社会問題を考える


by phtk7161
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前原は相も変わらず前原だ。浜岡原発の停止をポピュリズムだとのたまった。ポピュリズムとは大衆迎合の政治だが、放射能事故が起こる前ならともかく、エネルギーをどうするかの問題があるにせよ、致命的な事故が起きた現実の前では政府として一定のアクションを起こすことは当然のことである。

浜岡の問題はすでに事故以前から取り上げられていたし、事故が起きた時の首都機能への影響を考えてみれば、エネルギー見直しへの端緒として、まず浜岡を停止することも政策の一つの在り方であろう。

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ポピュリズムの意味をもう少し具体的に考えてみれば、それは一般市民の感情に大いにかなう政治(政策)でも、それで得られる利益はむしろ国民にとっては実質的には反比例(実際は損失)してしまうような政治(政策)のことであろう。

これを原発の問題に即してして考えてみよう。

原発をストップさせることは、資源国でない国(つまり日本だ)のエネルギー確保や、将来的な核兵器利用(国防)をにらむときで国に大きなマイナスになると前原は思っているのだろう。

しかし今回のことでもわかるように、事故が起きると長期的スパンでの国民への健康被害や第一次産業への多大なマイナスの影響を考えれば、原発により得られる利益(私はそもそも核兵器への利用などプラスとは思わないが)より、はるかに大きいマイナスが発生してしまう。そうであれば、エネルギー政策の転換としてひとつの原発を停止することは、国民の生命への安全や生活産業を守るそのマイナスを回避しようとする道筋をつけるうえでも、国民にとって実質的にも大きなプラスであり、それは決してポピュリズムなどではない。

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だいたい浜岡をレベルポピュリズムといってしまうなら、かつて前原自身がやったこともそうなってしまうのではないか。

たとえば八ッ場ダム(やんばダム)の見直し。前原流「ポピュリズム」の理屈でいえば、あれだってそうなってしまう。無駄な公共事業が国民全体の利益にかなうのは間違いないが、地元の人間にとってはそうとは限らない。国民大うけするダム中止が、自治体にとっては現実の生活に大きな影響を与えるのだから。

もちろん私は八ッ場ダム(やんばダム)見直しをポピュリズムだと思っていない。無駄な公共事業の見直しは、国民にとって大きなプラスだ。しかし今回の浜岡がポピュリズムなら、これもポピュリズムだといえば、いえてしまうのだ。

また尖閣諸島での衝突事故における彼の対応。

船長の身柄を拘束するなら、対外的現実を見据え、きちんと落としどころを認識したうえで拘束すべきだが、国粋的プライドを優先して先走ったものだから、あの状況にまでなった。前原が、前原の中にいる大衆前原に迎合した結果である。つまり彼はすでに本当のポピュリズムをしてみせている。

しょうもない中国には確かに腹は立つが、だからといって確たる戦略もなしに、口ばかりが先に出るようでは政治家失格である。これこそ、浜岡や八ッ場とは違い、本当のポピュリズムというものである。

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いずれにしても、前原の今回のポピュリズム発言。先のことなぞ考えないその軽薄ぶりはあいかわらずである。よく彼は「口先番長」といわれるが、とにかくいうことすべてが軽すぎる。

その彼が、しかしそれでも総理候補になってしまうのは、徹底したアメリカ優先主義であるその姿勢がアメリカとそれにコラボした日本の支持層に「便利屋的」に重宝されているからだ。集団的自衛権しかり。憲法改正しかり。そして今度の原発しかりである。

それを分かっているから、メディアは前原にたいしては必要以上にきつい叩きかたはしない。どんな時も見事なさじ加減で支える・・・もっともメール事件では、そのメディア側の配慮を超え、前原自身が大見得を切るという大失態を犯したものだから、自分でこけてしまったが。

