社会問題を考える


by phtk7161
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人類は長い歴史の中で権力というものをどう抑制していくか、その視点をから立憲民主政治をつくりだした。それは権力を分立させ、人権規定と国家の組織の基本法たる憲法をもつ国家での政治ということである。そしてもそこでの主人公はもちろん「国民」である。

ただ国民が主人公の国家であっても、一方で人類はこれによる苦い経験もしている。「善」はあくまで相対的なものだ。国民による代表者によって作られた法律が、大量虐殺を生み出す。肝心な主人公が感情のままに熱狂し、物事をシンプル択一化した感覚でにより生み出された代表者がいかに危険なことか。

憎悪、嫉妬、人にはさまざまなマイナス感情があるが、それを政治レベルまで国民が持ち込んだ先には、ヒトラーの世界が待ち受けている。だから主人公の国民も権力行使にあたっては「謙虚」にならなければ、虐殺に手を貸すことになってしまう。

最近とみに、国民主権の皮をかぶった「世論」というものが跋扈している。この世論がときに「市民」というものにすりかえられる。立憲民主主義国家では、成熟した人格像が「市民」本来の姿であるが、この市民(世論がすりまわった)は本当の「市民」ではない。

この市民は、市民感覚という実体のない怪しげなものをふりまわし、市民の常識もそれぞれの分野では当然相対的に違ってきて当たり前のはずなのに・・・立法・司法・行政の分野で・・・どの分野も一刀両断、好嫌的感情による直感をもって切りまくる。彼らには「法的責任」と「政治的責任」の区別など関係ないのだ。

その姿はまるで市民というなの「万能の神」になったかのようである。ものごとの本来の趣旨や歴史的背景・・・なぜこういう制度や原則があるのか・・・など省みず彼らはただただ感情のおもむくままに裁定を下す。それはいじめをやる人間と共通した感覚であるともいえる。

権力の監視は立憲民主主義に不可欠の要素である。どの権力であってもそれが暴走していくとき、私たちは警鐘をならさなければならない。それは世論にすりかえられた市民の権力についても同じである。彼らが「知」(理)を否定し感情のおもむくままの結果に走ったなら、そこには強い非難をあびせなければならない。そうでないとヒトラーはまたあらわれ、虐殺をくりかえす。

あの考えは嫌いだ。何々人は嫌いだ。どこどこ部落の出身者は嫌いだ。あの宗教は嫌いだ。そして・・・「小沢」は嫌いだ。

とにかく嫌いなんだから、「理」など無視して「やっちまえ」。この感覚が大手をふって歩き出したとき、人は「人」としてあつかわれなくなり単なる「もの」となってしまう。その結果がかつてのあのできごとだ。そしてこの危険は常にわれわれのそこにあるのである。
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by phtk7161 | 2010-10-26 03:03
昨日小沢元代表に、「起訴議決」の結論がでた。これには前回でた結論(同じく起訴相当)以上に、あきれたといわざるをえない。

前回の「市民感覚」を中心におく論理(健全ななどと)の暴走への批判、あるいは厚生労働省(村木被告への)をめぐる無罪判決などをも考慮して真摯に考えていけば、今回は悪くても「不起訴不当」(強制起訴にはならない)にとどまるべきなのが当然といえる。それが「起訴議決」。まさに「世論」という名の権力の暴走である。

今回の審査会は、前回の審査会のことから何も学習していない点で前回以上にさらに罪が深いといえる。

審査員にしてみれば、今回の「起訴議決」に至る理由づけは市民感覚の論理をフルに生かしてできているというつもりだろう。しかしこの「市民感覚」は、刑事制度をささえる土台そのものをぶっ壊しかねない危険を含んでいるといえる。

今回の審査から垣間見える一番の問題は、裁判対象者が裁判で有罪になるか無罪になるかそのことをあまり意識していないと思える点だ。市民感覚からみればあやしいんだから、裁判にもちこめばいい。起訴で有罪と決まるわけではない、裁判で訴追側の立証が不十分ならそこで無罪となるはずだから、だからそれでいいはずだ。「何も問題なし!」。それが市民感覚のあるべき刑事制度の姿だと思い込んでいるようにみえてならない。

彼らは何もわかっちゃいない。裁判になれば訴追された側は相当に負担を受ける。起訴するには刑事法をもとに有罪の立証を可能にする証拠が存在しているかをもとに考えていくべきで、このまま訴追されなければ市民感覚が許さないから・・・腹が立つから・・・ということでやられては、それこそ訴えられる側の市民(もちろん小沢も含まれる)はたまらない。刑事裁判(起訴)は「ばくち」ではない。

