社会問題を考える


by phtk7161
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人類は長い歴史の中で権力というものをどう抑制していくか、その視点をから立憲民主政治をつくりだした。それは権力を分立させ、人権規定と国家の組織の基本法たる憲法をもつ国家での政治ということである。そしてもそこでの主人公はもちろん「国民」である。

ただ国民が主人公の国家であっても、一方で人類はこれによる苦い経験もしている。「善」はあくまで相対的なものだ。国民による代表者によって作られた法律が、大量虐殺を生み出す。肝心な主人公が感情のままに熱狂し、物事をシンプル択一化した感覚でにより生み出された代表者がいかに危険なことか。

憎悪、嫉妬、人にはさまざまなマイナス感情があるが、それを政治レベルまで国民が持ち込んだ先には、ヒトラーの世界が待ち受けている。だから主人公の国民も権力行使にあたっては「謙虚」にならなければ、虐殺に手を貸すことになってしまう。

最近とみに、国民主権の皮をかぶった「世論」というものが跋扈している。この世論がときに「市民」というものにすりかえられる。立憲民主主義国家では、成熟した人格像が「市民」本来の姿であるが、この市民(世論がすりまわった)は本当の「市民」ではない。

この市民は、市民感覚という実体のない怪しげなものをふりまわし、市民の常識もそれぞれの分野では当然相対的に違ってきて当たり前のはずなのに・・・立法・司法・行政の分野で・・・どの分野も一刀両断、好嫌的感情による直感をもって切りまくる。彼らには「法的責任」と「政治的責任」の区別など関係ないのだ。

その姿はまるで市民というなの「万能の神」になったかのようである。ものごとの本来の趣旨や歴史的背景・・・なぜこういう制度や原則があるのか・・・など省みず彼らはただただ感情のおもむくままに裁定を下す。それはいじめをやる人間と共通した感覚であるともいえる。

権力の監視は立憲民主主義に不可欠の要素である。どの権力であってもそれが暴走していくとき、私たちは警鐘をならさなければならない。それは世論にすりかえられた市民の権力についても同じである。彼らが「知」(理)を否定し感情のおもむくままの結果に走ったなら、そこには強い非難をあびせなければならない。そうでないとヒトラーはまたあらわれ、虐殺をくりかえす。

あの考えは嫌いだ。何々人は嫌いだ。どこどこ部落の出身者は嫌いだ。あの宗教は嫌いだ。そして・・・「小沢」は嫌いだ。

とにかく嫌いなんだから、「理」など無視して「やっちまえ」。この感覚が大手をふって歩き出したとき、人は「人」としてあつかわれなくなり単なる「もの」となってしまう。その結果がかつてのあのできごとだ。そしてこの危険は常にわれわれのそこにあるのである。
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# by phtk7161 | 2010-10-26 03:03
昨日小沢元代表に、「起訴議決」の結論がでた。これには前回でた結論(同じく起訴相当)以上に、あきれたといわざるをえない。

前回の「市民感覚」を中心におく論理(健全ななどと)の暴走への批判、あるいは厚生労働省(村木被告への)をめぐる無罪判決などをも考慮して真摯に考えていけば、今回は悪くても「不起訴不当」(強制起訴にはならない)にとどまるべきなのが当然といえる。それが「起訴議決」。まさに「世論」という名の権力の暴走である。

今回の審査会は、前回の審査会のことから何も学習していない点で前回以上にさらに罪が深いといえる。

審査員にしてみれば、今回の「起訴議決」に至る理由づけは市民感覚の論理をフルに生かしてできているというつもりだろう。しかしこの「市民感覚」は、刑事制度をささえる土台そのものをぶっ壊しかねない危険を含んでいるといえる。

今回の審査から垣間見える一番の問題は、裁判対象者が裁判で有罪になるか無罪になるかそのことをあまり意識していないと思える点だ。市民感覚からみればあやしいんだから、裁判にもちこめばいい。起訴で有罪と決まるわけではない、裁判で訴追側の立証が不十分ならそこで無罪となるはずだから、だからそれでいいはずだ。「何も問題なし!」。それが市民感覚のあるべき刑事制度の姿だと思い込んでいるようにみえてならない。

彼らは何もわかっちゃいない。裁判になれば訴追された側は相当に負担を受ける。起訴するには刑事法をもとに有罪の立証を可能にする証拠が存在しているかをもとに考えていくべきで、このまま訴追されなければ市民感覚が許さないから・・・腹が立つから・・・ということでやられては、それこそ訴えられる側の市民(もちろん小沢も含まれる)はたまらない。刑事裁判(起訴)は「ばくち」ではない。

           ☆         ☆          ☆

以前にも記したが、立法(議会制度)は多数決の論理が主となるべきだが、司法はむしろそれが、理による論(たとえそれが少数であっても)が主とならなければならない。司法の場合そこにどの程度多数者の論理を反映していくべきか(それも主にならないレベルで)というのが、司法制度の前提である。そこはきちんとおさえておかなければならない。

もし市民感覚から許しがたい行為を、現時点で司法で裁けない(起訴できにくい)可能性があるなら、本来それはもう「立法論」の問題である。「多数」の論理でとことん新しい法でしばることを主張していくのが本来のスジであろう。

今回の結論はそうでなく、そこのけそこのけと市民感覚の「多数」の論理を印籠のようにふりかざし、訴追される少数側の立場をばっさばっさときりすてている。これは相当に危険である。これでは多数の力をもとに、気に食わない少数者は司法制度を利用して簡単に踏み潰せる・・・なんどもいうが裁判における被告人の立場は相当に過酷である、その人の人生に大きな影響を与える・・・ことになる。


