社会問題を考える


by phtk7161
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最近、無責任な庶民感情というものが、メディアのなかで、あまりにまかり通っている気がする。
そこでは、「健全なる庶民感情」のなのもとに、事柄の問題点がきちんと把握されないまま、その場限りの感情論でものごとが進んでいている。
これは、ひじょうに危険な状況である。

もちろん、妥当な結論につながる庶民感情があることも、否定はしない。
たとえば危険運転致死罪(飲酒運転によるケースなども含めて)創設のケースがそうである。
これは、従来過失犯として扱われたものを、刑の重さを限りなく故意犯レベルにしたものである。
創設前の、交通事故に関わる一向に改善されない現実、また、車というものが、本来ひとつ間違えば簡単に人の生命を奪う凶器の側面を持つものであり、このことをあまりに軽視し、著しく軽はずみな行為により、重大事故を引きおこしたものの非難可能性の強さからみても、もっと厳罰が科せられるべきではないかとする庶民感情は、妥当でなものであると思う。
そして、この場合の庶民感情は、刑法本来の原則をくずすものではないし、その役割をゆがめるものでもない。

しかし率直にいって、多くの場合、現在の日本では、無責任なその場限りの庶民感情が、最近幅を利かせすぎである。
この種の庶民感情の形は、まずある解決していくべき課題に対して、その原因をある一箇所に求め、そこをひたすら叩けば解決できるとする形をとる。
対処法も、シンプルな万能薬的形を提示する。
その場限りの思考で、それまでの歴史的経験則から導かれた原理原則など簡単にけっとばす。
そこでは、たとえの表現も、あまりに軽薄である。
あるときは必要上に深刻に、あるときは面白半分に受けを狙って。

政治でいえば、郵政民営化の時が、そうである。
民営化反対のものは、庶民の苦しみをよそに日本の進歩的改革を邪魔する「悪」である、
これを叩けば日本は良くなると。
そこでは、外資に日本の資金が流失する問題、財投の決定権が大蔵省(今の財務省)にあることの責任、将来を完全にみすえたセキュリティー問題などはほとんど正面から論議されることはなかった。

社会事件のコメントでも、えらくおふざけ調が通っている。

たとえばみのもんたが、「痴漢はひれつだよねえ、外国には手を切っちゃう刑罰があるけど、痴漢やったものは手をきっちゃったほうがいいよ」テレビで発言する。
「痴漢なんかするやつは、どういったってかまやしない」という発想が彼の根底にあるからか、でなければ、その実な~んも考えてないのからのコメントか。
もちろん、彼としてはもっと痴漢を厳しく取り締まれということを彼なりの比喩でいたのかもしれないが、しかしたとえにしても、公共の発言としては、おそろしく幼稚である。
でも、これを聞いて「私たち庶民の感覚で、ずばっといってくれて、すっきりする」と思う人も、確かにいるのだろう。
でなければ、彼が画面にあれほど露出してるはずがない。

さらには、過失犯なのに、重大な結果を招いたひどい自動車事故のコメントで「こういう人間は死刑にすべきです」とのたまわったコメンテーターもいた(タレントコメンテーターーではない、いわゆる有識者風コメンテーターである)。
故意と過失の違いを考慮することなく、過失犯を死刑にできるなら、刑法の大原則を捨てることになる。
これはもはや文明国とはいえない。
そのことをふまえた、発言であろうか。
しかし、どうどうと、こういいきってしまう。
このコメンテーターは、これが健全なる庶民感情にかなうものと考えたのか。
ここまでくると、もはや何をかいわんやである。
しかし、まぎれもなくその種の考え・・・シンプルというなのその実何も考えていない、スカスカの考えが・・・場合によっては、ひとつの庶民的な見解として通ってしまう。

