な鳩山批判を記事にした日本の新聞記事(完全な与太記事)。こういったこともあわせて考えてみれば、如何に知性を気取る大手メディアがこの問題ではアメリカの忠実な僕であったのか良く分ってくる。

これまで沖縄のルポ的な記事では、沖縄に同情し「沖縄の人は苦しんでい入る。沖縄に基地を集中させている現状はおかしい」と述べていながら、政権が変わり現実のそれを変えるかもしれないことになると、一挙に「沖縄住民の気持ちをもてあそんだ」「徳之島の住民は強く反対している」と、これまでの建前が見事なまでに様変わり。なんと見事な二枚舌だろう。結局メディアは、「メディアごっこ」をしてるにすぎないのだ。

少し前の自身のブログで私は「アメリカと本気でやりあう気がないなら、素直に沖縄住民に謝るしかない」と書いた。しかし考えてみればこの50年、基地問題でこれほどまでにこの問題に取り組んだ政権があっただろうか。年明け1月で「少し期間を伸ばして考えてみましたが、やっぱり当初の計画通りにします」これが一番楽で、無難な答えだったはずだ。しかし鳩山首相はそうしなかった。

「実現するには準備不足」「口だけで甘すぎる」いろんな批判がある。しかし今回もし沖縄県内に移設されれば、その状態は何十年も続く。さらに長く、基地をめぐる沖縄の住民の苦悩はずっと続くのだ。その事実を考えれば、たとえ(首相自身が述べて)5月決着ができなくても、さらに首相として粘ってこの問題の打開策を見出すべきだ。「安全保障が脅かされる」という脅迫的なそれでいて危機の具体性のないたわごとをのたまう輩はいるだろう。しかしそういう声など無視していい。沖縄の基地問題は、「安全保障におけるアメリカ万歳主義」の洗脳から脱却するいいチャンスでもある。

        ☆           ☆            ☆     


日米安全保障は日本の安全保障にとって、これからも重要なのは当然のこと。しかし一方で、あまりに長期その苦難をすべて沖縄に押し付けすぎてきた。その現状は日本にとっては重要な問題である。それを考えてほしい(現にアメリカ民主党の議員なかででアメリカ政府にそういう書簡を送った議員もいる)。

アメリカに対して「両面の利益を考量して、その結果県外移設が妥当だと思っている。そのことを理解してほしい。」と主張することがおかしいとは、私は断じて思わない。そして鳩山首相もそう思っている。

メディアは日米の信頼関係をこじらせていると騒ぐ。しかし肝心な事実を書かないで、現状追認を後押しするだけのメディアにその資格はない。アメリカに派遣された外務省・防衛省の関係者あるいはメディアの特派員。この連中は、アメリカ万歳による自らの保身を考えているに過ぎない。だから海外から自社のメディアにそういう一方的な情報(記事)だけを送りつけてくる。気分は国際通のアメリカ人。そういったところだろう。

基地問題で鳩山批判をする国民もまた同じ。「沖縄さえ黙って従えばいいんだ」本音はそこにある。そのどこに、鳩山批判をする資格があるというのか。それは鳩山批判にかまけてとりつくろった、ただの利己主義にすぎない。沖縄の基地の問題は、国民だれしも無関係の問題ではない。

長く続いてきた沖縄の基地の現状。これからたとえさらに1年かかろうとも、その改善のために妥当な解決策をめざしさらに交渉継続していいと思う。それくらいどうということはない。アメリカ相手に、何十年も続いてきた現状変えようとするのだ。時間がかかって当たり前である。そのことに何ら臆することはない。なぜなら政権交代した意義はまさにそうしたことにあるのだから。
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by phtk7161 | 2010-04-21 03:06
評論家気分が抜けない政治家は始末に終えない。ましてこれが閣僚となるとなおさらだ。仙石大臣の「首相が辞任なら論理的には衆参同時選挙」発言。どうしてこんな発言をする人物が閣僚を引き受けたのか、理解に苦しむ限りだ。

今の内閣制度は憲法で認められている。明治憲法では内閣制度は規定されいなかったし、首相も他の大臣と同輩の一人にすぎなかった。しかし今の憲法下での首相の地位は重い。首相が内閣のトップであり、ある意味ではその配下に各大臣がいるというのが今の内閣制度のありかたである。