市民によりさまざまな角度から事件の詳細を見据え(事件そのものだけでなく、その制度の背後のことへの理解を含め)たすえ、有罪立証は間違いなく可能なのに検察官が何らかの「意図」で起訴しない。こういう場合に「起訴相当」(起訴議決)という結論をくだすのが、本来の検察審査会のありかたである。今回の検察審査会の結論も前回同様、とてもではないがその点への理解が明らかに不足している。

たとえばこれまでの政治資金規正法で有罪となった過去の事例との比較の吟味は十分されたのか。

あるいは実行犯ではない主犯をさばくための「共謀共同正犯」の論理が、この手の事件性にまで拡張されるべきかの検討・・・実際これがどんな微罪でも適用されることになれば、相当に危険である・・・は十分されたのか。

もし仮にそれが今回の事件に適用されていいとしても、共謀を「小沢はわかったといった(抽象的表現にとどまっている)」程度の供述や市民感覚のストリー的見方だけで有罪を立証しえる十分な証拠があると考えていいのかなど、今回の起訴に際しての問題点は点は多々あるはずでこれらの点を審査会は十分に検討したといえるのか。

さらに審査会そのものの問題でいえば、審査会の構成員について今回の審査会の平均年齢30・9歳(前回34歳)は、世代が偏りすぎているように思う。ちなみに別の小沢に関する事件で「不起訴不当」(強制起訴はない)がでた事例では、平均年齢は40歳(49・8歳)を超えている。もちろん選管は無作為に選んでいるというが、その選管の長は元自民党系の政治家だっりすると、本当に大丈夫かいなという気がしないでもない。

これに小沢の事件に関する告発者の素性(バリバリの国粋運動家)もふくめて考えると、今回の検察審査会は、組織の構成やその運営のありかたについても、あまりに秘密主義で、あるべき「市民感覚」の姿からは程遠いような気がしてならない。

          ☆         ☆         ☆

もともと今回の事件は、検察の捜査そのものもにも問題点は多い。

今度の元厚生省局長の村木氏の事件で明らかになった「東は小沢なら、西は石井だ」の言葉からもよくわかる、検察(特捜)の民主党に対する攻撃姿勢。これに調査費流用をめぐる検察と清和会との手打ち(メディアはこの件では明らかに及び腰)後の特捜捜査の動き(捜査の対象となった政治家)をあわせて考えてみると、メディアを利用した国策捜査という言葉が、ぴったりあてはまる。

背後にアメリカという存在があるかどうはわからないが、そうみえても不思議はない今回の事件。その動きに利用されたともみれる検察審査会という存在。市民感覚もその中身をみず形だけの言葉で操られてしまったら、その市民は操ろうとする側の単なる道具に過ぎなくなる。

そうならないためには、市民が自ら学習し自らの頭で考え、さまざまな角度から利益を考量したうえバランスの取れる結論を出せることが重要となる。そうしたことこそ、本当の市民感覚(別の小沢の事件を不起訴不当にとどめた審査会の委員や押尾事件での裁判員などはそういえるだろう)といえるのである。

そういった意味では、今回の審査会の「起訴議決」は形だけの市民感覚によってだされたものだ。前回審査会のだした結論へに対する批判で学習できるチャンスはあったのにそれを生かさず、裁判の過酷さを理解しない形だけの「市民感覚」で出された今回の結論。それは私たちに「検察審査会」の危うさを認識させるに十分だったといえるだろう。
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# by phtk7161 | 2010-10-05 07:33
尖閣諸島における中国漁船の問題。領海に争いがある地域に侵入し領域外への通告を無視したすえ、停戦命令にも従わず巡視艇に故意に船舶をぶつけたとすれば、これはもう拿捕にとどまらず逮捕までいっても当然である。行為の悪質性は度を越している。中国側の主張にはなんらの正当性もないといえよう。

もともとこの問題は、正確には領海の本来的争いとは別次元の問題である。そこを中国側は理解できていない(内面はともかく少なくとも外面上の表現からはそうとらえられる)。

もっともわが国に道理があるからといって、逮捕後の外交上の駆け引を理を前提に対決姿勢のみで貫くのは現実的ではない。外交は相手があること。相手国に対する言葉ひとつとっても、売り言葉に買い言葉で不必要に相手を刺激するやりかたは稚拙以外のなにものでもない。

さあそこで前原外相だ。今回の問題に関する彼の発言を聞いていると、彼はあの偽メールの問題から何も学習していない。自らの考えをストレートに貫くことを是とばかりに、緻密さにかけた言動もみうけられる。たとえば、逮捕は日本国民が誇りをもてるためでもあるとのたまってたが、いったい何を言っているんだろう。

漁船を逮捕したのは法治国家として当たり前のこと(前原もこの点はいっていた)。今回のことはただそれだけのことだ。そこに日本国民としての誇りなど関係ない。あるべき人権国家の姿として当たり前のことをしただけのことである。

好きでない国の外国人(前原は少なくとも中国に対してはそうだろう)に対して、行政が刑事法上の行為を遂行することに国民がいちいち誇りを感じていたらこれはもうあぶない。つまらぬ国家的自尊心ほどやっかいないものはないのだ。

それが原因で悲惨な争いに突入しあげくに多くの生命が失われたことが現代でもどれほどあるか。この手の争いは何も生みださない。百害あって一理なし。国家間での争いごとで叫ばれる国家的自尊心など、日々の平穏な生活を願う多くの国民には関係ないのである。そこを前原はわかってない。