またメディアは、司会者、コメンテーターだけでなく、あるときは、インタビューの形で「善人」である庶民のコメントを、またあるときは、「世論調査」という形で、「善人」な「質問にきちんと答えた庶民」を登場させ、善良なる市民感情に沿うものとして、ある政策決定の流れをつくる。
しかし、そこでの調査による「世論」が本当に市民が本気で考えた場合の世論なのか、その正確性を担保する手段はなんら設けられていない。
そこでは、たとえ、アンケートの回答が矛盾した形になっていても、「健全なる庶民の意見」ということになる。
そしてそういうメディアに、多くの有権者が影響をうけ、選挙という形で行動が飽和状態に達したとき、見事な衆愚政治の完成である。

ある事柄に、意見をいうのはかまわない。
しかし、少なくとも価値のある意見を述べるとするなら、最低限ものごとの経緯や背景を知ったうえで、述べるべきではないか。
たんに、「おもしろさ」「すっきりさ」的な感情からだけで述べた意見は、健全な「庶民感情」というべきではない。
専門家でなくても、経緯や背景を知り(細部の事柄ではなく、何が本質的な問題点か理解するために)問題点を把握し、その結果自ら考えた意見であってはじめて、「健全なる庶民感情」なるものの存在価値は、あるといえよう。

もっとも、この種の知るための準備作業に、日々忙しい多くの国民は、現実には時間を割くことは困難である。
したがって、そのためのフォローとして、メディアが存在するのである。
ある事柄に対して、正確な問題分析と争点、その解決の複数の策を提示し、国民にまじめに考えてもらい「健全な庶民感情」を培ってもらうことこそ、メディア本来の役割である。
しかし、今のメディアの中心ともいえるテレビは、ほとんどこの点では機能していないといえる(民放は特に視聴率主義の中で絶望的である)だろう。

一方で、国の根幹に関わる問題は山積である(北朝鮮問題、憲法改正問題、教育基本法の改正、共謀罪、年金、集団的自衛権etc)。
次の参議院選まで、そう時間もあるわけではない。
選挙の結果次第では、国の方向性は翼賛的に一挙に進むだろう。
となると、やはり今は国民自身が、ネットや出版ものなどを通じて、問題の本質を知っていく努力をするしかないのではないか。
まだまだ、それを提供してくれている出版物も数多くあるし、ネット(ブログなど)なども数多くあろう。
今はこれらを通じて、国民が一人でも「健全な庶民感情」を培い、真面目な政策論争が選挙でおこなわれるとを、願わくば期待したいと思う。
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# by phtk7161 | 2006-10-16 11:51
戦後、平和主義の憲法もとで、日本の防衛組織は、警察予備隊から保安隊そして自衛隊へと、その名称はかえられてきた。
その経緯では、その活動の幅に変化がいくらかはあっても、専守防衛的形は維持されてきたといってよい。
PKOであっても、国連を通じた維持活動であって、有志国の枠でおこなわれたものではなかった。

最近、憲法改正が叫ばれるなか、今の自衛隊が防衛軍という形で軍隊として明記されようしている。
この論議をめぐる中で、私が気になるのは、もっぱらその論点が、対外的な問題(他国の攻撃から身を守るための方策)のために、自衛隊をどうするかの点ばかりに集中し、軍隊の持つ対内的な(内政的な問題)がほとんどなされていない点だ。

長い歴史的経緯からみても、日本に限らず、軍による政治介入やさらにはその暴走により、避けた戦争に、突入することになった例は、歴史上数多くある。
いあわゆるシビリアンコントロール(文民統制)は、立憲民主主義国家には不可欠な要素であると私は考えるが、しかし現在でも、民主的政治を掲げつつ、裏では実質軍隊が政治に相当な影響をおよぼしている国が数多く存在しているの現実である。
自由主義を標榜し、民主国家を世界にと高々に宣言しているあのすばらしきアメリカでさえ、軍産複合体的なものに政治がふりまわされているといってもいいであろう。

シビリアンコントロールが、法(憲法)的には形式上はかれることになっているとしても、事実上、軍隊組織の規模や物理力(軍事力)、そしてそれに関わる経済性が高ければ高いほど、軍の政治への発言力は高まり、実質上のシビリアンコントロールが利かなくなる傾向は否定しがたい事実である。
これは当たり前で、単純に考えてみても、武器を合法的にもてる組織が、もたない人間に刃を向ければ、向けられた人間がどう正論で対抗しようが、ひとたまりもない。
だからこそ、刃を合法的にもてる組織をどういう仕組みで縛っていくかは、現行法(憲法)をかえて軍隊を正面から認めようとするときは重要不可欠な課題である。