そうした内閣制度の下では、その内閣は首相の内閣であってそれがいやならそこにいてはいけない(つまりはやめなければならない)。今は鳩山由紀夫が首相。したがって、今の内閣はチームは鳩山でありこの内閣のマイナスになるような発言・行為は極力慎むべきであるのが、閣内に入る条件であるといえる。またそうでなければ、チームとしての内閣は機能しない。

民放の番組で仙石がいった「もし鳩山首相が辞任ということになれば、衆参同時解散も論理的にいえばありえる」という発言。「お前は馬鹿か」と本気でそう思う。解散は首相の専権事項。何を勘違いして内閣の一員がこの時期に解散に関しての発言をするのか。あいた口がふさがらない。

誰が尋ねた発言か知らないが(TBSなら時事放談の自民御用学者御来屋あたりか)、「鳩山首相辞任なら云々」の質問に対しては、現閣僚としては「そういった仮定の質問には答えられない」あるいは「論理的に言えば解散といわれるが、それなら論理的に言えば首相が辞任しても解散はせず、次の首相にバトンタッチすることもそうである」というのが、それらしい答え方といえよう。

閣僚としての発言の、あるべきスタンスとは何か。これは何も難しいことではない。チーム鳩山にマイナスになるような答え方はしない、ただそれだけのことである。それができない閣僚は、今の内閣制度の本質が分かってないか、政治家(閣僚としての)ではなく単なる評論家にすぎないということである。こんな人間が、閣内にいたらチームには何のプラスにもならない。アホ発言がしたければ、とっとと大臣を辞めて一議員でいればいい。そのうえで思いっきり評論家議員をやることだ。

既得権力のなかで自分の地位を築いてきた連中には、民主党政権など一刻も早く瓦解してもとの自民党政権(あるいはアメリカあっての日本だよ政権)にもどってほしい。だから「論理的にいえば首相が辞任すれば、衆参同一選挙云々」というのは、うがった見方をすればこのサイドからのひっかけであり、それは「論理的」という言葉を使ったマジック遊びに過ぎない。

「首相の辞任=衆院解散」というのは論理的でもなんでもない。それが論理なら「首相辞任=解散なしで新しい首相に変わる」も十分論理的といえる(法の論理からしてもそうだ)。つまりは屁にもならない理屈に、仙石は「論理的」という言葉に惑わされ、いつまでも評論家気分が抜けないもんだから「僕は論理を分かってますよ」といいたいがために(実は何にも分かってないのだが、なぜならその質問が論理的でないことは少し考えれば簡単に分かる)、「衆院解散もありえる」と軽率に答えたわけだ。これをアホ閣僚といわずしてなんというのであろう。

政治家は評論家ではない。机上の計算どおりにはいかない。現実に政策を通すとなると人間くささも含めた煩雑さは避けられない。それは所詮人間がやっていることだからある意味当たり前とも言える。政治家を何年もやり閣僚になったのにそれすら分かってないのが仙石大臣である。

今回の発言で国民新党の下地が仙石批判をしたという話を聞いた。私は下地という政治家は大嫌いだが、こと今回の仙石批判に関しては正しいと思う。辞任・解散に関してしょうもない発言をする人物は内閣にいるべきではない。チーム鳩山にマイナスになる発言をしないこれが閣僚になる絶対条件である(もっともそういった意味では国民新党の亀井大臣もあらためるべきところは多々ある・・・もっとチーム鳩山の一員であることを自覚すべきだ)。

前回の衆院解散で50年たってはじめて本格的な政権交代がなった。そこから一年もたたないうちに解散なんてありえない。何のために衆議院で多くの議席を確保させてもらったのか、参議院で苦戦しようともじっくり腰をすえて今までの既得権益を是正する政策を実現する。それが民主党に課せられた役目である。それをぶちこわすような仙石大臣の発言。評論家がやりたければ仙石大臣はとっとと閣僚を辞めるべき、私にいわせればそれがまさに「論理的」ということである。
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by phtk7161 | 2010-04-17 04:09
「鳩山首相は最大の敗者」と米紙が酷評したとの記事。よく読めばな~んのことはない。落ち目のあのワシントンポストが書いた記事じゃないか。これじゃ拍子抜けだ。同紙の記事を日本の新聞がさもたいそうに書いた記事を読んで、思わず大笑いしてしまった。