近年中国が経済的に目覚しい発展をとげてきたことはご存知のとおり。しかし経済は一流でも、先進国のなかで人権国家としてのレベルはまだまだ著しく低レベル。不良の子供の段階である。それを相手にして、同じレベルで喧嘩しても意味がない。こっちは大人として対応していくのが自然であろう。

          ☆           ☆           ☆

今回の問題で釈放を機に中国は勝利に酔いしれているとの報道もあった。しかし果たして本当に中国は勝利したといえるのだろうか(もっとも勝利がうんぬんといっている時点ですでにレベルが低いが)。

今回の問題での中国側の対応に対しては、先進国の多くが中国への評価を下げたはずだ。

ことに相手国の対応に不満があるからといって、報復としてその国の人間を捕まえる(実際はフジタの社員は軟禁状態のようだが)行為は決定的である。どうみても感情的で対抗策としても幼稚すぎる。またWTO違反の行為(レアアースなどの)をやってしまう点についてもそうである。こんなことではとてもじゃないが、中国との将来的な民間レベルの付き合いついて多くの国が再考せざるをえない。中国は自分で自分の首をしめているようなものである。

その点で言えば「世界がががっかりする」と表現した岡田幹事長の言葉がまさに的確だろうと思う。岡田幹事長はまさに大人の対応にふさわしい表現をしたといえる。私もまさに中国には「がっかり」だった。もう少し大人になっていてほしかった。

もっともうちの前原にも同じようにがっかりである。昨日も「誠実な行動などする義務はない」などとあいもかわらず中国と同じ低レベルでの喧嘩腰の姿勢。軽く流せばいいものをお前は子供か!子供で幼稚すぎるその一本気(ほめ言葉ではなく単純思考という意味)気質はとてもじゃないが、外交には決定的に不向き。どうにかならんのかと思う。いったいあの偽メール問題での失敗から、彼はいったい何を学んでいるのか。何も学習していない。

物事には表と裏があり、自ら外的に表明した表現法によっては、問題を大きくし自らの言葉に責任を取らざるを得なくなる場合があるということにあいもかわらず気づかない(学習しない)ままだ。言葉の大切さがわかっていない。ようするにとっちゃん坊や。石原や松原などの国粋かぶれにはうけるだろうが、単純思考の政治家の私的な感情の満足のための表現(言葉で)で、平穏な生活が脅かされる国民のほうはいい迷惑である。

そういうわけで、前原外相の自らの発言によっているようにもみえるナルシスト的姿をみていると、まだ岡田ほうが何倍もましなだなと思う私なのであった。
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# by phtk7161 | 2010-09-30 04:30
長い間更新を休んでしまった。その間にも、民主党代表戦や大阪地検特捜部主任検事の証憑偽造事件あるいは尖閣諸島に絡んだ中国漁船の船長逮捕といろいろな出来事があった。これらのことについて私の感想を述べておきたいと思う。

まず民主党代表戦について。代表戦に関しては前回のブログですでに記したが、とにかく小沢の出馬は論外のことだった。出馬からは、何も生まれない。ただただ時間を無駄に使っただけの2週間(その前の準備期間までふくめればほぼ1ヶ月近い)だったと。むかし「壮大なゼロ」という言葉があったが、まさにあれだ。何の意味もなかった。

小沢が代表戦にでて、その結果みえてきたものは何か。それは小沢の「虚像」と「実像」の分離である。実は小沢という人間は未知の部分がより「虚像」化され、それを含めて「実像」として捉えられてきた。未知的「虚像」に相手は警戒し小沢を恐れてきたのである。政治においては、それも十分な「政治的」実力といえた。

      ☆           ☆           ☆    

前回記した、小沢に政治センスがあなら小沢は出馬はしない。もし出馬したらそのときはもう小沢は「小沢」ではないと書いた。そして、今回の出馬で小沢はもう「小沢」ではなくなった。ばかばかしい代表戦で、彼の未知の「虚像」部分は減り、等身大に近い「実像」を見せて(ふやして)しまった。議員「200名」確保でとりあえず完敗は免れたが、もう以前の「小沢」ではない。

もし小沢が今回出馬せず、いずれ菅内閣が行き詰ったときに小沢待望論がでたなかでの出馬であれば、そのときは「実像」がより「虚像」化し、小沢はより「小沢」化したことと思う。そしてそれこそがまさしく私の期待する「小沢」だった。

しかし世論の流れもよめず(あるいは読もうともせず)負けた代表戦。どんな実力者でも自分を売り出すタイミングをあやまる政治家はただの「能無し」である。そして小沢はみごとに今回の代表戦で自らの政治センスのなさを暴露した。そこがはがゆい。
もし今後菅内閣が行き詰まり、彼に出馬のチャンスが与えら勝てたとしてももうさほど大胆な政策は彼はできない。「実像」だけの政治家にやれる政治は限られている。

小沢支持で小沢に出馬を決断させた鳩山、取り巻きの山岡や松木など、ほんとうにしょうもないことをしやがってと思う。どうして虚像の小沢をもっと大事にしなかったか。それよりも小沢自身どうして自らの「虚像」を大事にしようと思わなかったか。ほんと「馬鹿野郎」である。

       ☆          ☆          ☆

今回の代表戦でも「小沢」か・「非小沢」かそればかり。そんなものは何の意味もない。政権交代で民主党のやるべきことはもうすでにきまっている。景気と雇用はもちろんのこと、よりらしさでいえばあまりにもばかげた公的無駄の是正(官の是正)、あまりにも一方的すぎる対米従属の是正、これらを少しでも実現し自民党時代より少しでもましな政治を。ただそれだけのことだ。

