社会問題を考える


by phtk7161
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堀江貴文元ライブドア社長が東京拘置所に収監された。

ライブドアが企業買収を積極的に行い堀江が時代の寵児ともてはやされ、特にニッポン放送買収劇では本丸であるフジテレビを巡って騒ぎとなったことはまだ記憶に新しい。

彼に対する評価は人により極端に分かれよう。「新しい時代を象徴する人物」だと評価する声もあれば、「金がすべて」「ゲームまがいの金儲けで品性にかける」と酷評する声もある。そういう彼が検察に逮捕された。

堀江が有罪となった証取法違反(有価証券報告書虚偽記載)について、彼自身はあくまでルールの範囲内であり、それまでの事件と相対的に見れば有罪にはならないと考えていたようだ。しかし事件の内容見る限り要件は満たしている。犯罪それ自体の成立はやむをえないと思う。

        ☆          ☆          ☆            

問題があったとすれば、堀江に対する捜査がそもそもある意図をもった「狙い撃ち」的捜査ではなかったかという点である。民主党政権に対する検察問題もそうだが、この事件もまた既存の序列システムを変えようとする者に対し、検察が既存の側の利益を守るため強烈なアシストをしたようにみえてならないのである。

憶測になるが、どうも検察には戦後長く続いてきた制度の維持を一つの秩序とみなしこれを変えようとするものを社会的害悪とみなす体質があるように思う。

検察が例外的に変革者を許すケースがあるとすれば、既存のシステム側がとんでもない社会的害悪を生じさせたときだけである。しかし現実にそのレベルの被害が生じない限りは、検察は既存のシステムに対する批判・変革は「害悪」とみなし、場合によっては批判・変革をおこなった(あるいはおこなおうとしたもの)に対し検察権を発動するのである。これがはたして社会正義といえるのか。

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ただ私自身も、ライブドアや堀江に対してあまりいい印象をもっていない。

ライブドア成長の鍵となった「株式分割」をくりかえすその手法も、「株式分割」本来の趣旨を大きく逸脱していると思うし、あるいは株式の「時価総額」をより重視する考えも、所詮は数字的マジックにすぎない・・・現実に保有する株を大量に売れば株価は大きく下がる、すなわちその時点の時価総額は本当の意味の現実的時価総額ではない。

その意味では、彼らは一種の「虚業」企業(家)であり、摘発につながった「粉飾」決算にしても、そういった体質が出たとも言えなくもないのである。

しかしそれでもである。どうにも堀江に関する司法的動きには釈然としない。既存のシステムにいる企業の中に、レベル・質的にかわりないルール違反を犯しながら、見逃されたケースがある(日興コーディアルに関する粉飾的問題など特にそうであろう)からである。

堀江(あるいはライブドア)はアウトだが、日興はセーフ。両者の差はどこからくるのか。もしその違いが、既存の序列シムテムにいるものといないものとにあるとすれば「法の下の平等」はどうなるのか。それ以前に、日興のケースを見逃す(起訴しない)ことになれば、本来守られなければならない「公的公正な利益(経済市場のルール)」の保護はどうなるのか。これはそもそも「社会的正義」ではないのか

その意味では、ホリエモンの事件を思うとき、検察のいう「社会正義」とやらも、一皮むけば単なる社会的強者擁護(既存のシステム保護)のための「詭弁」に思えるのである。
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# by phtk7161 | 2011-06-24 00:28
今回おきた原発事故は、これまで権威でごまかされたきたものがもはや通用しなくなったことを示すものだ。原発事故前・事故後のいずれにおいても、権威者の無能ぶりは今回十分に証明されたといえる。

原子力安全委員会しかり、保安委員しかり。これまで学者や官僚の存在は、その経歴を能力と同等なものとみるいわば「看做し社会」のなかで「権威」化され、政策遂行の有力な根拠材料となってきた。数々の諮問員会もその形態のひとつだったといえる。

今でも学力神話は根強いものがあるが、団塊から私たちの世代(60~40代)はさらにそれへの信仰は強いものがあったといっていいであろう。まったく馬鹿げたことだが、難関大学に合格するとその人格まで比例して扱われた時代もあった。ドラマ「翼をください」や「ふぞろいの林檎たち(一番最初のもの)」などもまさにそういう時代背景を描いていたように思う。

