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社会問題を考える


by phtk7161
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舛添要一厚生労働大臣の危うさ

 舛添要一厚労相の内閣留任は決まりといっていいであろう。福田次期総理が(現時点でもこういっていいだろうと思う)大規模な改造はないことを示唆しているうえ、なんといっても国民へのアピール度が強いといえるからである。次期内閣でも彼が目玉であることにかわりない。

 舛添氏のここまでの発言や動きを見る限り、今の彼は国民的人気も高く一見死角といえるような問題はないようにみえる。離婚がらみの女性問題にしても、過去のことであり現時点で彼の評価をさげることにはならないであろう。

 しかし私には今の彼は、大臣になる前の一議員あるいは評論家時代(あるいは東大助教授時代)と比べると明らかに危うい気がしている。専門は政治学者だったとはいえ法の本質あるいはそれを基盤とする民主制の本質(立憲民主主義)を当然理解しているはずの彼が、このところの発言を見る限り国民に向こう受けすることに力点を置きすぎ、法治国家的側面を軽視しているようにみえるからである。

        ☆       ☆       ☆

 それは例えば、年金を流用ないしは横領していた関係者(時効にかかる)に対して刑事告訴するかのような発言、さらにはTBSの番組「ピンポン」での年金問題についての放送に対する反論の発言などそうである。

 年金がらみの訴追の件では、後に「時効の制度を無視してまで告訴をすることは法治国家である以上できない」とトーンダウンしたけれど、当初は刑事訴追を時効の問題があっても追求すると発言していた。彼の法的知識なら当然時効の制度の趣旨や法治国家の重要性については知っていたはずで(刑事告訴が無意味であること)、国民に対する「政治的なガス抜き」を目的とした政治的発言だったとしてもあまりに安易すぎで、法治国家としての「重み」を軽視しすぎである。

 大臣になる前の彼であれば、少なくとも法的「原理」「原則」は無視するような無責任な発言はしなかったはずだ。それが大臣になった途端どうも「人気取り」優先の発言が目立つ。確かに一般の国民には受けはいいだろうが、しかし「法制度」を軽く見てはやはり無責任であるといえよう。

 「ピンポン」に対する発言でもそうで、確かに欠席裁判的(少なくとも長妻氏に対する反対の立場の関係者は同席させるほうがベターだったとは思う)な放送のあり方に問題はなしとしない。しかしだからといって、放送法における「中立、公正」までだして圧力を加えるかのごとき発言はいただけない。番組のありかたが一般論的に「フェアーではない」と発言するレベルでとめるべきで、放送法までだして場合によっては何らかのペナルティーまであたえるような発言をするようでは、それは権力サイドによる表現の自由への圧力なる危険性がある。

 もちろんあの菅元総務大臣のやった「放送命令」に比べれば危険性の度合いは低いといえる。しかし質的側面においては「放送法」をだしての脅し的発言(菅元総務大臣のケースは脅迫、強要行為であるが)である点でさほど両者の質はかわらない。そういう安易さが今の彼の発言には見られるのである。

 彼自身評論家をやっていた時代がある。だから「表現の自由さ」「権力者の自身に対する批判への寛容さ」がなによりも立憲民主主義の要であることは熟知しているはずである。それが、立場が変わった途端「ころっと」変わってしまうようでは、彼自身で自らの良さを捨て去ってしまっているのと同じである。これでは場合によっては「裸の王様」にすらなってしまうだろう。

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 もう15年~20年ぐらい前の評論化時家時代の彼の発言で、今でも私が鮮明に記憶している彼の発言がある。それは「政治は(いい意味での)妥協の産物であり、また過去の歴史に学ぶ事も大切である(歴史的経験則の重要性)」・・・( )の部分は私自身で付け加えて解釈したもの・・・というものだ。これは、本来あるべきべき政治というものの重要な点を簡潔に述べたものといってよい。

 この当時の(こういう発言のできる)彼は、すぐれた政治家としての資質は十分にあった。「法治国家の重要さ」あるいは「表現の自由」や「権力者の自身への批判への寛容さ」はいずれも歴史的経験則からみて立憲民主主義国家の要となるものだ。それを理解しているはずの彼が、行政機関の一トップにたった途端にそれを軽視する発言をするようではあまりに悲しすぎる。たかだか「大臣」ではないか。これなら一議員あるいは評論家時代の彼のほうが百倍ましである。

 大臣になってそのイスの快適さにおぼれたか、総理候補に名前が挙がって地に足が着かなくなってしまったのか、それは分からない。ただ大臣になってからは、それまでの彼の本当の「長所」が消えつつあるのは間違いない。

 確かに「国民」の声にこたえる事は大切なことだ。しかしそこでいう「国民」とは「理性とバランス」が備わっている「国民」を意味している。そうでない感情ばかり優先した国民の声に応えるだけの安易な政治(政策、行為)はプレビシッド(衆愚政治)にすぎない。それを何よりも分かっているはずの彼が、それに通ずるような安易な発言をしてしまうことが、大臣になって以降みられる彼の危うさといえるだろう。
by phtk7161 | 2007-09-20 00:07