           ☆         ☆          ☆

以前にも記したが、立法(議会制度)は多数決の論理が主となるべきだが、司法はむしろそれが、理による論(たとえそれが少数であっても)が主とならなければならない。司法の場合そこにどの程度多数者の論理を反映していくべきか(それも主にならないレベルで)というのが、司法制度の前提である。そこはきちんとおさえておかなければならない。

もし市民感覚から許しがたい行為を、現時点で司法で裁けない(起訴できにくい)可能性があるなら、本来それはもう「立法論」の問題である。「多数」の論理でとことん新しい法でしばることを主張していくのが本来のスジであろう。

今回の結論はそうでなく、そこのけそこのけと市民感覚の「多数」の論理を印籠のようにふりかざし、訴追される少数側の立場をばっさばっさときりすてている。これは相当に危険である。これでは多数の力をもとに、気に食わない少数者は司法制度を利用して簡単に踏み潰せる・・・なんどもいうが裁判における被告人の立場は相当に過酷である、その人の人生に大きな影響を与える・・・ことになる。


市民によりさまざまな角度から事件の詳細を見据え(事件そのものだけでなく、その制度の背後のことへの理解を含め)たすえ、有罪立証は間違いなく可能なのに検察官が何らかの「意図」で起訴しない。こういう場合に「起訴相当」(起訴議決)という結論をくだすのが、本来の検察審査会のありかたである。今回の検察審査会の結論も前回同様、とてもではないがその点への理解が明らかに不足している。

たとえばこれまでの政治資金規正法で有罪となった過去の事例との比較の吟味は十分されたのか。

あるいは実行犯ではない主犯をさばくための「共謀共同正犯」の論理が、この手の事件性にまで拡張されるべきかの検討・・・実際これがどんな微罪でも適用されることになれば、相当に危険である・・・は十分されたのか。

もし仮にそれが今回の事件に適用されていいとしても、共謀を「小沢はわかったといった(抽象的表現にとどまっている)」程度の供述や市民感覚のストリー的見方だけで有罪を立証しえる十分な証拠があると考えていいのかなど、今回の起訴に際しての問題点は点は多々あるはずでこれらの点を審査会は十分に検討したといえるのか。

さらに審査会そのものの問題でいえば、審査会の構成員について今回の審査会の平均年齢30・9歳(前回34歳)は、世代が偏りすぎているように思う。ちなみに別の小沢に関する事件で「不起訴不当」(強制起訴はない)がでた事例では、平均年齢は40歳(49・8歳)を超えている。もちろん選管は無作為に選んでいるというが、その選管の長は元自民党系の政治家だっりすると、本当に大丈夫かいなという気がしないでもない。

これに小沢の事件に関する告発者の素性(バリバリの国粋運動家)もふくめて考えると、今回の検察審査会は、組織の構成やその運営のありかたについても、あまりに秘密主義で、あるべき「市民感覚」の姿からは程遠いような気がしてならない。

          ☆         ☆         ☆

もともと今回の事件は、検察の捜査そのものもにも問題点は多い。

今度の元厚生省局長の村木氏の事件で明らかになった「東は小沢なら、西は石井だ」の言葉からもよくわかる、検察(特捜)の民主党に対する攻撃姿勢。これに調査費流用をめぐる検察と清和会との手打ち(メディアはこの件では明らかに及び腰)後の特捜捜査の動き(捜査の対象となった政治家)をあわせて考えてみると、メディアを利用した国策捜査という言葉が、ぴったりあてはまる。

背後にアメリカという存在があるかどうはわからないが、そうみえても不思議はない今回の事件。その動きに利用されたともみれる検察審査会という存在。市民感覚もその中身をみず形だけの言葉で操られてしまったら、その市民は操ろうとする側の単なる道具に過ぎなくなる。

そうならないためには、市民が自ら学習し自らの頭で考え、さまざまな角度から利益を考量したうえバランスの取れる結論を出せることが重要となる。そうしたことこそ、本当の市民感覚(別の小沢の事件を不起訴不当にとどめた審査会の委員や押尾事件での裁判員などはそういえるだろう)といえるのである。

そういった意味では、今回の審査会の「起訴議決」は形だけの市民感覚によってだされたものだ。前回審査会のだした結論へに対する批判で学習できるチャンスはあったのにそれを生かさず、裁判の過酷さを理解しない形だけの「市民感覚」で出された今回の結論。それは私たちに「検察審査会」の危うさを認識させるに十分だったといえるだろう。
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by phtk7161 | 2010-10-05 07:33