ワシンポストは政権交代直後から、鳩山首相の論文を見事なまでに都合のいいところだけ引用し完全に的外れな批判をした過去がある。その引用のしかたはジャーナリズムととして最低ランクの行為だったといっていい。ウォーターゲート事件での栄華はすでに遠い過去のことで、今のワシンポストにはその片鱗すらない。

もっともさらに情けないのは、そういう過去があるのを知ってて、日本のジャーナリズムがそれをさもうれしそうに記事にすること。首相の評価を海外与太メディアに頼って何がジャーナリズムだ。アメリカジャーナリズム格上思考から抜け出せない(自立できない)、内弁慶的日本ジャーナリズムの悲劇がここにある。

今の政権がこれまでない日米関係の道を探ろうとしていることは、それなりに評価されてよい。少なくとも過去の政権と比較して、かなりまともなことをやっている。それがまともなことであることは、何より完全に資本の波に飲み込まれ、ジャーナリズムとして反面教師であるワシントンポストが酷評しているのがその証拠だ。

カネの前にひざまづいたワシントンポストが日本に関して何を言っても、「あーどんどんポストは駄目になる。かわいそう」と思う程度。ポストはいつまで米国ブランドジャーナリズムの気分でいるんだろう。まともな日本国民なら、ポストの質の劣化はとうに知っている。少なくとも日本に関する記事を見る限り、同紙は日本にたかろうとする総会屋的業界紙といえるだろう。

だから今回の鳩山批判の記事も、「あ、またポストがなんかいってるぞ」その程度のことなのである。
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by phtk7161 | 2010-04-15 18:36
鳩山政権が支持率を落としている。理由はもちろんいろいろあるが、そのもっとも大きな要因が検察捜査による「政治とカネ」の問題であることについては大方の見方も一致するであろう。これがなければ、今でもある程度の支持率はまだまだ維持していたように思う。

個々のさまざまな政策に対する評価も、結局はこの「政治とカネ」の問題が潜在的に後押ししてしまいマイナス方向へと向かってしまう。それほど、検察の捜査による現政権への「ダーティ」のラべリングづけは強烈だったといえる。

与党になってからの不祥事で、検察の捜査により政権が弱体化しても、それは悔しくもなんともない。また政策ミスでそうなっても同じである。その場合、せっかくチャンスをもらったのにそれを新政権が生かさなかったただけのことだ。

しかしこれらと違って、相対的に見てどうみても一方的すぎる野党時代のあら捜し捜査で新政権をつぶされてはやはり悔しい。これでは悔いが残る。この捜査での出来事が尾を引いて、結局鳩山首相や小沢幹事長の動きは限定的になってしまった。これではなかなか思い切った政策を成立の波にのせられない。検察捜査のおかげで既得権益を守りたい「官」の仲間は安泰のままである。

何十年も続いてきた自民党政権に変わりようやく政権交代したのに、検察の派手な一方的捜査・・・自民党は野放しのままで・・・の演出に、政権が揺さぶられる。こんな政権つぶしのやり方はチョボイチ以外のなにものでもない。

今でも思う。新政権が誕生したとき、「小泉政権下での検察の裏金の問題がどう処理されたのか。」について、新政権が捜査の先手をうって、検察の「裏金」問題を「政治とカネ」と同じ土俵にのせていたら世論がどうなっていたか。少なくとも世論調査で、検察の「裏金」についての質問を「政治とカネ」の質問と一緒にすることを、メディアは避けられなかっただろう。

とにかくこの問題を一度正面からはっきりとした形で、世間でとりあげないと今のままではあまりにフェアーでない。検察がこの問題で、どういう動きをしたのかしなかったのか。それは徹底的に解明されるべきだ。ひとつの政権をたおす最大の要因をつくった組織である。それにふさわしい「清廉性」が求められても当然である。

検察の裏金の問題が明るみになったうえで、さてそれで「政治とカネ」の問題を世論がどう判断したか。せめてその形だったら、たとえ支持率が低下していてもまだ納得できたと思う。