当たり前のことだが、私たちの社会には世界ごとに多種多様な問題が存在する。そこでは解決に必要とされる知識や経験も、その世界ごとに様々である。すべての分野の問題を解決できる、あるひとつの絶対的万能な能力というものは存在しない。試験的能力も確かにひとつの能力だが、所詮はひとつの世界の能力にすぎない。

ところが私たちの社会は、このことを真正面からとりあげてこなかった。予定通り進めたい政策がある時、学問的・専門性(官僚組織)的背景に彩られた権威主義を利用することで、重要な問題をごまかしてきた。そこに万能的一つの視点を重宝し、多元的な視点をめんどくさがる社会的風潮があったことは否定できない。その絶対的万能的視点が、学歴的権威主義だったともいえる。

原発の問題に限らず、これまで様々な分野で、問題の本質を見据えた声は存在してきたが、権威主義のなかでその声はかき消され、私たちは本質を見極めることから遠ざけられ、あるいは遠ざけてきた。その結果をはからずも原発事故は示すこととなった。

表紙的飾り(権威)から中身(解決能力)へ。表紙にすがるな。中身を見る努力を。それが今回の事故の教訓ともいえるだろう。
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# by phtk7161 | 2011-06-16 21:51
ここまで原発の問題が深刻な状況になったのに、それでも東電をはじめとしてなお原子力発電を推進する意見が強気でまかり通るのはなぜか。

一番の理由は、原発に大金が絡む(原子力エリア的一種の経済構造)からだがここにいたってまでそれを推進派がなお根拠として言い放つことができるのは、原子力の被害は一定の長期の時間が経過しないと、目に見えた形で分からないことが大きい。

もし原発事故が起きて数か月で被害が目に見えた形ででれば、世論もその危険をある意味具体的に認識できるから、当然原発停止の声は大きくなる。そうなると今のように地方の経済(産業の少なさ)的理由を根拠に原発推進を強気で唱えることはできないだろう。しかし被害発生の長期特質が、そういう主張を許容してしまう。本当は今の段階からでも、長期間経過した後の健康被害に備え、被害者救済のための行政対策や立法をやっておく必要がある。

菅政権の後、誰が総理になっても今の政権以上に原発推進の動きは(潜在的に)進むことになるだろう。発送電分離の話もいずれは立ち消え(仮にできてもほとんど東電に影響のない形で)になる。結局東電を頂点とした我が国の、電力構造はなんらかわらないままだ。

こうして東電をめぐる政官民の癒着構造は、健康被害認識の長期的特質にたすけられ続くことになる。そしてこれは大手メディア(特に読売・フジサンケイ系)と保守的政治家の望む形でもある。

まさに原発は、彼らの利益維持のための必要不可欠な、金のなる木であり軍事的原材料なのだ。原発被害の認識に時間がかかる・・・目に見える被害が阿出るまで・・・のをいいことに、彼らは都合の悪いことに目をつむったまま愚かな行為をくりかえすのである。
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# by phtk7161 | 2011-06-09 19:05
今回の不信任提出の罪の重さは、今の災害状況を無視し提出されたことにあることはいうまでもないだろう。原子力対策と復興が何よりも急がれるこの状況下で、こういことをやってしまう。これは今の自民・公明の質の劣化をなによりあらわしていると思う。

地震の被害が未曾有の規模だとわかった時点で、私は少なくとも与野党一致してことに対処すると思っていた。ところがそうならない。政府に仕事をさせないすなわち復興を妨げる行為が目立つ。そしてあろうことか、民主党内にも同じ行為をする政治家がいる。前回の代表選から半年もたたずに、あいもかわらずだだをこねまくる。いったい何のための代表選だったのか。

          ☆         ☆         ☆

不信任を画策した政治家たちが「どうしようもないな」と思えてしまう最大の理由。それはなんといっても、菅を辞任させたとして、そのあとのトップや政治の枠組みも具体的に示さないまま、不信任を提出してしまったその愚かさにある。

解散権が事実上使えないことを見越してそれにつけこみ、しかしその一方では対策が遅すぎるといっていながら、自分たちは迅速に進めるために必要なイロハの基本的形すら、提出に際しても示さない。いったい彼らはどの面下げて政権批判をしているのか。ここまでくると、こういった連中の行為はある意味犯罪に近い。
      
今回の災害は、阪神以上に被害が大きく、そこに原発の問題がのしかかかった。はっきりいってこういう状況では、誰がやったところでそう簡単ではない。前回にも書いたが、一種の学習をしながらやっていくしかないのだ。