菅政権が上記のことをどの程度実現できるかもう少しチャンスを与えてみたい、3ヶ月ではあまりに判断期間として短すぎる。「だから菅続投」。あまりにも当然の論理であり世論の大半もそう思っいた。それは「小沢がいい。悪い。」ということとはまったく関係のないあたりまえの論理である。それで9月の結論は十分だった。この論理が読めない人間はまったくの「政治センスゼロ」人間といっていいだろう。

今回代表戦で小沢を支持した人たち。今回彼らがやったこととは、結局よりよい政治家「小沢」というカードをつぶしたというたそれだけのことである。今後小沢待望論がでたとしても、今回のことで虚像が縮減した分もはや「小沢首相」にできることはもうそう多くないように思う。
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# by phtk7161 | 2010-09-23 00:08
民主党代表戦をめぐる騒動が、メディアやネット(ブログを含め)でいろいろとりあげられている。そんな様子を見ているとどうにもため息がでてしまう。

メディアの連中、ことに新聞・テレビメディアの報道・政治部はもはや暇人の集まりだから、こいつらが馬鹿げたお遊びごっこに興じるのは仕方ないとしても、残念なのはそれなりの政治的理性を持っているはずのブログの人までも(すべての人でないけれど)、この問題をまともに扱っていることだ。はっきりいって、それは馬鹿げたことだと思う。

今度の代表選の結論は、どうみても「菅」しかない。小沢の出馬など99・9999・・・・パーセントないといっていい。もし小沢が代表選に出るとしたら、そのときは小沢はもう「小沢」ではない。ただの「政治センスのない」落ちぶれた用済みの政治家にすぎない。

どうして私がそこまでいうのか。その理由は簡単なことだ。菅がまだほとんど何もしていないからだ。どうみても菅の「評価」を下すには期間があまりにもたりない。

なるほど菅は消費税発言でミソをつけ参議院選敗戦の一因をつくったかもしれない。身を引いた小沢がそれなりに不満を持ったのも分かる。しかし一方で民主党敗戦の要因には小沢の「政治とかね」のことも少なからずあったのも事実だ。それは否定できない。

この点私は今でも、小沢に対する検察のやり方は世論がどういおうが絶対間違っているし、彼は断じて刑事責任など問われる必要はないと思っている。それはかわらない。

しかし刑事責任の見方についてどう世論が間違っていようが、世論がそれを選挙の判断基準にすることはどうしようもない。それもまた、国民の審判なのである。それは「いいかわるいか」とはまた別次元のことなのだ。そしてその意味では、民主党敗戦の責任は小沢にもあるといえることになる。だから参議院選敗戦は菅を引き摺り下ろす理由にはならない。

今民主党がやるべきことはなにか。それは3年後の衆議院選まで民主党政権をまとまった政党(時に争いがあってもいざというときには)の政権として機能させ、これまでの自民党よりも1割2割でもましだ思われるような政策を実現することである。そして3年後政権党として国民に選挙で評価を下してもらうことである。そこで勝とうが負けようが、そこまできちんと政権党として続けていく責任が民主党にはある。それは民主党全議員の使命ともいえる。

首相になってほとんど在任間もない首相を変えるとは、どうみても正気の沙汰ではない。ここで断言してもいい。メディアやブログで民主党代表選で菅が交代する可能性が少しでもあると本気で思ってる人は「政治センス」ゼロの人である。そういう人間は政治など語らないほうがいい。そういう人は自民党時代の派閥の「数ごっこ」に郷愁を感じる化石である。

そんなしょうもないことに生きがいを感じるのは、新聞テレビメディアの報道部・政治部の「マッチポンプ」屋たちで十分である。この手の話題はメディアの発する雑音でしかない。そんな遊びに私たちが付き合う必要などないのだ。

表で堂々と小沢を担ぎ出そうとする政治家は、ある意味その潔さは認めるけれど政治家としての未来はまずないだろう。今出馬するなら小沢はババ抜きの「ババ」でしかない。小沢を「ババ」とみる世論の前では、そんな議員はやるべきことをやらずポストほしさに数合わせごっこにうつつを抜かすただの「チンピラ」議員にしか映らない。浮動票の割合が増えている今のイメージ選挙の前では、そんな議員の当選はまずおぼつかないといえる。

第一、今ここまでイメージを落とされた小沢に何ができるというのか。彼に出番があるとすれば「いろいろ問題があり強引であっても、現実の実効性を見出せる小沢しかいない」と世論がなったときしかない。彼を今場違いなドラマに出演させてもしょうがないだろう。そんなことも分からないのだろうか。

とりあえず菅を続投させてみて、どうみても菅が「官」に飲み込まれているようなら、そのときはおもいっきり引き摺り下ろせばいい。飲み込まれたどうかは、彼がやろうとする政策で判断できる。そのときは、私も諸手をあげて菅を引き摺り下ろす議員を支持するだろう。そのとき場合によっては小沢の出番もあるかもしれない。

しかし菅が首相になって今回の代表選までの期間では、どうみてもその判断期間としては足りない。今まだ代表(首相)交代の評価を下す条件はととのっていないといえる。今大事なことは、政権党として「まとまり」をみせることそれしかない。それが今回の代表選のもつ意味の「すべて」である。ただそれだけのことなのだ。

少し書くのを休みたくなって長くブログを更新しなかった。今日久しぶりに更新したが、本当はもっと更新しないつもりだった。しかしメディアのみならず、評価している人のブログでさえこの話題をまともに取り上げているのをみて、どうしても書かざるをえなくなった。

