社会問題を考える


by phtk7161
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テレビでの韓流番組の多さにはみなさん気付かれてきるはずだ。国粋的な人物はそういうテレビ局を強く非難する。

実は私もこのところの韓流番組の多さに少し辟易している。無料ならまだしも、有料ではいっている放送までも韓流番組が多くなってきていて、だから私でさえ韓流を減らしてもう少し日本の番組をと思うのは事実である。

そもそもなぜこうも韓流番組が増えたのか。

国粋的人物たちは政治的なものにその原因を求めるが、それは的外れである。彼らがすぐにそう考えてしまうのは、彼らがノルウェーでおきた乱射事件の犯人と同じ病理的思考の持ち主(おこちゃま)だからである。それくらいならむしろ、韓流番組を輸出する側から、日本の放送局の担当者が何らかの「バックマージン」的ものを受け取ってるからと思う方が、まだありうる話であろう。

韓流番組流行の一番の要因は、テレビの世界がより資本主義的原理(市場の原理)で動くようになってきたことが大きい。もう少し詳しく言えば、番組制作費用(制作コスト)や広告における資本投下と売上の効果との関係(いわば費用対効果)をテレビ側がシビアにみだしたからである。

視聴率でいえば、韓流はそれほど高い数字を生み出しているとはいえない。しかしもう一歩進めて、実際に番組を見ている層に焦点を当ててみていくとどうか。

もともとスポンサーは単に視聴率の高さを求めてお金を出すわけではない。自らの商品の売上げが上がることを求めてお金を出すわけだ。これまで単に視聴率の良い番組にスポンサーがお金をだしてきたのは、自らの商品の売り上げにつながるかを見極める方法が、それ(単なる視聴率)しかなかったからである。

ところがこのところ、スポンサーも広告の費用対効果をより考え出してきている。韓流ファンは単なる他の番組の視聴者に比べて、広告商品の購買率が高いと思われる。ことに通販的な広告ではこれが大きいのではないか。

いくら視聴率が高くても、番組の視聴者に購買力がないのなら広告する側は無駄金を捨てているようなものだ。むしろ視聴率がイマイチでも、それを見ている層の購買反応が高ければ、スポンサーとしても当然そっちを選ぶ。また視聴率に高低があっても両者の購買反応が大して変わらなら、今度はコストを考えるであろう。これは資本主義における自明の結論である。そういう費用対効果やコスト率がよい(制作費用が安い)番組が韓流番組いうことだろう。

だから国粋者がいくら叫ぼうとも、彼らに商品購買力(資本力)がなければ、テレビ局は相手にしない。彼ら向けの番組を流しても一銭にもならないからである。つまりテレビ局にとって韓流ファン(中高年のおばちゃんが多いのではないか)はお客様だが、単に文句をたれてくる国粋者(まあ彼らの気持ちはいくらか分からないでもないが)など客ではないのである。彼らが、今のテレビの現状に不満があるなら、購買力で圧力をかけていくしかない。そうでない限り、韓流番組の今の現状は変わることはないだろう。
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# by phtk7161 | 2012-04-17 21:32
野田内閣が昨年9月に発足して半年が経過した。残念ながら私の野田内閣への評価はかなり低い。
評価の低いその最大の理由は、「官」に向けての姿勢にある。特に財務省への最大サービスの姿勢(満額回答)には目を覆いたくなるばかりだ。そこには民主党政権発足の最大のテーマであった「官」の問題と対峙する姿勢はかけらも見えない。

今「財務省」は高笑いであろう。安住財務大臣などは家庭教師の先生の教え(レクチャー)についていくので精いっぱい。官僚に指示をだすどころか操りロボットと同じである。教える側(財務省)からすれば、これほど可愛い生徒もいないと思う。財務省に対する偉大なる「YES MAN」、それこそがまさに今の野田首相と安住大臣である。

         ☆        ☆        ☆

民主党の財務大臣は藤井・菅・野田・安住と続いてきた。このうち藤井氏は財務省OBで、ある意味では身内。「埋蔵金」の捜索能力に期待がよせれたが、その効果はもうひとつだった。
その後の大臣はある意味では「素人」。もっともある種の「素人」でも政治能力があれば、これは別で一定の指導力は発揮できる。現に菅元首相は厚生大臣時代に一定の指導力を発揮して見せた(エイズ問題)。しかし彼でさえ「財務省」にはどうにも駄目だった。

「消費税の公約(未遂)」や「背番号制実施」、これらの主張はもちろんそれなりに理由はある。
しかしどうにもやりかたのバランスが悪い。これらをやるならやるで、同時に実施する側の官の責任も明確ではなければならない。