抽象論なら何とでもいえるだろう。しかし結局自らトップでやってみたら、具体的な問題がいろいろでてくる。結局トップの頭を変えたところで、それがよかったかどうかもわからない。なら、ばかげたトップ争いや、そのために生じてしまう利権配分のごたごたを考えれば、政治空白をつくらずすいうしょうもないことが避けられるだけ、まだ現状維持のほうが何ぼかましである。

         ☆         ☆        ☆  

それにしてもだ。このところの「菅おろし」は異常である。被災地の現実を目の前にして、どうみても正気の沙汰ではない。もともと菅おろしをやっている連中はイデオロギー面で違いがある。しかしそれだけでここまでやるとは思えない。もしこの時期ににそれだけが理由でやるなら、ただの馬鹿である。また鳩山や小沢は感情面で「嫌菅」であろうが、だからといってこれまたそれだけでこういううごきをしたなら、やはりただの馬鹿である。

となると、何が一番の理由だろうか。

こういった動きに拍車がかかりだしたのは、どうも原子力の推進に待った(浜岡停止の決定からとみに)がかかった頃からのように私には思える。野党だけでなく鳩山・小沢サイドもどうやらこのころから動き出したように思う。となるとどうも原発推進をこれからも進めていきたいこれが一番の理由のように思える。菅おろしの理由がもしそうだとすれば、これほど罪な行為はない。

原子力にひとたび大きな欠陥が発生すれば、国家として大きなものを失う。今回の出来事はまさにそれを証明した。現に日本の農作物のブランドは、まともにみれば国際的にみて地にちてしまった。

そんなことはないと思うのなら、ちょっと考えてみればいい。

今回の原子力の被害がもし他国で起きたとするなら、その国の農作物(あるいは魚類や肉まで)を私たちは買っただろうか。農薬にも神経を使っている日本である。進んで口にする人はそう多くないだろう。儲けのために知らない他人に食わせる商売人はともかく、家庭ではかなり敬遠されたはずである。そう考えていくと、これからの日本の農作物はどうみても対外的に経済を向上させる武器にはならない。原発事故は一瞬でこういう結末をもたらしてしまうのである。

すでにある原発をどうするかはともかく、新たに原発作ることを見直すことはだからある意味当然の理屈であるし、既存の原発を存続させる場合には、安全性をよりより高度なものにしていくことはいうまでもない。地震国と原発の関係が本来不適合なものであることは、もはや疑いようがないのである。そういうなかで、「菅おろし」の一番の理由が原発にあるとすれば、これはもう国家としての自殺行為に等しい。

点で「原発=金のなる木」思考に染まりまくり、線の「国家を破壊しかねない多大なるマイナス」の視点をもてない政治家による菅おろし。イデオロギー・感情的理由も含め、いずれにしてもこういった連中は、きわめて罪の重い犯罪者的政治家といっても過言ではないように思う。
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# by phtk7161 | 2011-06-04 06:10
横粂勝仁衆議院議員が離党を宣言した。彼なりにいろいろ考えた末の行動なのだろうが、やっぱり「幼い」という感想しかでない。

良くも悪くも議会制民主主義は最終的には数で決まる。そして今の小選挙区制においては多くの有権者は議員個人よりも「党」に対して投票する。前回の衆議院選においても「政権交代」という目的をもって、有権者は党としての「民主党」の看板を掲げた議員に投票したといっていいであろう。

党として政権を任された場合、重要なことはなにか。それは過程ではいいろいろあっても最終的にはまとまって「党」として行動するそれが重要である。今の民主党の代表は、代表選で選出され首相である「菅」である。いかにごたごたしても最終的には党の代表に選出した以上、その形でまとまるしかない。

どういう政策であれ、不満があっても党としてまとまって何らかの形をだす。そしてその評価は次期選挙で有権者にゆだねる。それが政権党というものの本来のありかたである。

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そういった意味では「菅おろし」に策走する議員など、政権党の議員としての「イ・ロ・ハ」の「イ」も理解できない、ただの「お騒がせ屋」にすぎない。この「イ・ロ・ハ」の「イ」がなぜ理解できていないのか。あるいは理解していてもなぜまとまった行動がとれないか。その原因はやはり小泉スタイルの後遺症にあるように思う。メディアでいかにもの改革者を印象付けるスタイル。小泉は天分でこれをやれたから、彼の人気は維持された。