憲法9条の改正、防衛に関わる現行法の改正、解釈の拡大に関して、もっとも防衛に力を将来的にもつであろう(現在でもかなりだけれども)議員は、石破議員(元防衛庁長官)であろう。久間防衛庁長官も力を持っているが、私は彼は防衛庁の中でも事務系に近い存在と思う。
それに対して、石破議員は、かなり制服組(実働部隊)に近い議員である。

彼のことで、気になるのは、「制服組も政治的発言を大いにすべきと」いったり、「私は自衛隊を員を信頼している」、「徴兵制は現憲法でも可能だ」(もっとも今現在は徴兵制採用しても一般人は戦力としてはむしろマイナスだから、いまは採用しないのとべてはいるが)という発言からかいまみえる人物像だ。

彼はタカ派議員の中では、数少ない、法的整合性(法的思考はそれなりにとりいれて)は重視して意見を述べる議員である。
考えとしては反対の立場である私も、この点については彼を評価している(もちろん、法的見解には反対だが)。
立法機関の議員でありながら、これができない議員のなんと多いことか。
憲法改正を叫びながら、今の憲法すらまともに理解していない(それどころかどういう条文があることすらしらない)議員という名の先生方が、冗談ではなく憲法論議加わっているのがまぎれもない現実である。
それに比べれば、かれはまだ立法議員の資格はあるといえよう。
問題は、彼が軍隊の政治に対する影響力をほとんど意識していない点だ。
軍というものにシンパシーをあまりにだきすぎである。

法(憲法)の役割は、いうまでもないことだが、暴走しがちな権力をいかに縛っていくかにある。
そこでは、性善説でものごとを決めない仕組みになっている。
だからこその権力分立である。
個人的にあるものを信頼する自体は、一概に悪いことではない。
しかし、行政(軍隊)の監視役を担う立場の人物がそれでは困る。
組織の監視役の責任も持つものは、手ばなしに組織を信頼すべきではない。
手ばなしで人や組織を疑わずに信頼することが、よい人間といえるかは、ものごとによってである。
シビリアンコントロールを果たすべき役割の人間が、組織をシンパシー的に信頼するだけなら、それは単に自分の役割に無責任なだけである。
性善説にたつことなく、シビアに文民統制の観点から暴走を防ぐシステムを図っていくことは、防衛問題に関わる議員の、重要な使命でもある。

議員あるいは行政の人間として、文民の立場で防衛に関わる者は、軍隊の対外的役割、ことに交戦時のことばかりに力を注ぐのではなく、軍事組織が政治的に介入しないことにも、同時に力を注がなければならない。
政治に携わるもものが、それを怠ったとき、簡単に立憲民主主義国家は崩壊することになる。

世界の多くの国で、軍隊に関わる組織が政治大きな影響力を持っいることはまぎれもない事実である。
それらの国に比べれば、今の日本は(まだ今現在は)まだそれなりにシビリアンがきいている。
そんななかで、軍隊(特に制服組)に、形式上はともかく実質的に政治的力をもたせる抜け穴につながるような憲法改正を目指すのなら、憲法改正などすべきではない。
ましてや、今現在において、シビリアンコントロールをはたしていくべき人間が、積極的にむしろそれを放棄することにつながるような発言をけしかけることは、論外である。

とにかく重要なことは、ある組織にそれまで以上の力を持たせることをめざすなら、その力を好き勝手に使わせないことも、同時に考えていかなければならないということである。
これは、物理的力を持つ組織をかえていくときには、避けて通れない問題である。
民主国家においては、国家の内政が、軍産複合体の意向にひっぱられて政治が利害関係で一心同体になったときが、その国はもっとも危険な状態にある。
それが、イラク戦争時のアメリカである。
防衛問題において、そうならないようにすることが、政治の重要な役割といえよう。
それを踏まえて、今の自衛隊を本当にかえていくべきか(行動の範囲の問題も含めて)、その観点も含め憲法改正(9条)の問題も論議されるべきであると思う。
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# by phtk7161 | 2006-10-13 17:27
昨今の、日本の政治における最大の問題点は、ものごとを決定する過程での、その思考のやりかたにある。
そこでは、物事の決定思考が、○か×かの2者択一式である。
これは、政治的意思決定の方法としては、もっとも愚かな思考法であるといえよう。