・・・たとえば、消費税ならきちんと「目的税」と明記することや特殊法人を含めた官仲間への無駄な出費の削減は絶対的であろうし、背番号制なら、これを漏えいしたものに対する厳格な刑事罰(執行猶予はつけられないレベルで、予定されているものでは漏えいしても悠々執行猶予で逃げられてしまう)の存在や漏えいについての国の責任を定めた特別法(損害賠償についてのその具体的手続について定めた)などがセットでなければ、消費税も背番号制もただの役人のための政策になってしまう・・・

官のとるべき責任についてどれだけ「指導力」を発揮できるか、それがまさに彼ら(財務大臣)の存在意義である。たとえ「数字的」なレクチャーには対抗できなくとも、政治的観点から官の責任とセットの法案作りを役人に命じること(もちろん議員立法でもいい)は決してできないことではない。

法案の(消費税・背番号制)の成立について官の責任(法案のなかに責任につていの具体的な文言を盛り込む形でもいい)を条件化するようなバランスのとり方は、今の「官」の問題を解決するひとつな有力な手段である。

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野田内閣が発足して、今ことに「官主導」の流れは止まらなくなっている。無抵抗に等しい。

かつての自民党政権も変わらぬレベルの大臣(ある女性法務大臣などは民主党政権を含めて専門外を考慮に入れてももっともひどかった。それは田中大臣の比ではない・・・もっともその責任は大臣を選んだ内閣側にある)のオンパレードだった。だから自民党は民主党の大臣のことなど言える立場ではない。もともと「専門外の操り人形大臣(官に対する白旗)」への道を築いたのは、栄えある「自民党政権」のほうである。で、そうなってほしくないから「民主党政権」を人々は望んだのである。

しかしそれができない。小沢・鳩山政権は問題はあっても、「官」の是正についてはっきりとした姿勢をみせていた。それが内閣攻撃の援後(検察)と官僚のいやがらせ(不作為行為)で、彼らが退陣して以降、民主党は完全に官に対して「白旗」の状態である。

確かに小沢にも大いに問題はある。政治主導の発揮の仕方もあまりに独善的すぎた(官僚はともかくもっと他の議員の意見も取り入れるべきだった)とも思う。しかし「官」の問題の解決は、小沢・反小沢をとわず両者一致した目標だったはずだ。それができないのなら、そもそも「民主党政権」の誕生した意味がないではないか。

今からでも遅くない。民主党は原点に立ち返って、今一度「官の責任」を明確化した形であらたな法案を成立させる。この最大の問題(政権誕生の意義)に党として結束できないところが、今の民主党の最大の問題といえるのである。今求められる首相・大臣とは、「家庭教師」に「利益や責任の公平的分配」の観点から、いちいち言い返すうるさい「生徒」なのである。
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# by phtk7161 | 2012-04-13 21:48
原発対応は「大失敗」
=菅直人・前首相インタビュー=

    ☆         ☆        ☆    

上記の見出しは、時事通信による菅直人前首相へのインタビュー記事の見出しである。ネットでの記事一覧では、この部分だけが記載されている。
さてみなさんは、この見出しをみてどう思われたであろうか。

多くの人は菅前首相が、事故発生後の首相として対応が大失敗だったことを自ら認めたと思うのではないか。つまり原因は「自らの事故後の行為(対応)」にあったのだと認めたのだと。

しかし実際読んでみると、彼は「事前の備えが十分ではなかったという意味で大失敗だった」と答えている。すなわち事故発生以前に、すでに対応失敗の大きな原因が存在したというのが、彼の言う「大失敗」の趣旨である。

なら見出しは、「事前の備えが十分でなかった」との表現も同時に記載されていなければ、その見出し「不正確」どころか「誤った」記事である。

「○○という意味で大失敗」は○○の部分がなければ意味を持たない。「大失敗」だけ記載してもそれは「嘘」を書いたのと同じことだ。「重要な部分を割愛したという意味で、時事通信の記事の見出は虚偽」を「時事通信の記事の見出は虚偽」とだけ記載したら、時事通信はどう思うだろうか。

確かに記事の見出しは「簡潔さ」が命だ。しかしだからといって、その表現が本質からずれた意味をもつならその見出しは「嘘」となってしまう。本質を変えないことは見出しの使命であろう。入れるか入れないかで、見出しの本質が変わるなら、その部分を割愛してはいけないし、それができないなら、見出しをつけてはいけない(原発対応について菅前首相に聞くで十分だ)。

原発対応は、事故前と事故後でその責任の意味は大きく変わる。特に長く原発に携わってきたそれまでの政府・与党(ことに自民党)には、事故前にすでに大きな要因を作っていた点で大きな責任があると思われる。「事前の備えが十分でなかった」とはそうした意味も当然含まれると思う。