しかし国民に幻想をいだかせる天分(もちろんいい意味ではない)は誰にもあるわけではない。才能のないものが無理にこの改革者(幻想的)を演じようとすれば、余計にたちが悪くなってしまう。挙句の果てが政治経験間もないままでの離党宣言ということになる。

小泉がとった政治スタイルは、本来のあるべき民主政治の形ではない。それはアメリカの大統領もそうである。この形は、パフォーマンス優先で多元的意見の集約などなどできない。むしろこのスタイルは在野のほうがふさわしい。

横粂議員も彼の個性を打ち出して社会を変えたいと思うのなら、議員などやめて在野でやるほうがいい。そうでないと議員である間は、単なる時間の無駄遣いになってしまうと思う。特殊な実力やカリスマ性・・・いい意味でも悪い意味でも・・・のない限りは議員の本質は、「ただの数のひとつ」にすぎない。

       ☆        ☆         ☆

民主政治の普遍的形は主権者たる国民の意見を集約し、議会で多数意見を中心にそれに少数意見の修正を加えた法案をつくりそれを政府がそれを実行するそれが本来の姿である。

いろいろな立場の国民がいる以上、当然政治には誰しも満足する「正解」などあるはずがない。さまざまな意見を調整し一つの形をつくりだしていく、それが政治の役目である。そこでは過程ではごたごたしても最終的には「まとまった形を作り出すこと」それが重要なのだ。

めいめいがいつまでも評論家きどりに好き勝手にやっていては、政権党の議員とは言えない。不満があっても党としてまとまるときはまとまる。それが国民にどうけなされようと、とにかくひとつの形をつくりだす。それが、政権党の議員であるということなのである。今の民主党の最大の問題点は、そのことを理解できていないことにある。
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# by phtk7161 | 2011-05-24 13:25
福島原発の放射能漏れの問題。この問題の対応にあたって政府を批判する向きもあるが、それは現実の状況を過去からさか上って分析する姿勢を欠いた、無知な行為に過ぎない。

いわく「初動時に米軍の申し出を政府が断ったけしからん。」

でも考えてみてほしい。事故発覚後初動時に現場で対応していたのはどこか。少なくとも福島原発に関して事故解決の能力をもっている組織はどこか。それは東電をおいて他にない

東電は原子力について科学的知識(事故解決能力の)は政府以上に以上に長けている。少なくともそういう図式のなかでこれまで長年原子力は推進されてきたのである。またそうでなければ原子力の推進など絶対やってはいけなかったはずである。今度のことで一段と評判を下げた保安院の安全へのお墨付など、東電優位のなかでの完全なできレースにすぎない。

その能力にたけているはずの東電が「米軍の支援は必要ない」といった。つまり自分でできるといったのだ。もしこの時点で政府として東電は信頼できないとして、東電の意見を無視すべきだったとするなら、ならいったいなぜ「長年政府はその程度の能力の東電に原子力をまかしていたのか」ということになるはずである。

だから当初東電の意向にそった決断を政府が下したことは決して非難できない。その後菅は短期で東電体質をみきった。そのことは東電の撤退姿勢を罵倒したことにあらわれている。見切るまでの期間としては決して遅すぎたとはいえないだろう。

またいわく「菅が事故後すぐに視察にいった。けしからん。」

これなどまさに軽薄意見の典型である。行かなかったら行かなかったで「なぜ現場もみずに対応にあたったのか。事故の重大さへの真剣味がたりない」。どっちみちけなすための言葉は用意されている。つまりためにするせりふである。

この手の論者は「視察で原子力の対応が遅くなった」とのたまうが、事故は当初の号機だけで起きたのではない。菅の視察後も別の多くの機で次々とトラブルが起きている。どう初動しようが、連続して深刻なトラブルは結局発生したのである。その意味で、福島第一原発の事故については、「初動がうんぬん」はあまり説得力をもたない。

今回の事故では「これが正解の対応」は、だれがやったところで(たとえアメリカでもだ)存在しない。「おきてしまったら、正解のない未知のトラブル」それが今度の問題の本質である。そのことを理解できなていない「無知」な輩が、「初動うんぬん」をほざくのである。たとえ机上で事故後の対応をこれが正解だったとどう論理をつくったところで、それは完全なるうそである。

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結局今回の問題点は、東電の「論」をそのまま支持し(維持してきた)、隠蔽体質をもつこの組織に原子力の安全を丸投げしてきた政府とそういう政治を許容してきた私たち自身(政権党・国民・メディア)の甘さにある。