政治はそもそも、数学的論理でやれるものではない。
政治の本質は、過去の歴史から経験則をみにつけ、それをふまえたうえで、多様な意見のもとに、いい意味での妥協的案を見出していくことにある。
それがない政治は、たんなる原始的な物理力のみのバイキング型政治に堕するだけである。
立憲民主主義制度に参加する国民は、少なくともこのことは理解しておく必要がある。

政治にスーパーマンやジャンヌダルク的ヒローを求めることは、常に危険がつきまとう。
一人の政治家によって、彼が常に正解をだせるとしたら、それはまさに彼が神であったときだけだ(もっとも、ギリシャ神話においては、その神も感情的決定をなすこともある)。

今の現代社会において、もっとも求められるべき政治家像は、多様な意見を合理的方法でなるべく迅速に把握し、妥当な妥協案(おとしどころ)を決定していく能力である。
これができない政治家がふえれば、核がはびこる今の状況では、いずれはどこかでまた大戦がおき、結局焼け野原の結論をだすことになろう。

アメリカは北朝鮮の核実験にさいして、「同盟国を守るためなら」という表現を使った。
今のアメリカの頭には、国連はもはや二の次であって、国連とは別の、同盟国(有志連合)による同盟国のための、その実アメリカ国益最優先のための、国連構築の構想があると思われる。
派閥ができることは、どの世界でも当たり前のことだし(三人よれば派閥ができる)、それ自体はさして悪いことではないが、同盟国という名の派閥の親分が暴走してしまうと(少なくともイラクはそうであった)他国は巻き込まれるだけで、一方的に自国の運命をあずける事態になってしまうだけある。
そこでは、他の国には自国の利益もへったくれもない。

今のタカ派的日本の政治家は、日本がアメリカの意向に沿ってアジア領域の軍事的先発隊になることに、ある種の感慨(親分にほめられてよろこぶ子分)をもつ人物が多いように思える。

少し前まで、戦後の日本の政治家は、アメリカは同盟国(子分的立場であることは認識しつつも)といいつつ、いい意味での曖昧さを駆使して、軍事的トラブルを避け、経済政策を優先し、国民の生命安全を図ることを行ってきた。
日本の歴史的経緯、地理的立場からみても、そのことは最善ではないとしても、少なくとも間違った政策ではなかったといえる。
そこでは、先に述べた、いい意味でのおとしどころを、見つける努力がおこなわれていたといえよう。

そのことから考えると、昨今のタカ派政治家は「軍事ごっこ」の危険なお遊びに手を染めすぎている。
テレビのヒーローもの、戦争ドラマ、あるいは育った極端な家庭環境などに影響された戦後政治家、そうでなければ、はたまた戦争にいくつもりが、途中で戦争が終了し、はしごをはずされた、燃えカスの野残った軍国少年的政治家。
彼らが、タカ派政治家の典型的なものである。
彼らに、おとしどころを心得た、優れた政治家の要素はもとめるべくもない。

9・11後のアメリカは、間違いなく壊れている。
イラク戦争の反省もあり、いくらか戻りつつあるが、少なくともネオコン的人物が、政治の表舞台からは去らない限り、まともさを取り戻したとはいえない。
そのことを踏まえ、アメリカが今現在どういう質の国家なのかきちんと把握しないまま、日本が集団的自衛権を認めることになるなら、日本は戦争という大きな危険へ一歩ふみだすことになるであろう。