しかし「原発対応は大失敗」とだけなら、多くの人は失敗の大きな原因は事故後の自分の対応だったと菅首相が認めたととらえてしまうだろう。

     ☆        ☆        ☆

原発対応についてもちろん菅前首相にも問題がなかったわけではない。しかし事前の準備不足(安全管理)が一番の大きな原因だったことは、まともな人ならだれでも理解していることと思う。今回の菅首相のインタビューの趣旨もそこからずれたものではない。

記事の見出しだけで読んで(それで内容をざっと理解したとして)、それ以上は(記事の中身を)読まない人も多い。そうした意味で「見出し」のもつ意味は大きい。時事通信の記者(編集長も含め)は文章のプロである。当然読み手が「見出し」からどうとらえるか、察知できているはずである。それが分かっていて(わからないならもはやプロではない)なぜこういう見出しをつけたのか。

今原発は転換期にさしかかっている。原発は政官財及び原発の存在する自治体とその住民にとって「打ち出の小づち」だった。そして広告などでその「うまみ」にあずかるという意味ではメディアも同じである。「打ち出の小づち」から還流された金は当然多くのメディアにも流れた(時事通信にも流れているだろう)。

今「打ち出の小づちは」小さくなりつつある。それを食い止めるための一番いい形は、「原発事故のもっとも大きな原因は事故後の当時首相であった菅直人の対応がすべて」という結論である。これなら、事前責任は問われないまま、うまみにあずかりたい連中にとっては「めでたし、めでたし」ということになる。

時事通信の本音

<原発対応は「大失敗」>の見出しをつかえば、管が対応の大失敗の原因が自分にあると自ら認めた(事後のことが大きな原因)と、世の中の多くの人は思うだろう。そうなれば、世論も首相が管でなかったなら、原発は大事故にはならなかったという認識をもち事前の問題は薄められる。「打ち出の小づち」は復活し、東電応援企業の広告も集まりやすい。

もちろんこれ(本音)は仮説だ。本当はちがうかもしれない。しかしこの見出しをみる限り、どうもある「策略」を感じざるを得ない。そうした意味で、時事通信がなぜ見出しをこの部分に限ったのか。「事前の備え」をなぜ割愛したのか。編集の責任者を含め、その本音が聞きたいところである。
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# by phtk7161 | 2012-04-06 22:14
次期衆院選の目玉は橋下維新と石原新党のようだ。両者似た者同士の自信屋である。

彼らは感情優先の人間を操るのが非常にうまい。それなりのビジュアルのよさも加わって、いわゆる小泉選挙がターゲットととしたB層的な人にとってはうってつけの「スター」であろう。

この両者に共通したすごさは、なんといっても見事なまでに国民のレベルを「なめた」その発言である。

      ☆        ☆         ☆

今回明るみになったに、大阪交通局職員によるリストねつ造事件。「知人・友人紹介カード」の回収状況を示すような市交通局職員の一覧リストが作成され、それが偽物だったという事件である。

橋下知事はこの件について、「むしろ組合の疑惑をはらしてやった」「疑惑文書の真偽が確定しなければ質疑できないなら議員の自由な言論を阻害し、市民の真実を知る権利の障害になる」などとのたまわった。

「むしろ交通局の疑惑をはらしてやった」。本当にそうであろうか。
まずそもそも「疑惑」はなぜ生じたのか。原因は偽リスの作成と委員会での杉村市議の発言である。それは、私文書偽造(作成者)や名誉毀損(両者)の対象になる。

杉村市議や維新のやったことは、「はらした」のではなく、先に対象者を害する事実を「作った」ことである。作ったとは、偽のリストを作成したことではない。対象者の利益を害するような事実を表に出してしまったこと(資料をもとに委員会で発言した)である。「作った」がなければ「はらす」必要はない。「はらした」というのは0点の解答である。

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「疑惑文書の真偽が確定しなければ質疑できないなら議員の自由な言論を阻害し、市民の真実を知る権利の障害になる」についてはどうか。これなんぞ一見聞くとなんとなく説得あるように思える。しかし実はこの発言こそが、まさに橋下知事の「ずるさ」を象徴している。

表現の自由とその対象者の人権。両者とも重要である。だから法はその両者の利益を考慮して、表現者側に「真実だと思っても無理もないといえる程度の十分な資料の存在」を要求している。当然そこでは「資料」の信憑性は重要な鍵となる。

委員会での質問の自由は確かに重要だ。しかし委員会での質問は即不特定多数への「公表」であるから、当然そこには対象者の「名誉」もからむ。「ない」ものを「ある」としても許されるには、そう思っても無理はないといえるほどの信憑性のある「資料」の存在がなければならない。