ことにその中でも、長く政権を担当してきた自民党には今の政府の対応を批判する資格などこれっぽちもない。自民が原子力について政府対応を批判するならそれこそ天に唾する行為である。実際東電を今のような体質の組織にしてしまったその責任は免れない。と同時に責任は「そんなことはおきない」とたかをくくりごまかしごまかし原子力の危険を見逃してきた、私たちにもある。

だから私は、今回の原発トラブルの対応に関して、決して政府を批判しない。被爆国でありながら、長年にわたり将来の危険すら見抜けなかった者(政府・政権党・メディア・国民)に、もっと高度な問題である「危険発生に対する対応の正解」などだせるはずがないではないか。今となっては、一種の実験的試行錯誤を繰り返す中で、沈静化をめざしていくしかないのだ。

もし今度の問題でどうしても正解を求めたいなら、それは唯一「地震国では原子力はむかない。でもどうしてもやるなら導入時これでもかこれでもかというあきれるくらいの安全を確保するシステム(政治を含めた)づくりをすべきだった」ということしかない。

初動だけの検証など全く意味がない。検証は過去のことも(どうして東電がこういう組織になったのか、どうしてそれが許されてきたのか。)あわせて同時に平行してきっちりやらないかぎり、それは何の意味もない無知なごまかし(インチキ)にすぎないである。
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# by phtk7161 | 2011-04-09 01:03
延坪島でおきた北朝鮮の砲撃は、近年にない緊張感を朝鮮半島にもたらしたことは間違いない。なぜ北朝鮮が今回の暴挙にでたのか。砲撃の直前に行われた領海をめぐる争いがある領域で行われた米韓の演習。これに対する報復攻撃を北朝鮮は主張しているが、仮にそうだとしても、その報復内容はあまりにも愚かすぎて話にならない。

砲撃は北朝鮮に何をもたらすか。日・韓からの援助はまず絶望的になる。人道支援の名目でもまず行われないだろう。米国との対話はどうなるか。これも早々には実現しないだろうと思う。

確かにアメリカとの直接対話を、今の北朝鮮が状況の一番の打開策として望んでいることは間違いない。これが実現しないことに北朝鮮が相当な不満を持っていたことは確かであろう。しかし核問題で過去信頼を裏切った北朝鮮に対して、核の放棄を前提しない限り米国が直接の当事者になることはまずありえない。北朝鮮は東アジアにおける最大の問題児国。この国をめぐる問題の第一の責任者には、それに値する見返りが得られない限り、誰もなりたくないのは当然である。

          ☆              ☆               ☆

今のところ北をめぐる問題の第一の責任者は中国になっているわけだが、実際中国も今回ばかりは困り果てていることと思う。隣国に民主国家を置きたくない事情。あるいは崩壊した場合の難民をめぐる問題から、中国が北朝鮮の保護者になっている最大の理由である。

しかし一方で、経済大国になるにつれ、自国への国際的評価も気にせざるをえない。そうでないと、ある分野では後進国のままで、次の段階には進めないことは中国もわかっている。だから、ほえるだけなら大きくほえてもかまわないが、物理的行使は大きなトラブルにならないない程度に、それが北に対する中国の本音だろう。

この立場にある中国に対して、今回の砲撃は中国の顔に泥をぬった。当然中国の北に対する心象もおだやかではないだろう。中国の北に対する信頼は間違いなく低下したといえる(もっとも、これは中国の自業自得ともいえるのだが)。

いずれにしても、こう考えていくと砲撃で対外的に見て北に得られるものはない。それでも砲撃をしたわけだ。

北の政治における幼児性にさらに拍車がかかりだしたのか。あるいは砲撃してまで緊張感をつくりださないと、国内の統治ができない状態まできているのか。

もしこれが存外狡猾的策といえるとしたら、それは日韓からの援助をあきらめた北が、中国の足元をみて(中国の北崩壊に伴う弱みを見抜いた上で)その保護者性を強めさせ、中国からの援助をより莫大なものにするためだったケースくらいであろう。それでもリスクが高すぎる行為である。      
            
              ☆            ☆            ☆   
 
結局砲撃は、感情(非政策的)的行為なのか、論理(政策)的行為なのか。前者なら前者なりの、後者なら後者なりの対応があるが、こればかりは、北でこの決断に直接かかわったものたちにしかわからない。中国ですらわからないと思う。そこにこの問題の対応の難しさがある。