本当は多くのブログが「メディアや政治屋議員が代表選をめぐりまた意味のない政治あそびごっこしてます」で済ませてほしかったのだが。まだまだ政治と政治ごっこの区別がつかない人が多いのだろうか。残念に思う。
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# by phtk7161 | 2010-08-21 05:25

「みんなの党」の印象

みんなの党の支持率が上昇している。そういうなかで、彼らに期待する人たちには申しわけないが、私には彼らは「自民党上げ潮派の別同部隊」にしかみえない。江田憲司議員はそれでもましだが・・・もともと無所属だったし、頭もなかなかきれる・・・渡辺代表となるともういけない。どうみても小泉の子分にしかみえないのだ。

民主党はよく政策が議員ばらばらだと批判される。では自民党はどうかといえば、自民党も保守(利益誘導的な)派と上げ潮派にあいも変らず二分されたままだ。そして渡辺代表は、上げ潮派の代表格といっていいだろう。つまり渡辺代表は、見方を変えれば自民党の一部の別動部隊ともいいえるわけだ。

もちろん、党をわってでることは簡単にはできない。渡辺代表の行動力は、自民党の看板にすがりるつく上げ潮派議員など足元にも及ばないといえる。その点は評価していいだろう。しかしそれ以外には、私には彼を評価する点はみあたらない。

今の民主党が政権をとった要因は「本格的な政権交代を」という点だけでなく、小泉改革の市場万能主義のマイナスをどう修正していくかという点にもあった。みんなの党のかかげる政策は、公務員改革による財政の健全化を第一としているが、市場万能主義のマイナス面をどう改善していくかの問題は、その政策を読む限り放置されたままだ。小泉改革のマイナス面から彼らは何も学習していない。

「小さな政府」のマイナス面についてはおそらくであるが、彼らは(少なくとも渡辺代表は)こう思っているだろうと思う。「ついていけない側(好きなことばではないがいわゆる負け組み)は、勝ち組のおこぼれをもらって生活しろ。それが現実というものだ」と。そうした点からいえば、小泉・竹中路線の「小さな政府」型の自由市場の充実による経済活性化という、財界が大喜びそうな(そしてアメリカも大喜びの)政策を推進するための政党、それが「みんなの党」ということになる。

この党が今回参議院選で勝利し、民主を自民と共闘して解散に追い込み次期衆院選で民主が敗れたとして、ではその先には何があるのか。次期衆院選で「みんなの党」が第一党になることはまずない。結局どこかと連立を組むしかない。与党民主党を批判した結果の勝利であれば、その相手は上げ潮派中心(保守派は政権党になれるから、沈黙するしかない)の自民党(公明党もたぶん)しかないだろう。つまりは、「小泉自民党の再来」というわけだ。

私はみんなの党を支援している団体についての詳細は分からない。しかし表にはでなくとも、小泉・竹中路線をささえる団体からの支持が水面下ではあると思う。小泉・竹中路線への郷愁は財界・メディアともなお強い。その復活のための期待される先鋭部隊、それがみんなの党なのだともいえる。

この先鋭部隊は、今回参院選で民主党の改革に不満をもちさりとて自民党(公明も含む)もいやだという層の取り込みに成功した。それはとにかく「無駄を省く」という点に共鳴した人たちだろうと思う。政策の中身をみれば、それは実は「小泉・竹中路線」の継承にすぎないが、果たしてそこまで分かって(小さな政府のマイナス面は是正されていないままの政策=「小泉政権のコピー」だということを分かって)彼らに投票した人はどれくらいいたのだろうか。

参議院戦後も民主党への揺さぶりに余念のない「みんなの党」である。しかし動き方次第では、その評価も、その目的は「上げ潮路線=小泉・竹中路線」のための民主党つぶしにあり、上げ潮型による自民を復活させるための仮面政党にすぎなかったということも十分ありえる話なのである。
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# by phtk7161 | 2010-07-22 02:12
前回ブログ更新が長引いたことをお詫びしたが、そうはいっても更新したくなる(書きたくなる)モチーベーションにつながるものがあれば思うのは事実だ。昨今なかなかそれにつながるものがなかったなかで、久しぶりにその気にさせてくれるきっかけがあった。

それは何かといえば、新聞にのっていたある記者の解説記事。具体的にいえば今朝(7月20日)の東京新聞15面のメディア観呈という欄の内容である。この欄の社会部の佐藤直子記者の書いた「在京メディアの沖縄問題」の内容はなかなかのものである。沖縄現地と在京メディアとの温度差の違いの問題を鋭くついた内容になっている。

昨今新聞(他のメディアも含め)の質にがっかりさせられることが多いなかで、この解説を読むと「まだまだ記者もすてたものではないな(そういうひともいるにはいるな)」と思わせ、メディア再生のかすかな希望をあたえてくれる。

「私たち在京メディアに必要なのは、沖縄で起きていることが自分の街で起きたらと、想像をめぐらせることだろう」と彼女はいう。そして実はそのことは、メディアのみならず私たち国民それぞれにも十分あてはまる。私がこれまで普天間基地移設問題について述べた中で、もっとも罪が重いのは「国民」だといったのは、その意味である。

「やっかいなものは沖縄に押しつけとくしかないじゃん。わたしんとこにこられても困るし」というその無責任さは、結局は「他(沖縄)の立場に置き換えて物事を考える」という知性のなさ・・・佐藤直子記者の言葉でいえば「想像力」のなさということになる・・・によるものだ。こういう人間には、鳩山元首相を批判する資格などない。