今回の事件ではリストは偽造であり、かつそれに対する信憑性のチェックも市議が橋下知事への「功績PR」をあせるあまり、明らかに不十分であった。前もって資料について虚偽を危惧する意見もでていた。つまりどうみても「アウト」の行為である。行為が許されるために必要な、相当といえる資料の存在などなかったといえるのである。

橋下知事のずるさは、この一方の利益に関するポイントについて(法が定めている対象者の人権の鍵となる真実にかかわる相当な資料の重要さ)十分知っているのに、これをあえて「スルー」しているところである。こういうところがこずるい。明らかに「どうせそんなことなど知らないだろう(気づかないだろう)」と市民のレベルをなめているのである。

それは、杉村市議の質問は「維新がさせたのであり彼には責任はない」というおかしな理屈もそうだ。質問した本人には「言いたくなかったのに、意思に反し無理やり言わされた」というのでもない限り、委員会で自らの意思で発言したことには当然責任が伴う。
それはたとえそれが「維新としての発言」だったたとしても同じである、発言者自身にもなお責任があることには変わりない。ただ発言者とともに、維新にも同様の責任が生じるだけのことだ。発言者と同様に、政党の社会的責任が問われるだけのことである。

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今回の出来事は、上記のような小難しい説明など本当は必要のないレベルの問題である。「偽の資料の作成」と「それにもとづく議会での発言」はそれぞれ別の段階での責任がある。作成=発言ではない。発言したのはだれか。作成者ではない。発言者には発言者として独自の責任があるのである。

「でっちあげの資料に功名心から忠告も無視して安易にひっかかり(資料に対するチェックを怠った)、ないものをあると発言してしまった。けれど悪いのは作成者であり、発言した本人(あるいは団体)には何の責任もない。」→「それでは済まないでしょう。」子供でも分かる理屈である。だから前原・野田・永田議員も責任をとらざるをえなかったのだ。

もしそれでも彼らが責任を否定するなら、彼らのその思考はけっきょく「あいつは悪いやつだ。だからあいつらをつぶすためには、偽の証拠で事件をでっちあげてもかまわない。」的発想と何ら変わらない。こんな発想をする人間などどうみても「「バカ」としかいいようがないでないか。

今回の偽リストの作成者は熱烈な橋下支持者なのだろう。「維新塾」にも応募していたという話だから、今度の行動からは「偽リスト」をきっかけに「覚えめでたく」杉村市議を通じ橋下効果にあやかりたい(自分の人生のプラスにつなげたい)という動機もすけて見える。そしていつかは自分も今の人生を変えできれば「ヒーロー」にということである。

そんな人間の言い訳は「正義感からやった」。偽リストを作る=不正義(というより悪)というまことにもって人間の基本の基本さえ分かっていないその思想には、自らの「真理」のためには「犯罪」さえいとわない、あの「オウム」さえ連想させ、うすら寒いものを感じる。

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確かに大阪交通局や労組は大いに問題がある。その是正は大阪にとって必要だろうと思う。しかしそのためには、手段を選ばないでいい(偽の事実を生じさせてももかまわない)とするなら、その思想は非常に危険である。それは「カルト」的思想でしかない。この先橋下&維新がそういった「カルト」思想を持ちつづけ、支持者は思考を止めた単なる「信者」と化してしまうのか。(別の言い方なら「ナチス党」となり、支持者も一緒に「ゲシュタポ」まがいの行動をとり続けるのか。)そうではなく、委員会で公表した時点で対象者にすでに害悪が生じている以上、誤りは誤りと認めそのことについてはきちんと謝罪し、健全なる組織としてやっていくのか。

彼らが、今回この問題を、お得意の「屁理屈」と「数の力」で何らの責任をとらないままクリアできたとしても、その「汚点」は消えることはない。その「汚点」はいつか違った形で表出し、彼らを「瓦解」させると思う。リストの作成者や杉村市議と同じような思考の人物は、おそらく現維新の議員や議員予備軍にも少なからずいるであろう。そういう点でいえば、今回の出来事の対応は、まさに新党維新(現議員・予備軍)についての「質」の試金石ともいえると思う。
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# by phtk7161 | 2012-04-04 22:11
ギリシャ危機は、世界経済全体に深刻な影響を及ぼしている。当然ギリシャに対する世界の目は厳しいようだ。目にした雑誌には「最悪の国ギリシャ」という見出しまで踊っていた。

なるほどギリシャがオリンッピクを契機にバブルに踊り、かつそれ以前から財務的に厳しい体質であったにもかかわらず、有効な手立てをとってこなかったのは確かであろう。例を挙げれば、国家収入と公的職員(とくに人件費)のバランスなどどうかなとは思う。