北の本心がわからないなか、砲撃をうけた韓国国民。この現実のまえでは、当然ながら国民は覚悟を求められる。なまなましい現実・・・攻撃による惨禍・・・を受け入れる覚悟である。言動ひとつひとつにそれなりの覚悟が必要となる。

ひるがえって、日本の世論。尖閣問題で政府の対応を非難する日本の世論であるが、世論に上記のような覚悟はできているのだろうか。

攻撃的政府を望むのなら、極端な場合砲撃さらにはミサイルの現実。そのためにおこりうる被害。家が破壊され物価があがり税も上がり年金も減る。勝とうが負けようがいずれにしても交戦になれば相当な被害はさけられない。あるいはそこまでいかなくとも、本気で中国とやりあのなら、少なくとも貿易低下による経済的面での相当な生活低下は確実なものとして覚悟しなければならない。

           ☆              ☆              ☆  

今回の尖閣問題で、政府は国民は本気でマイナスを容認するほど覚悟決めていないと判断し、平和的に問題の軟着陸化をはかっただけである。そのためにリスクを高くしない対応をしただけである。

それがいやだと、世論は言う。ビデオを流出を国家の益であり、それが優先だというのだ。それならそれでいい。ただ仮に政府がもしそれ(世論)にしたがって・・・たとえば船長釈放時政府によって積極的にビデオを一般公開すること・・・大きなマイナスが発生したなら、それはもはや国民自身の責任である。政府の責任ではない。

感情的に「中国に正義を叫べ。だけど生活にマイナスを与えるな」どこの馬鹿がいうことか。今の現実なら「中国に正義をさけべ。生活に大きなマイナスがでてもかまわない」それが正解であろう。そしてそれが外交における政治の等身大の現実である。尖閣問題で政府の対応を批判するメディアと野党の政治家そして世論は、そのことから目をそむけている。覚悟もないまま、ただマッチポンプのようにことをあおっているだけなのである。
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# by phtk7161 | 2010-11-29 03:35
漁船衝突ビデオ流出のメディア・世論の捉え方をみていると、また悪い癖が始まったなと思う。

「国民には知る権利がある」。馬鹿の一つ覚えみたいに、これだけをよりどころに、流出が正当だと擁護するその姿勢は、まさに「衆愚」の典型である。

その人が「衆愚」の「愚」かどうか。その分かれ目は、そう難しくはない。

物事を考えるとき、できるだけその背後にある事情を的確捉え、対立する利害がある場合には、その双方の根拠をよく斟酌して、総合的にバランスよく考えていく。それができているのであれば、どんな立場のひとであれそのひとは「愚」ではない。逆にそれができていない人は、どんな専門家であろうと「愚」といえる。

      ☆             ☆             ☆                   
                            

「なぜ船長を釈放したときにビデオを公開しなかった」という声がある。しかし時系列で考えてみればわかるが、その当時、中国では邦人拘束がおきていた。またレアアースの動きもあった(これ自体の動きは以前からあったのだが、このときはそれに拍車かける流れとなりそうだった)。

この状況でビデオを公開したならどうなるか。「ビデオを公開していれば中国は対抗措置をとらなかったはず」という、意見をのべた政治家もいたようだが、これは相当におめでたい。悪い意味で「プライド」の高い中国である。前回も書いたように、拘束を含め対抗措置はよりいっそうきびしくなったはずで。日中関係は硬直化し泥沼化した危険性は高かったといえよう。

主権国として、事件そのものを否定することは、絶対やるべきでないのは当然のこと。だからもちろん、領海侵犯と公務執行妨害の事実については、政府は中国に対して譲らなかったし、国民にもその事実をしらせた。ただそれと、その後の外交の処理の現実はまた別問題。

簡単にこいつは「悪い船長」。だから刑事訴追して罰する。ビデオもバンバン日本のみならず、世界にむけて流しまくり、中国を非難しまくる。結果主権国の威厳は守られた。万歳、万歳ですめばいいが、外交はそんな簡単に「善悪」が通る世界ではない。相手がたちがわるければ、その利益にみあわないマイナスの害も生じるのが外交の現実である。

ビデオ公開で得られる国民の「知る(見る)」利益とそのために起きかねない対中での現地邦人の安全と経済的リスク。この両者を比較すれば。どちらをとりうるべきかは一目瞭然である。

