時津風部屋のリンチ事件とメディアのあり方・・・本質的な問題点
2007年 10月 12日
どうもこのまま時津風部屋のリンチ事件はうやむやになってしまいそうな雰囲気である。メディアの扱いもにも温度差がみえ、親方や理事長の責任を厳しく追及するところもあるが、一方で相撲界のイメージ回復に努める形の番組もでてきた。コメンテーターの中にも擁護的発言をするものもあり、見方によってはこれなどテレビ局サイドと角界との手打ちの感じにもみえてしまう。
擁護論の大方は、相撲の国技としての価値や長い伝統にもとづく角界の独特な体質を論拠にするものが多いように思う。しかしこれは全く理由になってない。考えても見て欲しい。国技としての価値や独特の体質が人の生命の問題より優先されるべきものなのか。
両者は次元の違う問題である。仮にこれからも国技を維持することが重要なことだとしても、だからといって人の生命に関する問題があいまいにされていいはずがない。まして「これまでの角界の体質がこうだったから」ということなど、一人の人間が死亡したという厳然たる事実のまえでは擁護する何の理由にもならないのだ。擁護論者はこのことを本質的に認識していないと思う。もし認識していてのコメントであるとしれば、それはおそらく彼自身の「飯のタネ」が角界の利益と深く関わっているからだろう。
ある出来事に関しいろんな意見があってよい。それは自由な社会として当然であり、またそうでなければならない。しかしそれはもちろんより自らの気持ちに正直な意見(批判であろうが、擁護であろうが)であればこそである。「食うこと」を犠牲にして正直であることは大変なことではあるけれども、そうでなければ公的存在のメディア(特にテレビ)に値する意見とはいえないのだ。ことに「人の生命」に関わる問題についてはそうである。メディアには時に「経済性」を犠牲にしても優先するべきものがあるのだ。
擁護論の大方は、相撲の国技としての価値や長い伝統にもとづく角界の独特な体質を論拠にするものが多いように思う。しかしこれは全く理由になってない。考えても見て欲しい。国技としての価値や独特の体質が人の生命の問題より優先されるべきものなのか。
両者は次元の違う問題である。仮にこれからも国技を維持することが重要なことだとしても、だからといって人の生命に関する問題があいまいにされていいはずがない。まして「これまでの角界の体質がこうだったから」ということなど、一人の人間が死亡したという厳然たる事実のまえでは擁護する何の理由にもならないのだ。擁護論者はこのことを本質的に認識していないと思う。もし認識していてのコメントであるとしれば、それはおそらく彼自身の「飯のタネ」が角界の利益と深く関わっているからだろう。
ある出来事に関しいろんな意見があってよい。それは自由な社会として当然であり、またそうでなければならない。しかしそれはもちろんより自らの気持ちに正直な意見(批判であろうが、擁護であろうが)であればこそである。「食うこと」を犠牲にして正直であることは大変なことではあるけれども、そうでなければ公的存在のメディア(特にテレビ)に値する意見とはいえないのだ。ことに「人の生命」に関わる問題についてはそうである。メディアには時に「経済性」を犠牲にしても優先するべきものがあるのだ。
by phtk7161
| 2007-10-12 19:22