しかしそれでも、昨今の金融経済至上主義側からのこういった見方には相当に疑問がある。

ファンドをはじめとする金融至上主義者は、徹底的に国家の財務体質を問題とする。これに染まった軽薄な評論家ほど「国家を家庭にたとえれば、毎月の収入がこれこれなのに、支出がこれこれで~」などと話すのを見かけた人も多いはずだ。こういう見方をする人物は、「人間」をみない。数字ばかりをおっかける。しかし数字だけで現実にねざす生活の充実度は判断できない。

もとより政治は人間のためにある。最低でも人間が「普通だな」さらには「いいな」と思うような暮らしをできるようにするためにあるのである。ばかげた「贅沢」によってその人間が金融ゲームの結果おちぶれていくのはともかく、さほどの贅沢などしたことのない人間がそのゲーム(金で金を生産する)のあおりをうけて、普通の暮らしができなくなるのはどうみても「マトモ」ではない。

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今のギリシャの経済危機にしても、一番の原因はギリシャ国債の暴落をマネーゲームに利用したファンドの存在と、それとコラボを組む「格付け」会社の存在が大きい。これらが、今の世界経済に与える影響の割合が大きすぎるために、国家間の支援策がなかなか有効なものにならないのである。

今日本の巷を騒がしている問題に暴力団と民間との関係があるが、これとマネーゲーム屋と国家経済の問題は同じだと私は思う。

暴力団についていえば、いろいろな事情(生い立ちなど)で裏の社会でしか生きていけない人がいる。そうである以上、表社会も裏の社会の存在をまったく否定することはできない。

もっともそれが許容されるのも、裏社会が裏社会の市場だけでうごめく、あるいは表社会と関係するときもそれなりの範囲・・・たとえば堅気側の方から裏社会に働きかけ、あるいは裏からの安易な誘いにのった結果どつぼにはまるような場合などは仕方がないであろう・・・で動くだけならである。「裏」がそれ超え、裏のルール駆使して表の世界にやみくもにでていこうとするのなら、それはつぶしていくしかない。本来「裏」の分野には守るべき節度が存在しているからだ。裏はあくまで裏であり「表」にはなれないし、またなるべきでもない。

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金融もそうである。お金を融通しその結果経済の活性化をはかる。これが金融の原点だし、証券や為替にしても資金調達のためあるいはリスクヘッジのためそれがその存在の原点である。あくまで実体経済を補助するための存在が「マネー産業」なのである。そこにマネーゲーム屋(ことに投資屋=ファンド)が「経済の主人公」となる余地など本来ありはしないのである。マネーゲーム世界はりっぱに「裏」の世界である。決して「表」ではない。

しかし今の実態はこれが逆転し、マネーゲーム屋が主人公となり「企業」も「国家」も彼らの駒にすぎなくなってしまっている。そしてゲームで使う駒の「パワー」をきめるのは「格付け会社」というわけである。

マネーゲーム屋が市場を支配する現状は、あきらかに投資が本来持つべき節度を欠いている。それは裏社会が社会の中心となって、裏社会の人間の幸福を第一に考えるよう表社会が存在しているようなものである。

今の問題を解決するには、相対的にファンドの資金量を縮小させるだけの巨大な世界国家規模の基金を作るか、あるいは取引ごとにゲーム屋に高いテラ銭(取引税のようなもの)を払わせる制度しかないと思う。そこまでしないと、裏中心の経済(ゲーム屋)の現状はなかなか止められない。

おりしもウォール街への抗議デモをきっかけに、金融(ことに投資)に対する批判的行動がおこりつつある。これを契機に今の金融経済のあり方を見直す風潮が高まることを願いたい。
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# by phtk7161 | 2011-10-27 08:49
日本に限らず、今世界の多くの国が混沌とした中にある。金融危機。株安。原発。中東での民主化などなど・・・。あげていけばきりがない。

金融危機や株安については、いまだにマネーゲームの世界が跋扈しているから当然といえば当然で、格付け機関なるおかしな会社がさも高尚な仕事をやっているように演出される世の中では、こうしたばかげた状況はまだまだ続くだろう。

民主化にネットが大きな役割を果たしていることは、疑いようもない。しかしネットが「善か」といえば、相当に疑問もある。

よくネットで賛成反対を問うこともあるが、あれはあくまでネットの世界での話。ネットに一日中張り付く人間とそうでない人間とで、温度差があるのは当然であるから、あれは世論とは程遠い(もちろんメディアの世論調査にも大いに疑問はあるけれど)。

ネットを個人的に使える時間は、健全な人なら限られている。2ch的な人間は、ある意味同好の士同士のバーチャル世界の住人にすぎない。

ネットとどう付き合っていくかは、大げさ意味ではなく本当に人類にとって大きな課題である。ネット以前の世界と比べれば、一人の人間でも大きな影響力をもちうるようになった。しかしそれも実はある意味では、バーチャル的な力にすぎないともいいえるだろう。なぜなら、ネットでは表紙はみえても中身はみえないからである。しかしそれを、時に人は「現実的なもの」と勘違いする。