佐藤直子記者は社会部であり、今回の解説が彼女個人としての書かれたものか社会部記者として書かれたものかそれは分からない。ただいずれにしても、この解説記事はメディアを担うに十分ふさわしい優れた記事であるといえよう。

       ☆           ☆           ☆

ところでこの欄の別の解説記事に関して面白いなと思うことがあった。それはある政治部記者の書いた「疑われた菅首相の信頼性」という解説記事である。彼は今回の参院選惨敗の原因を、消費税発言に関して軌道修正した菅首相の「ぶれ」たその姿勢にあるという・・・少なくとも私にはそう読める。

参議院選敗戦の原因(菅首相に関するもので)は、果たして消費税発言後の「ぶれ」にあったのだろうか。私はそうは思わない。原因は、消費税を具体的な数字まであげ国民にその本気度を感じ取らせてしまった当初の発言の表現法にあったのであって、その後の修正発言にあったのではない。もしその後修正発言をせずさらに具体的な発言を続けていたら、比例の票はさらに減りもっと惨敗していた(さらに有権者は離れた)であろう。

消費税の「本気度」は、絶対的民主党支持者ではない人にとってはマイナス材料以外の何ものでもない。消費税に関する具体的発言への踏み込みは、少なくとも選挙に関しては有権者には「本気度」を強く感じさせる効果しかないのである。

「菅の野郎消費税あげて、いきなり俺から金をとるといいやがった。馬鹿いうな。」。もし、さらに具体的発言に踏み込めば、「こいつ本気ですぐやるつもりだ。俺は絶対払いたくねえ。くそ馬鹿野郎、絶てぇ民主党なんかに票いれるか。」財政危機を、まだまだ本当の意味(リアル)では実感できない国民の感覚とは、だいたいそんなんもんだ。この記者には具体的(リアルな)有権者の立場に立って考える「想像力」が欠けているように思う。

昨今の政治部の問題に関しては以前にも述べた。

彼ら(政治部)には最初から「こうなってほしいという」という結論があり、彼らの記事はその結論に導くための「もっともらしい」理由付けにすぎなくなっている。そしてその「もっとらしさ」は、時に○×思考に陥り、ある種の想像力に欠けあまり説得力をもたない。彼らは政治部で「当たり前」となっている論理に対し「疑ってみる」ことをせず・・・あえて気づかないようにしているかもしれないが・・・硬直した思考に陥ってしまっている。

たとえば、鳩山政権時2元政治の形が問題とされたが2元政治によりそれぞれの長所短所を補う形もありうるだろう。なぜ彼らは安直に「2元政治=悪い政治」ととらえるのか。なぜその論理を疑ってみようとはしないのか。

先の政治部の記者は、菅首相の発言の「ぶれ」がいけないことのようにとらえている。しかし政治は「ぶれ」ていいこともあるし「ぶれ」てはいけないこともある。一方的な「ぶれない」→「信念」→「強いリーダーシップ」→「優れた政治家」といったその論理の安直さは、まさにメディアが政治をテレビドラマのように扱うことに染まりすぎたことの証にすぎない。

「ぶれ」ないことが政治(選挙を含め)にとってマイナスになることもある。そこをこの記者は分かっていない。そしてそうなってしまったのは、この記者個人に原因があるのではない。「政治部」のもつ体質にその原因があるのである。それは「想像力の欠如」であり、取材対象への距離の度合いである。たとえば検察との距離のとり方、あるいは見方によれば政治部部長の21世紀臨調への参加もそうなのかもしれない。知らず知らずのうちに、専門家気取りの上から目線になってはいないか。

今政治部(どこのメディアの政治部でもそう)の伝えるその記事はどこもドラマ仕立ての安直さに満ちている。こつこつと両サイドの事実を拾い集め、たとえ記事として結果として退屈でも堅実な情報を提供していく。それがまさにメディアである。そしてそのために私たちは料金を払っている。先に出したひとつの結論に導くための「ドラマ仕立て」の記事などだれも望んでいないのだ。そんなものはテレビドラマや与太週刊誌で十分である。

今日の新聞で書かれたふたつの解説記事。ひとつの紙面にすぎないものであっても、このふたつの解説記事は、今のメディアについての問題点を提供してくれたといえよう。
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# by phtk7161 | 2010-07-20 08:21
ブログの更新をずいぶん長い間さぼってしまった。その間参議院選など本来ならすぐにアップ記事にすべき話題もあったが、選挙の勝敗は関係なく、どうにも気がのらなかった。来訪されてくださった方には本当に申し訳なく思っています。すいませんでした。

さて今回何について書くか。あらためて思うと、正直書きたいこと「テーマ」は山ほどあるようで、これがなかなか定まらない。とりあえず今回は思いつくまま手なりで書かせていただきたいと思う。

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まずは参議院選。現状54議席は難しいとおもっていたから今回の結果にはそれほど驚かなかった。私の考える予想最低ラインを割り込んだ数だったのは事実だが、まあ一人区があれほど惨敗ならそれもありうるだろう。

しかしそれでも、もし鳩山・小沢続投で選挙を戦っていたならおそらく安部政権時の参院選の数をさらに下回り30台前半もあったかもしれず、それを思うと首相の「消費税」発言のドジがあったにせよ、まあこれでも「まだまし」と前向きにとらえたほうがいいだろう。

ちなみに巷には菅首相続投に異論の声も出ているようだが、まったく「ばかばか」しいと思う。まだ何もさせてもらっていない首相のどこをとって何の評価ができるのか。それに参議院選の負けも、彼一人の責任ではない。