前原-アメリカ=ゼロ。この等式が成り立つのが前原である。そして彼の中身を知って彼を支持する連中もどそうだ(日本-アメリカ=ゼロ)。彼は今後いつまで、後のことを考えず口が先にでてしまう政治スタイルを続けるつもりだろうか。
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by phtk7161 | 2011-06-29 07:54
堀江貴文元ライブドア社長が東京拘置所に収監された。

ライブドアが企業買収を積極的に行い堀江が時代の寵児ともてはやされ、特にニッポン放送買収劇では本丸であるフジテレビを巡って騒ぎとなったことはまだ記憶に新しい。

彼に対する評価は人により極端に分かれよう。「新しい時代を象徴する人物」だと評価する声もあれば、「金がすべて」「ゲームまがいの金儲けで品性にかける」と酷評する声もある。そういう彼が検察に逮捕された。

堀江が有罪となった証取法違反(有価証券報告書虚偽記載)について、彼自身はあくまでルールの範囲内であり、それまでの事件と相対的に見れば有罪にはならないと考えていたようだ。しかし事件の内容見る限り要件は満たしている。犯罪それ自体の成立はやむをえないと思う。

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問題があったとすれば、堀江に対する捜査がそもそもある意図をもった「狙い撃ち」的捜査ではなかったかという点である。民主党政権に対する検察問題もそうだが、この事件もまた既存の序列システムを変えようとする者に対し、検察が既存の側の利益を守るため強烈なアシストをしたようにみえてならないのである。

憶測になるが、どうも検察には戦後長く続いてきた制度の維持を一つの秩序とみなしこれを変えようとするものを社会的害悪とみなす体質があるように思う。

検察が例外的に変革者を許すケースがあるとすれば、既存のシステム側がとんでもない社会的害悪を生じさせたときだけである。しかし現実にそのレベルの被害が生じない限りは、検察は既存のシステムに対する批判・変革は「害悪」とみなし、場合によっては批判・変革をおこなった(あるいはおこなおうとしたもの)に対し検察権を発動するのである。これがはたして社会正義といえるのか。

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ただ私自身も、ライブドアや堀江に対してあまりいい印象をもっていない。

ライブドア成長の鍵となった「株式分割」をくりかえすその手法も、「株式分割」本来の趣旨を大きく逸脱していると思うし、あるいは株式の「時価総額」をより重視する考えも、所詮は数字的マジックにすぎない・・・現実に保有する株を大量に売れば株価は大きく下がる、すなわちその時点の時価総額は本当の意味の現実的時価総額ではない。

その意味では、彼らは一種の「虚業」企業(家)であり、摘発につながった「粉飾」決算にしても、そういった体質が出たとも言えなくもないのである。

しかしそれでもである。どうにも堀江に関する司法的動きには釈然としない。既存のシステムにいる企業の中に、レベル・質的にかわりないルール違反を犯しながら、見逃されたケースがある(日興コーディアルに関する粉飾的問題など特にそうであろう)からである。

堀江(あるいはライブドア)はアウトだが、日興はセーフ。両者の差はどこからくるのか。もしその違いが、既存の序列シムテムにいるものといないものとにあるとすれば「法の下の平等」はどうなるのか。それ以前に、日興のケースを見逃す(起訴しない)ことになれば、本来守られなければならない「公的公正な利益(経済市場のルール)」の保護はどうなるのか。これはそもそも「社会的正義」ではないのか

その意味では、ホリエモンの事件を思うとき、検察のいう「社会正義」とやらも、一皮むけば単なる社会的強者擁護(既存のシステム保護)のための「詭弁」に思えるのである。
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by phtk7161 | 2011-06-24 00:28
今回おきた原発事故は、これまで権威でごまかされたきたものがもはや通用しなくなったことを示すものだ。原発事故前・事故後のいずれにおいても、権威者の無能ぶりは今回十分に証明されたといえる。

原子力安全委員会しかり、保安委員しかり。これまで学者や官僚の存在は、その経歴を能力と同等なものとみるいわば「看做し社会」のなかで「権威」化され、政策遂行の有力な根拠材料となってきた。数々の諮問員会もその形態のひとつだったといえる。