今世界で、人種や宗教、あるいは政治思想に起因する戦争が頻発している。
この問題の解決するには、物理的「力」だけではなしえない(イラクはまさにそれを証明したし、パレスチナ問題もまたしかりである)ことを私たちは認識すべきである。
それを解決するのは、○×的な100パーセントの結論ではなく、多様な意見をつき合わせより良く練られた、妥協的70パーセントの結論である。
それが、現代の政治のあるべき姿である。
そして、それができる能力こそが、今の政治家にもっとも求められるべきものであると思う。
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# by phtk7161 | 2006-10-12 10:26
昨日北朝鮮で核の実験が行われたようだ。
日本も新たな経済制裁などの動きをすると思われる。
ただ、正直いって、日本としては核抑制に効果があげられるような手段はあまりないのが現実だと思う。
北朝鮮はアメリカしかこの問題の相手としてみなしていないからだ。

日本の国民が理解するべきことは、いくら日本だけで「悪の北朝鮮をこらしめろ」といってみても北朝鮮問題にかかわる他の韓国、中国、ロシア、アメリカが連携した動きでなければ、国内での自己満足で終わってしまうということ。

安倍慎三首相は北朝鮮の核実験後の記者会見では、生き生きした目だった。
これが怖い。
もしこの問題で、彼が正義のヒーロー的ノスタルジーにひたって動きをするなら、かなり防衛問題にリンクさせて、強引な動きをすることもありうるだろう。
しかし、この問題で重要なことは、「どう国民の生命を守るか」ということであり、いたずらに危機意識をあおりたて、国民を戦争不可避のような錯覚に陥らせてはならない。
何が問題のポイントか理解し、どういう解決がよいか、そのための妥当な手段を考えていくのが重要である。

そもそも、北朝鮮の動きに拍車がかかったのは、イラク戦争が大きな原因だと思う。
先制攻撃的自衛権とやらの「イラク侵略」があったために、北朝鮮のような独裁国家は「核をもたなければやられる」と思いに強く拍車がかかった。
さらに、アメリカの金融制裁。
その結果の、核実験ともいえるだろう。
したがって、この問題の一番のポイントはやはりアメリカである。

北朝鮮はまともな経済政策ももたない幼稚な国家だが、プライドだけは高い。
こういう国家の扱いは確かに難しい。
仮に崩壊(軍事的手段によるよらないにかかわらず)させることができたとしても、北朝鮮の問題はむしろそこらが、本番だといえる。
北朝鮮国家の再建のために、経済的な問題や難民の問題は避けて通れない。
日本も相当の費用の負担と、在日の人がすでにいる以上、かなりの難民、移民の受け入れをもとめられるだろう。

そうなったとき、日本はどうするのか。
中国、韓国、ロシアなどは、崩壊後のありかたが、各自の国家に大きな影響をあたえるために、この問題で慎重な動きをとっている。
これは、ことが隣接している国家の問題である以上当然のことといえよう。
日本にとっても、当然今範疇に入れておくべき問題のはずである。
この問題意識をもたずに北朝鮮の問題を考えても、意味がない。
しかし日本の多くの政治家は「たおせ、こらしめろ」だけが眼中にあって、その先のことをあまり意識していないようにみうけられる。

アメリカは、自国にミサイルが届くことも考えてはいるだろうが、そうだとしても国家間はかなり離れているわけだから、崩壊後の面倒は先の国ほどではない。
ある意味軍事力の行使はわりと「やってもかまわない」的立場である。
ただ、イラク、アフガン問題が苦戦し、パレスチナ問題も混迷をふかめているだけに今北朝鮮をやるのは「めんどくせえな」といったとこだろう。
その程度である。

安倍政権は、この問題にはどうも、アメリカの軍事力にすべてたよって、その点から処理していこうという発想が、その中心を占めてるようにおもわれる。
それに乗じて、国内の防衛力を整備し、本格的軍隊をつくっちまおうという意図は大いにあるだろう。
しかし、すべてアメリカとともにでいいのか。
そのプランにのっかって軍事攻撃した場合の過程ではどういうマイナス(生命、財産)がありうるのか。
崩壊後はどうするのか。
もっと多角的に考えていくべき問題である。
選択肢をせばめることは、もっとも愚かなことだと思う。
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# by phtk7161 | 2006-10-10 11:52