その行き着く先はどこか。まだネット○○で止まっているうちはよいが、ノルウェー乱射犯人のように、ネットに執着して自らを「過大評価」(実際はカス)するようになった結果があれでは、ネットは害悪以外の何者でもない。上野のパンダの時に園に電話攻勢をかけたあの連中も、程度の差こそあれ本質的にはノルウェーのカスとなんら変わらない要素をもっているのである。

ネットの機能性は確かに高い。しかしそれゆえに危険な要素を大いに含んでいる。とするなら、時にネットから離れる(ある程度の距離を保つ)ことも・・・政治の世界はことに重要で、復興に関係ないことでツィッターなんぞにうつつをぬかす暇は今ないはずだ(これを頻繁にやる政治家がいるのが情けない)・・・重要なことといえるだろう。
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# by phtk7161 | 2011-08-05 19:50
私は根がひねくれているせいなのか、メジャーなものにはあまり興味がない。プロ野球だって、同世代では圧倒的に巨人ファンが多いが、私は大洋(現横浜ベイスターズ)のファンだった(いまでもそう)。

横浜が何十年ぶりに優勝した時期(その前後4~5年余り)には、よく球場に足をはこんだ。しかしご存知のとおりいまの横浜は弱い。当面優勝には縁がなさそうだ。

競馬場にもよく足を運んだ時期がある。トロットスターという馬がいたのだが、この馬のデビュー戦をたまたまみて(2着だった)その走りにほれ込み、応援するようになった。たまたま見たという以外には何の縁もゆかりもない馬である。

トロットスターは実力の割には人気はなかった。血統が地味だったせいもある。4歳時は掲示板には確実に乗るがなかなか勝ちきれず、応援しているほうもジリジリしたものだ。その馬が初重賞をとってから見事開花した。重賞連勝のあと高松宮でG1を制覇。安田記念は惨敗したが秋のスプリンターでまたG1を勝った。そしてその年の最優秀スプリンターに選ばれた。

この馬の引退後は、めっきり競馬場に行って馬を応援することは少なくなった。トロットにいくらかゆかりのある馬を応援する程度である(年に数回)。

JRAのかわりに、月イチ程度いくようになったのが大井競馬場である。大井競馬場には恒例になっているイベントがある。「相馬野馬追」と「ばんば」である。

競馬はギャンブルであることは確かだが、時には馬にまつわる「伝統」にも気づかせてくれる。

大井でみていなかったら、今度の大震災で大きな被害を受けた「相馬市」とそこの伝統である「相馬野馬追」のことはニュースでみても聞き流す程度だったと思う。今は、甲冑に彩られたあの颯爽した走りの完全なる復活を願うのみである。そしてまた「相馬野馬追」が大井で行われるときは、競馬ファンのみならず、多くの人にその迫力ある姿を見てもらいたいと思う。

「ばんば」のほうは、大井で今年もイベントが行われる(8月14日)。「ばんば」にもようやく3連単が8月5日から導入され、配当的な妙味もようやく味わえるようになる。どこの競馬場も売り上げは厳しいらしいが、「ばんば」の売り上げがこれをきっかけに向上し「ばんば」のファンが増えて「伝統」の継続が確固たるものになってほしい。

実際、知れば知るほど「ばんば」ほど面白いレースはない。坂を越えてからゴールにたどり着くまでのスタミナを考え、ふたつめの坂をどうクリアしていくか。馬場の水分量と馬の脚質との関係。馬のそりを引く姿は「よいしょよいしょ」という形容がぴったりだ。

普通の競馬では、馬が差す瞬間が早すぎて過ぎて見逃すことがある。自分の視界に入ってくるまでその馬の姿に気づかないからだ。しかし「ばんば」は確実にその姿を捉えることができる。かなり距離があっても、まだまだ十分差すシーンがみられる(期待できる)楽しみもある(あのブロードアピール並みに差してくる)。

本格的に「ばんば」に興味をもってまだ一年もたたない素人の私だが、今は「フクイズミ」という牝馬のファンである。

あし毛のこの馬、なぜかレース中もいつも舌を「ぺろぺろ」。坂の前で、「登るにはまだまだね」という感じで、周囲をきょろきょろ。でも坂さえ越えれば時に「すんげえ脚」を使う。他馬のそりを引く音が「ずるずる」ならフクイズミは「すいすい」なのだ。だけど惨敗するときは大惨敗。坂がと~っても苦手なのである。なんと愛すべきキャラクター!

