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社会問題を考える


by phtk7161
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他人や社会との折り合いの学習の重要性について

厚生省元次官と家族に対する殺傷事件は、ここまでまで明らかになった情報をみる限り背後関係はないと見ていいと思う。そなると結局今回の事件は、本人の精神的特質及び外的(経済)状況が相まって起こされたものということになる。

もっとも精神的特質に起因するとしても、それが生来的なものであっても外的環境次第でそれをださずにすむケースもあるし、逆に生来的には特に問題がなくても外的環境によって精神的に変わってしまう場合もある。

ただどういう人間であれ幼児期から青年期に至る過程において、他人との折り合いあるいは現実(社会)との折り合いを学び学ばせることは非常に重要である。今回の容疑者にしても秋葉原の通り魔事件での容疑者にしても、どうも幼児期から学生時代にかけてこの種のことを学習する機会が不足していような気がしてならない。

学校教育ではまず学問的知識の習得が最重要視される。これは社会の成熟・発展のためには当然のことといえる。なぜなら例外もあるけれど、全体でみれば社会で暮らす多くの人に一定レベルの知識の習得を可能にしていくことが、結局は社会の底上げにつながっていくことになるからである。少なくともそこでの社会が、独裁国家的な全体主義の社会でなく現代の人権思想をもとにする社会を意味するなら、そうである。

ただその前提として、社会に参加していく限り学問的知識とは別に当然習得すべき要素が存在する。それがすなわち他人との折り合い現実(社会)との折り合いの学習である。

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学問的(むしろテスト勉強的というべきか)知識なら、ある問題に対し絶対的な正解というものが存在する。たとえば数学であれば正しい答えは必ず存在する(もちろん正確にいえばそうとはいえないが、ここでは一般論的意味で)。2x=8はx=4が正しい答えであって、多数決ではx=1が多かったとしてもそれが正解になることはない。そこでは絶対的(一義的)に正解が導かれることになる。

これに対し他人や社会との関係では、絶対的な正解は存在しない。相対的に正解らしきものが存在するだけである。あるいはそれさえない場合も多い。この学習ができてないまま、他人との関係でも学問的知識の習得の場合と同じようにやろうとすると、当然そこに何らかの摩擦が生じることになる。「これが絶対正解だ。なのになぜあいつ(あるいは社会)はなぜそれが分からないんだ(言うことを聞かないんだ)。あいつ(社会)が悪い。」そういうことふうになってしまう。

テストの世界であれば、その対応としては絶対的正解を積み重ねていくことで十分である。しかし他人や社会との関係では、相手の要素(性格・気持ちなど)対社会における現実の状況も踏まえたうえでの対応が必要となる。

相手(他人・社会)とうまい妥協点をみつけて、話し合いで解決することはできないのか。相手や社会に不満がある場合でも、そういう前提にたって内心ではともかく、外的には自分の気持ちを修正し、社会的規範に逸脱しないことを踏まえたうえで行動していかなければいけない。そういうことも人が他人や社会と付き合って(参加して)いくために、成長していく過程で学問的知識の習得と同じように学んでいかなければならないことなのである。

テスト的知識に偏重することは、この折り合い学習の側面を駆逐してしまう。もっともこの知識偏重の要因は、教師の側というより・・・もちろんまったくないとはいわないが・・・むしろ保護者や文部省あるいは社会(採用に関する企業)の偏差値的学歴志向にあったことは否定できない。そもそも人との折り合いは、本来は家庭(近所付き合い・仲間との付き合い)を通じの学習効果も大きいのであって、学校だけが主体となって学ばせることができる種類のものではない。

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今回の事件の被疑者にしても秋葉原の事件の被告人にしても思えるのは、彼らはテスト的知識の習得にはある程度長けていても、他人や社会との折り合いの学習については全くできていなかったということである。

テスト的知識の習得が長けていれば、人間関係における学習の未成熟さについては家庭でも学校でも見逃されてきた・・許されてきた・・・のではないか。その結果どこかでひとつの絶対的な正解を・・・ありもしないものを・・・他人との折り合いや社会との関係でも学問的知識の習得の場合と同じように求め、それにより孤立し経済的苦境も加わって耐えられなくなり爆発したのかもしれない。

今重要なことは、「学問的知識の習得はほっといては身につかないが、他人との折り合いや社会との付き合いは、何もしなくてもそのうち自然と身につく」そういう認識を改めることである。

他人との折り合には、それを学習するための機会が不可欠である。一見何もしないでそれができてているようにみえても、実は成長過程での友達との遊びやクラブ活動あるいはアルバイトなどの機会を通じてそれを学んできているのである。そういう点では、学問的知識の習得とは別に、保護者や学校あるいは社会が如何にそのことを子供に学ばせるか。そういう意識を持つことも昨今の事件を見ていると必要な感じがしている。
by phtk7161 | 2008-12-01 06:17