さて参院選まであと数ヶ月。考えてみれば、それまでメディアでとりあげられる政治問題にいちいち呼応してブログに書くというのも何か無駄な遊びにつきあっているようで、馬鹿馬鹿しい気がする。今後は政治にからんでのテーマはしばらく軽めにして、政治以外の話題も書いていきたいと思う。いつも拙ブログを読んでいただいていてありがとうございます。今後も気が向いたときにでも、またよってみてください。
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by phtk7161 | 2010-04-14 08:07
「立ち上がれ日本」に関しては特に感想はない。長年政権党にいた人間たちがここにいたってどうしてよいか分からず、結果行き場をなくした末の出来事にすぎない。

不思議なのは新聞をみてもブログをみてもこのことをけっこうまともに(長く文を割いて)とりあげていることだ。まあブログは無料(ただし例外はあるが)だからそれでいいとしても、腹がたつのはカネを払っている新聞がこの出来事をたいそうに書いていることだ。

民主党が衆院で絶対的な数をもっている現状からすれば、今度のことはさざ波にもならない。参議院で民主がどう負けようと、連立のパートナー選びの主導権は民主が持っている。結局民主党政権が今後も3年近く続くことはほぼ間違いないといえるだろう。それはまともに考えれば誰でも分かる。

         ☆           ☆            ☆

私は、学生時代から新聞を取り続けてきた。これまで長い付き合いである。情報を得られる対象が限られていた(新聞・テレビ・雑誌)かつての時代と違い、情報取得の対象の幅は今広がっている。結果情報提供の特権的担い手だったはずの多くの新聞は、今苦境にある。

苦境の理由は情報が廉価(無料)で得られるようになったことだけではない。さまざまな情報を得られる幅が広がった結果、読者が記事から彼らの「ご都合主義」的要素に気づくようになったからである。つまりは彼らの提示する「情報」の正確さや主張(社説)に疑問をもたれるようになったからだ。「正確さ」に疑問のつく情報を得るために、わざわざ対価(カネ)を払う馬鹿はいない。

このところ私は、「社会部」の記者の記事は少しはまともに読む(それでも警察・検察関係はまず鵜呑みにしない)が、「政治部」の記者の記事はまずまともには読まない。「政治部」の記者は、読者への正確な情報提供よりも「こうなると面白い」というほうに気が入りすぎて取材対象にとらわれ(好きという意味でも嫌いという意味でも)もはや正確な情報提供者とは思えないからである。単に事実だけを淡々と伝えてくれるほうが何倍かましだと思う。

だからこのところよく読むのは、中面の読者の欄とか特集記事あるいは記者自信の悩みが読み取れる記事など。早い話、新聞の花形面といえる一面・政治面・あるいは社会面(記事内容によるが)は、単なる「オブジェ」課している。

今回の新党騒動、私のとっている新聞も何日間かこのことに大きく記事を割いた。たった数行「みんなの党ほど人気もでず、影響力もほとんどないだろう。ただの(新)党ができた。それだけだ」ですむ内容なのに、この紙面の無駄使い。そんなことに紙面を割くくらいなら、足を使って街の身近な声(あるいは情報)をたくさんひろい、それを記事にして社会に新たな問題提起でもすればいいのにと思う。

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さてこれから先もカネを払って新聞をとり続けるべきかどうか。読者から対価(もっとも大きなカネを出しているのは広告的スポンサーだが、しかし読者も対価をだしているのは確かである)をもらい「正確な情報」を提供するという意識が、本当に今の新聞にあるのかどうか。政治部記者が「俺たちは距離的に権力者に近い位置(物理的に)にいる。だから俺たちの提供する情報は特別なんだ」と思って、今回のようになめた記事を続ける限りまず新聞に明日はない。

いっそのこと思い切ってスポーツ新聞にかえようか。スポーツ新聞の記事はある意味エンターテイメントだから、そう腹も立たない。そういえば春になりいよいよ競馬のクラシックG1戦線も始まった(昨日は桜花賞だった)。スポーツ新聞なら、競馬のためにわざわざ別個にカネを払う必要がなくなる。これぞまさに「節約術」だ。そこまで私に考えさせてしまう新聞が情けない。

正確な情報の提供と権力の監視。たいくつでもそれが私にとっての新聞の最大の価値。面白さなんぞくそ食らえ。そのために、変わらなければならないのは自分たち。そう新聞に気づいてほしいが。そういったわけで、私と新聞との長い付き合いもいよいよクライマックスを迎えている今日この頃である。
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by phtk7161 | 2010-04-12 04:54