私はこのフクイズミの「すんげえ脚」のレースをみていっぺんにファンになった。

「ばんば」には面白いところが他にもまだまだいっぱいある。競馬ファンのみなさんに限らず、今は一般の多くの人が何とかこの面白さに気づいてくれないかと思っている私なのだ。

競馬と馬。その馬と「伝統」。その「伝統」を継承する「相馬野馬追」と「ばんば」。この両者の伝統が今後も続くことを願ってやまない。
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# by phtk7161 | 2011-08-01 10:50
女子サッカーが、世界一になった。なでしこジャパンの活躍は、めでたいことだと素直によろこんでいたら、でました。なでしこジャパンを見習えと政治に例える意見。

もしかしたらそういうこと言い出すやつもいるかもしれないあ、とは思っていたがほんとにいたので、思わず笑うやらあきれるやら。

今の政治が混とんとしている原因が政治家にあることは否定しないが、すぐこういうことをいいたがる、メディアや国民にも相当責任がある。たとえば政治家にパフォーマンスはつきものだが、有権者が映像的イメージを優先して投票行動する傾向がより激しくなっているものだから、政治家がそれを意識するあまりあほな行動に走る。

ツィッターもそうであろうし、散見される過激発言もそうであろう。メディアに退屈な人間に思われてはいけないことを怖がるあまり、政治家はついつい軽率な行動にはしってしまうのである。これがさらに、政治の低下に拍車をかける。

なでしこジャパンの活躍と政治のどこに共通する点があるのか。だいたい勝敗が決まるスポーツと、選挙的結果以外は勝敗のない政治の世界を一緒にするのは遊び的考えに過ぎない。主権者のレベルがそういう遊び気分でたとえ質問をするなら、菅もそれにあわせてそういうしかないだろう。その程度の政治遊びごっこを主権者がやりたがるから、ますます政治は幼稚性をおびてゆく。

「リーダシップ」うんぬんという意見。これなんぞ政治とスポーツに関係すると思っているんだろうが、数が力を占めるねじれ状態のなかで「リーダーシップ」もくそもあるものか。

あの小泉だってねじれの中で首相をやっていたら、そう長くはもたなかったと思う。政治の混沌は資質がすべての問題ではないのだ。むしろ政策を取り巻く政治環境のほうが大きいと思う。それをつくりだしているのは、国民であろうし、メディアであろう。

「ねじれ」という厳しい環境をつくりだしといて、「さあリーダーシップを」何言ってんだかと思う。自らが作り出した環境には主権者といえども一定の責任(覚悟)を負うべきだ。

原発だってそうだ。福島には事故に関して政府に批判する資格のない人物は少なくない。万が一の事故を想定して、それなりの対策を考えてこなかった歴代自治体の長と議員、さらにその姿勢を積極的に後押した住民・・・ようは金のために東電の言いなりになった人達・・・の責任は重いといえるはずだ(少なくとも福島の子供たちに対する責任は大きい)。

「金のためにしかたなかった」ならそれでもいい、じゃその程度のレベルの人間が「政権の批判」など今やるべきではない。腹を決めてその責任を意識すべきだ。

「自ら望んで作り出した環境には、それなりの責任を持つ。」少なくとも自己決定とはそういうものだ。そうでなければ、いつまでも「いつの日かスパーマンがなでてきてとなんとかしてくれる」という奴隷思想からぬけだせないままである。、そんな考えのままでは、気づけばそのスーパーマンが「ヒトラー」だったということも十分ありえよう。

サッカーと政治を結びつけて考える主権者にも、それなりの責任は伴うのである。
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# by phtk7161 | 2011-07-28 21:16
「札びらで頬を叩く」という言葉がある。形態的には乱暴で下品な表現だが、それでも世の中、金の力で人を支配できるということが往々にしてあることから生まれた言葉なのだろうと思う。

今回の原発問題は、我が国の原発設立地域がまさに「金の力」に毒されていた状況を如実に示している。原発=雇用=金。原発事故が大きな被害をもたらさないなら、この図式でもいいだろう。現にこれまでその論で通ってきた。

しかし放射能もれの事故が起き、長期的経過をにらんで今人の生命が脅かされている。その被害の一番の対象となりうる世代は、今政治参加の権利を持っていない世代。今この若い世代の生命を守ってやれるのは、政治参加できる世代だけである。そういうなかでは、これまで原発に関して通用していた理屈を、今またそのまま通用させるわけにはいかない。

しかし「札びらで頬を叩かれた」人は、こんな状況でも金の力に毒され、雇用のために(生活のために)原発はやむをえないという。生命へのリスクは彼らには関係ないのか。おかしくはないか?