今でも学力神話は根強いものがあるが、団塊から私たちの世代(60~40代)はさらにそれへの信仰は強いものがあったといっていいであろう。まったく馬鹿げたことだが、難関大学に合格するとその人格まで比例して扱われた時代もあった。ドラマ「翼をください」や「ふぞろいの林檎たち(一番最初のもの)」などもまさにそういう時代背景を描いていたように思う。

当たり前のことだが、私たちの社会には世界ごとに多種多様な問題が存在する。そこでは解決に必要とされる知識や経験も、その世界ごとに様々である。すべての分野の問題を解決できる、あるひとつの絶対的万能な能力というものは存在しない。試験的能力も確かにひとつの能力だが、所詮はひとつの世界の能力にすぎない。

ところが私たちの社会は、このことを真正面からとりあげてこなかった。予定通り進めたい政策がある時、学問的・専門性(官僚組織)的背景に彩られた権威主義を利用することで、重要な問題をごまかしてきた。そこに万能的一つの視点を重宝し、多元的な視点をめんどくさがる社会的風潮があったことは否定できない。その絶対的万能的視点が、学歴的権威主義だったともいえる。

原発の問題に限らず、これまで様々な分野で、問題の本質を見据えた声は存在してきたが、権威主義のなかでその声はかき消され、私たちは本質を見極めることから遠ざけられ、あるいは遠ざけてきた。その結果をはからずも原発事故は示すこととなった。

表紙的飾り(権威)から中身(解決能力)へ。表紙にすがるな。中身を見る努力を。それが今回の事故の教訓ともいえるだろう。
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by phtk7161 | 2011-06-16 21:51
ここまで原発の問題が深刻な状況になったのに、それでも東電をはじめとしてなお原子力発電を推進する意見が強気でまかり通るのはなぜか。

一番の理由は、原発に大金が絡む(原子力エリア的一種の経済構造)からだがここにいたってまでそれを推進派がなお根拠として言い放つことができるのは、原子力の被害は一定の長期の時間が経過しないと、目に見えた形で分からないことが大きい。

もし原発事故が起きて数か月で被害が目に見えた形ででれば、世論もその危険をある意味具体的に認識できるから、当然原発停止の声は大きくなる。そうなると今のように地方の経済(産業の少なさ)的理由を根拠に原発推進を強気で唱えることはできないだろう。しかし被害発生の長期特質が、そういう主張を許容してしまう。本当は今の段階からでも、長期間経過した後の健康被害に備え、被害者救済のための行政対策や立法をやっておく必要がある。

菅政権の後、誰が総理になっても今の政権以上に原発推進の動きは(潜在的に)進むことになるだろう。発送電分離の話もいずれは立ち消え(仮にできてもほとんど東電に影響のない形で)になる。結局東電を頂点とした我が国の、電力構造はなんらかわらないままだ。

こうして東電をめぐる政官民の癒着構造は、健康被害認識の長期的特質にたすけられ続くことになる。そしてこれは大手メディア(特に読売・フジサンケイ系)と保守的政治家の望む形でもある。

まさに原発は、彼らの利益維持のための必要不可欠な、金のなる木であり軍事的原材料なのだ。原発被害の認識に時間がかかる・・・目に見える被害が阿出るまで・・・のをいいことに、彼らは都合の悪いことに目をつむったまま愚かな行為をくりかえすのである。
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by phtk7161 | 2011-06-09 19:05
今回の不信任提出の罪の重さは、今の災害状況を無視し提出されたことにあることはいうまでもないだろう。原子力対策と復興が何よりも急がれるこの状況下で、こういことをやってしまう。これは今の自民・公明の質の劣化をなによりあらわしていると思う。