ビデオの公開は自体の推移を見守りながら、政府の裁量に任せる。菅政権は、一般公開により得られる利益は対中外交でおきかねないリスクと比較して見合わない。そう判断した。まさに当たり前のことである。

         ☆           ☆            ☆

その当たり前のことがなぜ理解できないか。

それは物事を具体的に考える思考が欠落しているからである。
裁判員制度は私が思ったよりは、妥当な形でなされている。たとえば俳優の保護者責任遺棄致死事件では、結局致死責任は認められなかった。この裁判をめぐって、私が印象に残った一人の補助裁判員の話がある。

彼はいった。「飲み屋で一般の人の話を聞いていると、事件についてよくわかってない。ずいぶん好き勝手にいっているように思えた」という話だ。ちなみに補助裁判員でも、事件の資料には目を通している。

双方の主張をよく勘案し、どんな判決が妥当なのか。そうして考えた末の判決が裁判員の「致死までは認めらない」という結論だった。

もし裁判員が、資料にも目を通さず、詳細を把握しないまま、ただただ水戸黄門的「善悪」だけの感情で結論をくだせばどうなるか。結果はいうまでもないが、これとまさに同じことをやっているのが、今の流出肯定者である。

     ☆             ☆               ☆               
 

ビデオの一般公開でもたらされる利益と失う利益。対中外交のことだけにとどまらない。一般論としても、一種のシビリアンコントロールに類似した問題。物理的権力組織の命令違反・情報漏えい的行為がどういう弊害をもたらすのか。あるいは自己の公的職務を忠実に遂行しない、その公的職軽視の姿勢。そこまで含めて考えなければならないのが、今度の問題である。

そういった意味では、見事なまでの衆愚の「愚」に堕した行為をおこなった人物、それが今度の流出者の本質といえよう。そしてそれと同じなのが、ビデオ流出を肯定する世論とメディアなのである。
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# by phtk7161 | 2010-11-11 23:56
前回と同じく、今回も尖閣のビデオ映像流出について書く。

ビデオ流出についてこれを肯定的にとらえている意見には、正直首をかしげたくなる。

たとえば「国民の知る権利に資するものであり、映像流出は評価されるべきだ」という意見。しかしこれなど、一面からしか物事をみていないように思う。

中国漁船の海保の巡視艇への衝突はすでに明らかにされた事実である。細部の事細かな点はともかく、衝突行為が公務執行妨害に当たるという行為だったということは明らかにされているわけで、政府は「事件」そのものを隠していたわけではない。すなわち事件そのもののについて、国民の「知る権利」はなんら阻害されてはいないのである。

なるほど海保のとった映像は、確かに今回の事件をより詳細にみせてくれるものだ。

しかし一方で映像は、いまだ一種の外交カードの要素をもっている。

カードをどこでどう使うか(あるいは使わないか)は「政府」の裁量事項である。対中関係において、交渉の過程をにらみながら一般公開しないことも見方によっては中国への一種の「貸し」ともなりうる。たとえば中国が何かわが国に要求したとしよう(例として、ノーベル賞への欠席要求)。この要求もビデオを一般公開しないことを駆け引きにつかうことで、要求を拒みやすくなる。もちろん経済面を重視した、関係改善の武器になることはいうまでもない。

さらに映像は将来において、いまだ公務執行妨害を立証する証拠(船長は処分保留のままである)といえる面ももつ。

事件があってすぐ映像を流せば、確かに映像を流さなかった場合に比して中国の世界的な評価は低下しただろうと思う。

しかしその分中国の「恥をかかされた」という被害者意識(もちろん被害者ではないことはいうまでもないが)は高まり、先のスパイ容疑による日本人拘束もよりきつくなった可能性は高い。またその他の対抗手段ももっとえげつないもになり、軟化までの期間も長くなっただろうと思う。

これらに比べ、国民にとっては映像をみることは、事件をより確実に認識するための「好奇心」的面が強いものであることは否定できない。事件そのものの事実はすでに明らかになっている以上、公開についての政府の「公開の有無の裁量」は、先の理由からも今の時点(映像が流出した時点)では、国民のより確実に事件を「知る権利(見る権利)」に優っていたというべきである。

