社会問題を考える


by phtk7161
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女子サッカーが、世界一になった。なでしこジャパンの活躍は、めでたいことだと素直によろこんでいたら、でました。なでしこジャパンを見習えと政治に例える意見。

もしかしたらそういうこと言い出すやつもいるかもしれないあ、とは思っていたがほんとにいたので、思わず笑うやらあきれるやら。

今の政治が混とんとしている原因が政治家にあることは否定しないが、すぐこういうことをいいたがる、メディアや国民にも相当責任がある。たとえば政治家にパフォーマンスはつきものだが、有権者が映像的イメージを優先して投票行動する傾向がより激しくなっているものだから、政治家がそれを意識するあまりあほな行動に走る。

ツィッターもそうであろうし、散見される過激発言もそうであろう。メディアに退屈な人間に思われてはいけないことを怖がるあまり、政治家はついつい軽率な行動にはしってしまうのである。これがさらに、政治の低下に拍車をかける。

なでしこジャパンの活躍と政治のどこに共通する点があるのか。だいたい勝敗が決まるスポーツと、選挙的結果以外は勝敗のない政治の世界を一緒にするのは遊び的考えに過ぎない。主権者のレベルがそういう遊び気分でたとえ質問をするなら、菅もそれにあわせてそういうしかないだろう。その程度の政治遊びごっこを主権者がやりたがるから、ますます政治は幼稚性をおびてゆく。

「リーダシップ」うんぬんという意見。これなんぞ政治とスポーツに関係すると思っているんだろうが、数が力を占めるねじれ状態のなかで「リーダーシップ」もくそもあるものか。

あの小泉だってねじれの中で首相をやっていたら、そう長くはもたなかったと思う。政治の混沌は資質がすべての問題ではないのだ。むしろ政策を取り巻く政治環境のほうが大きいと思う。それをつくりだしているのは、国民であろうし、メディアであろう。

「ねじれ」という厳しい環境をつくりだしといて、「さあリーダーシップを」何言ってんだかと思う。自らが作り出した環境には主権者といえども一定の責任(覚悟)を負うべきだ。

原発だってそうだ。福島には事故に関して政府に批判する資格のない人物は少なくない。万が一の事故を想定して、それなりの対策を考えてこなかった歴代自治体の長と議員、さらにその姿勢を積極的に後押した住民・・・ようは金のために東電の言いなりになった人達・・・の責任は重いといえるはずだ(少なくとも福島の子供たちに対する責任は大きい)。

「金のためにしかたなかった」ならそれでもいい、じゃその程度のレベルの人間が「政権の批判」など今やるべきではない。腹を決めてその責任を意識すべきだ。

「自ら望んで作り出した環境には、それなりの責任を持つ。」少なくとも自己決定とはそういうものだ。そうでなければ、いつまでも「いつの日かスパーマンがなでてきてとなんとかしてくれる」という奴隷思想からぬけだせないままである。、そんな考えのままでは、気づけばそのスーパーマンが「ヒトラー」だったということも十分ありえよう。

サッカーと政治を結びつけて考える主権者にも、それなりの責任は伴うのである。
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by phtk7161 | 2011-07-28 21:16
「札びらで頬を叩く」という言葉がある。形態的には乱暴で下品な表現だが、それでも世の中、金の力で人を支配できるということが往々にしてあることから生まれた言葉なのだろうと思う。

今回の原発問題は、我が国の原発設立地域がまさに「金の力」に毒されていた状況を如実に示している。原発=雇用=金。原発事故が大きな被害をもたらさないなら、この図式でもいいだろう。現にこれまでその論で通ってきた。

しかし放射能もれの事故が起き、長期的経過をにらんで今人の生命が脅かされている。その被害の一番の対象となりうる世代は、今政治参加の権利を持っていない世代。今この若い世代の生命を守ってやれるのは、政治参加できる世代だけである。そういうなかでは、これまで原発に関して通用していた理屈を、今またそのまま通用させるわけにはいかない。

しかし「札びらで頬を叩かれた」人は、こんな状況でも金の力に毒され、雇用のために(生活のために)原発はやむをえないという。生命へのリスクは彼らには関係ないのか。おかしくはないか?

今原発問題の論点は、原発に頼らずに代替エネルギーだけで現状の社会生活あるいは産業を機能させる(社会が機能不全に陥らないよう生活・産業を大幅に後退させない)ことは可能かどうかその一点のみ。エネルギー確保ができないなら、それもまた生命へのリスクを高めてしまう。

できるなら廃止、できないなら維持(もちろん生命への現実的リスクとの兼ね合いは必要だが)ということだ。そこに「雇用のため」の理屈が入り込む余地はない。

原発に関わる「職」は不磨の大典ではないし、本来人の生命を大きな危険にさらしてまで守られるべき「職」などありはしないのだ。
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by phtk7161 | 2011-07-09 22:37