地震の被害が未曾有の規模だとわかった時点で、私は少なくとも与野党一致してことに対処すると思っていた。ところがそうならない。政府に仕事をさせないすなわち復興を妨げる行為が目立つ。そしてあろうことか、民主党内にも同じ行為をする政治家がいる。前回の代表選から半年もたたずに、あいもかわらずだだをこねまくる。いったい何のための代表選だったのか。

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不信任を画策した政治家たちが「どうしようもないな」と思えてしまう最大の理由。それはなんといっても、菅を辞任させたとして、そのあとのトップや政治の枠組みも具体的に示さないまま、不信任を提出してしまったその愚かさにある。

解散権が事実上使えないことを見越してそれにつけこみ、しかしその一方では対策が遅すぎるといっていながら、自分たちは迅速に進めるために必要なイロハの基本的形すら、提出に際しても示さない。いったい彼らはどの面下げて政権批判をしているのか。ここまでくると、こういった連中の行為はある意味犯罪に近い。
      
今回の災害は、阪神以上に被害が大きく、そこに原発の問題がのしかかかった。はっきりいってこういう状況では、誰がやったところでそう簡単ではない。前回にも書いたが、一種の学習をしながらやっていくしかないのだ。

抽象論なら何とでもいえるだろう。しかし結局自らトップでやってみたら、具体的な問題がいろいろでてくる。結局トップの頭を変えたところで、それがよかったかどうかもわからない。なら、ばかげたトップ争いや、そのために生じてしまう利権配分のごたごたを考えれば、政治空白をつくらずすいうしょうもないことが避けられるだけ、まだ現状維持のほうが何ぼかましである。

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それにしてもだ。このところの「菅おろし」は異常である。被災地の現実を目の前にして、どうみても正気の沙汰ではない。もともと菅おろしをやっている連中はイデオロギー面で違いがある。しかしそれだけでここまでやるとは思えない。もしこの時期ににそれだけが理由でやるなら、ただの馬鹿である。また鳩山や小沢は感情面で「嫌菅」であろうが、だからといってこれまたそれだけでこういううごきをしたなら、やはりただの馬鹿である。

となると、何が一番の理由だろうか。

こういった動きに拍車がかかりだしたのは、どうも原子力の推進に待った(浜岡停止の決定からとみに)がかかった頃からのように私には思える。野党だけでなく鳩山・小沢サイドもどうやらこのころから動き出したように思う。となるとどうも原発推進をこれからも進めていきたいこれが一番の理由のように思える。菅おろしの理由がもしそうだとすれば、これほど罪な行為はない。

原子力にひとたび大きな欠陥が発生すれば、国家として大きなものを失う。今回の出来事はまさにそれを証明した。現に日本の農作物のブランドは、まともにみれば国際的にみて地にちてしまった。

そんなことはないと思うのなら、ちょっと考えてみればいい。

今回の原子力の被害がもし他国で起きたとするなら、その国の農作物(あるいは魚類や肉まで)を私たちは買っただろうか。農薬にも神経を使っている日本である。進んで口にする人はそう多くないだろう。儲けのために知らない他人に食わせる商売人はともかく、家庭ではかなり敬遠されたはずである。そう考えていくと、これからの日本の農作物はどうみても対外的に経済を向上させる武器にはならない。原発事故は一瞬でこういう結末をもたらしてしまうのである。

すでにある原発をどうするかはともかく、新たに原発作ることを見直すことはだからある意味当然の理屈であるし、既存の原発を存続させる場合には、安全性をよりより高度なものにしていくことはいうまでもない。地震国と原発の関係が本来不適合なものであることは、もはや疑いようがないのである。そういうなかで、「菅おろし」の一番の理由が原発にあるとすれば、これはもう国家としての自殺行為に等しい。

点で「原発=金のなる木」思考に染まりまくり、線の「国家を破壊しかねない多大なるマイナス」の視点をもてない政治家による菅おろし。イデオロギー・感情的理由も含め、いずれにしてもこういった連中は、きわめて罪の重い犯罪者的政治家といっても過言ではないように思う。
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by phtk7161 | 2011-06-04 06:10