世論調査で支持率が下がっているというが、私から言わせれば「支持する・しない」もなにも、まだ彼はその評価対象になることを何もやらしてもらっていない。これで支持率がはっきり変動するなら、それだけ世論調査」というものはいい加減なものでありどうしようもない代物ということである。「なんとなーく」のイメージだけで答えを出し動くのが世論調査というなら、こんなもん政治ににとっては無益(というより有害か)以外の何者でもない。

少なくとも現時点では、どう支持率がさがろうが、菅首相はそんなもの無視して・・・しばらくはどうたたかれようがメディア自体気にしないことだ・・・やりたい政策を実行できるよう今は知恵をしぼる(連立のことなどを含め)ことである。

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話題はかわって、日本振興銀行のトップだった木村剛氏が逮捕された。もう一年半ほど前になるが、拙ブログの「西松建設の政治献金疑惑について・・・その(2)今回の出来事から見えてくるもの」(2009年3月17日)での記事の中で「堀江や村上など成り上がり的な人物を除いて、政府あるいは実業界でも政府とより強いつながりを持つ人物は摘発されていない(例えば竹中氏に近いK氏の利益相反的な行為も結局はみのがされている)」と書いたが、このK氏が実は木村剛氏のことだ。

親族企業への融資が問題になり「事件」になるかと思われたのだが、なぜか結局そこから進展しなかった。当時はまだ自民党が与党。落ち目とはいえ「上げ潮派」もまだ余力があった時期であり、そのことも影響していたように思う。しかし今回は不正の証拠をきっちりつかまれたうえに、今は民主党政権。逮捕も当然の成り行きである。出資法違反のみならず株の売り抜け疑惑まででている。

市場万能主義のなかでの「弱きものはされ」という言葉は、順調なものにとっては震えがくるほど「かっこいい」台詞かもしれないが、落ち目になった(反対の立場にたった者)ものにとってはこれほど「非人間的」な言葉はない。彼も経営がたちいかなくなるにつれて市場というものの残酷さ(他の金融機関との競争の厳しさ)を知り、なりふりかまわずにはいられなくなったに違いない。

このことは小泉政権下での「小さな政府路線」の一躍を担った人物が、実は「市場」というものの怖さを何も分かってはいなかったということの現われともいえる。旗振り役が、やろうとしていることの中身を・・・具体的レベルで・・・知らなかったわけだ。

底が浅い(反対側の者への配慮を欠く)単なる市場万能主義は、所詮順調にやっている側(勝ち組的存在)の都合のいい論理に過ぎない。本当の意味での「市場」なら、確かに必要である。しかし、少なくともあの小泉傘下での「市場」は、まさに底の浅い意味での「市場」だった。たとえばグッドウィルの折口など典型例で、プライベイトでみせた品格を含めどうみてもあるべき「市場」の姿を理解していたとは言いがたい。そしてそれは木村剛も同じだったということである。それを垣間見せた今回の事件だったといえよう。
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# by phtk7161 | 2010-07-18 04:12
野球賭博に関する今回の問題は、その本質が角界と暴力団とのつながりにあることはいうまでもない。しかしそこだけに焦点があてられ、暴力団に関して他にも見過ごされてきている問題があるように思う。それは闇の世界からメディアへのリークの問題だ。

今回の週刊誌へのネタ・・・賭博とそれにかかわる恐喝の事実についての・・・のリークが果たしてどこだったのかそれは私にはわからない。一説には理事長選にまつわる反貴乃花派からという話もあるが、角界の負った傷の深さからみるとその話も100パーセントうのみにもできない。ただ仮にこのうわさが事実だった場合、これを週刊新潮が記事にしてもこれについては、ダーティはダーティだが何ら違法行為ではなく問題はないといえる。

問題はこのリークが、実は琴見光喜・大獄サイドを恐喝した側(つまりは闇の勢力側)からだった場合である。この場合、このネタに「公益性」があるとしても、一面から見ればそれを記事にすることは結局恐喝に応じなかったものへの闇の側からの仕返しに週刊誌が協力したともいえるということである。そしてそのことの影響は今回の相撲協会の処分で終わりにはならない。考えようによっては、闇の世界の将来の恐喝行為の助成という効果をもたせることになったともいえる。

もちろん大相撲に関してはこの世界からの恐喝は一応これでやむと私はみる。これだけ大きな問題になったのだ、今後それをやれば警察・検察黙ってはいない。闇の世界もそれなりのリスクを負う。そういう点では彼らにとって、大相撲はもうそう「うまみ」のある相手ではない。

しかし他の世界についてはどうだろう。一定の公益性があり表面上は「品行方正」が求められる世界へのスキャンダルのネタは・・・たとえば今回の賭博のような・・・彼らにとってまだまだ「うまみ」があるのではないか。

仮の話だが誰かを脅す場合、今後は「もし週刊誌にでれば琴光喜みたいに辞めざるを得なくなりますよ」という脅し文句は、より一層効果をもたせることになる。つまり週刊誌という存在が、かれらにとって恐喝のためのまたとない強力な「道具」となるということだ。

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大獄親方の話によれば、知り合いの警察関係者に今回の恐喝(たぶん一億円の要求についてのことだと思う)について相談したと相手に伝えたところ、相手からはその後何もいってこなくなったという。

この話が本当なら、仮にネタのリークがこの恐喝サイドからだった場合には、その後週刊誌に載った記事は結局恐喝の要求を断ったことへの相手方の「報復」とみれないこともない。そしてその場合には、週刊誌がそのことを意識してようがしていまいがその週刊誌は闇のサイドに手をかしたということになる。