それも考えず、映像を流出させたどこかの馬鹿は、このカードをおじゃんにしてしまった。外交(経済の面も含め)現実も考えず、政府に打撃を与え国益を害した今回の流出行為、それは前回の繰り返しになるがテロ行為といっていい。政治が劣化するのは、何も政治遂行者だけにあるのではない。まさにこういう愚か者の行為にある。
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# by phtk7161 | 2010-11-10 02:19
尖閣諸島沖で起きた漁船衝突事件のビデオ流失映像。この映像流出が、APECを直前にした菅政権への痛手になることは避けられないだろう。対中関係もいくらか改善の兆しをみせてきつつあったが、今回のことで対中関係改善にもマイナスになることは避けられない。

事件を受けてメディアにコメントをよせる識者といわれる人の中には、動機は純粋だと流出者を評価する向きもあるが、私はそうは思わない。むしろ今回流出行為は「テロ」と同質の行為だと思う。

流出者の行為を評価する者の根拠は、衝突行為は違法であり日本は「正しいことをした(公務執行妨害での逮捕)」のだから、毅然としていればいい。今回の行為は、そのことを映像でしめすことによりそれを国民に確実に認識させ、さらには世界にも中国の不当さをアピールできる。日本が正しかったことをアピールできるのだ。それでいいではないか。おそらくそんなところだろう。

しかし彼らはあまりに稚拙すぎる。外交でそんな単純に「善悪」が通るのなら、何も苦労はしない。国家間の問題やっかいなのは、その結果に経済面がついてまわることだ。今の日本で中国との経済関係無視して、外交を考えていくことはそれこそ国粋かぶれの「ど素人」がいうことである。

         ☆          ☆           ☆        

実際今回の出来事は、おそらく両国間のビジネスにとってもマイナスになる危険が大きい。政権を担当する政府としてそのことを常に意識していくことは当たり前のことだ。弱腰外交だと声高に叫ぶものは、結局経済面のマイナスについては何も考えていない。

仮に政府が、今回の問題で中国側の姿勢を非難するだけに終始したとしよう。その結果両国間の関係がこじれにこじれその影響が経済にも及んだら、まず日本国内の経済は相当に大きな打撃をうける。今の日本では、経済的に中国と利害関係をもつ企業は少なくない。倒産するところもでるだろう。そのことはきちんと認識しなければならない。戦時中じゃあるまいしそれも考えず「欲しがりません。勝つまでは」の精神は、国粋かぶれのたわごとに過ぎない。

「経済的互恵関係にあるから、そんな心配はない。ともにお互いが必要であり、経済面にそれほど影響はないのだ。」流出肯定者は、そうおもっているのかもしれない。

しかし、政権を担当するものがそんな大きなばくちをやるわけにはいかない。なるべく、経済的リスクが低くなるよう落としどころをみつけ、相手をたたくことばかりしないことは「外交」としては当然であろう。菅政権の外交に問題がなかったとはいわないが、しかし事件以降それなりに落としどころをみつけようとした姿勢は一定の評価を与えていいと思う。

菅政権の外交に問題があったとすれば、なんといっても外相を前原にしたことにつきる。あれほど露骨に嫌中(感情面も含め)を表に出し、一方米にはすがり付いてばかりの人物はどうみても外相には向かない。それをわかっていながら、彼を外相につけたことは明らかに菅政権のミスである。外交はバランスである。

         ☆           ☆            ☆

いずれにしても、今回の流出行為は間違いなく「国益」に害を与えた。利益バランスで考えたなら、マイナス面(特に中国との経済面で)の方があきらかに大きい。将来はともかく、現時点ではわが国の経済は中国を抜きに考えることはできない。

ビデオの流出が「知る権利」に資したとして、果たして日本国民が自分の経済面にマイナスをきたしてまでも、それを望んでいるか(中国に反感をもたせてまでもビデオの公開を望むか)といえばそうは思えない。そこまで国民は腹をくくっているわけではない。せいぜい好奇心的自己満足のレベルであろう。

今回の流出に喝采をおくる者は、今後対中における経済面のマイナスが景気に影響をあたえ、自らの生活が低下しても政府を非難はできない。外交の現実とはそういうものだ。何でも思うがままにいくわけがないのである。

そうした現実がある限り、単純善悪思考での今回の安っぽい正義感的流出は、違法行為(法的にもそうである)であるとともに、国民に大きな経済的リスクを与える愚かな行為である。現政権に打撃を与えるためにはどんな手段もいとわない(違法でもかまわないとする)その姿勢、それはまさに「テロ」と同質の行為といえるだろう。
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# by phtk7161 | 2010-11-05 19:39