今原発問題の論点は、原発に頼らずに代替エネルギーだけで現状の社会生活あるいは産業を機能させる(社会が機能不全に陥らないよう生活・産業を大幅に後退させない)ことは可能かどうかその一点のみ。エネルギー確保ができないなら、それもまた生命へのリスクを高めてしまう。

できるなら廃止、できないなら維持(もちろん生命への現実的リスクとの兼ね合いは必要だが)ということだ。そこに「雇用のため」の理屈が入り込む余地はない。

原発に関わる「職」は不磨の大典ではないし、本来人の生命を大きな危険にさらしてまで守られるべき「職」などありはしないのだ。
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# by phtk7161 | 2011-07-09 22:37
前原は相も変わらず前原だ。浜岡原発の停止をポピュリズムだとのたまった。ポピュリズムとは大衆迎合の政治だが、放射能事故が起こる前ならともかく、エネルギーをどうするかの問題があるにせよ、致命的な事故が起きた現実の前では政府として一定のアクションを起こすことは当然のことである。

浜岡の問題はすでに事故以前から取り上げられていたし、事故が起きた時の首都機能への影響を考えてみれば、エネルギー見直しへの端緒として、まず浜岡を停止することも政策の一つの在り方であろう。

        ☆         ☆         ☆

ポピュリズムの意味をもう少し具体的に考えてみれば、それは一般市民の感情に大いにかなう政治(政策)でも、それで得られる利益はむしろ国民にとっては実質的には反比例(実際は損失)してしまうような政治(政策)のことであろう。

これを原発の問題に即してして考えてみよう。

原発をストップさせることは、資源国でない国(つまり日本だ)のエネルギー確保や、将来的な核兵器利用(国防)をにらむときで国に大きなマイナスになると前原は思っているのだろう。

しかし今回のことでもわかるように、事故が起きると長期的スパンでの国民への健康被害や第一次産業への多大なマイナスの影響を考えれば、原発により得られる利益(私はそもそも核兵器への利用などプラスとは思わないが)より、はるかに大きいマイナスが発生してしまう。そうであれば、エネルギー政策の転換としてひとつの原発を停止することは、国民の生命への安全や生活産業を守るそのマイナスを回避しようとする道筋をつけるうえでも、国民にとって実質的にも大きなプラスであり、それは決してポピュリズムなどではない。

         ☆         ☆         ☆    

だいたい浜岡をレベルポピュリズムといってしまうなら、かつて前原自身がやったこともそうなってしまうのではないか。

たとえば八ッ場ダム(やんばダム)の見直し。前原流「ポピュリズム」の理屈でいえば、あれだってそうなってしまう。無駄な公共事業が国民全体の利益にかなうのは間違いないが、地元の人間にとってはそうとは限らない。国民大うけするダム中止が、自治体にとっては現実の生活に大きな影響を与えるのだから。

もちろん私は八ッ場ダム(やんばダム)見直しをポピュリズムだと思っていない。無駄な公共事業の見直しは、国民にとって大きなプラスだ。しかし今回の浜岡がポピュリズムなら、これもポピュリズムだといえば、いえてしまうのだ。

また尖閣諸島での衝突事故における彼の対応。

船長の身柄を拘束するなら、対外的現実を見据え、きちんと落としどころを認識したうえで拘束すべきだが、国粋的プライドを優先して先走ったものだから、あの状況にまでなった。前原が、前原の中にいる大衆前原に迎合した結果である。つまり彼はすでに本当のポピュリズムをしてみせている。

しょうもない中国には確かに腹は立つが、だからといって確たる戦略もなしに、口ばかりが先に出るようでは政治家失格である。これこそ、浜岡や八ッ場とは違い、本当のポピュリズムというものである。

         ☆        ☆        ☆ 

いずれにしても、前原の今回のポピュリズム発言。先のことなぞ考えないその軽薄ぶりはあいかわらずである。よく彼は「口先番長」といわれるが、とにかくいうことすべてが軽すぎる。

その彼が、しかしそれでも総理候補になってしまうのは、徹底したアメリカ優先主義であるその姿勢がアメリカとそれにコラボした日本の支持層に「便利屋的」に重宝されているからだ。集団的自衛権しかり。憲法改正しかり。そして今度の原発しかりである。

それを分かっているから、メディアは前原にたいしては必要以上にきつい叩きかたはしない。どんな時も見事なさじ加減で支える・・・もっともメール事件では、そのメディア側の配慮を超え、前原自身が大見得を切るという大失態を犯したものだから、自分でこけてしまったが。

前原-アメリカ=ゼロ。この等式が成り立つのが前原である。そして彼の中身を知って彼を支持する連中もどそうだ(日本-アメリカ=ゼロ)。彼は今後いつまで、後のことを考えず口が先にでてしまう政治スタイルを続けるつもりだろうか。
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# by phtk7161 | 2011-06-29 07:54