確かに野球賭博は違法でそのことについての「公益性」はもちろんある。しかし一方で恐喝も間違いなく違法であり、それ(要求)に応じないことは「正しい」行為である。そして大獄・琴光喜はそれ(正しい行為・・・一億円の要求に応じないという)をやって、その後記事にされることにより報復をうけてしまった。

今度のことは違法行為をやった者同士の話。それを記事にしてもどうということはない。そういう見方もあるだろう。しかし私は今回の記事のネタのリークがもし闇の側からだったとすれば、今回の記事は彼らにとっての将来の「恐喝手段」にとって、間違いなく大きな「益」をもたらしたと思う。果たしてそれでいいのだろうか。距離感をあやまっているとはいえないか。

所詮は「週刊誌」。闇の世界と紙一重の連中。こういったことは昔からよくあること。そういってしまえばそうかもしれないが、それでも「メディア」という一応は公益性を担った役割を彼らもっているのだ。違法集団の「片棒」を担ぐようなつかわれかたでは、あまりにもさびしい。今度の問題を契機にそういったことも考えなおすときでないか。

今回相撲界は闇の世界との距離感を問われたが、実はメディアもまたそのこと(闇の世界の違法行為の手段に利用されないような距離感をもつ)を問われていると私は思う。
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# by phtk7161 | 2010-07-07 07:37
大相撲野球賭博問題で、琴光喜と大獄親方が解雇となった。その他の関係者は謹慎レベルの処分。事件の概要を見る限りでは、二人とその他の関係者とではあまりに落差があるように思えてならない

調査委員会は、暴力団との接点の程度と掛け金の大きさを二人の解雇の理由としている。しかしはっきりいってこの調査委員会、私から見るとこの連中は単なる世間知らずの甘ちゃんの集まりかそれとも意図的結論をねらった食えない人物たちの集まりのどちらかだ。

野球賭博はハンデがつく。このハンデのつけ方、これはそんじょそこらの素人が簡単につけられるものではない。当然暴力団がずぶずぶ絡む。これこれの人物たちは仲間内にとどまっていたから悪質性はないというあの結果報告には大笑いだった。「なめんなよ」といいたくなる。

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以前にも書いたが私は相撲界は所詮興行をするところだと思っている。幕下と十両の境目まではガチンコが当然だが、それ以上ではまあ、ある程度の緩み・・・地位の安定をはかる相撲・・・もあって当然だと思う。年に6場所。上位の者同士の相撲は確実に体に大きな負担をかける。怪我をして引退した場合一定の高い地位にいた人物をのぞいてきちんとした補償もないのが現実だ。だからいつも全力でフェアーに戦えなどというのは、現実の過酷さをしらないアホがいうことだと思う。

相撲界は長い間暴力団とはきっても切れない間柄だった。いちいち名前は挙げないが、その付き合いが度を越した親方はこれまで一人や二人ではない。メディアで騒がれたこともたびたびある。今回のことも「野球賭博」の文字に躍らされてさもあの二人が「元凶」のように扱われているが、こんどのことはこれまで相撲界がもっていた体質の集大成にすがない。

これもいちいち名を上げないが今でもときどきテレビでみる元関取の評論家は、現役時高級ホテルの一室(スィート)を借り切って、度派手な麻雀を打っていた。当然賭け麻雀で金額も大きかったはずでこんなレベルの話は私が知っている限りでもこれまでもごろごろしている。もちろん地下賭博・・・カジノや手本引きなどの・・・に手を染めた力士もこれまでにいただろうと思う。

本気で情報をあぶりだせば、これまでやくざとまったく付き合いのなかった親方衆などそんなにいないはずだ。後援会についても、直接的な形ではともかくバックでは何らかの形で彼らにささえてもらっている(た)部屋もあること思う。それでもこれまで今回のように問題にならなかったのは、大きなトラブルがおきなかった・・・あるいはでなかった・・・からにすぎない。

今度のことはようは掛け金の取立てをめぐるトラブルで、恐喝が絡んでおきた問題である。もちろん暴力団関係者相手の賭博であり簡単に見過していい問題ではないが、一面から見れば大獄はともかく琴光喜は被害者の面もある。これで解雇はあまりにもきつい。

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私は常々「どんな職業(もちろん合法的職業のことである)でも、人からそれを簡単に奪い取るべきではない」思っている。これは今度のことには限らない。どんな職業でも、自分たちのヒロイズム的ドラマのために人を端役のように扱い、その職を奪って簡単に「切る!」などと悦にいってはいけない思う。

琴光喜のやったことは、果たして「切る!」にまで値する罪なのか。私は出ている情報を見る限りではそうは思わない。地位を下げてもよいから相撲という職業を彼から奪いるべきでなかったと思う。相撲の長い歴史のなかでこの職業に関わった人物たちの作り出した組織の体質をすべて彼一人・・・現役力士では・・・にかぶせて済ますことはあまりにむごすぎる。早い話これでは昔からつい最近までの彼の先輩である元関取たちは結局「逃げ得」したということになる。これのどこが「正義」だというのか。

今回の調査員会の結論は、過去の相撲界と暴力団との付き合いの根深さ徹底的に調べず踏み込まないままに・・・まあ意図的にそれをしないのだろうが・・・だされた結論にすぎない。だから調査委員会の重々しく話す結論はちゃんちゃら笑えてしまうのである。今回の琴光喜に対する「解雇」処分はあまりに乱暴すぎる結論といえるだろう。
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# by phtk7161 | 2010-07-06 07:21